Draw

 静かに。
 息を殺して、その僅かな距離に細心の注意を払い、脚を進める。
 少しでも床との摩擦で音が響いてしまわぬように、身に纏う布地が擦れ合って乾いた音を立てぬように。
 口腔に溜まる唾を呑み込む音さえも妨げになってしまわぬように、ただ一度きり舌の上に残る空気を喉の奥へ押し込む以外には喉仏も動かさず。
 ただ、ひたすらに静かに。
 距離を詰める。
 姿を消してしまう事は容易いけれど、それ以上に自分自身の存在を掻き消す事は難しく。どうせ見破られるのであれば最初から彼の眼にきちんと見えるままで居たいからと、そんな言い訳をして。
 近付く。
 ひっそりと、静まりかえったリビング。壁際のチェストの上で、演奏を終えてなお空回りを続けているレコード盤が虚しく針を踊らせている。僅かに開かれた窓から差し込む風は穏やかで、カーテンの裾をゆらゆらと揺らめかせているだけに過ぎない。
 気配を断ち、息を潜め、けれどお得意の雲隠れだけは絶対にしないと心に誓ったまま。
 ひとり掛けにしては幅広なソファに座る彼の許へ、一歩ずつ歩み寄っていく。
 ふわりと鼻先を掠めたのは、彼が愛用している香水だろう。強い匂いを嫌う彼に、いつだったかこれくらいなら平気ではないかと選び、自分が贈った品だ。それはもう随分と昔の記憶で、だから自分が買い与えた最初の瓶の中身が今も残っているとは考えづらいから、きっと彼が自分で買い足して使ってくれているのだろう。
 自分が彼に相応しいと思い選んだものを、彼が気に入ってくれているのだと思うと少しだけ、心が軽くなる。
 そのままそっと、息を止めて彼の顔を覗き込んでみた。
 薄い瞼を閉ざし、特徴的な美しいルビーの双眸を見つめることは叶わない。整った鼻筋と、形の良い唇が時折くすぐったそうに動くのは、きっと浅い夢の中での世界を楽しんでいるからだろう。ゆっくりと利き腕を持ち上げ、気取られぬように心配りながら彼の額に流れる銀色の髪を脇に流してやった。
 毛先が触れた肌がむず痒かったのか、その瞬間にだけ彼は眉根を顰めたけれど目覚める様子は感じられない。
「ユーリ……」
 寝ているの?
 口の中でその名前を刻んで、問いかけは一度吐きだした息と一緒にまた呑み込む。
 黒い革張りのソファでゆったりとくつろぎ、腰深く座って肘置きに両手を垂らしている。楽な姿勢を求めた結果なのか、若干右側に傾いだ首が肩口に凭れ掛かるようにして沈んでいて、その分左から零れる艶やかな銀糸は彼の瞼まで覆い被さろうとしていた。
 あまりにも無防備な姿に、息が詰まる。
 不用意に触れれば壊れてしまいそうな繊細さを漂わせながらも、触れる事さえ許さない傲慢なまでの神々しさを併せ持って、彼は其処に居る。
 警戒するもののない世界で、偉そうにふんぞり返りながら高みからあらゆるものを見下ろして。
 見下して。
 ユーリ、と。
 名を囁く事さえ酷く恐ろしく思えて、息を呑み声を押し殺す。吐いた息が彼に掛かる事さえ懼れ、近づけていたその身を静かに引き戻した。
 彼はまだ眠っている。安らかに、或いは永久の眠りとも言い換えられそうなくらいに静かに、穏やかに眠りの世界を楽しんでいる。
 疲れているのだろうか。そういえばアルバムに収める予定の曲の完成が遅れ気味だと、アッシュがごねていた事を思い出す。アレンジは全部ユーリに任せてしまっていたから、その責任も相まって彼から眠りを奪っているのかもしれない。
 光さす世界で生きる事は本来の彼という種の道筋から外れる事であり、故に色々な弊害も当然ながら生じてくる。眠りを妨げられれば、彼は不機嫌になり能率も効率も著しく低下する。眠りの感覚が短くなり、時間は反比例で長くなる。
 そこを無理を通して活動しようとするから、益々彼の不機嫌度は増して行く。悪循環だ。
 いっそ辞めてしまえと言いたい時もあるのに、口に出してはいけない台詞の筆頭格に置かれていることばは呑み込むしかない。ユーリの行き方は彼だけのものだから、彼がやりたいようにさせてやるのが、自分の役目なのだ。
 彼が動きやすいように、やりやすいように手を回し時には後ろから支え、雑草だらけの道を切り開くのが自分で決めた、自分の役目。
 そうやってユーリの側にいると決めた。
 決めた、けれど。
 けれど……
 ソファが見える位置。テーブルの角にゆっくりと腰を落とす。滑らかなテーブルの表面に背を滑らせて膝を折り、柔らかなクッションの絨毯に身を半分沈めてみた。
 ゆるゆると時間は流れていく。窓から出入りを繰り返す風に煽られたカーテンが凹み、また膨らんで裾を軽い調子で乱している。
 折り曲げた膝を両手で抱きかかえ、その間に顎を押し込んでみる。固く肘を掴みあった両手に額を預け、暫く俯いてから顔を持ち上げて。
 目の前に眠るユーリが見える。ソファの上で、頬杖を付く格好から少し崩れたポーズで眠っている。
 穏やかに、幸せそうに。
 ねえ、ユーリ。聞いても良いかな。
 返事が無いことを知っているから、心の中でだけで問いかける。見つめる彼の表情は楽しそうで、幸せな夢を見ているのだろうと感じられた。
 ふっと微笑む。例え目覚めている時、彼からそんな表情を向けられる事は一度として無いとしても、見つめていられるので在れば幸せだった。
 自分は、それでも良かった。
 でも、君は?
 ユーリ、君はぼくと居る事をどう思っている?
 邪魔? 鬱陶しい? 
 楽しい? 嬉しい? 
「ユーリ」
 答えが返ってくる事はないと分かっているからこそ、問える事もある。彼が聞いていないからこそ、尋ねられる事もある。
 ねえ、ユーリ。教えて。
 ぼくは、このまま君の側に居ても良いのかな?
 ぼくは君の役に立てている? 君の為になにか出来ている? 君の側に居る為の資格を手に入れられている?
 君はこのまま、ぼくが君の隣に居続ける事を許してくれる?
 君が哀しいと思っているとき、ぼくは君の背中をそっと撫でて、大丈夫だからとしか言えなかった。
 君が辛いと感じているとき、ぼくは君の後ろに立って静かに言葉無く見守っている事しか出来なかった。
 君が涙を流すとき、ぼくは戯けた調子で泣きたい気持ちを殺しながら君を笑わせる、ただそれだけの為に嘘を演じ続けた。
 それでも。
 ぼくに出来ることは、君の側に居続けることだけだったから。
 ねえ、ユーリ。教えて。
 ぼくは君の側に居たい。
 ここに居ても良いですか。
 ぼくの声は聞こえますか、貴方に届きますか。
 貴方のために出来ることを、ぼくはちゃんと出来ていますか。
 教えて、ユーリ。
 ぼくは……

 呼ばれたような気が、した。
 薄く瞼を開く。夢を見ていたはずなのに、その感覚はあるのについ今し方まで見ていた夢の中身を思い出せないまま、身動いで頭を振った。
 ぼんやりと朧気な視界が徐々に明るさを取り戻し、輪郭をはっきりと浮き立たせ始める。視界を巡らせ、時計を探しながら自分の中で残っている一番新しい、時刻を確かめた記憶を呼び起こした。
 朝食後、気分転換をしようとソファに腰掛けてレコードを聴きく事にした。風通しを良くしようと窓を開けたのも記憶にある。ただ途中から、その出来事はぷっつりと糸を途切れさせて見失ってしまっていた。時計を見たのはその直前、確か仕掛け時計の郭公がしつこく十度も鳴いてから、それっきり。
 世界は暗転して、十一度も郭公が鳴こうとしている時間が今、目の前に転がっている。
 ユーリは自分が寝入ってしまっていただろう時間を大まかに計算し、まだどこかぼんやりとしている頭に片手を添えた。こめかみを人差し指で軽く押す。半分近くソファに沈んでしまっていた背中を起こして座り直して、漸く、足許向こうに蹲っている塊に気付く。
 なにをしている、とは問わなかった。
 鮮やかな血の色に似た丹朱の隻眼がじっと、瞬きをすることさえ忘れて自分を見つめている。
 ああ、確か目覚める直前に彼の声を聞いた気がする。
 随分と真摯で、そのくせ哀しそうな声だった。
「……呼んだか」
 もとより浅い眠りだった。声をかけられれば簡単に目覚められる深さしか潜っていなかったはずだ。だからてっきり、ユーリは彼が自分を呼んで起こさせたものと錯覚した。
 だのに彼は、静かに首を振った。距離を取ったまま床に敷かれたカーペットに腰を沈め、口を閉ざして貝のように。
 黙っている。
「呼んだだろう?」
 声が聞こえた。頑なに否定を続ける彼に再度問いかける。
「呼んでない」
 やっと口を開いたかと思うと、態度で示していた否定を更に言い直しただけの事しか言わない。可愛くない、と思った矢先で彼は言葉を続けた。
「だって、呼んだらユーリは起きる」
 起こしたくなかったから、折角眠っている君を起こすことなんかしたくなかったから、呼んでいない。声に出して呼んだりしていないと。
 繰り返す彼にユーリはもう一度背中をソファに預け直し、溜息を零した。
「それで?」
 だからお前は、そんな場所に蹲って私が目覚めるまでじっと待っていたというのか。一時間近くも、貝のように押し黙って気配まで殺し、自分自身を消してしまいかねない程に小さくなって。
 詰問するような声に彼は黙って頷く。ユーリからまた溜息が落ちた。
「馬鹿者が」
「うん」
「本当に呼んでいないのか?」
「うん」
「聞こえていたぞ」
「……うん」
「呼んでいたな」
「うん」
 ずっと。
 心の中で。
 声にならない声で叫び続けている。
「馬鹿者が」
「うん」
 郭公時計が十一回のうちの一度目の鳴き声を放つ。
「聞かないのか?」
「うん」
 どんな声が聞こえたのか、どんな風に聞こえたのか。そして、その問いかけに対するユーリの答えを。
「そうか」
「うん」
 答えは、本当は分かっている。
 だから分からないままで構わない。このままで居られるのなら、答えなんて要らない。
 ねえ、ユーリ。聞かせて。
 ねえ、ユーリ。言わないで。
「馬鹿者が」
「そ……だね」
 薄く微笑む。
 ねえ、ユーリ。
 ぼくは君のために、生きるから。
 その為だけに生きるから。

 それがぼくの、唯一の。

 君のために、できること。