Holiday2

 散歩に行こうかと、誘ったのは彼。
 久しぶりの完全休日、朝から夜まで予定は一切無し。何処へ行こうと、何をしようと誰も咎める事をしない。咎められる必要の無い日の午前、少し遅い時間帯。
 漸く起き出してきた城の主にそう声を掛けた彼は、ゆっくりと遅い朝食の珈琲を啜っていた城主が頷くのを待ってから楽しそうに微笑んだのだ。
 彼が差し出したのは、黒髪のウィッグ。付け足すように、普段の城主であれば絶対に袖を通したがらないようなカジュアルデザインの服をワンセット。踵のないスニーカーまでしっかりと揃えられていて、辟易したように溜息を零した城主に彼はそそくさと逃げ道を封じ込めた。
 そして完璧だ、と勝手な自己満足をされた変装で繰り出したのは平日であるに関わらず、暇を持て余している人がごった返す街中。滅多に来ることがない――来ることの適わない場所に連れ出された。
 通り過ぎていく人は誰も、其処に立っている存在が現在も芸能界で驀進中の人気アーティストだと、気付かない。時折似ているな、と振り返っていく人はあっても声をかけてくるまでには至らない。
 目立つ銀糸の髪はウィッグと、抑え込むように被っている帽子で完全に隠されている。ルビー色をした鮮やかな紅玉の瞳も、若干色を含んだレンズを填め込んだ眼鏡に遮られて見えない。黒一色で身を固めている画面に映し出された彼とは、明らかに一線を画している服装。
 人目を忍ぶ必要性がない、今の状況。
「ど? 面白いでしょ?」
 濃い黒のサングラスを僅かにずり上げて、その下に隠されている色違いの瞳を細めた彼は笑った。
 対する彼は黒尽くめ、季節外れのロングコートを軽やかに着こなしている。彼の一番の特徴である白い包帯はすべて取り除き、左目を隠す分も今はない。眼帯さえも今日は装着しておらず、青白い肌も人並みに。
 少々異質な感じのする服装である事は否めないが、だからといってそれを彼がdeuilのベーシストだと決定付けるには要素が足りなかった。
 若い女性の多くはこの奇妙な取り合わせのふたり組を見かけ、色めき立ったがやはり誰も、その名前を呼ぶことはなかった。
 それは今までの彼らにはなかった事であった。駅から町の中心部までを歩いてきたというのに、騒ぎ立てられたりする事がまるでない、スムーズに道を行くことが出来る。
 ユーリにとっては珍しい光景であり、またある種の快感ともなっていた。
 こんな風に自由に街中を、人混みの中を行くことの出来る経験に乏しかった彼。だからこそ最初は訝んだスマイルの行動だったけれど、今ではすっかり楽しんでいる。
 誰かに気付かれるだろうか? 誰も気付かないだろうか。見つけて欲しい気もするが、誰にも気付かれないで一日が終わるのもわくわくする。
 細い糸の上での綱渡りをしている気分でもあり、珍しいものを見る目で街中を練り歩く。それにこの服装は歩きやすかった。踵がない靴はまだ慣れるのに少し時間がかかりそうだったが、不用意な出っ張りで転ぶ事は少ないのは嬉しかった。
 目的地は特にない。だから行ってみたい方向を決めて、あとは適当に歩く。信号が青だったら真っ直ぐ、赤だったらその道を曲がって。
 好きなように、気の向くままに。
 行けるところまで、行ってみよう。今日は仕事の事を全部横に置いておいて、何も難しいことを考えず。
 風の吹くまま、道の続く限り進んでみよう。そして面白い発見があれば見つけ物で、逆になにもなかったとしてもそれはそれで、今日の時間が無駄になったとは思わない。
 暇を持て余すくらいなら、歩き回るだけでも動いていよう。その時に隣に、貴方が居てくれればそれはもっと、楽しくなるだろうから。
 人混みが目の前に現れる。顔を上げればサングラスの向こう側に見えるのは赤信号だ。隣の車線にも自動車がエンジンを喧しくさせながら、列を作って並んでいる。
 ちらりと視線を隣へ流せば、同じように見上げられて自然と苦笑が浮かんだ。
「曲がろうか」
「そうだな」
 数列に渡って出来上がっている人の塊を避けて道路の端に近付き、隙間を潜り抜けて左に曲がる。表通りから裏路地に入ったらしく、人影は一気に薄くなった。
 それでも構わずに歩いていく。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、左右へ視線を巡らせて。半歩後ろを歩いているユーリも、物珍しげに両側に並んでいる住宅を眺めながらついてくる。
 時々忘れた頃にひょっこり顔を出す店舗は、ブティックだったり雑貨屋だったり、或いは美容院だったりで。その統一感の無さを話題にしながら、道は左に曲がった。
 途端にトラックが目の前を行き過ぎる。いや、車道の間にはちゃんと歩道があって、街路樹も整備されていたものの、通り過ぎていく車がどれも高速度であった為に間近に感じてしまったらしい。エンジン音と排気音も騒々しく、自分たちが街から外れてしまった事に今更ながら気がついた。周りを見回しても、自転車が駈けていっただけで歩く人の姿は見当たらない。反対側へ渡ろうにも、横断歩道さえ見える範囲内にはなかった。
 やれやれと肩を竦めてため息を零す。どうやら戻るしかないようだと、隣で難しい顔をしているユーリに目配せしようとしたところで。
 不意に視界の端を、何かがすり抜けていった。
 サングラス越しの視界でそれを追い掛ける。ふわりふわりと、頼りない動きで空へと登っていこうとしてそれは、途中で街路樹の枝に糸をひっかけたらしくバランスを崩しながら止まった。
 今度はサングラスをずらして、色つきの視界で確認する。
 赤い、風船。
「スマイル?」
「あ、いや……あれ」
 まだ気がついていないらしいユーリが怪訝な顔をして声を潜めるのを、顎をしゃくることで風船へと彼の注意を向けさせた。
 またトラックが走り抜けていく。その生温い風を感じ取りながら、スマイルは風船が引っ掛かった街路樹へと視線を流した。そしてどうも自分の視線の高さでは見落としてしまっていたらしい、幼子の姿を見つけだす。
 ユーリも気がついたようで、眼鏡の下で眉間に皺を寄せていた。
 子供は男の子で、五、六歳だろうか。野球帽を被り、ひとりだった。街路樹の枝に糸を絡ませて揺れている風船を見上げ、茫然としている。
 親はどうしたのだろうと周りを見渡してみるものの、近くにそれらしき姿は見当たらない。まさかあんな小さな子供がひとりで、こんな車ばかりの危険な通りへやってくるとは思えず、恐らく途中で家族とはぐれてしまったに違いない。そんな風に考えながら子供の様子を窺っていると、最初はきょとんとしながら風船を見上げていた彼は徐々に表情を曇らせていった。
 あ、泣くぞ。そう思った瞬間、見事に予想は的中して男の子は顔をくしゃくしゃにさせ、大声をあげて泣きじゃくり始めた。しかし間近を走っていくトラックの音にそれは掻き消され、周りには響かない。
「ユーリ」
「嫌だぞ、私は」
 折角のフリーディなのだ、あんな何処の誰ともしれない子供のために労働してやる義理は何処にもない。スマイルの言いたいことを先取りして彼は反論し、腕組みをしてそっぽを向いた。そのまま今来た中心街へ戻る道を、進み出そうとする。
 けれど一緒に行くはずのスマイルがまったく動こうとしない事に気付いて、二歩ほど前へ出た後に立ち止まって振り返る。この上ない不機嫌そうな顔を隠そうともしないで。
 いつもならば、スマイルはこんな風に感情をむき出しにするユーリを珍しがり、からかってくるのだけれど今日に限って、それはなかった。
 彼はじっと、ひとりで泣きじゃくっている子供を見つめている。ユーリはそんな彼の横顔を見つめ、盛大にため息を零した。
「スマイル」
 強めの声で彼を呼ぶ。引っ張ってでも連れて行こうと、腕を掴むために伸ばしたユーリの手はけれど、直前でするりと躱された。
 スマイルの左手が、黒のサングラスへと導かれた。僅かに位置をずらせば、丹朱と金沙という組み合わせをした双眸が白日に晒される。そのままの姿勢で、スマイルはユーリを振り返った。
「イイヨ、ユーリが行かないなら」
 ぼくが、行くから。
 そう呟いて彼はサングラスを取り去ろうとした。
 咄嗟に、ユーリが前に出てスマイルの両手を拘束する。両の手首を掴んで慌てて自分の方へと引っ張り、間に滑り込んだ身体を伸ばして真下からスマイルの顔を覗き込んだ、そのユーリの顔がいやに真剣に逼迫したものを含んでいて。
 今度こそスマイルは、彼を笑った。
 ユーリがはめられた事に気付いたのは、その直後。スマイルが本当に笑い出すのを見てからで、してやられた気分で唇を浅く噛むと、御免ね、と言いつつスマイルは本気の目でユーリを見下ろした。
 今日はオフで、誰にも見付からないように行動するのが今日の目的なのに、と。
 いつからそう決まったのかも分からない約束事を恨みがましく口にして、ユーリははぁ、と息を吐く。掴んでいたスマイルの両手を解放して、もう一度彼を睨んで。
 ユーリは靴裏をアスファルトに擦りつけるようにして歩いて、未だ泣き続けている子供の直ぐ側へと歩み寄った。
 もう一度、溜息。
 スマイルも若干遅れて彼の後ろに続く。その耳に、喧しく地鳴りを立てているトラックの群れからは別天地としか言いようのない、軽やかな羽根の音が届けられた。
 アイボリーのシャツの隙間を縫うようにして伸縮自在の、黒い羽根が広がった。
 一瞬、だけ。
 ユーリは爪先で強く大地を蹴った。
 跳び上がる、しかしその身体は重力を無視してふわりと空へと浮き上がった。
 腕を伸ばし、枝に絡んだ糸を指先の動きで解いた。そして人差し指に二重に巻き付ける。同時に身体は浮力を減退させて地上へ引き戻されて。
 縮み、消え失せた羽根によってバランスが崩れてしまった後方に倒れそうになりながらの着地は、背中にスマイルの手の平を感じてなんとか無事に迎えることが出来た。
 赤色の風船が目の前で踊る。
 遠くから、車の音に掻き消されそうになっている若い女性の声。
「ほら」
 周囲の変化にまるで気付かないで居る子供の頭を小突いて、ユーリはぶっきらぼうに今自分が回収した風船を彼に突きだした。
 顔をあげた子供は、帽子の下で真っ赤になった目を擦りながら暫くきょとんとしていた。
 けれど自分たちの間でゆらゆらと揺れる風船を見つけて、現金なくらいにパッと顔を輝かせた。
「ゆう君!」
 母親なのだろう、女性がひとり大急ぎで駈けてくる。男の子も声に反応して、ユーリから受け取った風船をひょこひょことさせながら両手を振り回した。
 視界に母親を見つけて、元気良く走り出す。すっかり泣きやんだ子供は、けれど自分たちを見送るふたり組を突然思い出したのか、足を止めてくるりと身体の向きを変えた。
 トラックの騒音になど負けない元気いっぱいの声で、やはり風船をしっかり握った手を振り回して叫ぶ。
「ありがとう、お姉ちゃん!!」
 そのあまりの元気の良さに、彼らは咄嗟に男の子の間違いに気づけなかった。
 母親に抱きしめられ、子供はなにかを囁いたのだろう。風船を揺らしながら彼らに目線を向けた男の子を抱き上げ、女性は小さくふたりに頭を下げた。
 ここに来てようやく、ユーリが我に返る。
 はっと、空っぽの手を握りしめて怒鳴った。
「私は“お兄さん”だ!!」
 けれど子供とその母親の姿はもう既になく。
 背後では次々と列をなしてトラックが走り抜けて行くばかりで。
 当然、人通りの寂しい歩道を行く人も見当たらず。
 隣で、スマイルが口元を左手で隠しただけだった。
「笑うな!」
「お姉さん……お姉さんだって!」
「だから笑うなと言っている!!」
 一体この格好のどこを見てそう判断したのか、といきり立つユーリは悔しげに地団駄を踏んだが、スマイルはまだ当分笑い止みそうになく。
「笑うなー!!」
 ユーリの怒鳴り声だけが虚しく、晴れ渡った空に融けて消えていく。
 そんな休日の、午後。