Vanish/2

 黒々とした闇が世界を染めている。
 ライブまで残り日数もいよいよ十日を切り、準備や打ち合わせに忙しいメンバーの為に食事を用意するアッシュもまた多忙を極めていた。
 健康に気を配りながら、栄養価の高い、しかし食べやすい食事を揃えるのはかなり気苦労が必要になってくる。その上、彼もライブではソロを披露するシーンが用意されているのでその練習もあり、時間が幾らあっても足りない状態が数日続いていた。
 明日の朝食と昼食分までの下ごしらえを終え、鼻歌で曲のメロディーを奏でていた彼は台所の定位置に立ち、両腕を頭上に高く伸ばした。そのまま背を仰け反らせると、腰骨がぼきりと嫌な感じで一度だけ鳴り響く。その音の大きさに自分で驚き、彼は苦笑を漏らした。
 運動不足だろうか。
 頭の中に浮かんだ言葉に苦虫を噛み潰した顔を作って、ふと気になり服の上から自分の腹部を軽くだが指で抓んでみた。
 引っ張られ、皮が伸びる。その度合いが以前よりもほんの少し、大きくなっている予感に晒されて彼はぴしり、と凍り付いた空気にヒビを走らせた。
「これが終わったら、ジムにでも通うっスかね……」
 筋力トレーニングでもしておかないと、どんどん太って行くばかりの気がして彼は大袈裟に溜息を零し、項垂れて頭を掻いた。
 だが実際にジムに行くとなると、ひとりで通うのは気恥ずかしさというか、とにかくそう言うものが付きまとってくるので誰か一緒に行ってくれそうな人物を想像してみる。
 ユーリはもとより、動くことを毛嫌いするから無理だろう。
 では……と考えかけたところでアッシュの卓越した聴力を持つ耳に、キィ……というさび付いた金物が擦れ合うような音が飛び込んできた。
「?」
 小首を傾げ、考え事を中断させたアッシュは音の発生源を探ろうと周囲を見回した。
 しかし一度きりだった音を頼りに探すことは困難であり、だがかろうじてこちらからだったような、という予測だけで台所の小窓を開けて外を窺ってみた。
 何処までも深く、月明かりさえ遠い夜の裏庭が見える。
 ユーリの城は大きい、それを取り囲んでいる庭もまた巨大だ。城を囲む一帯だけは芝を植えて植樹の手入れもかろうじて行き届いているが、一角を越えた先にある雑木林となってしまっている場所は昼間でも光が届かず、かなり不気味である。しかも林の向こう側にはかつてこの一帯で生活していたという種族の墓地が広がっているのだ。
 その墓地さえもが、ユーリの所有地。
 ユーリは死なない、領地に墓地を持っていてもその無数有る墓の下に収められる事はない。
 彼は墓守、永遠に死者を慰める唄を諳んじ続ける存在。
 薄笑いを浮かべてそう言っていた人物を思い出す。だがその人物もまた、ユーリと似ていない境遇で死なないさだめを背負わされていたはずだ。
 死なないひとたち。
 対して自分は命を長らえさせる事はあっても、いずれ天に還り地に眠る存在となる。
 無意識で作った拳を握りしめたアッシュだったが、覗き見た窓の外にふと、横切る闇と同化した影を見つけた。
 目を細め、影を追い掛ける。それは俊敏な動きをして、二度目のさび付いた金音を起こし消えていった。
 音の発生源は台所裏にある雑木林と庭とを区切る、古びた金属製の扉だったらしい。それは通り過ぎていった影に揺らされて寂しそうに数回揺れ続けた後、元通り静かに忘れ去られた存在として闇の中に吸い込まれて行ってしまった。
「なんだったんスかね」
 首を傾げながら彼は自問する、しかし答えなどはっきりと存在を確かめる事が出来なかったのだから出るはずがない。
 彼は無視しようかと考えた。疲れているのだし、いい加減ベッドに潜り込んでゆっくりと眠ってしまいたい気分は大きい。そして普段であったならば、彼は本能の赴くままに眠りを求めて部屋へ戻る道を選んでいたはずだ。
 だが今の彼は、着々と近付いているライブや、ライブ上で上映するビデオ撮影が明日に予定されている事もあって、良い意味で興奮状態にあった。眠る前に夜風に当たってみるのも良いだろう、とまで考えてしまっていた。
 あの影が何であるのか、追い掛けてみたくて彼は台所の勝手口を開け、爪先を裏庭の芝生に踏み込ませる。軽い感触を靴の裏に感じながら、明かりも乏しく心細さが一面から伝わってくる庭と、夜闇を背負って一層不気味さを増している雑木林とを見た。
 今はかろうじて、点けっぱなしにしている台所から漏れてくる明かりがあるが、雑木林に一歩でも踏み入ってしまえば光は頼れそうにない。振り返った彼は、今此処で引き返すべきか一瞬だけ悩み、そして林へ向かって歩を進めた。
 影が揺らした錆だらけの門を押す。腰までの高さしかないそれは、少しでも強い力を加えるとボロボロに砕けてしまいそうなくらいに朽ちかけていた。
「…………」
 ごくりと唾を飲み込み、アッシュはゆっくりと慎重に進んでいく。鬱蒼と茂った木々の枝は曲がりくねり、風が吹く度に呻り声を上げながら揺らめく。今にも木陰から何かが飛び出してきそうな感じがして、彼は沸き上がってくる震えを懸命に堪えねばならなかった。
 心で呟き続けるのは、自分は一応、これでも、勇猛な狼人の血族なのだぞ、という有る意味痩せ我慢のような台詞だ。
 ヒュゥゥ……
 風が木々の隙間を通り抜けて寂しげな声を上げる。
 びくりと背を震わせたアッシュが振り返った先にあるのは、ただ暗い闇ばかり。しかしその闇の中で、息を潜めながら鋭い牙と赤い瞳を爛々と輝かせている存在がいるのかもしれないと、そう考えると足が竦んだ。
 闇は苦手ではないはずなのに、この雑木林は別格だった。
 闇の眷属である自分がこうも恐怖を覚えてしまう闇。底が無く、獰猛であり、囚われたら二度と抜け出せない。そんな印象を抱え、アッシュはすっかり乾いてしまった口腔を潤そうと唾を何度も飲み込んだ。
 やはり来るのではなかったと後悔する、けれど今となってはもう遅い。
 だって帰り道が分からない、さっきまでは見えていたはずの荒れ果てた道がもう、彼の眼には映っていなかった。
 進むしかないのだろうか、彼は覚悟を決めて闇の中に伸びる一本の細い獣道を再び進み始めた。
 奥歯がガチガチと鳴る。握りしめた拳が痛む事でかろうじて、自分がまだ現実に在るのだと理解する。
 不意に目の前が明るくなった。
 いや、違う。正確に言うと、乱立するように聳えていた木々の列が途絶え、広い場所に出くわしたのだ。上空から弱々しい光を放つ月の光も、遮るものがなければ随分と明るいものだと今更気付く。
 アッシュはホッとしたように吐息を吐いた。胸をなで下ろし、もしかしたらスタート地点に戻ってこられたのかと周囲を伺う。
 だが彼が期待していたものは一切周辺には見当たらず、代わりに長く風雨に晒されて角が落ちてしまっている高さ1メートルもない石の柱や、表面が削れて読むことも困難な碑や、そして。
 月明かりの下で煌々と存在を知らしめている、無言の十字架の群れ。
 アッシュはぞわっとしたものを感じて全身の毛を逆立てた。唾を飲み込もうとしたが、口腔内は乾ききって一滴も絞り出すことが出来ない。声も上げられず、彼は目の前に空虚に広がる墓地を茫然とした面持ちで眺めるしかなかった。
 話し声が聞こえたのは、まさにその瞬間であり。
「……ぁ」
 声に聞き覚えがあった彼は助けを求めるように、足を声のする方向へ向けた。
 しかし。
「……まだ……えるわけにはいかないんだ」
 乱立する墓碑の間を抜け、視界の片隅に彼の存在を見つけたアッシュはその名前を呼ぼうとして、聞こえてきた言葉に動きを止める。
 そのまま上げようとした腕を凍り付かせる。
 ――え……?
 聞き違いだろうかと最初は思った。しかし彼の聴力は抜きんでており、余程でない限り聞き間違えるような失態はしでかさない自負がある。
 だけれど、この時ばかりはその自負も嘘にしてしまいたかった。
 アッシュの位置からは、彼の背中が半分ほどだけ見える。彼が向いている方向には、他のものよりもずっと立派で大きな墓石があった。墓石の上、平らなその場所には更に別の黒い存在が見える。
 しなやかなラインを月闇に浮かび上がらせているそれは、巨大な猫の姿をした獣だった。右目が金色で、左目が血のような鮮やかすぎる赤色の。
「……あれは」
 掠れる声でアッシュは呟く。さっき鉄柵を揺らして雑木林に消えていったのは、恐らくあの獣なのだろう。
 その獣と、彼とがどういう関係なのか計りかね、アッシュは首を捻る。出ていくタイミングを見失った彼はそのまま現在地に留まり、進むことも帰ることも出来ぬまま聞こえてくる会話に耳を澄ませた。
「限界は知っておろう? 他ならぬ、貴様の身体だ」
「知ってるよ」
 朗々とした声が闇に吸い込まれていく。思わず聞き惚れてしまいそうな穏やかで、けれど強い意志を感じさせる声は、妙齢の女性のものに思われた。続く声はふてくされたような、拗ねた印象を与える。
「逆らわぬ事だ。逆らってみたところで、どうにかする事の出来るものでもない」
 それも知っているだろう? と女性は薄く笑いを含んだ声で彼に告げる。からかっているような調子だが、告げる言葉にはそんな雰囲気が一切含まれていない。
 盗み聞いているアッシュでさえも生唾を呑み込んだ台詞に、声が重なる。
「それでも、ぼくはまだ消えたくない」
「我が侭も過ぎると、可愛くないの」
「可愛い息子の頼みでも?」
「誰がいつ、貴様なぞを産み落としたと?」
 黒い猫が機嫌を損ねたらしく、言葉を返しながら彼の方へ身を乗り出す。墓石から落ちない程度に首を伸ばした四つ足の獣に、けれど彼はケラケラと笑いながら手を振った。
「ぼくをぼくにしてくれたのは、貴方でしょう?」
 ね? と笑った彼に毒気を抜かれたのだろう。怒る気も失せた表情で黒猫は身体を退いた。
 そしてふっと、アッシュが居る方向を見つめる。
「どうかした?」
 見付かっただろうか、と心臓を跳ね上げて慌てて墓石の裏に小さく身を潜めたアッシュの耳に、彼の怪訝そうな声が飛び込んでくる。
 別に隠れる必要はないはずだ、しかし何故かあのふたりの間に割り込む事は憚られた。それでなくとも、なにやら神妙で……聞いてはいけない場面に出くわしたようであるのに。
「いや、なんでもないよ」
 問いかけに否定を返し、黒猫はふふっ、と小さく笑った。
 その場でしゃがみ込んだアッシュがふー、と全身の緊張を解き放つ息を長く吐き出した。
 どうやら気付かれなかったようだと肩の力を抜き、再び聞き耳を立てて向こう側を窺う。
「貴様なぞ、拾わぬ方が良かったやもしれぬな」
「酷いな~、ぼくのこと、愛してくれてないわけ?」
「貴様こそ」
 軽口の応酬に、黒猫が笑う。
「ぼくはちゃんと、愛してるよ」
 するりと彼の口から零れ落ちた言葉に、アッシュの胸が不意にずきりと痛んだ。
「嘘は休み休み言え」
「本当だってば、信じてよ」
 彼は続ける。この世で、愛しているのは貴方だけだと。
 その言葉を聞くごとにアッシュの胸は痛む。理由は分からない、だけれどアッシュは今まで彼と一緒に過ごしてきた思いの外短くて長い時間の中で、一度として、その言葉を告げられた事はない。
 無論、自分から告げた事もなかったが、違うのだ。
 彼は「好き」というような、彼から好意を抱いて貰っている――それが恋愛感情などではなく友情や、仲間意識に基づくものであっても――とはっきり明言する言葉を貰った事がなかった。
 一度として。
 付け加えるとしたならば、彼がユーリに告げている場面に遭遇したこともない。
 彼は言わなかった、誰にも。軽口の中であっても、冗談と分かる場面であっても、如何なる時であっても。
 そんな彼に愛してると言われる存在、それがあの黒猫だと言うのなら、あのふたりの関係は一体如何なるものなのか。
 好奇心をそそられながら、アッシュは気配を殺しつつ様子を探る。
「百万歩譲るとして、だ。儂が貴様と同じ風に思っているとは限らんぞ?」
「え~~、そんな寂しいこと言わないでよ」
 ぼくと貴方の仲じゃないか、と笑いながら彼は言う。ひらひらと振られた彼の左手が、そのまま彼の顔へと消えていった。アッシュの位置からでは見えないが、常日頃から包帯に隠されている彼の左目に、触れたものと想像できた。
 黒猫が黙り込む。左右の色が異なる双眸が揺れた。
「痛むか」
 静かな問いかけに、彼はやや間を置いてから小さく、一度だけ、首を縦に振った。
「でもまだ、平気だよ。まだ……消え去るわけには行かないから」
「痩せ我慢も過ぎると、可愛くないぞ」
「そりゃどうも」
 ご心配痛み入ります、と茶化した台詞を投げ返せば、黒猫が不機嫌に顔を顰めてはぁ、と盛大な吐息をその場に落とす。
 誰が心配なぞするものか、とぼそりと言うものの聞き流す彼は未だにカラカラと愉快そうに笑い続けている。
 アッシュは立てていた膝の力を抜き、背中を墓石に預けてずるずる滑らせ、地面に腰を落とし座り込んだ。中腰気味の体勢が疲れた事もあるが、そうやって聞いている事が苦痛になり始めていた。
 頭の中で整理する。
 あの黒猫は、血は繋がらないものの彼の、母親のような存在なのだろう。
 そして彼は、痛む左目を抱えてそして……消えゆこうとしている。
 改めて考えて、彼は脳天を超弩級のハンマーで思い切り殴られた感覚に晒された。それがもし本当なのだとしたら、彼は。
「死ぬ……?」
 彼は死なないと、ずっと思っていた。
 自分は彼を置いて先に逝ってしまうものだとばかり考えていたから、彼が先に存在を消滅させてしまう可能性など、考えた事はなかった。
 否。
 考えたくなかったから、考えないようにしてきた。そしていつも、自分が逝く時に彼が少しでも哀しんでくれればいいと、そう思っていた。
 裏切られたような感覚だった。
 そう思って、首を振る。
 違う、自分が彼を裏切っていたのだ。勝手に彼の姿を自分の中に創り上げ、その通りの存在だと彼を型に当て嵌めようとしていた。それ以外の彼を、否定した。
「いつまでも薬だけで持ち堪えられるものではなかろう」
「知ってるさ」
 なにせ、自分の身体だからね。
 彼は嘯き、自分の胸を叩いた。黒猫が呆れた顔で彼を見下ろす。
「ライブが終わるまで……あと二週間程度で良いんだ。それ以上は、望まない」
 見上げた彼の瞳はどんな風に揺れていたのだろう。自分の位置からそれが見えないことを歯がゆく思いながら、アッシュは臍を噛んだ。
 諦めたのだろうか、黒猫がまた静かに左右へ首を振った。どこか遠くを見つめている、哀愁に満ちた双眸で彼を見つめている。
「スマイル」
 その唇が彼を呼んだ。
「なに?」
 微かに首を傾げる動作と共に、彼は問い返した。
「15日だけだ。それ以上はないと思え」
「充分デス」
 にっ、といつもの彼らしい笑みを浮かべて居ることだろう。彼がほんの少し声のトーンを高くして返事をし、頷く。
 十五日間。
 それは予定されている自分たちのライブが最終日を迎えるまでの、その日数に他ならない。
 それを彼は、充分だと言って笑う。
「一週間が倍の長さになるんだ。充分すぎるくらいだよ」
「今、どれだけの量を飲んでいる」
 心臓がどきどきと拍動を強めるのを左手で押さえながら、アッシュは収まらない呼吸を必死に整えようと肩を何度も激しく上下させた。滲み出る汗は止まらず、目の前の闇が霞んで見えた。
 黒猫の問いかけに、スマイルは少し考え込んで唸った。
「えっと……前までは一週間に一錠だったんだけどねぇ」
 自分の台詞に肩を竦めて呆れながら、彼は諂いもなく言い切る。
 今は一日で、五錠か多いときには十錠近く、と。
 アッシュには彼らが言う“薬”が如何なるものなのか分からなかった。だけれどその音の響きや、スマイルの告げる分量を聞かされたと同時に顰めっ面を作った黒猫の様子から、それがあまり大量に服用すべきものではない事だけは、分かった。
 次の言葉を待つ。案の定、黒猫は彼の行動を叱った。
「飲み過ぎだ」
「だって……飲まないと、今すぐに消えちゃいそうで」
「それで眠っていないのか」
 彼の台詞に、得心がいったのか猫が呆れ調子に言う。アッシュは驚き、見付かるかも知れないという事も忘れて墓石の裏から身を乗り出してしまった。
 彼が眠っていないとは、どういうことなのか。確かに少し眠そうなところはあったが、それはいつものことだったし寝不足気味なのはライブが近い時誰しも同じ事。現にアッシュだって最近の睡眠時間は平均で五時間を切っているし、ユーリだって似たようなものだ。
 だけれど、丸々眠らずに過ごす事はしない。いくら仕事が押し迫っているとはいえ、眠らずにいると出来る仕事も捗らなくなるから。
「だってさー……」
 見抜かれてしまったことが不満らしい。恐らくは唇でも尖らせているだろう彼が視線を泳がせ、首をフラフラとさせながら言い訳がましい言葉を連ねた。
 黒猫が、止めないかと言いたげに右腕を持ち上げて振った。
「だって?」
「眠ったら、さ。眠っている間に自分が消えてたりしそうで……恐いんだもん」
 ぼそぼそと、小声で。
 およそ彼らしくもない気弱な解答に、持ち上げた腕を止めた黒猫がやんわりとした微笑みを表情に浮かべた。
 それこそ、まるで愛し子を見つめる母の瞳に他ならなかった。
 アッシュが息を呑む。その前で黒猫は細かった瞳を更に細め、予告もなく唐突にアッシュの方へ向き直った。
 ぞわっと、雑木林の中で感じたものとはまた異なる悪寒を覚えてアッシュは全身の毛を波立たせた。人型の時は消えているはずの尻尾までもが現れ、怯えたように毛をぶわっと広げて股の間に潜り込ませてしまった。
 様子を知り、黒猫が楽しげに顔を綻ばせて笑みを浮かべる。見るものが見れば恍惚と見惚れてしまいそうになる妖艶な笑みであったが、今のアッシュはそんな余裕などどこにも存在していなかった。
 逃げよう。咄嗟に頭に浮かんだのはその一言に尽きる。
 だけれどまるで囚われたかのように、黒猫の双眸に見つめられて身体が動かなかった。
「姫姜?」
 スマイルが黒猫の様子に気付いて訝しげに、名前らしき響きを持つ単語を口にする。そして彼女が見つめている先を自分も振り返り、アッシュを見つけて小さく声を上げた。
「……なんでさ」
 どうしてアッシュが此処にいるのか分からないという顔をし、珍しく茫然とした顔を見せてスマイルは後ろに半歩、退いた。
「なんで君が、居るのさ」
「それは……その。なんでっスかね?」
 胸の前で立てた人差し指同士をつんつんと突き合わせ、アッシュは苦笑を浮かべながら逃げたい素振りを見せているスマイルに言った。他に説明のしようがなく、自分だってまさかこんな緊迫した場面に出くわすとは想像していなかっただけに、返答に困った。
 助けを求めるように視界を巡らせた先に、黒猫を見つける。元凶はすべて、彼女にあるはずだ。こうなってくると、最初からわざとこうなるように仕向けたのも彼女ではないかと勘ぐりたくなってしまう。
「丁度良いではないか。そいつに、お前が眠っている間も消えないかどうか、見張って置いてもらえ」
「はぁ!?」
 アッシュと、そしてスマイルの口からほぼ同時に素っ頓狂な声が飛び出した。そのあまりのタイミングの重なりように、黒猫は婀娜な笑みを浮かべながらふたりを交互に見つめる。
「スマイル、逃げるんでないよ?」
「っていうか、アッシュ! なんで君ここに居んの!?」
 答え聞いてないよ、と誤魔化すように声を張り上げる彼に窮しながらアッシュは苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。黒猫の様子を窺っても、彼女もまたたおやかな笑顔を満面にたたえているのみ。
 その真意は計り取れそうにない。
 観念して、アッシュは立ち上がりズボンにこびり付いた土を払った。身体を支える為に手をついた脇の墓石が、彼の重みを受けてぼろりと端の方を崩す。非難するかのように直後、生温い風が吹いた。
 ひゅうひゅうという木々の隙間を通り抜ける風が呻り声を上げる。背筋に薄ら寒いものを感じ、無意識に身体を抱きしめたアッシュに黒猫が険しい表情を見せた。
「そろそろ戻った方が良さそうだね」
 虚無な墓地が広がるだけの周辺を見回し、彼女は短く言った。
 騒ぎすぎた所為で、眠っている連中が目を覚まそうとしている、と。
 ひぃっ、とアッシュが小さな悲鳴を上げて尚更強く、自分の身体を抱きしめた。先程から感じている悪寒の原因を教えられて、踏みしめている大地から跳び上がって逃げたい気分にさせられる。
 嫌そうな顔をしてスマイルは一度、強く地面を蹴りつけた。
「おやめ。そんな事をして、余計に怒らせると厄介だ」
「どうするのさ」
「とりあえず、今日の所は退散かね」
「薬」
「ほらよ」
 墓石の頂点から飛び降り立った黒猫は、間近で見るとかなりの大きさがあった。猫、と言えるサイズを通り越してむしろ、黒豹のような印象をアッシュに持たせる。
 久方ぶりの柔らかな大地を足裏で感じ取った彼女を今度は見下ろしたスマイルの、不機嫌極まりない言葉と手を差し出す仕草にやれやれ、と言った風情で彼女は二股の尾を振った。
 途端、どこからともなく現れた小瓶がスマイルの手の平に落とされる。
 透明な小瓶の中に、びっしりと白色の錠剤が詰め込まれていた。瓶に内容を顕すラベルは一切貼られていない。薬効も、成分も、なにもかも。
 小瓶を認めた瞬間、アッシュは黒猫を振り返って見た。漫然とした仕草で身体を揺らし、彼女は彼の視線を受け流す。
「飲み過ぎるんじゃないよ。次はもう、ないからね」
「分かってる」
 短く答えたスマイルは、その場で瓶の蓋を開けて一錠取り出すと口の中に放り込んだ。水もなく、唾だけで呑み込んだ彼を見て嘆息する彼女は、ひょいっと軽い動作で次の墓石へと飛び乗った。
「ともかく、忠告はしたからね。あとはお前次第だよ」
「それも、分かってる」
「ちゃんと眠るんだよ」
「それは保証しない」
「そいつのこと、しっかり見張っておいてやってくれないか」
「はいぃ? 俺っスか?」
 スマイルとの会話を交わしている彼女が唐突にアッシュへと言葉を差し向け、蚊帳の外で聞いているだけだったアッシュは予想外の事にまたしても素っ頓狂な声を張り上げて時分を指さした。
 そう、と頷く彼女の返事にスマイルを窺い見ると、彼は不満らしく顰めっ面をしている。
「それじゃあね。ライブは、気が向いたら観に行ってあげるよ」
「それはドウモ」
 最後まで機嫌を取り戻さなかったスマイルを笑い、彼女は言いたいことだけを言うとくるりと身体を反転させて闇の中へ消えていった。その動きは素早く、あっという間に見えなくなってしまう。
 彼女を見送り、スマイルもまた言葉なく歩き出す。アッシュが慌ててそれを追い掛ける。
 今此処で置き去りにでもされたら、日が昇ってからでも無事に城へ帰り着ける自信がなかった。
「スマイル」
 大声で呼びかけ、雑木林に差し掛かった彼を必死に視界内に留める。見失うと大変だから、懸命だった。
「スマイル!」
 しかし呼びかける度に彼は歩調を速め、アッシュを置き去りにしようとしているとしか思えない速度で進んでいく。なれているらしく、彼は地面を突き抜けている木の根に足を取られる事もない。
 すぐに転びそうになる自分を叱咤激励しながら、アッシュはスマイルを追い掛けた。
 そして不意に、彼は立ち止まる。スピードを上げていたアッシュは、急激に停止した彼の背中に危うくぶつかりそうになったところを寸でで躱し、激しく鳴り響く心臓を抑えて息を吐いた。
「うるさいよ、アッシュ」
 不機嫌なまま、彼は肩越しに振り返っていった。
「ぅあ……申し訳ないっス」
 先程黒猫が言った言葉を思い出し、彼は声を潜めてしゅん、と頭を垂れた。騒いだから墓地で眠っているものたちが目覚めようとしていたと、彼女は言っていたではないか。もしかしたら、そういう類のものがこの場所にも在るのかも知れない、そう考えたのだ。
 しかしスマイルは、アッシュが考えている事を理解したらしく盛大な溜息を吐きだして盛大に首を左右に振った。
「どこから聞いてたわけ?」
「スマイルが、消えるわけにはいかない……そう言っている時辺りからっス」
「じゃあ結構、最初から聞いてたわけだ」
 悪趣味、とじろりと睨んでくるスマイルから逃れるように視線を浮かせ、アッシュは居心地悪げに身体を揺すった。
「その……」
「なに」
「本当、なんスか?」
 スマイルが、消える事。それも期日は定められ、二度と伸ばしようがないという事実も。
 やはりどうしても信じ切れなかったアッシュの問いかけに、一瞬だけ苦悶の表情を作ったスマイルはぷいっと彼から顔を逸らしてしまった。
 聞いてはならなかったのだろうか、と胸が締め付けられるような思いのアッシュに、彼は背を向けたまま頷くことで肯定を示した。
「そう……っス、か……」
 他に言える言葉が思い浮かばず、なんとか相槌だけを乾いた声で返してアッシュも黙り込む。
 生温い風が吹く、遠くでは世を恨むような物悲しい叫び声に似た、風の呻り声が轟いている。
 月明かりも、見えない。
 暗い。
「他のみんなには、内緒だからね」
「どうしてっスか?」
「だってさ~……今更、こんな事でやめたくないじゃない?」
「こんな事、って」
 どこが“こんな事”なのかと叫ぼうとしたアッシュだったが、振り返って自分を見上げる彼の眼が哀しそうでありながら、寂しそうでありながら、未だ絶望を感じ取っていない、諦めない強さを秘めている事に気付いて言葉を飲んだ。
 丹朱の瞳が、一層強く輝いている。
「こんな事、だよ。他に言いようが無いじゃないか、ぼくが……消えることなんて」
 存在しているものが消滅する。それは自然の道理であり、曲げることの出来ないさだめでもある。だから自分が消えることは当たり前のことであって、その時間が迫っていることには焦るけれど、でも。
 消えること自体は、恐くない。
 嫌なのは、今みんなが必死になって成功させようとしているライブを自分の所為で潰してしまうこと。それが済んでしまえば、確かにもう少し生き延びてみたいとは思うけれど……構わない。
 さだめには、逆らえない。
「どうにもならないんスか」
「なるんだったらどうにかしてると、思わない?」
 現にどうにかしようとして、出来ることを探した結論があの白い錠剤だ。薬で身体と意識をつなぎ止める事は以前から続けてきた事であり、実際としては昔と変わらない事ではあるけれど。
 他に、良い案が思い浮かばない。
 もとより、自分は存在しないはずの存在だったのだから。そう考えることで、妥協点を見出している。
「スマイル……?」
「誰かに言ったら、アッシュとは絶交だから」
「それで、良いんスか?」
 問いかけられても、スマイルは曖昧に微笑んで首を縦に振るだけに留まる。後ろ手に結んだ手を弄りながら、彼は夜闇が濃い林を見上げた。
 そこに、空は無い。
「良いよ、それで」
 とんとん、と、調子に合わせて腰の上でスマイルの手が飛び跳ねている。普通に落としているだけのように見せかけた彼の両腕は、けれど肩の辺りからしっかりと緊張で力んでしまっている事が分かってしまう。
 無理に平然と振る舞おうとしている彼の仕草を眺めていたアッシュの耳が、自分も、そしてなによりスマイルが誰よりも大事にしている存在の名前を聞いた。天を仰いでいたはずの彼の顔が、いつしか己の足許だけを見下ろしている。
「でも彼に……ユーリにだけは、絶対に」
 知らせないで、と。
 ぽつりと呟かれた彼の言葉がずっしりと、アッシュの胸にのし掛かる。ちくちくとした痛みはずっと続いており、時々息が詰まった。
 言いたいことはあるはずなのに、言葉が続いてくれない。歯がゆさを覚えながら、アッシュはスマイルを見つめる。
 視線が重なり合おうとはせず、スマイルは姿勢を戻すとまた歩き出した。
 今度は、アッシュも充分ついていける速度で。
 彼の背中を見つめながら、アッシュは何度も彼と、黒猫の会話を思い出していた。そして彼女に言われた言葉や、スマイルが自分に投げつけた言葉のひとつひとつも。
 吐息を零す。
「スマイル」
 呼んでみたが、彼は返事もせず立ち止まろうともしない。仕方なく歩き続けたまま、アッシュは物言わぬ彼の背中に語りかけた。
「俺が見てる前でくらいは、眠ってくださいっス」
 もし消えそうになった時は、自分が起こしてあげるから、と。
 控えめに告げたアッシュにやはりスマイルは返事をせず、立ち止まって振り返りもしなかった。
 けれども。
 雑木林の切れ目が目の前に見え始めた頃、風に乗って流されながら、消え入りそうな声で。
 ありがとう、と。
 確かに囁かれた言葉を耳に、アッシュは少しだけ救われた思いで、微笑んだ。