Vanish/4

すべてを代償にしても

叶えたい願いはありますか

永遠に色褪せさせないで

想い続ける勇気がありますか

奇跡を

望みますか?

 あの夜からどれだけの月日が流れたのだろう。
 人気絶頂期にあったバンドグループDeuilは、あの夜のライブを最後に唐突に一切の活動を停止した。
 理由は明かされることなく、元々がバンドリーダーの『暇つぶし』だった活動に、彼自身が飽きてしまったからだろう、というのが現在では定説と化している。当然熱狂的なファンは収まらず、またゴシップ好きの記者達も暫くの間は口やかましく、彼らの身勝手とも思われる行動を非難したりもした。
 だがユーリも、アッシュもまた一様に口を閉ざし、闇の中へ姿を消した。
 最早日溜まりの下で彼らを見かけることは出来ず、一時期まことしやかに囁かれた復活情報も空振りに終わる。ファンを期待させる情報は日増しに少なくなり、世間も徐々に彼らを忘れていく。
 周囲が静かになっていくのを見下ろしてから、ユーリは物憂げな瞳を空へと流した。
 この場所は、空に近い。
 彼はここがお気に入りだったようで、暇があれば――本当は暇なんかどこにもなかったのだけれど――ここに来てぼんやりと空を見上げていた。特別なにかをしているというわけでも、考え事をしている様子でもなく、ただ空だけを片方だけしかない視界に収めていた。
 蒼い、広い空。
 城でも最も空に近い建物、鐘楼には古びた鐘が吊されているもののそれが鳴ることは最早ない。遠い昔に、撞き手を失ってからは忘れ去られたままさび付き、今となってはどれだけ力を加えてもぴくりと動いてくれないからだ。
 修繕すればなんとかなるかもしれないが、そんな気力もなく放置されて久しい。
 狭い鐘をぶら下げた空間と外界を遮る壁は大きく四方に開かれ、風を防ぐ窓についたてはない。風雨に晒され続けた結果がさび付いてしまった鐘であり、憂鬱な瞳で自分に尻を向けている鐘を見上げてから、ユーリはふっと息を吐き首を振る。
 風に掬われた前髪を抑え込み、片手で身体を支えながら立ち上がった。
 バンドを解散させてからは、する事が極端に減った。火急に対処しなければならない事が見事になくなった為、日々時間の消費に頭を悩ませなくてはならない。それなのにやりたいことは見当たらず、興味を惹かれるものも見付からない。
 ただ眠り、目覚め、また眠る単調な時間の繰り返し。
 アッシュは城に残った、しかし自分の店を持つという夢は諦めていないようで今までに稼いできた資金を元手に、こぢんまりとした料理店を開くに至っている。ユーリも何度か足を運んだが、そこそこに評判が宜しいようで客足が伸び始めた頃からはもう出かけていない。
 彼はユーリの事を案じ、毎日毎食、彼のために手の込んだ料理を用意してくれている。生活時間帯がずれた所為で顔を合わせることまで極端に減ったものの、彼の心遣いは有り難いとユーリは感じている。
 それでも、食事の量は一時期に比べて激減した。
 空腹は覚える、だが食欲が起こらない。血を求める事は今までと変わらず定期的に発作のように現れる、その時は本能に赴くまま夜の食事に出る事はあった。
 しかし絶対的な回数と一度の食事量は、減少傾向から一向に改善されない。一日の睡眠時間は長引き、余裕で三日程度なら眠り続ける日も現れ始めていた。
 いっそこのまま永遠に眠り続けてみようか、そんな事を考えて自嘲気味な笑みを浮かべてユーリは一段ずつ階段を下りる。最上階と違って窓の無い螺旋階段は暗く、通気も悪い所為で湿気が籠もっている。じめじめとした空気を肌に感じながら、外よりも若干気温の低い中で息を吐いた。
 吐息は重く沈み、足許で跳ねて飛び散り消え失せた。
 ともすれば、あの日々こそがすべて幻ではなかったかと思えてしまう一瞬がある。
 誰も覚えていないことは、自分の中にある記憶を根底から揺るがすに充分足る事なのだと、幾度と無く痛感させられた。
 どの雑誌を広げても、自分のインタビューで彼の言及したところは別人宛にすり替えられてしまっていた。知りもしない相手を、さも繋がり深い仲間だと告げている自分の、覚えもないコメントに嫌気が差した。
 あんな事を言った覚えはないのに、自分以外の万人が記事を信じて鵜呑みにしている。否定したところでその声は届かない。 
 違うのに、あの言葉は顔も知らない相手に向けて発した言葉ではないのに。
 たったひとりに向けて告げた言葉が、異なるものへすり替えられてそれが受け入れられてしまっている現実。
 最初はまだ耐えられた。けれど次第に苦痛になって、表に立つ事をしなくなった。マイクを向けられてもコメントする事などなくて、一時期は自発的に言葉を断った。
 誰ひとりとして自分の本当のことばを耳にしてくれないのなら、ことばなど要らない。そう思った事さえあった。
 世界中から裏切られた気分だった。世界は正しくて、自分だけが過ちの記憶を引きずっているのだと無言のままに責め立てられている気分に苛まれた。
 だって、誰もが彼は最初から居なかったと言う。
 共に歌い、飲み明かし、語らったあらゆる仲間達が口を揃え、彼を知らないという。そんな存在は無かったと、互いに確かめ合って頷き、存在を否定する。
 何故、と。
 どうして覚えていないのか、と。
 怒鳴りたい気分を果たしてどれだけ押し殺した事だろう。今では外界との関わりの大半を遮断し、ひとりで過ごす時間だけが増えた。そうしていないと、彼が居たという自分の記憶に自信をなくしてしまいそうだったから。
 信じるものの根底を覆されてしまいそうで、だからユーリは何度も、何度もあのビデオテープを繰り返し再生させた。再生のしすぎでボロボロになりかけたテープは、アッシュが慣れない機械を必死に操作してデジタルで録画し直し劣化を防いでくれたけれど、最初のテープの方が遙かに彼の姿をくっきりと、はっきりと映し出してくれていて。
 だから、棄てる事も出来ずユーリはそれを抱いて眠る事さえあった。
 他に彼の存在を確かめる術を持たなかった。
 世界中から忘れ去られてしまった彼を、自分たちまでもが忘れ去って、或いは一瞬でもその存在を疑ってしまったときにどうなるか。
 それを考える事が恐ろしくてならない。
 だから信じている、彼は確かに自分たちとともに“在った”のだと。
 忘れ去らないために、覚えている限りの彼の行動や言葉を紙に書き綴りもした。
 階段を下り、城内に戻ったユーリは真っ直ぐにリビングへと向かう。あの日があった月から捲られる事がなくなったカレンダーには、大きな赤い丸印が幾つか並んでいる。すっかり色褪せて黄ばんでしまっているそれは、カレンダーという本来の役目を最早果たしていなかったけれど、これもまた、棄てることが出来ずにいるひとつの証だった。
 彼が消えた日を記したカレンダーを目の前に見据え、ユーリは紅玉の瞳を緩めた。
 よくよく気をつけてみれば、彼が在った小さな証は幾つか残っていた。彼が使っていた部屋は埃に埋もれた押入にすり替えられてしまっていたけれど、その中にはどう考えても彼以外に持ち込んだとは思えないフィギュアなどが混じっていた。
 作曲者のサインがない彼の譜面は、そのまま作曲者不明として残されていた。
 ユーリとの喧嘩の中で、彼が放り投げた椅子が作った傷がカーテンに隠れるようにして壁にそのままにされていた。
 そんなとても小さな彼の証をひとつずつ確かめながら、ユーリはリビングを出て庭へ降り立った。
 あれから、どれだけの時間が過ぎ去ったのだろうか。
 時間の感覚さえも衰え始めているユーリの瞳に、更に遠くなった空が映る。耳に車のエンジン音が響き、やがて停止した。アッシュが帰ってきたのだろう、庭を経由せずに玄関から城内に入っていたはずの彼を思い浮かべながら、ユーリはひっそりと微笑む。
 瞼を閉じ、首を振った。
 風が吹く、穏やかで暖かい。
「スマイル」
 その名前を呼んでみた。心の中では間を置かず呼びかけ続けていても、こうして声にして風に流すのは久しぶりだった。
「スマイル」
 風に攫われた前髪が日の光を浴びてキラキラと銀色に目映く輝く。台所へ向かおうとしてリビングを通りかかったアッシュが、開け放たれた窓の向こう、庭に降り立つユーリを見つけてなにかを呟こうと口を開いた。
 しかしユーリの双眸が決して自分に向けられる事がない様子を察し、嘆息して荷物を抱き直しそのまま台所へ姿を消した。途中、色褪せたカレンダーの前でもう一度足を止める事を忘れずに。
 彼もまた、過去に縛られている。
 あの夜に消えた存在に囚われ続けている。
 もし忘れる事が出来たなら。もし、あの存在を過去のものとして割り切ってしまえたなら。
 今という時間はなにか変わっていたのかもしれない。もっと違う未来が開かれていたかもしれない。
 それでも、彼らは。
 自らあの存在に縛られることを望み、解き放つ事を拒絶した。
 何故なら、彼が在って初めて自分たちは自分になれるのであり、彼の居ない未来を思い描こうとしても到底出来るはずがなかったから。
 彼が居なければ、何も始められないし、終えることも出来ない。
「スマイル」
 三度、ユーリは彼を呼んだ。返事などないと分かり切っていても、呼ばずに居られない名前だった。

 消せない、消さない。
 忘れない、忘れさせない。
 無くさない、失くしたくない。
 取り戻したい、戻りたい。
 あの日に。
 あの頃に。
 自分たちに。
 Deuilに。
「スマイル」
 呼ぶ。
 声が嗄れるまで、喉が潰れるまで。いや、例え喉が潰れて声が出なくなったとしてもユーリは呼び続けるだろう。アッシュは叫び続けるだろう。
 その名前へ、帰ってこい、と。
 ここに、帰っておいで、と。
 だって、彼はあの夜にサヨナラを告げた。けれど、彼以外の誰もがまだ、彼に、さよならを告げていない。
 まだ別れは済んでいない。
 終わっていない、なにも。
 言いたかった言葉、言えなかった言葉。彼に最後まで教えてやれなかったことばが、まだ山のように積み上げられているのだ。
 そのすべてを嘘にして、過去のものとして抹消するなどという器用な真似がユーリに出来るはずがない。自分で考えて、苦笑を浮かべながらユーリは庭に咲き乱れている薔薇に目をやった。
 不器用ながらに、暇を持て余す結果庭いじりに時間を費やすようになってから随分と経つ。その間にひととおり植物は育てられるようになって、今では薔薇もそこそこ綺麗に咲かせられるようになっていた。
 濃い赤色を中心に育てているものの、小振りな淡いピンク色をした薔薇やもっと色の薄い白っぽい薔薇も、枝を広げて花を咲かせている。
 彼はこの光景を見たら、なんと言うだろうか。驚くだろうか、それとも感心するだろうか。凄いね、と褒めてくれるだろうか。
「お前に、見せてやりたいのだがな……」
 花に興味がないアッシュは、単純に凄いとしか感想をくれない。しかし他にユーリの咲かせた花を見てくれる誰かなど居らず、結局薔薇も百合も、ユーリの前に枯れていくばかりだ。
 愛でて、美しいということばをかけてくれる相手はどこにも居ない。
「スマイル」
 ユーリは手を伸ばし、棘に注意を払いながらピンク色の薔薇を一輪摘もうとした。しかし枝を手折る時、気をつけていたに関わらず鋭利な棘が彼の薄い皮膚を刺し、傷を付けた。
 折られようとした薔薇の最後の抵抗を受け、微かな痛みに顔を顰めたユーリはけれど半分まで茎を捻って千切っていた花を手放すことも出来ず、そのまま枝の半ばで無理矢理引きちぎってしまう。
 日の光を受けてより白さが際立つ指に、ぷっくりと赤い粒が小さく出来上がていた。それが尚更腹の色の薄さを強調しているようにも見えて、彼は傷口に舌を這わせ唇で血を掬い取る。
 鉄錆に似た香りが甘く鼻腔にまで伝わってきて、眩暈がする。じりじりと内側から肌を焦がす痛みのような、けれど悦楽にも似た感覚に奥歯を噛みしめ、彼はなにかを振り払うかのように目の前で一段と際立って咲き乱れている淡いピンクの薔薇を、一輪のみならず、両手で抱きかかえるようにして引き抜いた。
 繊維質の茎が力任せに砕かれていく。下手をすれば全身傷だらけになりかねない行動にも構う事無く、ユーリは無数の花びらで顔が埋めてしまえるくらいの薔薇を、抱きしめた。
泣きたくなって、けれど泣きたくなくて、酷く甘い匂いを奏でる薔薇に顔を埋めるようにユーリは膝をついた。無数の棘が腕に突き刺さる。土埃が彼を容赦なく汚したが、それすらもどうでも良かった。
「スマイル……っ」
 形も色も申し分のない薔薇をいくら咲かせても、それを見つめる瞳がどこにもない。不器用、と自分を笑った声が聞こえない。こんなにも自分に出来る事が増えたのだと、自慢できる存在がない。
 どこを探しても、求めても。
 手に入らない、戻ってこない。
 一番に見せてやりたい相手は、永遠に邂逅を果たせないと。無言の空が風に乗せて耳元で囁いてくる。そんな言葉を聞きたい訳じゃなくて、もっと違う祈りを紡ぎたいのに。
 絶望が先立ちそうになる崖の上で、自分はこうやって掴むもののない虚無に手を伸ばし続けている。
 ここはこんなにも、空が遠い。
「スマイルっ!」
 切ない思いで彼を呼ぶ。胸を引き裂かれる程に強く、彼を呼ぶ。

「スマイル!」

 彼、を。

「スマイル」

 どうか。

「スマイル……」

 お願いだから。

「…………ルっ……!」

 彼を、返して。

 返してください。

 この身体が砕かれてもいい。

 この命が潰えても構わない。

 だから、

 彼を、

 返して

 不意に嵐が吹いた。
 今までの穏やかな風とは趣の異なる風に、ユーリは驚き顔を上げる。
 聞こえるはずのない鐘の音色が頭上で湧き起こった。

 空を見上げていた黒猫が静かに目を閉じた。
 数回、吹き抜けていった風に煽られた二股に分かたれた尾が揺れる。
 次に彼女が瞼を持ち上げたとき、右目にあったはずの鮮やかな丹朱の瞳は綺麗に消え失せていた。

 遠くから耳慣れぬ鐘の音色を聞き、彼はキャベツを剥く手を止めて顔を上げた。
 視線の先には当然ながら天井しかなくて、ライトの明かりをまともに受けた瞳がちかちかと奥の方で明滅する。
 なにかを感じた心が無意識に唇を動かし誰かの名前を紡いだが、それは音になることはなかった。

 風が吹き荒れる草原の中で、彼女は浮き上がったスカートの裾と肩の上で切りそろえられている黒い髪を同時に別々の手で押さえた。
 スカートに押しつけられた左手からぶら下がる空っぽの鳥籠がかしゃん、と何度も風に煽られて揺れて音を立てる。
 かしゃん、かしゃんと。
 鳥籠がなにかを訴えるように泣き続けた。

 
 薔薇の花園がざわめく。
 無数の花びらが嵐にもぎ取られて攫われ、宙を舞った。
 鐘が鳴り響く。数百年の間忘れ去られ、一度として涼やかな音色を奏でる事がなかった錆び付いた鐘が、今。
 彼の頭上へと荘厳な音色を降り注いでいる。
 何故、と見開き仰いだ頭上に影が走った。深紅色の薔薇の花が空を翔る。鐘楼へ向かって、まるで自由を得たばかりの鳥が翼を強く羽ばたかせるかのように。
 弾かれたように、ユーリは腕に抱えた薔薇をそのまま胸の中に押し込んで駆け出した。
 芝生を飛び越え、開け放たれた窓から城内に飛び込む。鐘の音色を聞きつけたアッシュが台所から顔を覗かせたが、彼の呼びかけにも気付かないでユーリは一心不乱に、先程自分が通ってきた道のりを逆走した。
 ホールを抜けて、半螺旋状階段の階段を二段飛ばしで駆け抜ける。少しでも速度が増せば、と背中の翼を広げて風を呼んだ。
 髪が乱れる、四方に跳ね上がった毛先も顔の全面にのし掛かってくるもの以外はすべて無視した。
 閉め切られた鉄製の黒い扉を勢いのままに押し開き、蝶番が軋むのも構わず石組みの内部へ滑り込む。じめじめとした湿気は変化なかったが、それでも確かに。
 なにかが。
 さっきまでとは違っている。
 一旦足を止めたユーリはごくり、と喉を大きく上下させて唾を飲み込み口の中の乾きを誤魔化した。逸る気持ちを抑え、一歩一歩を確実にさせながら階段を登り始める。
 鐘の音はまだ響いている。それが決して妄想や幻聴の類でないことを何度も目を閉じ、首を振って確かめてからようやく右手を開き、手の平が汗でびっしょりになっている事に気付いた。
 抱きしめていた薔薇を強く持ちすぎた為か、摘んだばかりだというのに萎びた印象を与える。指先から両の手首に掛けて出来上がった無数の棘痕の赤さに瞳を細めて、けれど不思議にもまるで感じない痛みが彼の背中を押した。
「……スマイル」
 願いは願い続ければ叶うと言った。
 想いは強ければ強いほど、形になって戻ってくると言った。
 ならば。
 その言葉を実証するためにも。
 ユーリは階段を登る。一歩を踏みしめながら、少しずつ歩調がまた駆け足になってしまう気持ちを抑える事もせず、光に満ちた外を目指す。
 空に一番近い、彼が好きだったあの場所へ。
 もう一度、あの場所へ。

 初めは、光が反射しているだけのようだった。
 頭上で揺れる鐘が喧しく、けれど苦痛ではない音色を奏でる中、それは太陽の光を受けた鐘の表面が反射しているだけのように思われた。
 乱れてしまった息を肩で整えつつ、最後の一段を登り終えたユーリが見たのは白いようで、空色のようで、朧気に掠れた空間だった。真夏の蜃気楼のようにゆらゆらと頼りなく揺れているそれは、二次元のようで三次元のようでもある。
 目を見張り、瞬きを数回行って、長い息を吐く。
「スマイル」
 彼の名前を、呼ぶ。
「スマイル……?」
 あの日々はすべて夢ではないのか、と思う事があった。もしくは、今のこの時間こそが長い長い夢の合間であり、目覚めればきっとそこに自分が起きあがるのを待っている彼がいるのだと何度となく、それこそ夢にまで見た。
 しかし現実は程遠く、掴み損ねた手が今もユーリの中でくすぶっている。あの夜にステージで拾った小瓶の中身が何であったかを知らされた時は、どうして自分だけが蚊帳の外に置かれたのかと憤慨したものだが。
 恐らく彼の立場が自分であったなら、自分もそうしていたような気がすると最近になってから思うようになった。
「スマイル」
 薔薇の噎せ返るような匂い。甘く、切ない。
 今となっては、彼の想いを知っているのは自分だけだから、と。この花だけは枯らすまいと必死になった時を思い出す。笑われるかも知れないが、あの時は至って真剣だったのだ。
 そして自分の抱く思いもが、出来得るならば、彼の中にだけ在ればいいと願った。
 瞳を閉じる。薔薇に顔を伏せた。
 もう一度彼の名前を紡いだ。頭上で一段と高い鐘の音が響き渡る。周辺の空を駆り、遠く果てしない平原の向こうまでこの音は届けられるだろう。空を突き抜け、雲の上に踊る世界にももしかしたら届いているのかもしれない。
 なにかが特別変わるわけではない。ただひとつの真実が戻ってくるのなら、それだけで構わない。
 閉じた目を開く。鮮やかな紅玉の双眸に、彼が見えた。
 薄青い肌、クセが強そうな濃紺の髪、トレードマークだった白い包帯こそ解かれ存在しなかったものの、身に纏った服はあの夜、ユーリの前でサヨナラを告げたときとなにひとつ変わっていない。
 直立不動だった彼が、静かに瞼を開く。
 双眸が、朱に染まった。
「…………」
 なにかを言いかけて口を開き、しかし呼吸の仕方でも忘れてしまったのかぼんやりと半開きの口をそのままにする。最初は虚ろだった瞳に輝きが戻るのと、唇が閉ざされるのは同時だった。
 瞬きを。
 直後に、彼はユーリを見た。
 丹朱の双眸を見開いて、驚いた顔をにわかに作り出す。視線の先、焦点が結んだ薔薇を両手に抱えるユーリという映像に目を見張る。
「あれぇ!?」 
 第一声が、それ。
「ユーリ、……え。あれ? なんで昼?」
 第二声が、これ。周りをキョロキョロと見回す動作付き。ユーリの頬がひくっ、と引きつった。
 これは、あれだろうか。つまり彼には、あれ以後の記憶が一切存在していないと、そういう事になるのだろうか。彼にしてみれば、ユーリ達が経験したあの長い時間は無かったものとして、あの夜から直接記憶が繋がっている、と。
 まだ理解不能に陥っているスマイルを前に、ユーリは肩を戦慄かせた。どうしようもない怒りがこみ上がってくる。胸に抱いた薔薇を、彼は強く握りなおした。
「この……馬鹿者がーーー!!!」
 両手を振り上げ、棘のある薔薇の花を思い切りスマイル目掛けて投げつける。ぶわっと吹き上がってきた風に煽られ、見事に花はスマイルに激突する前に大半が飛び散った。
 けれど被害がまるでなかったわけでは当然なくて、何本かの薔薇に攻撃されて目が覚めたらしいスマイルが、石畳の床に落ちた薔薇の間に尻餅をつく。
「ユーリ?」
 肩を怒らせて目の前に仁王立ちしているユーリを見上げ、スマイルは彼を呼んだ。涙目になりながら彼を睨んでいるユーリと、その向こうに見える青空、頭上で鳴り響き続けている鐘楼の鐘。順番に見つめ、最後にまたユーリの紅玉を見つめて。
 彼は。
 ようやく自分の置かれた状況を知った。
「ばか!」
「……うん」
 傷だらけの両手を握りしめ、ユーリが怒鳴る。悔しげに唇を噛みしめる姿が痛々しくて、困った顔を作りながらスマイルは頷いた。
「自分勝手、我が侭、無責任、愚か者!」
「……うん」
 否定せずスマイルは受け止める。自分が貶され、罵倒されるだけの事を彼にしたのだと理解しているから。だから甘んじて受け入れる、あの日からどれだけの時が流れているのかはスマイルには分からなかったけれど、それ相応の年月は過ぎているだろう。
 だけれど。
 その年月を経てもまだ、自分が彼の中に在り続けていたのだと。
 それが分かっただけでも充分だった。何故自分が再びこの大地に舞い戻ることを許されたのかは分からないけれど、今しばらくの猶予が与えられたのであれば。
 次は、絶対に。
「ユーリ」
 彼はユーリへと左手を差し伸べた。一歩前へ出たユーリが、傷だらけの右手を伸ばす。
 一度は空を切った指先が、今度こそひとつに結ばれた。力を込めて引き寄せると、抵抗もなくユーリの細い身体が彼の胸元に滑り込む。
 割れ物に触れるような慎重さでスマイルの両手が彼の背に回された。けれど完全に彼の腕に拘束されてしまう前にユーリは膝を立て、手を伸ばしスマイルの頬に添えた。
 確かめるように、赤く腫れあがった指で彼の頬を撫でる。輪郭をなぞり、肉に触れて軽く押しながら弾力を計り、毛先を絡める。
「ユーリ……?」
「居るな」
 此処に、と。
 独白めいたことばを零しユーリは思い切り、何を思ってかスマイルの髪を思い切り真下に向かって引っ張った。頭皮から耐えかねた髪が数本抜け落ち、禿こそ出来はしなかったもののかなりの痛みがそこから広がった。それこそ、スマイルの方が涙目になるくらいに。
 ユーリが笑い、指の間に残った彼の抜けてしまった髪を風に流す。
「酷いなぁ」
「お前の方が、よっぽど」
 違うか? と真正面から見上げられて問われ、スマイルは返答に窮し視線を逸らした。
「私に言うことは?」
「……ゴメンナサイ」
 勝手なコトしました、勝手に居なくなりました、勝手に貴方の前から消えました。みんなの中から消えました。自分ではどうすることも出来ない事だと知っていても、口に吐いて出るのは謝罪の文言。
 だがユーリは違うだろう、と首を横に振ってスマイルの両頬を挟み持ち自分の方へ視線を戻させた。
 色の違う赤が重なり合う。
「タダイマ」
「おかえり」
 スマイルとしては、恐らくまだ実感が沸かないのだろう。けれど真摯に見つめてくるユーリにやんわりと微笑みかけると、彼もまた厳しかった表情を和らげてスマイルの頬を何度も撫でた。
 鐘の音色が鳴り響く。彼らの周囲を埋めている薔薇の花に視線を落としたスマイルに気づき、ユーリはばつが悪そうに手を下ろす。一本を拾い上げたスマイルが顔の前でそれを何気なく見つめ、そしてユーリを見た。
「この花、ユーリが?」
「お前が居なくなって、暇……だったから」
 けれど誰も見てなどくれなかったと、愚痴になりそうな事は頭の中でだけで留めたユーリの気持ちを察したわけではないのだろうけれど。スマイルは痛んでしまったものの、それでもまだ綺麗に咲いている薔薇をひとしきり眺め双眸を細めた。
 愛らしく咲く薔薇へ、そっとキスをする。
「綺麗だよ」
 囁いて彼は再度、ユーリを抱きしめた。丹朱の双眸を細め、閉じ、彼の頬を寄せる。
「ユーリ」
 呼んでくれてありがとうと、彼は呟いた。
 傷だらけになったままのユーリの手を取り、唇に寄せてそこにもくちづけを落とす。愛おしげに労りながら、細かく無数に上る傷のひとつひとつを傷めないように心配りながら、なぞっていく。
 くすぐったげにユーリは肩を揺らした。スマイルは目を閉じる、記憶が途切れて戻ってくる僅かな時間を思い出し、闇に溶けていったはずの自分へ思考を巡らせる。
 あの夜、自分は確かに世界から消え去った。
 そして今、此処にいる。
 彼の声を、聞いたような気がする。自分の中では一瞬だった時の中で、幾度と無く自分を呼ぶ声を聞いた気がする。
「お前が言ったんだろう」
 あのビデオに残っていたスマイルの、告げたひとこと。絹よりも細い糸に縋る思いで残したメッセージ。瞳を閉ざしたユーリの呟きに、彼は薄く笑った。
「ずっと?」
「次は絶対、呼んでなどやらない」
 全部を言わせてもらえず、遮ってきたユーリの決意が込められたひとことに笑みが苦くなる。けれどその気持ちは充分分かってしまうので、スマイルは彼の肩口に額を預けると喉を震わせるような笑いを必死に噛み殺した。
「絶対?」
「絶対だ」
 くぐもった声で問い返す。ユーリは断固として発言を覆さなかった。その頑なさにまた笑いが止まらない。
「笑うな!」
 絶対に、絶対なんだからなと何度も強調し、ユーリは自分に凭れ掛かってくるスマイルから視線を外し、遠くの空へ流した。
「呼んでやるものか……」
「うん。ごめんね?」
 それから。
 ありがとう。
 顔を伏せたまま呟き、ユーリの背中を強く抱きしめる。逆らわずに胸に納まった、以前よりも小さく感じられる彼の身体を感じながら、スマイルは鼻先を髪に寄せてそこに微かだが秘められていた花の香りを楽しんだ。
 ありがとう、ともう一度呟く。
 包帯の絡まない右目の赤を揺らめかせ、そして閉ざす。
 この瞬間が夢でない事を祈る、願う。
 再び彼に触れられる喜びを胸に抱けた事を感謝する。二度とこの手を放さずに済むように、切望する。
 想い続ける。
 思いは力になる。
 奇跡は偶然じゃない。
「ユーリ」
 その背中を繰り返し撫でながら、スマイルは腕の中に収まる彼を呼ぶ。顔を上げたユーリの頬にくちづけをして、別の場所にもしても良いかと問うた。
 真っ赤になったユーリが、聞くな、と怒鳴り返す。スマイルが笑った。
「     」
 鐘の音、頭上に鳴り響く音に掻き消される中で彼にだけ聞こえることばを耳元に囁き、そっとくちづける。
「ばかもの……」
 俯き加減になったユーリが言った。声は鐘の音色に溶け、空へ流れていった。

人の願いが強ければ強いほど、

思いは形になって還ってくるとしたら

貴方の願いは、叶いましたか?