甘雨

 普段テレビを見ない生活が仇になった。
 獄寺隼人は、薄暗い空とそこから絶え間なく零れ落ちてくる雨を恨めしげに見上げ、思った。
 校則違反どころか、この国の一般的道徳からも逸脱しているくせに、最早誰も注意しなくなった煙草も、口に咥えられるだけで先端に火はついていない。それどころかこの湿気の為に、恐らくは余程頑張らなければ火はつかないだろう。
 忌々しげに舌打ちしつつ、獄寺は靴の裏でコンクリートの地面を数回蹴り飛ばした。
 彼の両脇を、授業を終えた生徒が続々流れて行く。彼、彼女らは機嫌を悪そうにしている獄寺を僅かに迂回しつつ、各々手にした傘を広げては、雨にぬかるんだ校庭に飛び出していく。
「よー、獄寺。どうした?」
 恨めしげに、雨に踊る傘を眺めていると、背後から聞きなれた、その上であまり聞きたくも無い男の声が響く。
 ゲッとなりつつも肩越しに振り返ると、案の定そこには自分よりも背の高い男が立っていた。平たい鞄を小脇に抱え、黒い折り畳み傘を広げようとしている最中の、山本武だ。
 同じ学年、同じクラス、そして何よりも獄寺が最も敬愛し大事に思っている相手の、親友という立場に甘んじている男。
 常に柔和な笑顔を浮かべ、男女ともに人気があり、クラスでも中心的立場にある彼を、獄寺が敬愛する相手もまた信頼し、大切な存在だと思っている。
 それが獄寺には気に食わなくて、常日頃から喧嘩を売るような態度を取ってしまう。だが元から天然が入っている性格の彼には全く通用していないようで、いつも獄寺が空振りさせられている。
 ある意味、わざとかと思ってしまうほどに、毎回。
「なんだ、傘持って来てないのか?」
 二つ折りにされている傘の骨を真っ直ぐに固定して、その上で折り畳み傘のカバーを鞄に押し込んだ山本に、獄寺は無言のまま顔を逸らした。
「天気予報見てなかったのか。今日は午後の降水確率八十パーセント越えてただろ」
 小ばかにするわけでもなく、いつもの穏やかでのんびりとした口調で告げる山本に、獄寺は悪かったな、と口の中で呟いた。
 山本はそんな獄寺に構いもせず、マイペースで一歩前に出て彼の横に並ぶと、滅多に当たらない天気予報だけれど、たまには当たるもんだな、と誰に言うとでもなしに口にした。
 獄寺の横を、クラスメイトがバイバイ、と手を振って通り過ぎていく。そんな彼らもまた一様に傘を広げ雨空の下を歩き去る。
 この学校で、傘を忘れて来ていたのはまるで獄寺ひとりだけのような空間だ。
「お前、あんまホームルームサボるなよ。じゃな」
 ポン、と軽く獄寺の肩を叩いて山本もまた折り畳み傘を広げ正面玄関前のポーチから出ていった。背の高い後姿がやがて傘に埋もれ、見えなくなる。
 さすがにあの傘に入れてもらおうとは思わない、そんな屈辱を受けるくらいなら濡れて帰る方が格段にマシだ。
 もう見えない山本に悪態をつき、しかしそこそこの勢いを保ちつつ一向に降り止む気配の無い雨に獄寺は頭を掻き毟った。
 確かに午前中、学校に出向く頃から空模様は怪しかった。しかし今日に限って何故か目覚ましが止まっており、制服のシャツもアイロンをかけてないものばかりで、髪の毛も寝癖で変な方向に曲がっていたりして時間が兎に角足りなくて、大急ぎで家を飛び出した時には傘を持っていく、なんていう空模様を危惧する展開に頭を持っていけなかったのだ。
 道行く人も大半が傘を持って歩いていて、これはまずいだろうかと思うには思ったが、家に取りに戻る時間も惜しく、結局そのまま登校。昼を回った辺りから雨が降り始め、行く末が今の獄寺だ。
 各チャンネルの天気予報のどこでも、今日の午後から夜にかけて雨だと言っていたらしい。しかしごちゃごちゃと色々あった昨日は疲れていて、夕食・風呂を済ませたらそのままベッドにダイブして気づけば朝。その上普段からテレビのスイッチを入れる生活をしていないので、天気予報で言ってたよと指摘を受けても「はぁ?」という感じだ。
 そう素っ頓狂な顔をしたら、ならせめてラジオくらい聞けと先の山本につっこみを受けたわけだが。
 間に挟まれて困った顔をしながら小さくなっていた人の顔が、つい浮かぶ。彼もちゃんと、傘を持って来ているのだろうか。湿気てしまった煙草を口から外し、根元を持ってくるくると回す。持て余したように愛しい人を思い出しながら溜息をつこうとした時。
「あれ? 獄寺君」
 どっきーん! と。
 心臓がはじけ飛ぶのではないかと思うくらい、獄寺は予想していなかった不意打ちに、倒れかけた。指に抓んでいた煙草を落としそうになって、慌てて両手を使って空中でキャッチを試みる。
 周囲からすれば、何をドジョウ掬いをしているのだろうと思える滑稽さだったに違いない。
 どうにか地面に落ちる寸前ギリギリで手の平に収めるのに成功し、しゃがみこんだ体勢でへへ、と斜め上を向いて笑う。
「?」
 なんとか手の中のものは彼に見えなかったらしい。沢田綱吉は大きな眼を不思議そうに細め、小首を傾げた。左手に、紺色の無地の傘を握っている。
「ホームルームいなかったから、もう帰っちゃったかと思ってた」
 獄寺が表情を取り繕いながら立ち上がる横で、もう大分人通りの少なくなった正面玄関を進みながら綱吉が言った。降り止まない雨を暫くじっと眺めた後、傘を閉じているバンドを解いて軽く左右に振る。
「あ、はい。帰ろうと思ってたんスけど」
 何とはなしに気まずさを覚えながら、獄寺は視線を泳がせた。正面玄関のガラス戸は生徒の手が届かない為か長い間清掃されていないようで、埃をかぶって薄汚れているのが目立つ。
 綱吉はまだ不思議そうな顔をして獄寺を見上げていて、気の利いた台詞のひとつも吐けたらいいのに何も思い浮かばない獄寺は、手の中の煙草を握りつぶしているのにも気づかず、心の中でひたすら唸っていた。
 このまま何も言わず会話が繋がらなければ、綱吉は自分に呆れるてさっさと帰ってしまうだろう。彼に見限られるのだけは絶対に回避したいのに、そうするだけの技量を持ち合わせていない不器用な自分を、獄寺は呪いたくなった。
「あれ?」
 綱吉がふと、何かに気づいて声を出す。反対側に小首を傾げ直し、獄寺の名前を呼んだ。
 呼ばれた以上顔を向けないわけにもいかず、パブロフの犬の如く綱吉に視線を戻す。彼は左手に持った傘を僅かに持ち上げて獄寺の前に示した。
「もしかして、傘持って来てないとか?」
 まさしくその通り。
 だがすばり指摘されても「はい、その通りです」と頷いて認めてしまうのは、妙に高い気位が許さなくて、あははと笑いながら誤魔化すしかない。後頭部に回した手で頭を掻こうとしたら、握り潰した煙草の破片が散らばって落ちた。髪の毛に絡まったり、襟足からシャツの中に入ったりして、気色悪いことこの上無いが綱吉の前で醜態を晒したくない一心でなんとか我慢する。後ろにやった手は、結局そのまま絡みついたフィルターや煙草の葉を払い落とす役目を担わされた。
 そんな獄寺を見て何を思ったのだろう、綱吉は自分の手元に視線を落としたかと思うと、急に顔を上げて獄寺を突き飛ばした。
 否、手にしていた傘と、鞄を、獄寺に押し付けてきた。
「え?」
 眼を丸くして呆気に取られる獄寺だったが、綱吉が手を離したので反射的に胸に押し付けられたものをふたつとも受け止める。
「そこで待ってて」
 呆けたままの獄寺に手を振り、綱吉は踵を返して校舎内に戻っていった。呼び止める暇もない程の素早さに、獄寺は傘を持った手を中空に浮かせたまま暫く硬直を余儀なくされる。
 いったいどうしたのだろう、綱吉の突飛な行動が理解できず、獄寺は渡された鞄を大事に胸に抱き直す。
 背後では止まない雨が校庭を容赦なく殴りつけ、くぼんだ場所から無数の水溜りが出来上がっている。
 明日の体育は確かサッカーが予定されていはいなかったが。一晩でこの水溜りが消え去るとは到底思えず、泥だらけになるのは勘弁して欲しいと足元に転がっていた小石を無造作に蹴り飛ばした。伸ばしたままの腕も一度胸元に戻す。
「十代目……」
 彼はどこへ行ったのだろう。
 下校時刻のピークはもう過ぎて、正門を潜り抜けていく人の姿もまばらだ。試験期間前の部活動停止時期の為に、普段は学校に居残る生徒も今日は帰るのが早い。
 さっきまでの騒がしさはどこへやら、すっかり静まり返った校舎内を見える範囲で眺め、獄寺はふと思い立ち、雨を受けないギリギリの立ち位置をすらしてガラス張りの扉から校舎に戻った。
 ひんやりとした空気が若干薄まり、長い間外に居たせいですっかり体が冷えてしまっていたのに今更気づく。
 息を吐いて両手を暖める。血流が悪かった指先に僅かなかゆみを覚え、綱吉の鞄を大事に抱えながら両方の腕を擦る。
 時折教員が通りかかったり、居残りをしていた生徒が通る以外に人影も疎らだ。
 と、電気も消されて薄暗い廊下で、誰かが走っているのだろう。白い床を駆ける足音が窓も閉められた密閉空間に反響して、獄寺の耳にまで届いた。
 壁に凭れてしゃがみこみかけていた獄寺は、音がする方角に眼を向けた。とはいえ目の前は横に細長く伸びる廊下であり、走っている人物の姿は全く見えない。誰だろうかと考えているうちに、その「廊下は走らない」ルールを簡単に破ってしまった生徒が彼の前に飛び出してきた。
「十代目!」
 教員に見つかったら間違いなく説教を食らいそうな速度で飛び出した綱吉が、靴の踵を床に押し付けながら減速してようやく止まる。滑りの良い廊下は逆に靴裏の吸い付きもよくて、勢い余って前のめりに倒れそうになったのを堪え、綱吉は荒い呼吸のまま方向転換。獄寺の方へと歩み寄る。
 肩を数回激しく上下させて息を整え、最後に長く大きく息を吐く。獄寺はつい手を伸ばし、彼の前髪を脇に払いのけてやった。薄っすらと浮いた汗が、薄茶色の髪の毛を額に貼り付かせていた。
「どうしたんですか、そんなに急いで」
「良かった、待ちくたびれて帰っちゃったかと思って」
 久しぶりに触れた綱吉の肌から離れがたくて、無意味にも彼の頬を指の背で撫でてから獄寺が問う。しかし返された言葉は彼の質問とはまったく的外れな回答で、意味を取りあぐねた獄寺は眉根を寄せた。
「十代目を置いて帰ったりしません」
 自分の質問はこの際置いておいて、綱吉の呼吸の合間に途切れ途切れになる台詞に反論を試みる。ホームルームをサボって帰ろうとしていたのは、この際忘れることにした。
 獄寺の返事に、綱吉は丸めていた背中を伸ばしながら僅かに、はにかんだような笑みを浮かべた。
「そっか。そうだよね」
 笑いながら綱吉は、もう一度肩で息をして右手に握っていたものを先ほど同様獄寺の胸元に押し付けてきた。
 綱吉の鞄の上から受け止めた獄寺は、その黒く細長い物体が何であるかすぐに分からず、綱吉の顔をまじまじと見つめ返してしまった。
 やや俯き加減だった彼は、いつまでも獄寺が受け取らないのは、彼の両手が綱吉の荷物でいっぱいだからだと勘違いしたらしい。「ごめん」と小声で謝りながら、一旦身体を引いて今度は両手を胸の前で広げる。手首を前後に揺らすのは、渡してくれという合図だろう。
 獄寺はいぶかしみつつも、綱吉に荷物を渡す。すっかり重みに慣れてしまっていた両腕は、中身が空っぽになると却って不自然さを獄寺の内側に残す。
 傘を鞄を受け取った綱吉は、今度こそ握っていた、どこからか持ってきたものを獄寺に渡そうとする。反応の鈍い彼に若干いらつきを覚えているようで、何度も肋骨の上を狙うかのように押し付けてくる。
「十代目」
「傘! あったから」
 いったい何がしたいのですか。そう聞こうとした獄寺に、綱吉がついに痺れを切らして怒鳴るように言った。
 だが語尾が若干勢いを弱めて、声が小さくなっているのがなんとも彼らしい。
「傘……ですか?」
「置き傘。随分前に持ってきて置いてたんだけど、どこに片付けてあったか忘れちゃってて、探すのに時間かかっちゃった」
 なるほど、言われてみれば確かに獄寺の胸元にあるものは折り畳み傘と思しきもの。若干埃を被って薄汚れているが、黒いカバーと茶色い持ち手はいかにもそれっぽい。綱吉が置き傘に学校の、恐らくは教室のどこかにしまっておいたのだろうが、存在自体をすっかり忘れてしまっていたのだろう。
 それを、獄寺が雨が止むのを待ちぼうけているのを見て思い出し、わざわざ取りに行って走って戻って来てくれた、という事か。
「十代目……」
「だから。俺、ほら。こっちあるし。使ってよ」
 言いながら綱吉は手にした傘を持ち上げる。
 獄寺は何と返せばよいのか分からず、受け取ってしまった傘を暫く呆然とした面持ちで見つめた後、綱吉がさっさと正面玄関を潜り抜けて校庭に出ようとしている姿に驚き、急ぎ体の向きを反転させた。
 ちょうど廊下では、まだ若い体育教師が見回りをしている最中で、獄寺の背中に向かって「早く帰れよ」と言って来る。
「はーい」
 綱吉が振り返って元気良く返事をし、満足げに頷いた男性教員が去っていく間に、獄寺は彼の隣に並んで折り畳み傘のカバーを外した。
 几帳面に折り畳まれた襞が行儀良く並んでいる。豆ボタンを外して上下に振ると、支えを失った二つ折りの骨ごと黒色の傘部分が広がる。
「すみません、十代目」
「ん?」
「有難う御座います」
「あー、いいよ。獄寺君にはいつも助けてもらってるし」
 なんでもないことのように言いながら綱吉も傘を広げて雨にぬかるんだグランドに一歩足を踏み出した。肩から提げた彼の鞄が、傘の範囲から外れて雨粒を受け止めている。
「十代目、鞄持ちます」
「えー? いいよ。それに、獄寺君の方が傘小さいんだから」
 からからと笑って、綱吉は自分を追いかける獄寺の傘を指差す。確かに携帯性に優れるよう設計されている折り畳み傘は、通常の傘に比べて寸法も小ぶりだ。獄寺の鞄も、綱吉のそれより大きくはみ出して雨を浴びている。
「ね?」
 年齢よりも幼さを感じさせる口調で首を傾けながら目を細める綱吉を、一瞬、抱きしめたいという強い感情を懸命に押さえ込み、獄寺は「そうですね」と曖昧に笑って頷き返す。綱吉は彼の心情に気づく様子もなく、前に向き直って水溜りを器用に避けながらグラウンドを横断していく。半歩遅れて、傘がぶつからない程度の距離を保ち、獄寺が続く。
 雨はペースを変えずに振り続け、路面で踊り、跳ね、並んで歩く彼らの足元を濡らす。時折避け切れなかった水溜りに爪先を突っ込み、ズボンの裾を汚しながら、けれど彼らはさして気にする様子も無く、むしろ直後は互いの顔を見合わせて、綱吉は舌を出し獄寺が微笑む。
 こんな時間がいつまでも続けば良い。平和で、穏やかで、なんでもない日常が。
 けれどそれは恐らく彼らが置かれている状況からしても到底不可能な相談であり、だからこそ獄寺は、こういう時間こそ大事にしたいと考える。
 綱吉を見る、目が合った彼は照れくさそうに笑う。
 彼がいつも、こうやって自分に笑いかけてくれるなら、なんだって出来る。そう思う。
「十代目」
「うん?」
 すっかりその呼ばれ方にも慣れてしまった綱吉が、不思議そうに獄寺を見上げた。
「一生、お守りしますから」
「なにそれー」
 冗談だと受け取ったのだろう、綱吉は更に声を立てて可笑しそうに笑った。獄寺もつられたように笑みを零し、綱吉を柔らかな視線で見つめる。
「Ti voglio bene」
「え? なに?」
 雨の中囁かれた耳慣れない言葉に、即座に綱吉は反応して獄寺に大きな目を向けたが、
「なんでもありませんよ」
 獄寺は笑顔で誤魔化し、綱吉から視線を逸らした。そして前を見据えたまま、先ほどの言葉を日本語で、心の中でだけ呟く。
 そのことばは……