Grasp

落ちる

おちる

おちていく

どさっ。
「……って」
 あれ? と。
 背中から肩に掛けて、と、後頭部がずきずきと痛い。左足が膝の裏からベッドの端に引っ掛かっている、左手の手首から先だけがかろうじてベッド上に残っていた。縁を掴んでいるのは多分、無意識というよりも夢中での最後の抵抗だったのだろうか。寝入る前、昨夜……とはいえ、時間は深夜二時を回っていたように思うが、その時にはちゃんと胸の辺りまで被せて置いたケットは右手にしっかりと握っているものの、大半は床の上に塊を成していた。
 現状把握、終了。力を抜くと持ち上げていた後頭部がまた床に沈んだ。ごちん、とさして柔らかくない音が静かに響く。
 寝相は悪くないと思っていたのだが、それは自分の認識違いだったのだろうか。目覚めた時とほぼ同じ姿勢を作ったまま、ぼんやりと薄暗い天井を見つめて思う。いやまさか、とこれまでの数百年に及ぶ自分の活動を思い返し、否定はするが説得力に欠けている事は間違いないだろう。
 なにせ、眠っているときは自分がどんな風に動き回っているのか分からないのだから。
 ただ数回入れ替えがあった自分の同居人は、ひとことも自分の寝相の悪さに言及した事がなかった。だから勝手に、自分は眠っているときは余程お行儀がよいのだと思っていたわけだが。
 どうなのだろう、現在の同居人に聞いてみるべきか。
 ケットから手を放し同時にいい加減疲れてきた左足を身体と同じ高さに下ろして、ぶつけた頭を押さえ込み起きあがる。衝撃ですっかり頭が冴えてしまっていたが、それでも身体は眠気を訴えてくるので欠伸が出た。
 素足を床に貼り付けて立ち上がって、傍らで山にしていたケットを無造作にベッドへ放り投げる。枕の上に落ちたそれは、根性無くべっしゃっと潰れた。
 嫌な夢を見ていた気がする。
 目覚めたときの、あの衝撃があまりにも衝撃的だったので内容は忘れてしまったけれど。
 とにかく、寒気を覚えるくらいに嫌な感じがする夢だった。
「なんなんだろ」
 ぼんやりとしたまま呟き、半眼で考える。顎にやった人差し指が唇の下を弄り、考え込むときの習慣で眉間に皺が寄る。
 並んでベッドサイドに置かれてあったスリッパを蹴り飛ばして、着ているシャツを素早く脱ぎ捨てる。着替えを探して目線を揺らし、閉じていなかったズボンの釦をはめる。クセが出来あがってしまった髪を手櫛で梳いて、クローゼットを開けた。
 扉の内側に填め込まれている鏡で一度自分の上半身を映し出す。あまり血色が宜しくないのはいつもの事だ、寝癖は昨日ほど爆発していない事を確かめて黒の長袖シャツを取りだし扉は閉める。素早く袖を通し、一瞬だけ考えた末釦は上から三番目をひとつだけはめた。
 靴に乱暴に足を突っ込んで、踏みつぶしすぎて潰れてしまっている踵を今日は珍しくちゃんと履いて、ベッドの上に沈んでいたシャツを拾い上げると窓を覆っているカーテンを一気に引き開いた。
 眩しい太陽光が差し込んできて、隻眼を細める。シャツを握っているとは反対の右手を庇にしてしばし光を見つめ、ゆっくりと首を振ると体を反転させる。そのまま真っ直ぐ進めば、部屋と廊下を繋ぐ扉がある。
 ノブを掴んで回そうと、彼は右手を伸ばした。
 伸ばした姿勢のまま、なにかが頭の中を過ぎって身体が硬直した。
「……あ」
 夢を、思い出した。
 夢の中でも自分は、こんな風に手を伸ばしていた。何かを――間違ってもドアノブのようなものではない――掴もうとして、必死に腕を伸ばした。
 それなのに、掴もうとしたものはするりと指先をすり抜けて行ってしまった。
 なにかを叫んだようにも思う、必死の形相だったはずだ。夢の中でも自分視点だったから自分の顔を見ることなど出来ないはずなのに、まるで目の前に鏡でもあったのか、その時の自分の表情が手に寄るように浮かんできた。
 ただ、なにを叫んだのかまでは記憶をたぐっても糸が途中で切れてしまったようで、分からない。想像はつくけれど。
 ドアノブに引っ掛かり中途半端なままでいる己の右手を見つめる。意識を紛らせれば、すぐに存在を見失ってしまう透明な肉体がある。ぶぅん、とノイズを走らせているテレビ映像のように輪郭がぶれた。
「っ」
 反射的に左手からシャツを放し右手に重ねた。見失う、というよりは存在そのものを失ってしまいそうな危機感を感じて、強く力を込めすぎた左手に右手が悲鳴を上げた。
 軋んだ骨の痛みに顔が歪む。
 痛みに耐えかねてパッと手放した自分の格好はあまりに滑稽で、なにをやっているのかと見ている者が居たなら絶対に思った事だろう。自分でさえそう思うのだから、尚更だ。
 捻ってしまった手首を今さっきまで捻っていた手でさすり、矛盾するその仕草に苦笑を浮かべて今度こそ扉を開けて廊下に出た。真っ赤な絨毯の敷かれている廊下を暫く進めば、やはり中央のラインが絨毯に埋め尽くされた半螺旋状の階段に出くわす。
 手摺りに右手を添え、掃除が行き届いている埃ひとつない木彫のそれに体重を僅かに預けながら降りていく。誰も居ないわけではないが、ヒトの気配を感じるにはあまりに広すぎる城内に、自分の呼吸する音ばかりがやたらと大きく響く。足音は綺麗に絨毯に奪われ、耳に残らない。
 階下を見下ろせば、灰色の大理石が敷き詰められた広いホールがある。上を見れば吹き抜けの真下につり下げられた、豪奢なシャンデリアがあった。今は吹き抜けの向こうにある明かり取りの窓から陽光が緩やかに差し込んでおり、無数の燭台に火は入っていない。クリスタルガラスがきらきらと陽射しを反射させ、輝いていた。
 眩しさに目を閉じ、しかし足は休めず階段を下りていく。漸く平らなホールにたどり着いた身体を休めることをせず、真っ直ぐにダイニングへ足を向けた。
 扉を開ける。
 初めて、自分以外の存在が発する音がそこにはあった。
 かちゃかちゃ、と無機質な食器を動かす腕がそこにあった。
 時間帯的にはそれなりに遅い朝食を咀嚼する口と、嚥下する喉と、残り少ない食事を見つめる双眸の所有者がそこにいた。
「ユーリ」
 夢を思い出す。
 この手は届かなかった。
 けれど、今は。
 夢じゃない。
「ユーリ」
 ふっと、視界がぼやけて輪郭が霞んだ。そのまま大気に煙が溶けていく時のように姿が掻き消える。しかしユーリは気付いているだろうに顔を上げず、黙々とソテーされた厚切りのハムにナイフを通していた。
 差し込まれたフォークの数ミリ脇をナイフが横切っていく。端から端までを切断されて四角くなった厚切りハムを口に運ぼうとしたところで、背中からどすん、と何か固く大きなものに衝突されてユーリの手が止まる。
 中途半端に開かれた口を溜息の末に閉ざし、ハムの刺さったフォークはそのままにしてナイフを握っていた右手だけをテーブルに下ろした。
「スマイル」
「掴まえた」
 朝からいい加減にしないか、と呆れ調子で言おうとしたユーリの耳元でスマイルは、そんなことを呟いた。両手を肩の上からユーリの胸元へ落とし、左右から挟み込む格好で椅子の背もたれに凭れ掛かってきている。体重を預けられている側の椅子と、その椅子に腰掛けているユーリが嫌そうに同時に身体を揺らした。
 軋んだ音が小さく響く。だがスマイルは意に介した様子もなく、余計にユーリへ抱きついてきた。
 透明になったまま頬を寄せ、ユーリの項を擽る。
「スマイル」
 もう一度ユーリは彼の名前を呼んだ。姿は見えないが、そこに居ることは明らかだ、なによりも存在を感じる。
 目には映らないけれど。
「掴まえた」
 しかしスマイルはユーリの、いい加減に離れろと揶揄する呼びかけにも応じず更に強く彼を抱き、肩口に顎を埋めてきた。聞こえてくる彼の声は、むずがる子供のように一本調子でしかも意味が掴み獲れない。
 眉間に皺を刻み、持ったままだったフォークを思い出してユーリはひとまず先に、食事を終えてしまうことにした。少々重い荷物を背負わされていると思えば、苦にもならない。
 まず角切りにした厚切りハムを口に放り込んで、フォークだけを抜き取る。数回咀嚼して原型を崩し、唾とよく交わらせてから飲み下す。
 スマイルはぼんやりと、自分の右目の真横で上下したユーリの喉元を見つめていた。彼の左肩に顎を置いたまま、右手を解いてそっと、手袋を嵌めたままで触れてみる。途端、びくりとユーリは大袈裟なまでに背を震わせたあと激しく咳き込み、前のめりになって苦しそうに荒く肩を揺らした。
「げほっ……っは! かはっ!」 
 よもやここまで過剰な反応を返されるとは思っておらず、驚いてユーリから退いたスマイルが姿をやっと取り戻し、誰からも視覚出来る状態に戻って心配そうに横から、彼の顔を覗き込んだ。椅子の足許にしゃがんで、不安ですと顔に書いた表情を浮かべている彼を涙目の視界に見つけたユーリは、まだ苦しい呼吸をなんとか平静の一歩手前まで強引に引き戻した。
 乱暴にフォークを落とした右手で胸元を数回叩き、深呼吸を繰り返し、最後に長い息を吐いて背中を椅子に押しつける。
「スマイル」
「……ごめんなさい」
 怒っていると分かる感情表現に欠けた冷たい声で名を呼ばれ、ユーリの足許に居たスマイルはしゅん、と小さくなったまま謝罪を口にした。こういう場合、下手に言い訳をする方がユーリは倍怒る。だから先に、悪いことをしたと自分で認めてしまう方が、許してもらえる確率は格段に上がるのだ。
 ふぅ、と息を零してユーリはナフキンで口元を拭った。咳き込んだときに荒らしてしまった食器を手早く戻し、唾も飛ばず無事だったサラダにフォークを伸ばして、レタスの芯に近い固く白い部分に刺した。
 食事を再開させたユーリをまだ最初のポーズのまま見上げていたスマイルだったが、膝を抱いて座り込んでいる姿勢に飽きたのか立ち上がった。ユーリの斜め向かいにある自分の朝食へ向かうのか、と一瞬だけ思われたが彼はそちらへは向かわず何故かユーリの背後へ回った。
 両の腕を伸ばし、ユーリの肩越しにまた抱きつく。
「掴まえた」
 本日三度目の呟きを耳にして、だからそれは一体どういう意味なのだ、と後ろも振り返らずにユーリは問う。案の定返事はなく、半分にカットされたミニトマトを奥歯ですりつぶして溢れ出た果肉に舌を濡らした彼は、そっと息を吐き自分の左肩に顔を埋めているスマイルの髪を撫でた。
 クセの強い髪質が、珍しく指に絡んでくる。
「どうした?」
「掴まえた」
「私を?」
「うん」
 逡巡も迷いもなく肯定したスマイルは、けれど顔を最後まで上げなかった。
 右手のフォークで残っているトマトの半きれを転がしつつ、左手は自分にじゃれてきている巨大な猫を宥めている。しばらくそのまま撫でてやると、くすぐったいわけでもないだろうにスマイルは身動いだ。
「掴まえた」
「そうか」
 幾度と無く繰り返すスマイルだが、どうあっても顔を上げるつもりはないらしい。そのついでに、ユーリを解放する事もしない。
 少し考え、最後のトマトを呑み込んだユーリはフォークを手放し、同時にスマイルを撫でていた左手も下ろした。僅かにスマイルが反応し、額を上げるもののまた沈んでしまう。
 ユーリは苦笑した。両手で、今は自分の胸の前で結ばれているスマイルの手を握りしめた。
 焦げ茶色の手袋の内側は、存在するけれど見えないもの。
 見えないけれど、確かに在るもの。
 スマイル、とユーリは彼の名前を呼んだ。他でもない、彼という存在を他と区別付け個として確立させている名前を、静かな音色で。
「私は、捕まったのか?」
 スマイルは答えなかった。答えずに、ユーリに握られた手を強張らせている。彼の微かな震えを直に感じ取りながら、ユーリは口元を緩めた。
 彼がなにを懼れているのか、それはユーリには分からない。スマイルがなにも言わないから、理解しようにも限度がある。勝手な判断は勝手な思いこみと大差ない。
「私はお前の前から逃げ出したのか?」
「ちがう」
 低く小さな声で彼は返した。ふっ、とユーリは微笑み握った両手に力を込める。
 はっきりと指の先まで感じることの出来る肌だ。当然暖かく、目を閉じて呼吸を整えれば皮膚越しに彼の脈打つ息吹も感じ取る事だって出来る。
 彼は確かに此処に在るし、自分も此処にいる。
 それが紛れもない真実であって、偽りなどではあり得ない。それなのに彼は、なにかを懼れている。
「違うのなら、何故お前は私を掴まえねばならないのだ?」
 ふるふると、スマイルはユーリの肩に額を押しつけたまま首を振った。
 彼の夢の中、ユーリは逃げたのではない。ただ漠然とした闇色の世界の中で、彼が、落ちていったのだ。
 伸ばした腕は届かない。掠れた指先は絡まない。彼は、落ちていく。自分にそれを止める術がない。彼を掴み取る術がなにもなかった。
 届かなかった左手。意識していなければ姿を掻き消し、あまつさえ存在さえも失いかねない曖昧なものである自分はもしかしたら、掴み損ねたのではなく掴む腕を最初から持ってなかったのかもしれないと、そう思って。
 恐怖した。
「スマイル?」
 再び黙り込んだ彼の手の平を撫でながら、ユーリは嘆息した。さて、自分はここで何を言ってやれば良いものか。
 勝手な思いこみと判断は危険だ。万が一地雷を踏んだ時は目も当てられない。だから慎重に考え、言葉を選ぶ。
 瞑目し、ユーリは絡んでいるスマイルの両指を解いて右手に左手を、左手に右手をそれぞれ重ね合わせた。指の間に指を挟み込み、握る。交差した腕がユーリの前で祈りの十字を切った。
「掴まえたぞ」
 薄く笑い、ユーリは言った。スマイルが驚いたように瞠目し、顔を上げて首を一度だけ横に振った。結ばれた手を振り解こうとしたが、握り込むユーリの力は思いの外強く、叶わない。
 まだなにか言いたげにしているスマイルの気配を読みとりながら、ユーリは笑い続ける。離れようと藻掻く彼を引き留め、引っ張り自分の背中に寄せた。絡み合わせた指はそのままに、少しだけ首を曲げて振り返った。
 視界にスマイルの、青白い肌が捕らえられる。
「お前の中で私がどうあったのかは知らんが、今の私はこうして、お前を掴まえているぞ?」
 掴まえられる一方は気にくわないからな、と軽い調子で笑い、ユーリは椅子ごとスマイルへ凭れ掛かった。ステンシルの軽い素材とは言え、一応は金属である。固く冷たい感触を身体の全面に受け止め、後ろに倒れてしまいそうになるのを堪えながらスマイルは、笑った。
「ぼくが捕まっちゃった?」
「そういう事だな」
「ユーリに?」
「他の誰かに見えるか?」
 うぅん、と首を振りながらスマイルはユーリに頬ずりをしてきた。肌の間に挟み込まれた髪がくすぐったくて、逃げようと首を捻ったユーリだったが、先に後ろからスマイルが彼の両肩を腕で押さえ込み必要以上の動きを封じてしまった。
 キスはなく、ただ後ろから改めて抱きしめ直される。
「なら、もう良いや」
 ユーリが掴まえてくれるのなら、きっとこの手は届くはずだ。二度と見失わない、手放さない。だからどうか、貴方も伸ばしたこの手を掴んでください。
 祈るような思いを胸に、スマイルは右目をそっと閉ざした。
「……そうか」
 明確な答えも、なにもなかったもののスマイルはひとつの事に悩み、それを解決させたらしい。だったらそれで構わないとユーリは結ばれたままになっている自分たちの手を見つめながら思った。
 漫然とした疑問は残るものの、今はこれで良いと。
 静かに目を閉じた。

おちる

おちていく

おちたのは、誰?