Vanish/1

 かしゃん、と薄い音が響く。
「あ」
 間を置かずに零れ落ちた声色に目線を上げると、やや離れた場所に立つ彼がどこか茫然としたように床と、自身の視線との間にある己の手とを見下ろしている最中だった。
 首を傾げ、広げていた新聞紙から視線を本格的に外し遠くの床を見やれば、彼の足許に割れたグラスと恐らくグラスの中身だったであろう水が散乱していた。向こう側からは、グラスの割れる音に敏感に反応したアッシュが雑巾を握りしめ、小走りに駆け寄ってきている。
「大丈夫っスか!?」
 心配そうに声を上げたアッシュをゆっくりと見て、それから彼は再度己の足許へと視線を移した。ただ、グラスを落としたときのままであるらしい右手の位置だけがまるで変わることなく、中途半端に胸の前で持ち上げられたまま固まっている。
「…………?」
 怪訝な表情を作ってしまったのは、その彼の手先が僅かに震えているように見えたからだ。ただこの距離では確認する術もなく、仕方なく新聞を畳んでテーブルに置き、椅子から立ち上がる。
 微かに床を擦った椅子が引かれる音に、彼はびくりと過剰に反応して肩を揺らした。慌てて利き手で右手首を掴み、胸元に引き寄せる。
 アッシュがまた、何かを言った。怪我はしていないか、との問いかけに彼はコクコクと三度、縦に大きく頷いた。
 未だ立ちつくした感のある彼の前でアッシュは膝を折り、雑巾で濡れてしまったフローリングを拭きなら飛び散ったガラスの破片を集めていく。水滴を浴びたそれらは天井からの照明を浴び、キラキラと歪に輝いて綺麗だった。
「スマイル?」
「あ……ごめん。割っちゃった」
 食後に、テーブルの上に残されていた水差しからグラスへと水を注ぎ込み、透明な液体を喉に潜らせている最中。彼の足は使い終えたグラスを台所に戻す為、そちらへと向けられていた。だから食卓で新聞を読んでいたユーリには、スマイルがコップを落とした瞬間を見ることが出来なかった。台所へ行こうとするスマイルは、彼に背を向ける格好になっていたから。
 そしてアッシュもまた、片付けの為に扉は開けたままだったものの、壁を挟んでいる台所で作業をしていた。
 手を滑らせただけと言えば、それきりである。他のことに注意を向けていたとしたら、手元が疎かになっていても別段、不思議な事ではない。
 しかし微妙なところで、ユーリは怪訝に思わざるを得なかった。
 何故彼は、グラスを割ってから暫く動かなかったのか。いつもなら自分の失敗を笑いながら、なるべく他人に迷惑をかけないように処理しようとするのに。
 今日に限りアッシュの手を煩わせて、後始末も全部任せてしまって。自分は立ち尽くし、震えている手を握りしめて。
「スマイル……?」
「ごめん、本当。ボーっとしてたみたい」
「しっかりして下さいっスよ。いくら春だからって」
「うん、だから謝ってるじゃないかさー」
 最初のユーリの疑問符は、カラカラと笑うスマイルと雑巾の上にガラスの破片を集め終えたアッシュの会話で掻き消された。こうなると最早スマイルに事を追求することは出来ない、問いかけたとしても巧くはぐらかされるだけだ。
 スマイルはまだ右手首を左手で押さえ込み、掴んでいる。胸元から下には下げられたけれども、両の手の結びつきが解かれそうな気配は感じられない。
 ユーリがじっと彼の手元を見下ろしている事に気付いたのだろう、スマイルは伺うような目線をユーリに一瞬だけ投げつけ、そして直ぐに逸らした。
「片付けさせちゃって御免ね~」
「構わないッスよ、それより怪我がなくて良かったっス」
 まるでユーリから逃げるように彼はアッシュへ語りかけ、雑巾にくるんだガラス片を抱え上げた彼の肩を、ようやく解き放った左手で軽く叩く。その間、彼の右手は脇に力無く垂らされたまま。
「うん、アリガト」
 心配してくれた事への礼を告げ、スマイルはスッとアッシュとユーリの間から抜け出した。
 空気が流れる、彼の回りで湧き起こった気流が乱れる。
「スマイル」
「部屋に戻るよ」 
 慌てて振り返ったユーリが彼を呼んでも、スマイルは振り返らなかった。左手を軽く振り、足早にリビングを出て行ってしまう。
 カシャンと音を立ててアッシュの手の中のガラス片がぶつかり合い、軽い透明な音を立てた。床に巻き散らかされた冷水は雑巾で拭い取られ、残っていた水気もすっかり乾いてしまっている。
 ユーリは視線を落とした。
 アッシュが破片を片付けるために台所へ向かう。彼が歩くたびにガラスは互いを擦りつけあって、耳に残る音を喚き散らして、ユーリは奥歯を強く噛みしめた。

 彼は、カレンダーを眺めていた。
 薄暗い自室で、壁に吊された今月のカレンダーの表面を左手でなぞりながら、今日の日付を探す。そして目的の日付までの残り日数を、口に出して数えていた。
「いち、にぃ…………なな、はち、きゅう……じゅうさん」
 最後の呟きと同時に指がぴたりと止まった。その日付には大きく目立つように、赤い丸印が書き込まれている。数字の下には、びっしりと几帳面な文字で時間と、場所が記されていた。
 今度は声に出さず心の中で文字を読み上げる。確認するように、二度繰り返して。
 最後に漏れたのは、重い溜息だった。
「…………あと、十三日」
 今月末に予定されたライブまでの日数。三会場で合計五公演。チケットは既にソールドアウトしており、予定は天変地異でも起きない限り覆されることはまずないだろう。
 今回はスタッフも今までにないくらいに最高の者を用意したし、会場だっていつもより奮発してみた。セッティングだって趣向を凝らし、誰にも退屈だったとは言わせないくらいに興奮して感動できると、ユーリは自信を示している。
 だから、頑張ろうと思う。他のメンバーだって気持ちは同じだろう、常に最高を目指しそれを目標にして、突き進んでいく。よそ見をしている余裕はない、今はがむしゃらなくらいに前を目指すだけの時期だ。
 新人アーティストは吐くほど居る、その競争の激しい中で生き残るために自分たちが出来ることを、最高の演出で表現するだけだ。負けるつもりはない、絶対に頂点に在り続けてみせるという思いは限りない。
 この椅子は譲らない、この場所は守り通してみせる。
 ただ、もしかしたら。
「まだ……ダメだよ」
 微かに震えている右手を左手で掴み、指先をそっと唇へ押し宛てて呟く。吐き出した息が包帯でくるまれた指に染み渡り、皮膚の内側へ融けていく。
 薄暗い照明も灯らない室内で、ひとり。
 空気は冷えて少しだけ寒い、もう春先であるに関わらずこの場所だけは時間が冬のまま止まってしまっているようだ。
「ぼくは、まだ…………わけ、には」
 震えが止まらない右手を握り、爪を立てて彼は言葉を紡ぐ。自分へと必死に言い聞かせる瞳は瞼に閉ざされ、隻眼の丹朱は今は見えない。
 緩く首を振る。
 今は、まだ、ダメ。
 だから、絶対に、誰にも、気付かれてはいけない。
 右手を手の平で包み込む。胸へと押しつけてカレンダーに額を押しつけ、視線を足許へ落とした。
 ブゥン……と、薄く開いた瞳の隙間に、己の足許が揺らいで映る。
「……!」
 はっとなって、隻眼を見開いて、彼は自分の足を睨むように見下ろした。けれど、一瞬の幻であったのか彼の足はしっかりとそこに二本とも揃っており、幽霊のように消えてしまっているなどという事態にはなっていなかった。
 その代わり、納まり始めていた右手の震えが再びきつくなる。
 触れていなくても、目で見てはっきりと分かるくらいに彼の指先が震えていた。肘の先が硬直したように、曲がらない。慌てて左手で手首を取るが、指先に生まれる感覚は冷たく、そして固い。
 肉を掴んでいるという感触ではない。
「うあぁ!」
 悲鳴を上げ、彼は振り上げた右手を思い切り壁に叩きつけた。
 しかし叩きつけたはずの腕は壁をすり抜け、感触を何も生み出さぬままするっと下方向へ滑り落ちていった。
「いや、だ……まだダメだ!」
 肘の内側を掴んで彼は叫ぶ。ヒステリックに。
 包み込むものを失った右手に巻かれていた包帯がはらはらと解け、床に渦を描いていく。
「ダメだ、消えるな。消えるな!」
 そうだ、薬を。
 虚ろげに虚無を彷徨った彼の視線が、やがて何かを思いだしたらしく机の上に向けられた。ヨロヨロと垂れ下がる包帯を引きずり、乱暴に椅子を退かして引き出しを力任せに引っ張り出した。
 細長い箱形の引き出しを床に投げ捨てる。収められていたメモやノート、ペンが床の上に勢いで散乱してけたたましい音を立てたが、彼は構おうとしなかった。固い木の引き出しがやはり床に直撃してフローリングの一部をへこませたが、それさえにも気付かない。
 奥歯をガチガチとならして、彼は引き出しのその奧から隠し箱を抜き取った。左手一本で巧く噛み合わない作業に焦れながら、頑丈に閉じられている蓋を外す。
 中から転がり出てきたのは、手の平に収まるサイズのガラス瓶。透明なガラスの中に収められているのは、残り少ない白い錠剤だった。
 瓶の表面には、中身を示すシールがない。錠剤の名前も、効能も、主要成分もなにひとつとして。
 彼は瓶の蓋を焦る気持ちを抑えながら外した。瓶を傾けると、残数が十を切っている錠剤が一粒、彼の手に転がり落ちる。
 左手に握った錠剤を躊躇もなく口へ運び、唾で呑み込む。一度だけ上下した喉から長く深い息を吐きだして、彼は漸く人心地がついたらしい。激しく上下させていた肩も徐々に落ち着きを取り戻していく。
 床の上にへたり込んでいた彼は緩やかに首を振り、握りしめた右の拳で軽く床を叩いた。がんっという音と衝撃がその瞬間、その一帯にだけ伝わり、再度彼は深い息を吐きだした。
 持ち上げた右手を目の前に翳し、窓から僅かに差し込んでいる光に照らして透き通っていないことを確認。軽く握り開きを繰り返してから、ゆっくりとそのまま身体を後方に傾けて行く。
 幸いなことに床に散乱させた物品にはぶつからなかったようで、耳元にひっくり返った引き出しを感じつつ床の上に寝転がる。右手を胸の上に落とすと、質量と感触を確かに感じ取れた。
 目を閉じる、迂闊にも泣いてしまいそうになっている涙腺を誤魔化そうとして。
 蓋を外されたままの小瓶は、未だ床の上で同じように寝転がっていた。中身は少ない。
「まだ……ダメなんだ」
 自分へ言い聞かせるように繰り返し、呟く。左手を目の上に置いて目の前の世界から光を遮った。
 闇が覆い尽くす、闇が迫る。
 カレンダーを思い浮かべた。残り日数を数える、重ね合わせるように錠剤の残量とそして、自分の身体を計算式に加えた。
 足りない。
「ダメだよ。まだ」
 左手をずらし、包帯にくるまれて隠れている左目の表面をそっと撫でる。軽く指先に力を込めて押してみた。 
 押し返す力がそこには、存在していなかった。
 ぽっかりと開いた空洞、何もない場所。
 出来上がった穴を埋めるものはもうどこにもない。今は薬で、誤魔化し誤魔化し繋いでいるだけの、虚しいこの身を。
 お願いだから、奪わないで。
 コンコン、というノック音。
 少し慌て気味に背中を床から引き剥がし、身を起こしてそれから周囲を見回す。今になって気がついたものが散らばる惨状に口をあんぐりと開き、そして閉じて、立ち上がると同時に薬瓶を回収して蓋を閉めた。
 ズボンの後ろポケットにとりあえず突っ込んで置いて隠し、大股に歩いて先に扉の横にある照明のスイッチを押した。
 俄に明るくなり、まばゆさに目が慣れずにいる間にもう一度急かすようにノック音がして、二秒待ってから扉を開けた。
「はい?」
 誰であるのか確認をせぬままに開けた先で、見下ろした場所にいたのはユーリに他ならず。
「あ……なに?」
「いや」
 一瞬跳ね上がった心臓を誤魔化そうとやや上擦りながらの声で問いかけると、ユーリは怪訝な顔をしてスマイルを見上げた。眉間に寄った皺に彼の不機嫌さを感じ取り、スマイルは思わず反射的に半歩後ろへ下がってしまった。
 だけれど、追い掛けてユーリの白い手が彼に迫る。
 ひんやりとした感触を額に感じ取って、スマイルは唖然とユーリを見つめた。不機嫌そうに口元を歪めつつも、彼は真剣な眼差しでスマイルの額に置いた手で熱を計ろうとしていた。
「ユーリ?」
「熱はないようだな」
「……なんの話?」
 さっぱり行動の意味が読めないのですが、と強張っていた肩から力を抜いたスマイルの言葉に、手を離したユーリが腕を組んでふぅむ、とひとつだけ唸った。
「さっき」
 お前の様子がどこか可笑しいような気がしたから、とユーリはぼそぼそと呟く。腕組みをして、視線を落とし気味に考え込む素振りをしたままで、だ。
 独り言を呟いている感覚なのだろうが、しっかりとスマイルの耳にその声は届いていた。
「ユーリさん?」
「体調が悪いので有れば、遠慮せずに言う事だ。今は大事な時期なのだから」
 あと、十三日。
 ライブが全部終わるまで、約二十日。
「大丈夫、アリガト。心配してくれたんだ?」
「べっ、別にそういうわけでは……私はただ、リーダーとしてメンバーの健康管理をだな!」
 扉に身体の半分を預けて凭れ掛かったスマイルがにっ、と笑った途端、ユーリは狼狽して慌て始めた。苦しい言い訳を連ねながら、それが余計にスマイルを楽しそうに笑わせている事にも気付かない。
「は~いはい、ご心配ドウモ。う~ん、でも言われてみれば少し怠いかもしれないなァ」
「なんだと!?」
「でも、ユーリがキスしてくれたら治るかも♪」
 顎をなぞりながら呟いたスマイルの台詞に、思わず身を乗り出したユーリが必死の形相になっている事を横目で薄く笑って、彼は言った。
 直後。
「調子に乗るな!」
 という怒鳴り声とともにユーリの鉄槌が彼の頭上に下された事は言うまでもないのだが。
「った~~!」
「自業自得だ!」
 心配して損をした、と鼻息荒く肩を怒らせたユーリをケラケラと笑って、スマイルは殴られた箇所を撫でた。瘤にはなっていなかったが、触れるとひりひりする。
 ふっと、ユーリが微笑んだ。
 なに、と視線を彼に向ければ、やや肩を竦めて呆れ顔をしているユーリの紅玉色をした瞳にスマイルだけが映し出されている。
「その分だと、心配なさそうだな」
「あ……」
「本当に体調が優れないときは、休むんだぞ」
 お前は時々、無茶をするからな。そう言い残しユーリはひらりと手を振って廊下を去っていった。階段を下りて、背中はやがて見えなくなる。
 スマイルは無意識のうちに緩む口元を手で隠し、足許へと視線を落とした。
 ユーリが心配をしてくれていた、その事がどうしようもなく嬉しいと感じてしまっている。
 そして、同時に。
 彼に悟られてしまった自分の愚かさを呪いたくなって。
 尚一層強く、なにがあっても決して消え去ることは出来ない自分の存在を認識する。
「まだ……ぼくは、消えられない」
 右手を握りしめ、それを胸に押しつける。
 誓いの言葉を聞く者は、どこにもいない。