Boring

「ユ~リ~」
 間延びした、猫なで声。聞くタイミングを誤れば全身に鳥肌が立ちそうな声を背中で受け止め、ユーリは握ったペンを持ち直した。
 はぁ、と吐きだしたと息は今日これで何度目だろうか。
 ここはユーリの部屋で、部屋の主たる彼は今机に向かい新曲の作詞作業の真っ最中であった。期日は残り少なく、書いては捨て、捨てては書きがここ数日続いていた。曲のテーマは決めてあっても、そのイメージに合う歌詞が出そろわなければどんなに流麗なメロディーも駄作になってしまう。
 それが分かっているから、ユーリはここ数日部屋に引き籠もり朝から晩まで、頭を悩ませ戦っているのだが。
 それなのに、この男と来たら。
「ね~、ユーリさぁん?」
 べったりと、ユーリの座る背もたれ肘置きつきの椅子ごと抱きしめる格好で今日も朝からこの調子。耳元で延々と聞かされる、彼の己を呼ぶ声もいい加減聞き飽きた感があり最初こそ覚えた寒気も、今では暑苦しい限りだ。
 季節としては、人間界では初夏に届こうとしている気温が上昇する坂道の丁度その途中。湿度も高く、メルヘンランドにあるユーリの城ではあまり関係ない気もするが、気分的に快適とは言い難い時期だ。
 城がじめじめしているのは昔からだ、というツッコミはこの際綺麗さっぱり無視を決め込むことのして。この暑苦しい季節に、余計暑苦しくなるような事をしてくる男をも無視し続ける事は、かなり体力が必要な事だった。
 額から滲み出た汗が珠になる。ある程度の大きさになって頬を伝い落ちたそれが、彼の握るペンの先端近くに沈んだ瞬間、ユーリの堪忍袋の緒がついに切れた。
 バンッ、と乱暴にペンを机に押しつける。大きく揺れた彼の身体に、後方から腕を回して抱きついていたスマイルがびくっ、と肩を竦ませた。
 けれどユーリの肩越しに前へ回していた腕は、彼が意識した以上にしっかりと互いを結びあっていたようで、簡単には解けなかった。絡め合わせていた指を解こうとしている間に、ユーリが怒りの込められた笑顔で振り返った。
 氷に貼り付けたような作り物の微笑みに、ただならぬものを感じたスマイルが左頬の筋肉を引きつらせる。ようやく解き終えた手を広げ、ユーリをパッと解放するがもう遅い。
 矢よりも速く飛ぶユーリの拳が、スマイルの顎にクリーンヒットする。弾き飛ばされこそしなかったものの、数歩後ろによろめかねばならなかったスマイルは、殴られて仰け反った背と変な風に上を向いた顎をそのままに暫く固まった。天井付近に七色の星が飛び交っているように見える。
「がぁっ!」
 気合いの一声を腹の底から押しだして後ろに傾いた姿勢を前傾に戻し、それから背筋を伸ばして。殴られた顎を痛まない程度に軽く撫で、スマイルは片方だけ露出している瞳を椅子に座ったままでいるユーリに戻した。
 夕焼けよりも鮮やかな紅玉色の瞳がふたつ、射抜くように彼を睨んでいる。スッと、彼の細く白い腕が持ち上げられた。
 黒く塗られた爪を持つ人差し指を残し、他の指を折り畳んだ状態で彼は部屋の、閉じられている重厚な扉を向く。扉へ向けて突き立てられた人差し指が物言う口を持たずに語るのは。
 出て行け、と言うそのひとことに限られる。
 固く結ばれたユーリの唇は、ただ一言だけを告げるのさえ億劫だと言わんばかりに強固な姿勢を崩さない。無言の圧力に耐えかねたように、スマイルは渋々と頷き表情から笑みを消した。
 朝からずっとユーリに貼り付いていた彼の目的は、よく分からない。甘えているようで、邪魔をしている以外のなにものでもなかった彼の行動にユーリが苛つくのも無理ない事だ。
 彼が口にしていたのは、ユーリの名前と、ひたすら自分の暇ぶりを主張して遊んで、だの構って、だの、どこか行こう、だの。とにかくそういった部類のことばばかりだったのだから。
 人が仕事に煮詰まって、けれど仕事だから投げ出すわけにもいかないと必死に取り組んでいる後ろで、こんな言葉を言い連ねられて気分を良くする存在は少ないだろう。誘いに乗って仕事を放り出してしまう人間も居るだろうが、生憎とユーリはそこまで無責任になれない。
 任された以上、引き受けた以上役割は全うする。自分で満足がいくものを仕上げてみせる、それが多少無理を必要とするものであっても。
 だからスマイルは邪魔なのだ、他の時ならまだしも、今は。
 出て行けと告げる指は扉ただ一点を指し示したまま動かない。腕が下ろされる様子もない。
 同情を引くつもりなのか、寂しげに伏せられたスマイルの隻眼が一度静かに閉じられた。何を思っているのか、瞑目した彼は数回小さく息を吐きだし肩を落とした。再度開かれた瞳は、飄々として何を考えているのか相手にまるで読ませない彼に戻っていて、だから尚更ユーリは怪訝そうに眉根を寄せる。
「つまんない」
「だからと言って、私の邪魔をして良い理由にはならない」
 肩を竦めながら言った彼に、ユーリが険のある表情と声でぴしゃりと言い切る。聞いていたスマイルは、相槌を返して頷いた後それでも遠くを見るように目を細めた。
「つまんない」
「スマイル」
 邪魔をするだけなら、出て行け。今度こそことばにして告げたユーリに、スマイルは殊更大袈裟に両手を広げて首を窄めるように肩を竦めてみせた。まるで人を莫迦にしているような態度に、余計ユーリは腹を立てる。
 つい、机の上にあったペンを取ると握りしめて、スマイルに向けて放り投げた。
 ようやく顎を殴られた時の痛みが消えかかっていた彼は、これ以上ダメージを受けるのはゴメンだと早口に呟いた。その瞬間にはもう、彼の姿は空中に流れた煙の如く掻き消えていて、速度を緩める事が出来ぬまま投げ放たれたペンが虚しく空を横切った。カツン、と壁の手前で床に落ち、跳ねて止まる。
「ざ~んね~ん」
 からからと笑う声が響き、キィと誰も居ないのに扉がひとりでに開かれた。
「スマイル!」
 拳を握ったユーリの怒鳴り声を笑い飛ばして、彼はどうやら自分で開けた扉を抜けて廊下に出て行ってしまったらしい。足音は響かず、けれど気配だけは遠ざかった。
 取り残された格好になったユーリが、荒々しく肩で息をしてから力を込めていた両手を解く。びっしょりと指の間には汗が浮かび、感触の不快さに眉根を寄せて履いているスラックスに押しつけるようにそれを拭いた。
 スマイルは扉を閉めてゆかず、だから開け放たれたままの扉からは生温い空気が、同じように生温い室内の大気に流れ込んで混じり合っている。ほんの数歩しかないその距離を大股で歩き、ユーリは乱暴な手付きで大きな音を立てさせて扉を閉じた。
 途端、訪れる沈黙。
 誰か自分以外の何者かが居るような感じがするけれど、錯覚で終わってしまう奇妙な既視感。息を殺し気配を探ってみても、自分以外の呼吸する音は聞こえてこない。
 零した吐息は、安堵なのかそれとももっと別のものなのか。判断しかねて、ユーリは考えないようにしようと決めた。緩く首を振り目に掛かる艶やかな銀糸を手櫛で後ろへ流し、進んだ分だけの歩数を逆向きに戻る。
 行きよりも多く必要だった歩数を数え、横向いていた背もたれを戻し椅子に腰掛け直した。
 床に転がしたままのペンを途端に思い出したが、座ったばかりでまた拾いに立つのも気分がよくない感じを受けたので忘れる事にした。筆立てに並ぶ別のペンを引き抜いて、インクの出を確かめてから試し書きの横に筆の先を押しつける。
 思い浮かべていたはずの単語はしかし、喉元を通り過ぎた熱湯の熱さが遠ざかっていくように、静かに掠れて消えた。イメージはそこに漠然とした形で残っているのに、それを表現するための最も適していた言葉が思い出せない。
 まるで最初から、なにも思いついていなかったのではないかと疑ってしまいたくなるくらいに鮮やかに、ユーリの頭から一切のアイデアが消えて無くなっていた。それこそ、今し方部屋を出ていったスマイルが横からかすめ取って行ってしまったような感じだ。
 そんなはずは、当然だがあり得ないのに。
 疑ってしまう。
 さっきまで知っていたのに、急に知らなかったかの如く思い出せなくなる。ヒントは頭の中でいくらでも転がっているのに、それらをパズルのピースとしてぴったりと組み合わせる方法が分からなくなっている。
 いらつきを隠せないまま、ユーリは軽く握った手の甲を頭に押さえつけた。こめかみに指の関節を押しつけ、ぐりぐりと弄ってみるが効果は期待できそうにない。ペンの尻で押してみても同じだった。
 なにかが足りない感じがしてならない。だがその足りないなにかが、先程まで鬱陶しいくらいに背中に存在を感じさせていた誰か、だとは思いたくなかった。
 彼がいたから仕事が捗らなかったのに、彼がいなくなっても僅かとして改善されないのはおかしい。そんなはずはないのに、心のどこかが自分の想像を正しいと主張している。
 あり得ないのに、そんな事。
 自分の邪魔をしてくるだけの存在だったのが、邪魔をしなくなった途端に寂しいと思ってしまうなど。
 ああ、けれど。
 少しだけ、分かった。彼が「つまらない」と口にした理由が。
 確かに、そうかもしれない。
 彼がいなくなった室内はとても静かで、あれだけ暑苦しい空気を感じていたのに今では少し肌寒いくらいだ。無意識に抱きしめた身体をさすり、シャツの七分丈の袖から覗く腕に手を這わせて自分を自分で温めながら、吐息を零す。
 それでさえ、冬の冷気に晒された時のように白く雲っているように感じられた。
 彼がいる時と居なくなった今とでは、朝から唐突に夜がやってきたように、あまりにも劇的な変化が一度に訪れてしまって感覚が麻痺する。
 何も思い浮かばない、魅惑的なフレーズも真摯に心へ訴えかけるメッセージも、なにひとつ。
 つまらないな、と。
 握っていたペンを手放し、机上に転がしてユーリは嘯いた。肘をつき、その上に顎を置く。頬杖をついた姿勢で目の前にある壁と、そこに吊した時計を見上げる。
 朝から一緒だった時間をざっと頭の中で計算して、片手で足りない事に今更気付いて苦笑う。鬱陶しいだけのように思えていたが、本当に邪魔だと思っていたならもっと速くに追い出していただろう。
 そう思ってしまうと、もうダメだった。
 肘の脇に静止しているペンをもう片方の指先で弾き飛ばす。それは偶然か故意か、彼に出て行けと言ったときに扉を指し示した指だった。黒のマニキュアの先端が、少しだけ剥げ落ちてしまっている。彼を殴ったときに、どこかで掠ったのかもしれなかった。
 ほんのりと赤みを帯びている指の背を見つめ、転がって壁の行き止まりにぶつかったペンをもう一度手元に引き寄せる。先端の汚れを屑紙の端で拭ってから最初にしまわれていた通りに、ペン立てへと戻した。
 頬杖をやめ、両手を机の天板に伏せると肘に力を込めて腰を浮かせ、立ち上がった。
 うだうだと考え込むのは性に合わない、椅子から完全に身体を離すと踵を返して先程通った道のりを、先程よりも更に大股で進む。自分で閉じた扉を開けて廊下に出て、靴跡の残らない、一面に敷かれた赤い絨毯を踏みしめる。
 彼はどこへ行ったのだろう。少し考え込んで、ユーリはまず台所から順番に巡ってみる事にした。そして最終的に、最後に訪れたスマイルが自室として勝手に借用している部屋の中で、目的の姿を見つけだす。
 彼は床に直に座り、古新聞紙をその前に広げ、隻眼の視力を補うべく眼鏡を鼻の上に引っ掻け、手は神経質に動いて細かなパーツを組み立てていた。側には、中身を全部取りだした後と思われる空箱が蓋をしたにして転がっている。
 かろうじて側面に印刷されていた文字が示すところは、彼が愛して止まないあのキャラクターの60分の1サイズプラモデル。全関節が可動式とあって、発売と同時に飛びついて居たことを過去の記憶から引き出して来たユーリは、真剣な表情をしている彼の背中を見つめ、嘆息した。
「スマイル」
 呼びかける、しかし閉められていた扉が外から開かれた事に気付いているはずの彼は無反応、振り返りもしない。
「スマイル?」 
 もう一度呼びかける、けれどやはりなんの返事もなく彼は忙しそうに、ペンチを片手に繋がり合っているパーツをひとつずつバラシながら説明書を食い入るように見つめていた。
その彼のあまりに真面目な様子に、これ以上声を掛ける事を憚らせるような印象を抱きそうになるが、このまま黙って引き下がれるわけもなく。
 人のことを散々振り回しておきながら、ここに来て無視を決め込むとは良い度胸をしている。腹を括り直したユーリは、ならばこちらにも方法がある、と後ろ手にまず扉を閉めた。天井から部屋を照らす明かりに足許へ影を落としたユーリは、部屋のほぼ中央に座り込んでいるスマイルの真後ろまで進んで、立ち止まった。
 両手を腰に当て、まずはこうなってもスマイルが反応しない事を確認する。
 他人の気配に敏感な彼は、余程深く集中していない限り側に誰かが近付こうとしていたらすぐに気付く。見たところ、今の彼はそこまでの集中力を発揮しているようには到底思えず、時折窺うようにこっそりと視線をこちらに流しているのがユーリでさえ分かるくらいだった。
 ぱちん、と、繋ぎ合っている梱包当時の状態から個別のパーツに分解するペンチの音を響かせたスマイルの背後から一度彼の手元を覗き込んだユーリは、それが完成にはまだ程遠い事を、分からないなりにも理解した。組み立て上がっているのはまだ足の部分だけのようで、他は何がなにやら分からない状態のまま、新聞紙に広げられていたからだ。
「ふぅん……」
 彼はきっと、このプラモデルを作りおえるまでこの場所から立ち上がる事はないだろう。そこまでしてでも創り上げたい玩具というものに、どんな意味があるのかユーリにはさっぱり分からないのだが、彼の趣味をとやかく言うつもりは今のところ、ない。
 それが悪い事だとは言わない。
 ただ、そう。
 今の自分が置かれている状況をひとことで簡略に説明するとしたら。
「退屈だ」
 ぽつりと零し、ユーリは身体の向きを反転させると膝を折った。腰を落とし、床の上に直に座る。片膝を立てて両手でそれを抱き込み、上半身の体重はしかし自分にではなく背中を接し合わせているスマイルに、預けて。
 当然、後ろから凭れ掛かられた格好になるスマイルは、ユーリの体重を最初受け止めきれず胸と膝がくっつきそうなくらいに前屈状態になってしまった。その後力を取り戻してぐぐっと押し返したものの、上から体重を載せる側の方が強いのは仕方がないわけで。
「ユーリさぁん?」
 少し情けない声を間延びさせ、スマイルは腹筋を震わせ彼を呼ぶ。
「なんだ?」
 しれっとした顔と声で、ユーリは自分の目には見えない今のスマイルを想像しながら返す。
「重い……んですけど」
「気にするな」
 若干くぐもり気味のスマイルの、本当に苦しそうな声にユーリはさらりと言い返した。喉の奥で笑っているような調子に、自分の指をニッパーで切りそうになったスマイルが苦々しげな様子で吐息を零す。
 多少の違いはあるものの、これは先程までの自分たちの立場を逆にした状態に似ている。ただ、あの時のスマイルは煮詰まっていい加減頭がパンク寸前になっているのに、自分の体調を気づけないでいるユーリをどうにかしたかっただけなのだが。
 どこかで、少し狂ったようだ。もっとも当初の自分の目論見は達成出来たようであるが。
 ユーリは籠もりっぱなしだった部屋を出て、寄せっぱなしだった眉間の皺を広げている。それが出来ただけでも万々歳と言うべきか。
 しかしこの、背中にユーリの全体重を押しつけられる、という状況はあまり、宜しくない。
「気にしマス」
「気にするな。私は居ないと思っていればいい」
 こうも背中を押されっぱなしでは、危なっかしくてニッパーもロクに動かせない。完全に止まってしまった作業に困惑顔のスマイルを笑って、ユーリはぐりぐりと浮き上がった背骨を彼に押しつけた。くすぐったいような痛い感覚が、全身に広がっていく。
 殊更高い声でユーリが笑った。
 呆れたように、スマイルはまたため息を零した。
「退屈だぞ、スマイル」
「そんな事言われても~」
 作り始めたばかりのプラモデルをここで止めてしまっては、どこまで作ったのか、細かなパーツをどこに置いたのか忘れてしまいそうで困るのに。彼が腕を動かすたびに、ユーリはタイミングを合わせて背中を擦り合わせて来て邪魔をする。背中に目でもあるのか、と思ってしまいそうなくらいにスマイルの動きに細かく反応して、ユーリはひたすら彼を邪魔する事に精を出した。
 完全に逆転した立場に、苦労しながらプラモデルを組み立てるスマイルはずっと苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。
 そうやっているうちに本当に退屈し始めたらしいユーリは静かになり、不意に思いついたらしい唄を小さく口ずさみ始めて。
 やっと落ちついて作業に戻れるとホッとしたのもつかの間、今度は今の歌詞だとどうだ、こうだ、とユーリが言い出して。
 そのうちにふたり、背合わせだったのがいつの間にか向かい合って古新聞の角なんかにメモ書きを埋め尽くしながら、歌詞を論じあって。
 夕食、アッシュが呼びに来るまで続いたその結果。
 ユーリは一仕事が終わったと満足そうに立ち上がった後ろで、作成途中のプラモデルを思い出したスマイルは泣きそうになりながら、結局今日中の完成を諦めたのだった。