Radiant

 昨夜は雷鳴が轟く嵐だった。
 窓の外は豪雨で、ほんの少し頼りない窓枠は風が吹き付けるたびにガタガタと音を立てて揺れた。湿った空気は室内に満ち、肌寒さを覚えて身体を抱きしめた背後で光が瞬く。
 数秒後、遅れてやって来た轟音が周囲からすべての音を掻き消した。
 一瞬だけ天井から室内を照らすライトが消え、直後チカチカと明滅してからパッともとの明るさを取り戻す。消された音が耳に戻って、忘れていた呼吸を思い出し長く重い息を吐きだした。
 彼女はカーテンをそっと開き、そこから覗く景色をしばらくじっと見つめた。
 昼間であれば、そこからはとても明るく綺麗な空が見えただろう。けれど今窓の外にあるのは、雷雨を地上にもたらす分厚い雲であり、透明なガラスに映るのは室内の明かりを背後に背負った彼女自身の姿だけだった。
 時折、遠くで雷の光が奔る。その度に肩を竦ませて身を縮めれば、まるでタイミングを計ったかのように轟音がそれに続いた。
 床が揺れたかと思うほどに大気を震わせる雷は、天の怒りを象徴しているようでもあった。
 握りしめたカーテンを見つめ、手元に刻まれた布の皺の数を数えながら彼女はそっと吐息を漏らす。
 こんな夜は早く眠ってしまうに限る。ひとりぼっちで雨を見つめ続けるのは気が滅入るばかりで、雷は綺麗だけれどこの大地を揺るがす音は嫌いだった。
 薄いカーテンから手を放し、窓に映る自分の姿を掻き消す。背を向けようとした先で空っぽの鳥籠を見つけ、視線が止まった。
 緩やかな曲線を描く木製のフックに吊り下げられた鳥籠には、そこにおさめられるべき鳥が居ない。鍵の掛からない鳥籠で羽を休める鳥はない。
 彼女はフックに近付き、両手を持ち上げて静かに鳥籠を外した。胸に収め、そっと抱きしめる。
 金属製の籠は冷たく、彼女の肌をさらりと撫でた。
 こんな夜は、鳥たちもきっと眠れぬ時を過ごすのだろう。小さな巣の中で、まだ自由に空を舞うことの出来ない子供達を必死に翼を広げて守りながら。
 何事もなく嵐が通り過ぎていく事をただひたすらに願いながら、息を潜め落雷の鳴動をやり過ごしているのだろう。
 外では相変わらずの雨、そして断続的に鳴り響く雷。窓の外から飛び込んでくる眩しいばかりの光に、尚更強く空っぽの鳥籠を抱きしめて彼女は瞳を伏した。
 白い素肌に鳥籠の外枠が浅く食い込み、痕を残す。けれど彼女は構うことなく、なにかを鳥籠に重ねたかのように抱きしめ続けた。膝を折りその場で祈るような姿勢を作って、ただひたすらに。
 せめて、この腕が雨風に晒される鳥たちを守る壁となれば良いのにと願って。
 夜が更けていく。
 雷は深夜遅くまで、雨は早朝まで降り続き、嵐は東の空へ流れていった。

 
 嵐が過ぎ去った朝は、静かだった。
 あらゆる空を覆い尽くしていたものは、昨夜の嵐ですべて押し流され、あるいは攫われていったのかと思いたくなるほどに、一面の青空がそこに広がっていた。
 空気も心持ち澄んでいる、地上に無数に出来上がった水たまりに反射する太陽の光も眩しい限りだった。
 けれど嵐があった証拠はあちこちに残され、一晩ですっかり景色が変わってしまった場所もあった。
 落雷を直撃して幹の半ばまでまっぷたつに裂けた上、殆どの枝と葉を焼け焦げさせた大樹。そこまで酷くはなくとも、大きな枝を根元で折られてぶらんと垂れ提げさせている木々。昨日までは新緑も鮮やかだったのに、枝ごと奪われて裸に近い状態にされてしまった並木の数々。
 地上に這うように育っていた草木も被害を受け、花は散り下草も根元近くで折れ曲がって立ち上がれなくなってしまっていた。緑の葉の先端からは、朝露ではない水滴が重そうに滴っている。
 風に飛ばされてきたらしい、おおよそその場にはそぐわない物体も幾つか転がっていた。
 壊れた傘、泥にまみれた洗濯物だったのであろうシャツらしきもの、プラスチックのゴミ箱の蓋、等々。数えていけばキリがない残骸を見下ろしながら、彼女は隙間を縫うように歩いていた。
 胸に抱いた鳥籠が、水たまりから跳ねた飛沫に汚されぬようしっかり抱え込んで。自分を映す鏡になった無数の水溜まりをジャンプで飛び越えつつ、先へ先へと進んでいく。
 やがて景色がまた彩りを変え、水気を大量に含んだ緑の平原が見えた頃。
 彼女は、あるものに気付いて足を止めた。
 そこには等間隔で植樹され、成長した常緑樹が並んでいる。うち手前から三番目の一番枝振りが立派な木に、少し前一組のつがいが巣を作っていた。薄茶色をした翼を持った小さな鳥は、片方が餌を探して巣の周りを飛び回り、もう片方はじっと巣の中で静かにどっしりと腰を据えていた。
 卵があるのだと、彼女でも分かった。
 だからあの場所へ向かうとき、巣が出来たと知った日から必ず足を止めてつがいの鳥を見守っていたのだけれど。
 いつもの、首を少し持ち上げた先に僅かに見えるはずの巣が、今日はそこに見当たらなかった。
「…………」
 黙し、彼女は視線を己の足許に向けた。緑で一面が覆われ、木の根元にだけ土が露出している周辺を注意深く見つめる。
 探していたものは、簡単に見付かった。
 鳥の巣は、木の根もとに粉々に飛び散って無惨な姿を晒していた。親鳥の姿はどこにも見当たらず、視線を持ち上げて常緑樹を必死に見回すけれど、あのつがいの鳥はいくら探しても居なかった。
 もしかしたら、嵐をやり過ごすために一時的に非難しているだけかもしれない。もしかしたら、嵐が過ぎ去ったのだからまたここに戻ってくるかもしれない。
 彼女は微かな希望を胸に抱いて、巣があった木に近付いた。
 水に濡れた木の香りが広がる。膝を折り、壊れて地面に落ちた巣にそっと触れた。
 膝の上で抱いた鳥籠が歪な音を立てる。彼女の目の前で、水分を多量に含んだ鳥の巣は呆気なく崩れ落ちた。
 もとより、それと分かる程度に形が残っていた事さえ奇跡に近いのだ。
 指先に、湿り気だけが残る。ちょっと触れただけで壊れてしまった鳥の巣の感触さえ、彼女には与えられなかった。
 まるで触れられることを拒絶して、自ら壊れる事を選んだかのように思える呆気なさに、彼女は膝の上に置いた鳥籠をきつく抱いた。視線を伏せ、唇を固く結ぶ。
 砕け散った鳥の巣の残骸に隠された土の上に、白と灰色が混じり合ったまだらの物体が見えたのだ。
 それは、あのつがいが大事に抱きしめていた卵のはずで。
 けれど嵐が過ぎ去った今、それはもう命の火を灯しておらず砕かれた希望となって哀しい躯をそこに残すだけ。
 あのつがいの鳥は、きっともうここには戻ってこないだろう。遠く、彼女の見知らぬ世界へと飛び立ってしまった。
 彼女を置いて、飛んでいってしまった。
 昨夜の嵐を思い出す。何も出来ず、小さくなって震えていた幼い自分を思い出す。
 きっともう、二度と雷の光を綺麗だとは思わない。
「どうして……」
 空っぽの鳥籠を抱き、立ち上がる。降り仰いだ空はどこまでも澄み渡って、哀しいくらいに綺麗だった。
 この空は、鳥たちが自由に世界を巡るフィールドだ。あの空を想いのままに飛び回る事が、鳥たちの願いのはずだ。
 そして空は、鳥たちの願いを受けていっぱいの風を集めてくれるはずだ。
 なのに。
 嵐は、一晩でなにもかもを無茶苦茶に壊してしまった。鳥たちを優しく包むはずの空が、鳥たちの願いを踏みにじった。
 恋い焦がれ、愛おしんだ空に裏切られた鳥たちの願いは何処へ行くのだろう。それさえも、空が受け止めるのだろうか。
 彼女は止めていた足を進めた。壊れてしまった鳥の巣へは、視線を向けようとせずに。
 あの場所へ行こう。なだらかな丘の上、一本だけぽつりと立ち尽くす木の側へ。
 きっと、きっと、あの木だけは嵐の中でも動じずに在り続けるはずだから。
 少しずつ彼女の足が速くなる。最後には駆け足になって、緩い傾斜を登りきり背の低い丘の頂上にたどり着いた彼女の瞳に。
 映ったのは。
 緑に包まれ、太陽の光を葉に乱反射させて輝かせている、背の低い、一本の木と。
 そこに佇む、彼。
 なにも変わっていない、昨日よりも一層緑が鮮やかに映えた木とそれを取り囲む草原は、まるでそこだけが切り取られて嵐の直撃を受けなかったように、当たり前のようにそこに在って。
 彼女は息を弾ませて、鳥籠を抱いたまま残りの距離を走り抜けた。
「おはよう」
 彼が、彼女を見て笑う。
 珍しく肩で息をして興奮しているらしい彼女の様子を見下ろし、優しい眼を細めながら少し乱れていた彼女の髪をそっと撫でて直してやる。
「おはよう!」
 やや上擦った声が彼女の唇から溢れ出る。
 彼が、また笑った。
「晴れたね」
 昨日の雨は凄かったけれど、濡れたりしなかった?
 彼が問う。彼女は「ううん」と首を振り、雨が降り出す前にちゃんと家に帰った事を告げた。
 彼は「それは良かった」とひとつ頷いて、今度は目的もなく彼女の黒髪に触れ、撫でた。
 その何気ない彼の仕草が嬉しくて、彼女は微笑み照れくさそうにはにかんだ。両腕で抱きしめた鳥籠が、歪な音を立てる。強く抱きすぎていたのだと思い出して、彼女は慌てて取っ手を左手で握り直した。
 鍵のない鳥籠の扉が一度開き、そして騒々しい音を立てて閉じられる。
「今日は随分と急ぎ足だったようだけれど、なにかあった?」
 丘の上からなら、かなり下の方から駈けてくる彼女の姿が見えたのだろう。にっと歯を見せながら笑う彼に、彼女は微笑みを湛えたまま静かに首を振った。
 その時、遠くの青空にふたつの点が見えた。
 それは徐々に大きくなり、近付いてくるに従って一対の鳥である事が彼女の目でも認める事が出来るようになって。
 ふたりが立つ丘の頂に、ぽつんと聳える木の真上で旋回した。
 薄茶色の翼を持った、片方が少しだけ大きい、つがいの鳥。
「あ……」
 鳥籠を握る左手から力が抜け、するりとそれは湿り気を残す大地に沈んだ。傾き、倒れる。
 空になった両手が、無意識のままに少女の口元を覆い隠す。
 気付いた彼が、少女の見つめる先を見上げてほんの少し眉根を寄せ、木から離れた。
 つがいの鳥は地上のふたりにまるで目もくれず、気にした様子もなく豊かに枝を伸ばす木の周りを飛び回り、やがて落ちつく場所を定めたようでバランスを取りながら一本の枝に二羽並んで停まった。
 広げた羽を折り畳み、寄り添いあって翼を休める。
 彼女は何も言わなかった。彼も何も言わず、彼女が落とした鳥籠を拾って泥と草を手で払いまだ頭上を見上げている少女の横で、持て余したように鍵のない扉を開けて閉めて、を繰り返す。 
「良かった……」
 少女が呟く。
 風が吹いた。
 西から吹き付ける風はもう、雨の匂いを宿しておらず晴れ渡る空のように澄んでいた。
 明日明後日には、新しくこの木につがいの鳥が新しい巣を作るだろう。そしていつか、つがいの鳥の子供が力強く空へ羽ばたくだろう。
 彼はすっかり居心地よさそうに居場所を定めてしまったつがいの鳥を、少し忌々しそうに見つめていたけれど、やがて諦めたように肩を竦めてため息を零した。
「……とり」
 顔を顰めている彼を見上げ、彼女は言った。
「きらい?」
「うん」
 彼は即答した。少女が寂しげに表情を曇らせる。
「嫌いだよ。そうだね、でも」
 勿体ぶった言い回しをして、鳥籠を彼女に返した彼はコホン、とひとつ咳払いをした。
 彼女が見つめる前で、立てた人差し指をくるくると空に向かって回す。鳥のさえずりが聞こえた。
「ぼくに攻撃して来なければ、もう良いよ」
「なぁに、それ?」
「ぼくは鳥が嫌いです、ってコト」
 包帯に隠された左目を人差し指で二度ほど小突いて、彼はカラカラと笑った。つられるようにして、彼女もクスクスと笑い出す。
 それに、つがいの鳥の囀り声も重なった。
 きっと、これからも何度と無く嵐の夜がやってくるだろう。強い風と、鳴り響く雷と、地面を抉るような雨が襲い来る夜は無くならないだろう。
 けれど、もう大丈夫。
 ひとりじゃないから。