雨が降っている。どうやら風もそれなりに出ているようで、雨の滴が窓をしきりと叩く音で目が覚めた。
ぼうっとしたままの意識を数回の瞬きで覚醒させ、それでも依然として重いままの身体をゆっくりと起こした。引き寄せた膝に巻き込まれた薄手のケットが皺を刻み、くしゃくしゃになってしまっている枕許のシーツを握って、反対側の手で前髪の掛かる目を擦る。
小さな欠伸を零して、緩く首を振った。再度欠伸を噛み殺してから、五秒ほど瞼を閉ざして目を開く。紅玉色の双眸は恐らくまだ眠気を完全に取り除けてはいないはずだが、それでもさっきまでよりは随分と意識がはっきりして来て、同時に窓をうるさく叩いている雨音も大きく聞こえるようになっていた。
視線をカーテンの向こう側にある観音開きの窓へ向ける。陽射しはそこになく、墨汁を垂らした水の色をした空と、景観をぼやかせている雨水の流れる無数の筋が透明なガラスに浮き上がっているだけだった。
それだけでも充分陰鬱な気分にさせられて、額を押さえながら頭を振って身体からケットを押しのける。素足で床へ降り立ち、窓辺まで歩いてカーテンを全開にした。やはり空は濁って、雨水が外の景色を邪魔している。
カタンカタンと絶え間なく降る雨が、風に煽られて窓や壁にぶつかっている音が続いている。さすがにこの状態で窓を開ける気分にはなれず、カーテンを閉め直すと再度ベッドへ向かい、意識との同調が完全ではない身体を投げ出した。
頭の中で思い描いた自分のイメージよりも、ゼロコンマ数秒遅い反応でベッドに沈んだ頭を強くシーツに押しつけ、手探りで枕を探し胸の中に掻き抱く。膝を寄せて身体を縮めこみ、母体の中に眠る胎児の姿勢になって自然と降りてくる瞼で視界を閉ざした。
雨の音は止まらない。落とした吐息も室内に紛れ込んだ湿気に吸い込まれ、手元に残らなかった。
冷たい雨音に掠れながら、遠くで乗用車のエンジン音がしたような気がした。けれど彼の意識はこの時既に半分、夢の中に沈み込んでいて現実なのかそうでないのか、の区別すら出来ない状態にあった。だから無視した。
暫くしてから、控えめにドアをノックする音。けれどやはり彼は応じず、より強く胸の中で潰れている枕に顔を埋めて外界の音を自分の中から排除する。ノック音は数分、辛抱強く繰り返されたが最終的には諦めたらしく、ドアノブが回される事は最後まで無かった。
雨は降り続けている。
数時間後、またドアをノックする音が一度だけ響いた。
けれど彼は夢の中から覚醒する事をせず、ドアの外で流れた溜息と彼を呼ぶ声も届かない。
長い夢を観ていた気がした。
二度目の目覚めが訪れた時には、時計の針が午後の早い時間を指し示していて寝癖の出来上がっている頭を掻きながら、浮き上がってこない気持ちを叱咤してベッドから立ち上がった。のろのろと服に着替え、食事をする気分ではなかったので珈琲でも飲もうと階下へ降りたところで、初めて彼は気付いた。
人気のない城内、雨の音だけが響き渡るホール。空気は冷え切り、決して寒い時期ではないのに吐き出す息は白く濁っていた。
誰も居ない城。
広く、住み心地も悪くないけれどひとりで暮らすにはあまりにも無機質で、寂しすぎる。昔はもっと、それなりににぎやかで住人も居たはずなのにいつの間にかそれらの影は姿を見せなくなった。
あれは、いつのことだっただろう。
何故誰も居なくなったのだろう。何処へ行ってしまったのだろう。
雨の音がうるさい。
「誰か居ないのか?」
口に出して虚無な空間に呼びかけてみても、返事が投げ返される事はない。自分自身の声が控えめに、壁に反響して上に登っていくだけだ。
「誰も居ないのか?」
もう一度、人気の失せた広すぎる空間に問いかける。ホールの奥まった位置に置かれた、この城で起きた事のすべてを見守ってきたであろう古ぼけた大きな柱時計が控えめに、時刻を告げる鐘の音を鳴らす。
顔を上げて、時間を確かめて、彼は少し大股に歩きながら今はリビングとして使用されている部屋の扉を押し開けた。
ソファが並び、中央にテーブル、反対側に液晶の大画面テレビとスピーカーが並んでいる。壁に添って背の低いチェストが幾つか置かれて、中にはDVDやビデオが無尽蔵に押し込まれている。上にはレコードプレイヤーにアナログ盤が積まれており、埃もなくきちんと片付けられていた。
しかし、誰も居ない。クリスタルのテーブルには読み忘れられた雑誌が無造作に放り出されて、その上にテレビのリモコンが背中を上にして落ちている。照明は灯っていないので、引かれたカーテンの向こうから微かに外の明かりが入ってきているものの昼間であるに関わらず、かなり薄暗かった。
壁のスイッチを探して、天井のライトに光を入れる。途端眩しくなった室内に瞬きを繰り返して目を慣らし、改めて室内を見回すけれどやはりそこに人の姿を見出すことは出来なかった。
誰か居たという形跡は残っているのに、それを証明してくれる存在が欠落してしまっている。リビングに色は溢れかえっているのに、彼の眼に映し出される景色はすべて色が抜け落ちたセピア色だった。
「どうして……」
歯抜けになってしまったパズルを前にしているような気分で、のろのろと歩を進め彼は台所の戸を開いた。
以前に起こした失態の所為で立ち入りを厳重に禁止されてしまったのだが、今、彼の行動を咎める人はどこにも居ない。微かな音を立てて抵抗もなく開いた扉を抜ける。
綺麗に片付けられている食器棚を見上げていると、間近で随分と大きな水音が聞こえてきて背筋が震えた。何事か、とまだ強張っている肩ごと身体をシンクへと向けると、なんてことはない、水道から漏れた水が流し台に落ちただけ。
音の発生源を認識し、緊張していた身体から力を抜いてほっと安堵の息をもらす。流し台の横にある食器乾燥用のラックには、もう充分水気が抜けている食器が数点逆さまや縦置きにされて並んでいた。そのうち、透明ガラスのコップをひとつ取って水道の蛇口に手を伸ばした。
外から聞こえてくる雨音を誤魔化す気分で一息に蛇口を捻る。受け皿代わりにしたコップに勢い良く水が流れ込み、程なく縁を乗り越えて水は溢れ出した。
彼の手を充分なまでに濡らし、水はせき止められる。彼は雫をこぼすコップを傾けて生臭い水を煽った。身体の奥の方でまだ眠ったままで居るなにかを叩き起こすつもりで、呑み込みきれなかった水が口端から溢れる事にも構わずに。
顎を伝った水はそのまま彼の少しだけ出っ張った喉を撫で、細いラインを横切って消えていった。
空になったコップをその勢いのまま台に叩きつけ、周辺の空気を震えあがらせる。強く握りすぎた指の先端が白く変色していた。
乱暴に口元を手の甲で拭い、袖の釦に唇を引っかけてしまう。微かな痛みが起こったが気にせず、無視を決め込んで彼はコップをそこに置き去りにして踵を返した。
誰も居ない台所を出て、誰も居ない食堂を通り抜けて、誰も居ないリビングに戻ってくる。食欲の無さは変わらないので、台所の十人掛けかと思われるようなサイズをしているテーブルには近付かなかった。ユーリがいつも座っている席の前に、埃を被らないようにカバーを掛けられた食器が並んでいたが手をつけるどころか、視線を向けることもしない。
もう何もする気が起きなくて、倒れるように今度は三人掛けソファに身体を投げ出す。肘置きに立てかけられていたオレンジ色のカバーを被ったクッションを引き寄せ、額を押しつける。
雨の音は変わらず、耳の奧まで響いてくる。屋根を打ち窓を叩く雨粒は幾重にも筋を産みだし、混じっては別れ、別れては交わる、を繰り返しながら地面へと吸い込まれていくのだ。
聞いていたくなくて、より強く頭をクッションへと埋める。だがひたひたと迫る雨音を追い出す事は出来なくて、不意に泣きたくなる気持ちを殺しながら唇を浅く噛んだ。
ちりり、とした痛みを覚える。釦で擦った傷に触れたらしい。
「雨は、嫌い……だ」
ぽつりと吐き出すように呟いた言葉が思った以上に胸に沈み込んできて、ごろりとクッションを抱えたまま狭いソファの上で寝返りを打った。仰向けになった瞼の裏側にまで、天井のライトが侵入を試みてくる。
顔が歪むくらいに強く瞼を落として、傷口を噛んでみた。
舌先に錆びた鉄の味が僅かに伝わる。
どこかで、鐘の音がしたような気がした。
雨が、降っている。
その中を、ふたつの黒い棺桶が運ばれていく。
見覚えのある光景、だった。夢の中でしか見ない、夢に繰り返し見るのに目覚めたときには絶対に覚えていない光景だった。
自分の視線は随分と低い位置にある。自分は黙ったまま、運ばれていく棺桶をぼんやりと見上げているのだ。側には数人の、黒い上下で身を固めた大人が立っていたが、彼らは一様に押し黙って無言だった。
雨が降っている。水を吸って重くぬかるんだ地面を、泥を跳ね飛ばしながら棺桶を担いだ男たちが通り過ぎていく。
どこへ向かっているのだろうと視線を巡らせて、自分の見ている光景に色が無いことに気付いた。すべてがモノクロであり、白と黒と灰色で構成された世界だった。
音はしない、ただ打ちつける雨の奏でる音楽が痛いくらいに冷たく、寂しい。
誰もが下を向き、言葉を発しない。間近に立っている女性を下から見上げてみれば、啜り泣いているのか声を殺して目頭を白いレースのハンカチで押さえているのが見えた。彼女の隣の年老いた女性も、反対側に立っている女性もほぼ同様だった。
黒いレースの服で全身を覆い隠し、黒い傘を控えめに頭上に掲げて雨を凌いでいる。目頭を押さえている表情は、やはり黒の細かいレースで出来たヴェールに阻まれてしまって殆ど見えない。
世界のすべては黒と灰色に埋め尽くされ、空でさえ重苦しい色をして濁ってしまっている。
鐘が、鳴った。
顔を上げる。棺桶が遠くになってしまっているのが見えて、誰か――自分に傘を差しだしてくれていた――の制止する声を振り切って駆け出した。
大粒の雨が頭を、顔を、肩を、全身を容赦なく殴りつけてくる。ぬかるんですっかり泥の海と化した地面に足を取られ、顔から転びそうになったのを後ろから伸びた大きな手に抱き留められて掬われた。
水気を吸って顔に貼り付いた今は鈍色の銀髪を撫でられ、傘の下に収められた自分はほら、とその男が指さす先へと目をやった。
地面に深く掘られた穴の中へ、今まさにふたつの黒い棺桶が収められようとしていた。周辺には無数の逆十字が並び、無言のまま光景を見据えている。
鐘が雨の中で響いている。
ああ、あの鐘の音色は城の鐘楼に据えられた鐘の音ではなかったか。よくよく見れば、この場所は城の裏手にある墓地ではないか。
男が自分へ、目線の高さを揃えながら何かことばを紡いだ。しかし雨と鐘の音によって声は遮られ、耳には届かない。返事の代わりに首を振った自分に、男は重ねてふたことばかりの言葉を告げる。目の前に、雨に濡れた白い百合の花を差し出された。
子供の手には大きすぎる花を受け取って、それでも自分は嫌々と何度か首を振り男を困らせる。
雨は強さを増すばかりで、一向に止む気配は見えない。
白い百合の花が雨に濡れ、大きな水滴を花びらの先から滑り落とした。
雨の音が耳に響く。鐘の音色がそれに混じる。
Deuil
不意にその音だけがすべてを突き破って聞こえてきた。誰が発したことばだったのかなど分からない、振り返っても気がつけば誰もそこに立っていなかった。無数に居たはずの葬式の参列者はひとりとして残っておらず。
傘を貸してくれた存在も消え失せ、自分ひとり、墓地へ置き去りにされて。
誰も居なくなった。
それでも雨は止まない。
誰も残らなかった。
雨は降り続けている。
濡れた白い逆十字が、紅玉の瞳の中で痛いくらいに目映かった。
何故自分も、あの下で眠ることが出来なかったのだろうと思い、悔いた。
ひとりだけ遺されて、けれどそこになにか理由が在ったとはとても思えなかったから。
自分自身さえ消してしまえたらと願った。
誰も居なくなるのなら、自分が此処にいる理由なんてどこにもないと思った。
だから眠ることにした。なにもかもを忘れて、なにも残らないように眠ってしまうことにした。
おやすみ、の言葉もなく。
さようなら、のことばを呟く相手も無く。
見送ったのは、正面玄関に据え付けられた大きな古時計だけ。
あの時も、時計は寂しげに一度だけ鐘を鳴らした。
鐘楼の大きな鐘は、撞き手を失いさび付いて動かなくなった。だが構わない、どうせ誰ひとりとしてあの鐘の音を必要とする存在は残らなかったのだから。
時間を告げる相手を失い、存在意義を奪われた時計は鳴くことをやめた。
夢を見ていた。
目覚めた時、決して覚えている事のないようにと約束された夢を、見ていた。
雨の音だけが永遠と思える時間、耳の奧で木霊していた。
寝返りを打つ。緩やかな傾斜を抜けて朧気だった意識が覚醒へと向かうと同時に、持ち上げた瞼の向こう側に広がる光景が閉じる前、自分の目の前にあったものと異なっている事に気がついた。
身体を持ち上げる、最初の目覚めよりはずっと軽い身体を起こして首を巡らせれば、なんてことはないそこは自分の部屋。但しカーテンは開かれ控えめな陽光が零れ落ちてきていたが。
ひんやりとした空気を感じて身震いをする。よく見れば襟の間にある第一釦が外されて呼吸が苦しくないように首許を緩められた形跡があり、右手で合わせを抓んでベッドから立ち上がって再度室内を見つめ返してみた。
誰かが居たような気がする。だが錯覚だったような気もする。
リビングのソファの上で寝転がっていたはずの自分が、まさか瞬間移動でもしたわけではあるまいし、何故ベッドで寝かされていたのかが分からず首を捻った。寝ぼけたまま戻ってきたとは、考えにくい。
雨は、やんでいた。まだ雲は空に広がっているが隙間が幾つも出来上がり、そこから太陽が顔を覗かせているのが窓越しに見えた。ガラスはまだ若干雨粒の痕を残していたけれど、一時間もしないうちに全部蒸発するか流れ落ちて消える事だろう。
釦を留め、靴を履く。トントン、と爪先を床に打ちつけて部屋を出た。
廊下に足を進めた瞬間、良い匂いとそうでない匂いと実に判断が微妙な香りが鼻先を擽って通り抜けていった。眉間に皺を寄せ、彼は口元をぎゅっと締めると階段を下りる。
広い玄関ホールを素通りし、真っ直ぐ台所に向かう。間に見かけた柱時計は夕食に若干早いけれど、支度をするには少し遅いかも知れない時間帯を指し示していた。
出入りを禁止されてしまった扉は、開けっ放しになっていて匂いは容赦なくそこから流れ出ている。近付くに連れて香りは強まり、目頭がツンと来る程の刺激になっていた。
香りの正体が何であるかも、テーブル上が片付けられていた食堂に至った時点で気付いた。
カレー、だ。しかも市販のレトルトなどではない。
「あ、ユーリ。おはよ」
自分から声を掛けようと思ったのに、扉口に立ったところを目聡く発見されてしまう。それだけで一気に脱力したユーリは、深鍋の前で紺色の無地エプロンを纏っているスマイルにため息を零した。
「アッシュは」
「今日も遅くなるんだって~」
ぐりぐりと鍋をおたまで掻き回しながら上機嫌に彼は言った。からからと調子よく笑っているのは、余程自分の大好物を好きな味付けで作れる事が嬉しいからだろう。
スマイル曰く、アッシュの作るカレーは甘すぎる。しかもタマネギが入っていない、と文句が途絶えないからだ。ユーリはそれほど感じた事はないのだが、スマイルはそれが多いに不満らしい。
だからこうやって、偶に台所の主が不在の時に彼は自分流の味付けでカレーを作ったりする。そもそも多趣味多芸の彼は料理もアッシュには劣るものの、上手で好きだったりするのだ。ただ普段は、面倒臭いし言わなくても作ってくれる存在が居るので手を出さないだけで。
「そうか……」
「ユーリ」
無意識に両腕で身体を抱きしめていたユーリに、スマイルは背中を向けながら彼の名前を呼んだ。顔を上げた彼に、けれどスマイルは振り向かず鍋を掻き混ぜ続けながら言う。
どんな夢を見ていたのか、と。
「私を部屋に運んだのはお前か」
「あんなトコで寝てたら、襲ってくださいって言ってるようなモノだよ?」
これからは気をつけてね、と笑うスマイルに舌打ちをしてユーリは視線を逸らした。目線だけでユーリを窺ったスマイルが、肩を竦めて口元を緩める。
「で、どんな夢だったの?」
「……覚えていない」
夢を見た意識は残っている、それがとても哀しくて寂しい、苦しいものだった事も覚えている。だのに夢の中身はまるで思い出せない。隠さずに告げると、スマイルは「そう」と相槌を打っただけで深く追求してくる事はなかった。
逆に何故夢を見ていたのを知っているのか、とユーリが問えばおたまにカレールーを少しだけ掬い、味見をしながら振り返ったスマイルがわざとらしく笑って見せた。
「魘されてた」
随分と苦しそうに、嫌々と何度も首を振って。大粒の汗を額に浮かべて唇を噛みしめている姿を眺めた時は、さすがに叩き起こすべきか悩んだとさらりと告げ、スマイルはまた鍋に向き直ってしまう。
その背中を見つめて、ユーリは昼間の事を思い出す。
彼は今日、居なかった。
「ユーリ、起きなかったじゃない。ぼくが出かけるとき、ちゃんと起こしに行ったんだよ?」
何度もドアをノックして、呼びかけたけれど返事はついぞ得られず仕方なく、書き置きを食卓に残して出かけたのが午後に入る少し前。だが帰宅後、リビングで無防備に寝転がっているユーリを発見した時テーブルの食事には一切手がつけられた跡がなく。
ひとり寂しくて不貞寝をしているのだな、と勝手に解釈して部屋に運んだのだとスマイルは至極簡単に、事の経過を説明してくれた。
揺すっても起きる様子がまるでなく、よっぽど深い眠りに入っているのだろうとスマイルは単純に思ったようだ。が、ベッドに下ろそうとしたときユーリは顔を歪め、彼の袖を掴んでなかなか放そうとしなかった。言葉にならない声を漏らし、泣いているのかと思わせるくらいに必死な様子だったと、微笑む。
勿論ユーリは覚えているはずがない。だがそんな事があったような気はして、気恥ずかしくなり顔を赤くしながらスマイルの頭を意味もなく殴ってしまった。
からからとスマイルが笑う。殴られたところを後ろ手に何度かさすりながら、カレーを掻き混ぜては時々味見。試しにユーリもひとくち貰ってみたが、案の定口の周りがひりひりとする辛さだった。
「痛っ……」
辛みが昼間、自分で作った口元の傷に触れたらしい。つい声を出してしまったユーリにスマイルは怪訝な目を向けた。直ぐに半分は塞がっているものの、周辺を赤くしている傷口に気付いて隻眼を細めた。
コンロの火を止め、ユーリに向き改めてスマイルは彼の顎に手をやった。親指で傷口の下に触れ、確かめるように首を傾げる。
「痛い?」
「辛くて痛い……」
正直なユーリの感想に苦笑して、スマイルは顔を寄せた。舌を伸ばして下唇の傷口を舐め、離れていく。
反応できなかったユーリは目を見開いたまま、暫くスマイルを凝視せねばならなかった。
「消毒」
「阿呆が!」
しれっと言って微笑んだスマイルにもう一発拳を叩き込み、ユーリは床板が抜けそうなくらいに足を踏みならして台所から出ようと歩き出す。鍋の前で、今度は本気で痛がっているスマイルがそれでも、蹲りつつ喉を鳴らして愉快そうに笑っていた。
「ユーリ」
出ていく間際、呼び止められて足が止まる。調理台のテーブルに顎を置く格好で座り込んだスマイルが、ひらひらと利き腕を揺らしていた。
さっきまでは痛みに耐えかねた涙目だったはずの右目が、なにかを見透かしたように怪しく輝いている。
ぞくりとした寒気を背筋に覚え、ユーリは無意識に唾を飲んだ。
「大丈夫」
だけれど彼が口にしたのは、怯えて構えようとしていたユーリが想像した言葉とは随分と違ったもので。
「ぼくは、置いていったりしない」
呆気に取られたユーリに、更にスマイルの言葉が続く。ただ、彼はその言葉の真意を測りかねたようで首を傾げるに終わったのだけれど。
スマイルは気にした様子もなく、立ち上がると再び鍋に向き合ってユーリを隔絶してしまった。不思議そうにしながらも、これ以上会話が続くことはないだろうと判断し、ユーリは台所を出る。
あと一時間もしないうちに、夕食がテーブルに並べられるだろう。スマイル特製、激辛カレーが。
悔しいので、アッシュの分も残して置いて彼に食べさせてみようと心に誓う。甘党のアッシュは、以前にスマイルが作ったカレーを食べて悶絶した事があった。彼だけがあの激辛から逃れるのは狡いと、光景を想像して笑っていたら珈琲を持って来てくれたスマイルに見付かった。
また笑われて、けれどさすがに三発目は避けられた。