がたがた、ごとごと、ぐしゃ、ばたん。
「ん~……?」
外出先、本屋で買ったばかりの雑誌を早速廊下で待ちきれずに広げていたスマイルは、紙面を眺めていた目線を持ち上げて同時に障害物のない場所を、前に進むことだけに使っていた両足を止めた。
耳を澄ます、ぱたんと雑誌を閉じて入っていた紙袋に口を少々草臥れさせつつも押し込んで、脇に抱えて音の発生源を探った。さほど離れた場所にあるわけではない、城内の一室がどうやら音の所在らしい。
首を傾げる、目に付く扉の中がどういう構造になりなにが収められている部屋だかを理解したものの、だからこそ疑問符が頭の上に浮かんだ。彼処はこんな風にものを巻き散らかしたり、暴れるようなものはなにひとつ無いはずなのだが。
反対側へ再度首を捻って姿勢を戻し、脇に挟み持った雑誌入りの紙袋を持ち直して扉まで残っていた距離を数歩で詰める。扉のノブを回そうと手を近づけたら、触れる前に向こうから勝手に開いた。
どうも巧く扉が壁に噛み合っていなかったらしい。彼が扉前に来た事で起こった風圧で押し開かれ、音もなくそれは内側へ開かれてしまった。
「…………」
少し躊躇したのち、結局好奇心に負けて三十センチほど出来上がった空間から室内を覗き込む。
だけれど、またしても彼は首を捻って眉間に皺を寄せるだけに終わった。
「なにコレ」
扉は最後まで開かず、途中で何かに突っかかって止まっていた。覗くことの出来る範囲内で音の発生源を見出せなかった彼は、故に自然の成り行きで徐々に落としていった視線の先に、扉を詰まらせている正体を知る。
はぁ、と溜息がひとつ溢れ出したのは致し方のないことだっただろう。呆れ調子の呟きも、無理ない。
床の上に山を成していたものは、クリーニングのタグがついたままの黒いコートだった。そしてそれは、確か彼の記憶が間違いなければ扉の向こう側にある衣装室の、クローゼットの中にハンガーに吊されていたはずだ。
今はこのコートを着る程寒い季節ではない、だから年間の半分ほどをこの衣装部屋で過ごすことになったこの外套は紛れもなく、彼の所有物だった。なにせ自分で、この部屋に防虫剤と一緒にしまった覚えがあるだけに、間違うはずがない。
「…………」
黙して語らず、無言のまま床の上に散っているコートを傷つけぬように、扉と床の間に挟まれている生地を片手で持ったままドアノブを引く。一瞬だけ布地が抵抗を示したけれど、それはさほど長く続かずなんとか無事、救出に成功した彼は挟まれていた箇所に傷が出来ていないかを確かめてホッと安堵の息を吐いた。
邪魔になる雑誌を廊下の壁に添わせて置き、コートを右腕にひっかけて扉を押す。今度はなにものにも邪魔されず、音もなく扉は最後まで開いた。
しかし扉の向こう側で彼を待っていたものは、彼が知る限りの衣装部屋の光景とはかけ離れた世界だった。思わず、コートを持ったままの右手をだらんと落としてしまい、一緒に布が滑り落ちていく事にも暫く気づけなかったくらいだ。
「な……」
唖然と、室内を見回して彼は叫びそうになった声を慌てて呑み込んだ。
衣装部屋は、床という床がすべて、それこそ足の踏み場が見当たらない程に布で埋め尽くされていたのだ。しかもその一部は山となっている、更にそれはひとつやふたつではない。
布の合間にはそれらが収められていたであろう透明プラスチックの衣装ケースの空箱だったり、絡み合って堆くつまれているハンガーだったり、中身がばらまかれたあとひっくり返されている箪笥の引き出しだったりが散らばっていた。
まるで泥棒が家捜しをして散らかしていったあとのような光景が広がっている。いや、昨今の泥棒であればこんな見ただけで荒らされた、と分かるような仕事はしないだろう。
頭が痛くなる気分で、彼は掴みなおしたコートを脇に抱き、左手でこめかみを押さえた。
余り考えたくはないが、考え至る結論はひとつきりしか彼の中には存在していない。だからこそ頭が痛むわけであり、一緒になって重く色の濃い溜息が溢れ出した。
フルフルと首を横に振り、再度の溜息を誤魔化すように顔を上げる。
ごとん、と新たに音が室内から響いた。
目を向ける、隻眼を細めれば山積する布の間に小さく動くものが見付かった。案の定、想定していた通りの色の髪がさらさらと揺れている。
いったい、なにをしたいのだろう彼は。
心の中で結論の見えない疑問を呟き、その場で壁に凭れ掛かる。少しだけ視線を左に流せば、壁一面のクローゼットが扉を全開にしており、あまつさえ中身もすべて空っぽになってしまっているようだった。
ざっと室内に目を通し、そこにつまれている布の量と衣装室に収納されている各々の衣服の量とを秤に掛ける。若干全体量の方が重いようだったが、天秤が傾く角度は恐ろしいくらいに平坦に近い鈍角だ。
ごとごと、ばさっ。
ぽいぽいっ、ざざざー。
見ている分には愉快極まりない光景であるが、後始末のことを考えると頭の痛みは激しくなる一方である。こめかみに添えた指に力を込めて押し、隻眼に映る光景を見守り続ける 見ている分には愉快極まりない光景であるが、後始末のことを考えると頭の痛みは激しくなる一方である。こめかみに添えた指に力を込めて押し、だのに隻眼に映る光景を見守り続ける。
新たに築かれた、投げ放たれた服の山がバランスを崩して雪崩を起こしている最中だった。
「うあ!?」
短い悲鳴が聞こえ、それを耳にすると同時に彼は長い長い溜息を吐き出す。こめかみを押さえていた手を広げ、それで顔全面を覆ってみた。壁に凭れる時に使っている右腕が、体重を預けられすぎて扉の溝に嵌り、痛んだ。
「なにをやってるのさ……」
それは独白、限りなく自棄に近い。
三日前、ここに冬物がクリーニングから返ってきたものをしまいに来たときは、こんな光景ではなかった。整理整頓が行き届き、どこになにが収納されているのかを区別するラベルもしっかりと貼られていた。個人の所有物が混じらないよう、境界線も設定されてはみ出さないように収納する方法を、数時間かかって考え出したのに。
その苦労も僅か三日で霧散する事になろうとは、誰が予想できただろう。
いやそれにも増して、彼はなにをしたがっているのか。子供のように引き出しやクローゼットの中を掻き回し、散らかして、遊んでいるとしか思えない。
「ユーリさーん?」
小声で呼びかけてみるが、ちょうど中身が空の引き出しが床の上に放り放たれる音と被ってしまい、聞こえなかったようだ。プラスチックの引き出しは床に散る上着の山を突き崩し、布地の表面を滑って落下した。カコン、と軽い音を立てて角が鳴る。
記憶が正しければ、あの中に収納されていたのはアッシュの秋物の服ではなかったか。
ユーリがアッシュの服に何の用、と顰めっ面になってしまっている頭の片隅で関連性を想像してみるものの、では今、自分の腕に抱かれているコートはじゃあ、なんだ? という事になって、考えるのを途中で放棄した。
見渡す限りで、散乱している服はなにもアッシュや、ユーリのものだけではない。当然ながらとある一角には、どう考えても自分の服以外なにものでもないものが積み重ねられているのに。
だから、ユーリが、どれが誰のものであるのかをちゃんと見分けられているとは、言いにくいが非常に考えづらいのだ。
捜し物でもしているのだろうか。
止まらない思考は算盤を弾いてそういった仮説を組み立ててみるものの、いったい彼がなにを探しているのかがさっぱり不明だ。そもそも、アッシュや自分の服がしまわれている棚やクローゼットまで漁る必要性があるのかどうかも……
いや。
もしかしたら、だけれど。
ユーリは、自分の服を探しているだけだけれど、そもそも肝心の。
彼自身の服が収納されている場所が、分からなくて全部引っかき回してひっくり返して、こうなってしまったのか、と。
そう考えたら、彼の行動も分からなく、ない、のだけれど……も。
「………………………………………………………………………………………………」
長い沈黙を経て、更に長い溜息を吐きだして、一気に疲れた肩をがっくりと地に落とす。一緒になって落ちてきた前髪を掻き上げて右目を露出させ、額に手を置いたままフルフルと数回首を横に振ってみた。
どことなく絶望的な心境に陥ってしまった自分に、秘やかな嫌悪を覚えてしまっている自分が更に嫌だった。
ああ、ひょっとしなくてももしかしなくても、この想像が正しかったのなら。
見なかったことにしたいかもしれないと、心から切に願った。願って、それだと言うのに。
「スマイル!」
向こうが、入り口の扉横で壁に凭れながら立っている彼に気付いてしまった。
目の前にあった衣装の山が雪崩を起こして頂点を崩し、高さが下がった事で視界を遮るものがなくなった事が原因らしい。雪崩が起こったのも、上にものを積み上げすぎた所為でバランスが崩れたから、のようだったが。
「はいぃ……」
やや気の抜けた声で、向こうに名前まで呼ばれた以上無視することも出来なくなった彼は返事をした。随分と小さかった彼の声に、ユーリはしかし気にした素振りはなく、手元にあったらしい白いシャツを後方へ投げ捨てた。それは山の表面を舐めるように滑り落ち、床に沈んで他と混じって見えなくなった。
ユーリはその場から立ち上がらなかった。手は忙しなく動いているから、まだ他の服を漁っているのだろう。視線をこちらに投げかけたままで、器用な事だ。
壁から背中だけ離したスマイルは、どこか疲れた目でユーリを見返し、なに? と首を捻った。
「あの服を知らないか?」
「どの」
そんな代名詞だけでは分からないよ、とあまり大きくなってくれない声で問い返す。また別の服をぽいっと投げ捨てたユーリは、問われてまったくだ、と頷きことばを探すように視線を巡らせた。
果たして彼の眼には、この室内の惨状が映し出されているのだろうか。
……無理、だろうな。心の中でスマイルは呟いた。
こめかみの鈍痛が甦ってくる。限りなく百パーセントに近い確率で、衣装室の後片付けは自分と、アッシュの仕事になるだろう。まったく無関係だというのに、巻き込まれてしまう彼の事を哀れに思ってつい、胸の前で十字を刻んでしまいそうになった。
「先週の収録に着ていった服だ、あの十字架が……」
スマイルが胸の前に立てた人差し指の動きを見ていたわけではないだろうが、ユーリが言葉を紡いで一瞬、スマイルはどきりと心臓を鳴らした。焦って吐き出した息を吸い込んでしまい、咽せる。
「どうした?」
「あ、いや……なんでも。それより、その服って」
急に咳き込んだ彼を怪訝な目で振り返ったユーリに、手を振って平気だと返事をしてから彼は喉を数回指先で揉む仕草をした。その後、やはり考え込むときのクセでこめかみ近くへと指を置き、眉間に深い皺を刻む。
「黒地に、ええと……襟元に赤で十字架の紋様があったやつ?」
シンプルだったけれど、アクセントの使い方が印象的でそこそこユーリは気に入っていた事を思い出す。
彼の言葉にその通りだ、とユーリは深く頷いた。
しかしスマイルは、彼のその動作を見ていなかった。記憶にはまだ続きがあったからだ。
「でもユーリ、確かその服って」
休憩の時にコーヒーを零してしまったから、染み抜きも兼ねてクリーニングに出したんじゃなかったっけ?
「……え?」
聞き間違いでなければ、ユーリはかなり間の抜けた素っ頓狂な声を出したことになる。
スマイルは半眼していた目を開いた。ユーリを見る。彼はやはり、床の上に直に座って衣装の山に囲まれていた。
但しその表情が驚きから、次に納得顔へと変化していたが。
ぽむ、と手を打つ動作。
「ああー」
そういえば、そうだったような気がするな、と。
得心のいった顔と声で言われて、スマイルはずるっと壁に預けたままでおいた肘を、最初の位置から三十センチほど下方に滑らせてしまった。
「ユーリさ~ん……?」
じゃあ、あれですか。貴方はその、この部屋にあるはずのない服一枚を探すために衣装室の中を荒らし回ったわけですか?
なんたること。
どこまでも深く長い溜息を吐きだして、スマイルは顔を片手で覆った。首を振る、力無く。
一応知っているつもりではいたけれど、まさか此処までとは思っていなかっただけにショックは大きい。天然にも程がある。
「悪かったな、手間取らせて。そうか、そうだったな」
ここまで部屋を漁っておきながら、その事を恥とは思っていないらしい。薄く笑いながらユーリは膝の上に溜まっていた服を脇に退け、立ち上がった。
足の踏み場もない床の上で、不用意に足を進めようとして。
「あっ」
短くスマイルが声を張り上げた瞬間、スローモーションのようにユーリの躰が後方へ斜めに傾いていった。
ずべしゃっ。
山が崩れ、軽い布が浮き上がってまた沈む。掴むものもなく虚空を彷徨ったユーリの手が二本、揃えられて肘もぴんと伸びたまま彼の身体からワンテンポ遅れ同じように服の山へ沈んでいった。
一番最後に、ユーリの右足とその右足に蹴り飛ばされる格好となった、肌触り滑らかなサテン地のシャツが落下する。
はぁぁぁぁ……と、スマイルの溜息がおまけで添えられた。
「ユーリさぁん?」
もしもし、大丈夫ですか?
一応尋ねかけてから、自分は転ばぬように足許注意で室内に入り、身体半分が山の中へ埋もれてしまっているユーリを真上から見下ろした。沢山の布地がクッションの役目を果たしていた御陰で、彼に怪我はないようだったがかなり不満そうな顔をしている。
「ダイジョブ?」
「う~」
低く喉を鳴らす呻き声を漏らすユーリの傍らにしゃがみ込んで、スマイルは彼の頭に被さっているスラックスを追い払ってやった。
そしてしゃがんでいる自分の、折り曲げた膝の上に両手を戻す。
「あのさ~、ユーリ」
君ってば、もしかしなくても、さ。
恨めしげに彼を見上げているユーリを冷ややかな目で見つめ返して、ひとこと呟く。
「君って、頭悪い?」
直後。
すぱっこーん! と。
かなり小気味の良い音が、埃舞う衣装室に鳴り響いた。