Embrace

 フローリングに敷き詰められた絨毯は、柔らかな感触を触れる側に与えながら柔軟に衝撃に対処し、かつ吸収してくれる。その手触りは、どこかの誰かの毛並みを少しだけ思い出させる。
 抱きしめると結構気持ちいいんだよな、暑いんだけど。そんなことを考えて、両手を拡げて絨毯の上に俯せで寝転がる。伏せた顎の周囲を、薄茶色の絨毯が擽った。
 手を伸ばしても届かない、少し離れた場所にはお気に入りのフィギュア。手の平サイズ、よりはちょっとだけ大きい。両手で抱きしめるとちょうどいい具合に収まる感じが好きで、大抵一緒に居る。
 玩具を相手に「居る」という表現は可笑しいのだけれど。
 これはもう自分の一部みたいなものだから、無生物を生物扱いした言語表現も構わないだろうと言い訳を、して。
 拡げた右腕を伸ばして、掴まえようとして、けれど包帯にくるまれた指先は空を切った。ぽとりと力無く絨毯の沈む。もう動かない。
 ああ、もし今此処でユーリがやって来でもしたら自分は容赦なく、彼の足に踏まれかねないぞ。自分の怠惰な現在の姿勢を思い浮かべ、苦笑おうと唇を横に真一文字で引っ張ると、薄く開いた唇の隙間に絨毯の毛が潜り込んできた。
 けれど寝返りをする気にもならなくて、起きあがるのは更に億劫で。
 届かなかった右手をまた指先だけ持ち上げて、虚空を引っ掻いてからまたぱたりと落とす。
 届け、と念じてみたところで腕が伸びるわけではない。いや、のばせるのだけれど実質それも、面倒臭くて。
 むしろ向こうからこっちへ寄ってきてはくれないだろうかと、そんな風に考え方が目まぐるしく変わる。そこから、だったらフィギュアが自力で立ち上がって自分のところまで歩いてやって来てくれたらいいのに、と思考が巡るのにさほど時間は必要でなかった。
 首だけを捻ってフィギュアを視界に収める。半分ほど、起毛も豊かな絨毯で見える範囲は酷く限られてしまったけれどそれでもちゃんと、デフォルメされた小型ロボットが見えた。
「来い~」
 口に出して念じてみた。
 無駄だと知っての自分の行動に、真剣みは当然足りない。けれど、万が一も億が一でも可能性があるかもしれないと思ったら、それは素敵な事なのだろう。
 念じて、フィギュアを凝視する。相手がもし無生物などではなくて、なんらかの命を持たされた存在であったなら、こんなにも真剣に相手に見据えられて冷や汗くらいは流していたかもしれない。
 蛇に睨まれた蛙、ではないけれど。状況は似ている感じがする。
 睨まれて動けない正義の味方を象徴するロボット。考えるとどんどん愉快な方向へ流れていって、俯せのままクスクスと喉を上下させて笑ってみた。
「なにやってるんスか」
 呆れ声はそんな最中に、頭上高くから降ってきた。
 寝転がっている自分と、立っている彼と。並んで立っても負ける身長なのだから、首を捻って見上げた彼の顔は随分と遠い場所にある。濃い緑色をした髪が重力に逆らって逆立って、彼の動きに合わせてわさわさと茂みのように揺れる。
 彼の髪を見ていると、夏場に嫌になるくらいに茂る庭の芝を思い出す。刈り取りが面倒なのだけれど、刈り取らねばどんどん伸びる一方だから、根から引き抜くしかないのだけれどそれだど、庭は茶色の土色に埋められてしまうから味気ない。
 ちょっと髪の毛、伸びてきてるんじゃないかなぁと見上げながら考えていると、答えないでいる事を怪訝に思ったらしい彼がその場でしゃがみ込んだ。
 膝を折り、その上に両手を置いて、爪先を立ててすぐに立ち上がれるようにはしながらも、視線を近づける。
「スマイル?」
「アレ」
 小首を傾げながらの呼びかけに、彼よりもまだ向こうにあるギャンブラーZのフィギュアを指さす。振り返った彼は、視界の中心に絨毯で足許が埋まった人形を見つけ、また首を捻った。
 視線を戻して、口を開く。
「ギャンブラーZが、どうかしたっスか」
「ううん」
 届かないの、と、ぱたぱたと絨毯に沈んでいる指先を数回漕ぐように上下させて、また沈める。
「はぁ……」
 分かったような分かっていないような顔をして、彼は生返事をした。そしてまたフィギュアへと視線を向けてから、取って来ましょうかといつもの口調で尋ねた。
 けれどその申し出を有り難くも断り、立てた人差し指と中指で人の足が動くときの真似をしてムーンウォーク。
「届かないの」
「そりゃ」
 手の長さが足りないからではないのか、とどことなく呆れ調子の彼が返す言葉を聞いて笑う。それは至極その通りなのだけれど。
 でも。
「動いたらナ~、ってね」
 思ったんだ、と。
 軽い笑いに含ませて呟く。
「玩具が、っスか?」
「うん」
 動くはずがないんだけれどね、とから笑う。からかっているつもりはないのだけれど、真面目に聞いていた彼の周りで空気が冷えていくのが分かる。
 本当に思ったのだ。
 ぼくらのような、紛い物にも似た魂、が。
 ある、の、だから。
 念じれば、きっと、どんな存在にも。
 擬似的であったとして、も。
 魂は、宿る、と。
 思いたかった。
 目を閉じた。
 深く息を吸う。
 吐きだした。
 目を開いた。
 そこに、届かなかったはずのフィギュアが居て、驚きに目を見開き、それから瞬きを繰り返して間違いでない事を確認して。
 それから。
 さっきより少しだけ浮かせた腰の高さが違っている彼の、笑っている顔を睨んだ。
「アッシュ君」
「動いたっスよ、スマイル」
 ほら、とフィギュアを後ろから指で挟み持って左右に揺らし、さもフィギュア自らが動いているような真似をして、戯けた調子で言う彼。睨んでもへこたれた様子は無い。
 脱力して絨毯に顔を埋める。柔らかい感触が肌に心地よい。
「スマイル?」
「あ~……うん」
 すごい、すごい。
 わざとらしく怠そうな素振りで言って、重たい両手を頭上に掲げて拍手の真似。音を鳴らさない両手の間に、スポッとギャンブラーZが収まった。
 顔を上げる、重なった目線の向こう側でアッシュが笑っていた。
 そう言う意味じゃなかったんだけどなぁ、と奥歯を噛み合わせて一瞬だけ頬を膨らませつつも。
 反応を楽しげに待っているアッシュを前にすると、愚痴を垂れる気力も失せた。
 右手でフィギュアを抱きしめて、左手を床に押し当てて身体を起こす。起毛に埋もれた指先が、霞んでいた。
 苦笑う。
 命、など。
 願いさえしなければ、形になりはしなかっただろうに。
「スマイル?」
 遠い微笑みを浮かべていた自分に、彼の声が響く。染み入る、無駄に深く広く。
「なにかあったっスか」
 心配していると、聞いているだけでも解る声のトーン。莫迦正直に、損なくらいに彼は純粋に、優しい。
「なにもないよ」
 笑う。
 嗤う。
 あざといまでに、心を隠して。
「嘘っス」
「どーして」
 即答で否定した彼を真正面から見つめて、座り直して、膝の上に居心地悪そうなギャンブラーZを抱いて、問う。
 何故嘘だと言い切れるのか。
 アッシュは笑わなかった。
「スマイルの顔が、そう言ってるっス」
 自分の言うことはすべて嘘だと、何もないと告げる笑顔が言っているから、と。
 見透かしたように、言う。
 全部を分かったような顔をして、言う。
 そんなだから君は、損な性格をしているっていうんだ。もっと上手な行き方が出来るはずなのに、わざわざ無駄な回り道ばかりを繰り返す遠回りな選択肢を選んで、自分の事は後回しにして。
「ね、アッシュ」
 膝の上でフィギュアを弄り、可動式の腕を回して遊ばせる。
「犬になってよ」
「……嫌っス」
「なんで~」
 拒否されて、頬を膨らませる。ギャンブラーZのロケットパンチを飛ばす要領で、フィギュアの腕を動かしアッシュの眼前に突きつけて、軽く睨む。彼は苦虫を噛み潰した時の顔をして、頬を引っ掻いた。
 鋭く尖った長い爪が、彼の浅黒い肌に白い筋を残す。
「あんまり俺が楽しい事じゃなさそうっスから」
「そんなことナイって。犬になってよ」
「どうするんスか」
「抱っこ♪」
 両手を拡げて、無邪気に笑いかけると今度は彼が脱力して大きく肩を落とすとがっくり項垂れた。
 ふさふさの柔らかな毛並みがお気に入りなのだと、その笑顔が物語っている。抱きしめて、撫でて、擽って、遊ぶのだ。
「俺がスマイルを抱きしめる、じゃ、ダメっすか……」
「それはまたアトデネ」
 さらりと流された言葉に、頷きかけたアッシュが仕草の途中で固まった。
「スマイル?」
「わんこ♪」
 そっちが先だよ、とお気に入りフィギュアを傍らに置いて、また両手をアッシュの方へと拡げる。
 頭を掻いた彼は、諦めたように息を吐いた。