Ocean

 潮風が頬を撫でる。生臭さを伴った幾分生温い風を感じながら、彼は視線を彼方へと流した。
 昼間で在れば海の青も、空の蒼も、砂浜や空に浮かぶ雲の白さが目立っただろう。けれど今はそれらの色一切が隠されてしまう時間帯。地上を照らす明かりは月と星という弱々しくも儚い輝きばかりで、騒がしい都会の照明もここまでは届かない。
 あるのは、黒々と渦を巻いたように不気味な様相を呈する、真夜中の海。
 漣の音が響いている。押し寄せ、還る波は昼間となんら変わることはないはずなのに、目の前に横たわる無辺の海原はどこまでも、薄気味悪い。
 背筋を這い上がってきた寒気に似た感覚に、無意識に両腕を抱く。
 夜の海は、あまり楽しいものではない。まるでタールで表面をコーティングしてしまったかのような黒さを晒す水面は、闇の触手を伸ばしここに在るものすべてを攫って行ってしまいそうで。
 彼ごと、なにもかもを。
 ユーリ、と彼は夜の波打ち際に佇むひとの名前を唇の動きに乗せた。けれど昼間よりも騒がしい波の音に掻き消され、呼び声は彼に届くことがなかった。
 さく、と幾ばくかの昼を思い起こさせる熱を残した細かな砂を踏みしめる。僅か五歩にも満たないはずの距離が酷くもどかしく、彼は埋まらないお互いの距離を詰めたくて腕を伸ばした。
 けれど、手はするりとすり抜けて空を掻く。
 打ち寄せて砕ける波に惹かれるままに、ユーリは彼を躱して水面へと進み出たのだ。
「ユーリ」
 夏場、夜の海。
 誰も居ない、遠くで暴走族らしきバイクの排気音が低く響きそして消えた。
 長い長い砂浜は、昼間でこそ海水浴客で賑わい喧噪に包まれるものの、夜半を過ぎてしまえばそれは人間達の眠る時間帯であり、物好きに波に攫われかねない海辺を訪れる者は減る。
 御陰で随分と静かだ。都心部からかなり離れている事もあり、無粋な深夜トラックが駆けめぐる事もない。もともと地元の人間ばかりが集まる場所である事も幸いして、ふたりの耳に届くのは途絶えることのない波の音色ばかりだ。
 先日のポップンパーティーで偶然再会した友、とも言えるはずの知り合いが今年の夏は海外で過ごすから使わないんだ、と別荘の鍵を貸してくれた。誰にも使ってもらえないよりは、使ってくれた方が実は傷まないのだと言っていたから、言外に掃除と手入れをしてくれと頼まれたにも等しい。
 けれど人気の少ない山に近い海辺の町に建つ別荘は、避暑と言う名の休息にもってこいであった事もあり、メンバー三人、なんとか都合をつけあって短い夏場の休暇をここで過ごすことにした。
 もっとも、日の光を厭うユーリが、太陽を遮るものがなにひとつとしてない昼間の砂浜に出たがるはずは当然なく。
 だから必然的に、日が昇っている間の外出はアッシュが買い出しに出るくらいだった。ユーリの日課は朝から晩までの昼寝であり、夕方少し涼む頃に起き出した彼は二食分の食事を摂ってのんびりと過ごし、人出が完全に消えた海辺に降り立つ事になっていた。
 今日で二日目、残る休暇はあと一日と半分。短すぎる。
 けれど愚痴ろうとも、この日数でさえ妥協の末になんとか勝ち取ったものであり、本当はもっと短かった事を思うと出かけた文句も喉の奥に引っ込んでしまう。何をするわけでもなく、のんびりと窓辺で過ぎていく時間を見つめる事はそれなりに楽しかった。
 佐々波立つ音が耳を打つ。
「ユーリ」
 再度、その名前を口ずさんだ。波打ち際で膝を折り、右手を黒々とした水に差し出していた彼がゆっくりと首から上で振り返る。
「どうした?」
「ん、いや……なんとなく」
 けれど実際、用件と問われればそんなものは無かったことを思い出すしかなく、返答に窮して誤魔化そうとすると、ユーリは変な奴だ、と薄く笑って視線を見えない水平線へと流した。
 長く、広い海。深く、透明で、碧く、そして黒い。
 水は元々透明で、海が青いのは空の色を反射しているからそう見えるだけだ。だから今、天頂を彩るのは夜という闇であり、闇を写す鏡である海原は漆黒に溶けている。空と海の境界線は曖昧で、どこからが空で何処までが海か、見えやしない。
 手を伸ばせば掴めそうな距離に見えるのに、その位置は遙か彼方であり決して、届く場所にはないのだ。
 油断すればそこに居るユーリの姿でさえも見失ってしまいそうな闇の中で佇み、彼はビーチサンダルの足を蹴り上げた。
 白いはずの砂が数百粒と舞い上がり、一部が彼の無体を非難して指の合間に潜り込んできた。表面のざらつく感触に、嫌そうな顔を作る。
 それとて、闇に紛れて見えない。
 爪先が細いけれど固いものにぶつかり、なんだろうと腰を屈めて手を伸ばし引っ張り出してみる。半ば以上が砂に埋もれ、満潮の時には海水に沈んでいたらしい湿り気を持っているそれは、薄明かりの中でなんとか判別するに、どうやら廃棄された花火らしい。
 今ではコンビニでも売っているような、手持ちの花火だ。
 十二時もとっくに通り過ぎた丑三つ時とも言われているこの時間帯では、さすがに花火をしようなどという強者は居ないが、日付が変わる前ならばまだ何人か、観光客らしき若い集団が騒いでいるのが遠く、別荘の窓から確かに見えた。これはどうやら、彼らの置きみやげらしい。
 地元の人々は海を大事にするから、花火をその場所に捨てていく事はしない。こういう心ない行為をする人間が多いから、海が汚れていくのだと嘆く老人の背中を思い出した。
 普段別荘の管理を任せられていると言っていたあの老人は、生まれてからずっとこの町で育ったらしい。だから子供の頃に泳いだ、澄み渡る青い海を覚えているし、今のようにゴミだらけの砂浜も知っている。
 彼は拾ってしまったゴミになってしまった花火を手に、どうしようかと考えながら指先でくるくると回した。まとわりついていた砂が飛び跳ね、彼の顔に数粒散る。眉間に皺を刻んで手で払った彼は、視線を巡らせて闇の中、かろうじて見出したゴミ箱に向かって歩き出した。
 波打ち際ではユーリが、相変わらずしゃがみ込んで寄っては離れていく波に手の平を浸している。そうやって彼は、昨日の夜も小一時間ばかり座り続けていたのだ。
 別荘へ帰る間際の彼の手は水気を擦って湿り、表面がふやけてしまっていた。一体何がしたかったのか、と問うとユーリは何も、と答えそれっきり黙ってしまった。
 彼が何を考えていたのか、何を思って海を眺め続けていたのかという回答は結局得られなかった。ユーリは何も言わなかったし、スマイルも何も聞かなかった。
 ゴミ箱に行く途中でも躓きそうになって、砂浜から引っ張り出し見つけたゴミを一緒に編み籠の中に放り込んだスマイルが戻ってくる。その足取りは腹立たしさを覚えているものそのもので、荒々しく砂を踏みつける様がどこか滑稽だった。
 浅く残る足跡が線を作る。
「ポイ捨て禁止!」
 煙草等でキャッチフレーズに良く耳にすることばを鼻息荒く吐き捨てたスマイルを仰ぎ見て、ユーリは微笑んだ。波に浸していた手を引き抜き、軽く左右に振って水気を飛ばす。
「なら、今から海岸線大掃除大会でもするか?」
 恐らくは今頃、ベッドですやすやと夢の中に在るはずのもうひとりを叩き起こして。冗談だと直ぐに分かる調子で笑いながら言ったユーリに、スマイルはお断りだと首を振った。
 夜目に慣れていなければ、その仕草さえ視界に収めることは難しかっただろう。
 ルビー色をした瞳をスッと細めたユーリが、闇を背に浮き上がるようにして見えるスマイルの表情に更に笑う。今此処で、闇に溶けてしまいそうな世界に不安を抱いているのはスマイルだけなのだ。
 隻眼であり、夜の種族であるもののそればかりに馴染んでいるわけでもなく。片方だけに強いてしまっている視力では矢張り、すべてを写し取る事は困難で。
 閉じ、開いたときに右目の先にユーリが居ないことを想像して、背筋が震える。
 ユーリ、と名前を呼んで。
「どうした?」
 さっきからそればかりの彼を、不思議そうにユーリが振り返るのを見つけて、安堵の息を零す。
「ナンデモナイ」
 ごまかしの笑みを浮かべて首を振ると、変な奴だ、とまた言ってユーリは肩を竦めた。
 ぱしゃん、と彼の足に波が跳ねる。
 素肌にサンダルと、夜でもまだ残る気怠い暑さを少しでも緩和させたくて普段とは違う身軽な格好を選らんだユーリの足首までが、海水に浸った。
 思いの外冷たい、その温度は先程まで彼が右手に感じ取っていた熱と同じだ。
「昼間あれだけ、熱に晒されているはずなのに、海は冷たいままなのだな」
 妙な感心を覚えたらしいユーリの呟きに、スマイルは首を捻って彼を見返した。波が強くなっているのか、ユーリよりも砂浜の内側に居るスマイルの爪先にまでも、波は訪れていた。
 慌てて足を引き、半歩分後退する。
「苦手か?」
 あまり波打ち際に近付きたがらないスマイルを見返し、今度はユーリが首を傾げる。やや気まずげに、スマイルは視線を逸らした。
「いや、ね……あぁ、まぁ、うん」
 酷く遠回しに、相槌ばかりを繰り返した末彼はやっと頷いた。胸の前で左右の指を交互に絡め合わせて弄り、目線だけが遠くの海岸線を見つめている。
 引きずられる格好でユーリもそちらに目をやった。月闇に浮かび上がるのは、切り立った岩に貼り付くように根を絡み合わせている古木で、しかし長い歳月を風雨に晒されてきたからなのか、やや傾きかかっている。それでも決して崩れ落ちるものかと食いしばっているのか、木の根は岩の割れ目にまで入り込みその所為で、余計に岩は古木ごと傾いてしまっているようだった。
 逸話かなにかがあったはずで、昨日の昼間に別荘に初めて訪れたとき、管理人の老人から聞いたはずなのに思い出せなかった。ただ恐ろしい程に哀しい話だったとだけ、記憶している。
 この周辺でも数少ない観光スポットなのだが、足場が悪くいつ崩れるかも分からないので立ち入りは禁止されているのだと、老人は最後に付け足した。
「どんな話、だったっけ……」
 かろうじて輪郭だけが見える岩場を見つめたまま、スマイルが独り呟く。
「確か、海神に攫われそうになった我が子を抱え、連れて行かれるものかと岩に貼り付いてそのまま岩になった母、ではなかったか?」
 独り言にユーリが答え、そうだったような気がするとスマイルも頷いた。
 大昔、まだ海に神が宿り年に一度、豊漁と波が穏やかで在ることを願って人柱を立てていた時代の事らしい。今となっては信じがたいナンセンスな話なのだろうが、当時の人々にとっては迷信こそが真実であり、疑えば天罰が下ると本気で信じられていたのだ。
 だけれど、それ以上に子を守ろうとする母の力が勝ったのか。
 本当かどうかは知らない。ただあの岩に根を張った岩にはそんな逸話が伝えられている。
「海に攫われる……」
 もし、今此処で。
 君が。
 夜の闇に、攫われようとしたら。
 最後まで子供を離さなかった母親のように、彼を守り抜けるだろうか。
「スマイル」
 意識がどこかへ飛んでしまっていたらしい。名を間近で呼ばれ、ハッと我に返ればそこにユーリが居た。
 利き腕を掴まれ、握られる。波に浸っていた分の体温が奪われたまま戻らず、常より低いユーリの体温が更にその部分だけ下がってしまっている気がした。
「何を考えているのかは、知らんが」
 ユーリは視線を伏せた。右手でスマイルを掴んだまま、左手を伸ばし右足を持ち上げて履いているサンダルを脱いだ。右足分も同じく。そして紐を重ねて持ち上げ、素足で水辺に立った。
 直に波を感じる。スラックスの裾が濡れたが、構わなかった。
「私は、海が……夜の海は、好きだ」
 握る右手に力を込めて、彼は海原を仰いだ。夜の弱い月明かりでかろうじて表面だけが浮き上がる水面が、ゆらゆらと不規則に揺れている。
 絶え間なく波の音は耳に届き、潮風は生温く肌をすり抜けていく。黒々とした表面は禍々しさを内包していて、過去の人々が夜の海に恐れを抱いた事も無理ない話だと納得できてしまう。
 けれどユーリは、そんな夜の海を好きと言う。
「海は、総てのあらゆる生命を生み出した存在なのだろう?」
 単純な体内構成をした単細胞生命体から、複雑な体内構成を持った現在多種多様に生きるありとあらゆる生命。そのどれもが、もとを正せば確かにユーリの言うとおり、海から生まれ出たもの。
 だけれどそれがどう繋がってくるのか、分からないと言う顔をするスマイルを一度だけ見上げて、ユーリは足首までを沈める海を眺め下ろした。左足を引き上げ、そして落とす。海水が撥ねた。
「私は、生まれ出た時の事などなにひとつ、記憶していない」
 だが、とユーリは言葉を一旦途切れさせた。遠く彼方の水平線と空が混じり合う曖昧な境界線を見据え、そっと瞼を下ろす。
「こうしていると、この世界こそが私を生み出した場所なのだと、そう思えてくる」
 ここから生まれ、いずれここに還る。今は中間地点に立ち、細胞が覚えている記憶に意識を委ねさせて、遠い過去と遠い未来を夢見ている。
 海は恐くない。
 夜もまた、恐くない。
 それは自分たちを生み出した、紛う事なき母の姿だ。
「……ワカンナイ」
 ぽつり、とスマイルは呟いた。ユーリが顔を上げる、視線が重なった。
「デモ」
 ぎゅっ、と。
 握りしめた手に昼間の太陽とは違う熱が宿る。
 驚いた顔をして結び合った手を見つめ、それから再度顔を上げてスマイルを見たユーリが、呆れたように頬を緩めて微笑んだ。
 苦々しげに表情を歪めてから、無理に笑おうとして出来なかったスマイルがユーリの肩に凭れ掛かって、顔を埋める。
「ユーリがそう言うなら、信じる」
 攫われそうになっているのは、ユーリではなく。
 自分自身だと、分かっているから。
 結んだこの手を、どうか離さないで。
 ドコニモイカナイデ。
 夜の潮風が静かに通り過ぎていく。夜明けまでの数時間、彼らは暫くそこに佇み、反響する波の音だけを聴いていた。

 あの古木を貼り付けた岩は、今もその海岸線で静かに海原を見つめている。