騒々しくもそれなりに楽しく、美味しかった夕食も終わって一息つく時間帯。
アッシュは風呂の準備と夕食の片付け、そして明日の朝食の下ごしらえと慌ただしく走り回っては、鼻息混じりに台所を占有している。忙しいはずなのにこれらの家事をまったくそつなくこなすものだから、すっかり彼は疑問も持たずに城の使用人に成り下がってしまっていた。しかも誰も、その事を指摘しない。
ユーリは当然家事など出来るはずがないし、スマイルは城に来るまでひとりで生活していたからそれなりに問題なくこなすことが出来るものの、しなくて済むことはしたくない、との観点から一切手出ししない。
必然的に、家事全敗はアッシュに委ねられることになる。そして誰も文句を言わない。
完全には閉じ切れていない台所と食堂との遮る扉から漏れてくる、水音に紛れたアッシュの機嫌良さそうな鼻歌を肩を竦めて笑い、ユーリはブックラックに収まっていた雑誌を取ってリビングへ向かった。
食堂とリビングの間には明快な境界線は引かれていない。無駄に縦に長く広い空間を、食事スペースとくつろぎ空間に分けて使っているだけで、違いと言えばリビングに使っている場所にはふかふかの毛並みをした絨毯が敷かれているという事くらいだ。
靴のままその絨毯を踏んだユーリは、雑誌を膝の上にしてどかっと弾力の良いソファのクッションに身体を沈めた。表面が滑らかな為に滑りかかった身体を持ち上げ、座り直し雑誌を広げる。同時進行で彼の片手はたまたまソファの上に置き忘れられていたテレビのリモコンを掴んでいた。
こんな踏んでしまいそうな場所に置いておくのは、スマイルくらいだろう。後でちゃんと叱っておかなければと思いつつ、ユーリの右手親指はテレビの電源スイッチを押していた。ぷつっ、という独特の短い電子音を起こし、それまで黒一色だったテレビモニターに色が宿る。
映し出されたのは、どうやらどこかのスタジオらしい。モノトーンで統一されているセットはどこか重々しく、シリアスな雰囲気を演出している。それでいて所々に配置された機械的な部分が異質さを増し、視覚効果を与えていた。
ユーリはひととおり他のチャンネルも回してみたものの、興味のないスポーツ番組や騒がしいばかりのお笑い芸人が多数出演している番組ばかりで仕方なく、最初に映し出されたチャンネルに戻す事で落ちついた。しかしこのスタジオで収録された番組がどんな種類のものか、未だに掴めない。折角広げた雑誌にも目をやらず、彼はプラズマの美麗な画面に見入った。
頬杖を付き、マイクを構えて喋っている司会者のコメントに耳を傾ける。どうやら、実験台になってやろうという人物を募っているらしい。蝶ネクタイをした司会者の言葉に、数人の男女が観客席から立ち上がった。
カメラが切り替えられると、平たいタイルの上に人数分の椅子が用意されていた。椅子に座る一般募集の素人を横舐めでアップを写しだした後、カメラは切り替わり司会者とは別の人物を写しだした。
これまた、明らかに怪しいと思わせる服装と化粧をした痩身の男だ。顔の幅に釣り合わない大きなサングラスが表情を隠している。
「…………?」
テレビの前でユーリは怪訝そうに眉を寄せた。その間も司会者は喋り続けている。呼吸の合間を感じさせない喋り方の方に感心していると、痩身の男がなにやら取りだしてそれを、一般席から呼び出したひとりの前に吊した。
バカにしているのか、とユーリは呆れる。どうやら番組は、催眠術を実践してみせるという男の特集だったらしい。痩身の男が椅子に座る男の目の前に垂らしたものは、糸に結んだ五円玉だった。
一時期流行したけれど、最近ではあまり聞かなくなった方法である。そのあまりの古くさい手段を笑ったのはユーリだけではなかったらしい、テレビの中の会場も俄にざわめき始めた。
しかし痩身の男は自信があるのか、まるで後方の騒々しさを気にしない。右手に五円玉を結んだ糸の端を持ち、左手は意味不明な動きをさせて椅子上の男の前で五円玉を左右に揺らし始めた。
司会者が黙り、会場内も静まりかえる。その中で痩身の男が告げる呪文めいた言葉だけが繰り返し響き渡った。若干エコーが加えられているのも、演出のひとつだろう。照明も落とし気味にされ、薄暗く嫌でも緊張感が漂うように切り替えられていた。
ふぅ、とユーリは溜息をついた。莫迦らしく、チャンネルを変えようとリモコンへと手を伸ばす。
しかしその前で、画面上にアップで映し出された椅子上の男が突然、フラフラと立ち上がった。痩身の男が一際大きな声で語りかける。
貴方は今鳥になっています。さあ、その翼を力強く羽ばたかせてください。
マイクを通して告げられた言葉に、どこか虚ろな目をした男が椅子の前で唐突に両手を広げ、上下に動かし始めた。ぱたぱたと小刻みに足を動かし、空を飛ぼうとしているのか勢いをつけるために助走を始めた。
しかし当然のことだが、男は飛ぶことなど出来ない。みっともなく両手をばたつかせて会場内を走り回るだけだ。
会場内にざわめきと笑いが戻る。
ふぅむ、とユーリはリモコンから手を離し頬杖を付き直した。雑誌の上に肘を置くと、平らな紙が拉げた。
ポケットを手で探ると、薄い財布が出てくる。札束とカードばかりの中で、小銭入れに百円玉数枚と五十円玉がころん、と転がっていた。糸はあるだろうか、と見回したけれど適当なものは見あたらず、少し考えて首に巻いていたネックレスのチェーンを穴に通してみる。
即興で出来上がった、催眠術の道具を目の前に垂らして揺らしながら、ユーリはふぅん、とまた息を吐く。
本当にこんなもので人を好きに操れるのだろうか?
テレビの中では次の出演者が催眠術を受け、床の上で転がり腹這いで前に進もうと躍起になっていた。司会者の解説では、アザラシらしい。むしろトドか? と失礼ながら転がっている男性の体格を見て思ってしまい、咳払いをしてユーリはまた銀のネックレスと五十円玉という奇妙な取り合わせを見つめ直した。
「なにやってるの~?」
そこを、ソファの背後からユーリの肩を叩く存在が。語尾が間延びした暢気な声の持ち主はひとりしか思い当たらず、ユーリはどきっとした胸の中を隠し首から上で振り返った。右手の中にチェーンを握り込み、隠すようにしてスマイルを見上げた。
彼は風呂上がりなのか、ラフな格好をして髪も少し湿り気を残している。僅かに湯気を立てる身体を持ったスマイルに、ユーリは暫く考えて手招きをした。彼はなんだろう、と首を傾げつつも促されるままにユーリの座るソファを回りこんで隣に座った。
ぷつっとテレビが切られる。急に静かになったリビングにスマイルはまた首を傾げ、首にひっかけたタオルを引っ張った。するりとタオルは片側を床に落とす。
「ユーリ」
「スマイル、これをじっと見ていろ」
「は?」
何の用? とユーリを呼んだスマイルの目の前に唐突にチェーンに通した五十円玉を突きつけ、ユーリは命令口調で短く告げる。益々怪訝な顔をして意味が掴めません、となる彼に有無を言わせない視線を向け、ユーリはスマイルを黙らせた。
「良いか、じっと見て絶対に視線を外すなよ」
「だから、これが何なのさ」
「良いから!」
ちょん、とつり下げられている五十円玉を指で弾いたスマイルに、貴様は黙って見つめていれば良いんだ、と語気をやや荒立てて彼を再度睨み、ユーリは左右へと五十円玉を揺らし始めた。一方頭の中では、痩身の男が呟いていた呪文のような言葉を思い出しながら、少しだけ照れを残しつつ繰り返し呟き続ける。
貴様は猫だ、と。
スマイルは眉間に皺を寄せていた。しかし律儀にユーリの言いつけを守って揺らめく五十円玉を凝視している。そのうちに、彼の瞼が少しずつ落ち始めた。
テレビ画面の中に居た人物に共通してみられた兆候である。ユーリは我知らず逸る気持ちを抑えつつ、呂律が回りにくくなるまでスマイルに向かい、猫だ、猫になれ、と呟き続けた。
カクン、と予告無くスマイルの首が前に落ちた。
いや、本当に落ちたのではなく前のめりに一瞬だけ身体が傾ぎ、倒れかかっただけなのだが。
ユーリははっとして、五十円玉のチェーンを握り直し横に座っているスマイルを見下ろした。
柔らかいクッションがふたり分の体重を受けて沈み、皺を幾重にも刻み込んでいる。その上で、スマイルの身体がそのまま斜めに沈んだ。
「スマイル?」
まさか変な効果でも生まれてしまっただろうか、それとも眠ったとか? 予定外の事になってしまったらどうしようと、深く考えていなかった自分の行動の結末にユーリは狼狽する。その間に彼の方へ倒れ込もうとしたスマイルの身体を、どうにかソファからの落下だけは防いでやろうと手を伸ばし掴もうとしたその、矢先。
「にゃ~……」
は?
一瞬、なにか違う世界の言葉が聞こえたような気がした。
目を丸くし、効果をつけるとしたら星でも飛び出してきていそうな雰囲気のユーリの前でぽてん、とスマイルの身体が彼の膝を枕にして沈む。結局彼を掴み損ねたユーリの手が、湿気を含んでいるスマイルの髪に落ちる。わしゃわしゃと掻き混ぜると、彼の額がユーリの膝頭にぐりぐりと押しつけられた。
「スマイル?」
「にゃ~」
返事のつもりなのだろうか、しかし彼の口から発せられたのはひとの言葉ではなかった。
ころんと身体を転がし、ソファの上に完全に乗り上がったスマイルが喉を鳴らす。ユーリの手に頭を押しつける動作をして、隻眼を糸になるまで細め、口は笑みを象らせて。
鳴き声は、猫の泣き真似。
ユーリはしばし硬直した。そして、十秒ほどかかって右手の中に握り込んでいた五十円玉と銀チェーンを見つめる。更に十五秒ほど必要として頭を捻り、結論。
催眠術は、成功した、らしい。
試しにもう一度彼の名前を呼び、猫がキモチイイと感じるらしい喉元に手をやってみると、スマイルはにゃ~と鳴いてゴロゴロと喉を鳴らした。表面を撫でるようにユーリが手を動かすのに合わせ、本当に気持ちよさそうにスマイルは笑った。
本当に猫のようだった。城に寄りつく猫はいるが、飼っているわけではないのでいつも一緒というわけではない。だから猫の行動に事細かに詳しいわけではなかったが、ユーリの目にした猫の動きに今のスマイルは一致しているように見えた。
頭を撫でてやると、湿気が指先に伝わってくる。彼が風呂上がりだったことを思い出し、床に落ちてしまっていたタオルを拾って頭に被せてやった。するとスマイルは、嫌がって首を振り丸めた手も使ってそれを振り落としてしまった。
「こら」
ちゃんと乾かさないとダメだろう、と叱りつけてタオルを拾うが、スマイルはまるで気にした様子もなく自分の手を舐めている。すっかり猫になってしまっている彼に、ユーリはこっそりと息を吐いてもう一度頭にタオルを被せたてやった。
やはりスマイルは嫌がる素振りをするが、振り落とされる前にユーリの手がタオルを上から抑え込み、ごしごしとやや乱暴気味に彼の髪を拭き始めると途端に大人しくなった。けれど嫌がっている事に違いなく、がりがりと爪を立ててソファの生地を引っ掻いている。
「やめないか」
片手でタオルを押さえ、もう片手を使いスマイルの手を押さえ込む。けれど片方だけしか塞ぐ事は出来ず、スマイルの左手はユーリの膝元でカリカリと彼の履くスラックスの布地を擦っていた。
微妙にくすぐったい。
ひととおりタオルで水気を抜いたスマイルの頭からタオルを外し、すっかり逆立って乱れてしまっているスマイルの髪を撫でる。ユーリの手に従って落ちついていく濃紺の髪の毛に添うように、スマイルもまた頬をユーリの股付近に押しつけて気持ちよいのか喉を鳴らした。
傍目から見ればその光景は膝枕に等しかったが、ユーリ自身すっかりスマイルを猫扱いしていたので気にしなかった。
「ふにゃぁ……」
指の間をすり抜けていく髪の毛の動きを楽しみながら、ユーリは猫スマイルの喉を指先で引っ掻くように撫でてやった。くすぐったそうに猫スマイルは身体をくねらせ、喉を鳴らす。
爪研ぎのつもりなのか、舌を伸ばして自分の手の甲や指先を舐めたりと、完全に猫化してしまっている彼を見るのはなかなか面白かった。
しかし、はたとユーリは気付いた。
どうすれば、彼は元に戻るのだろう……?
テレビではそこまでやっていなかた。いや、もしかしたら戻し方も放送していたかもしれないが、その前にユーリはテレビの電源を落としてしまった。だから見ていない、つまり分からない。
さーっと顔から血の気が引いていくユーリを見上げて、猫スマイルは何をどう思ったのだろう。動き止んでしまったユーリの手をぺろり、と舐めた。
「スマイル」
名前を呼ぶと、自分が呼ばれていることが分かるのか彼はにゃぁ、と鳴いて大きく背を仰け反らせ伸びをした。顔を上げる。
「にゃー」
「スマイル……お前がもし、元に戻らなかったら私は……」
「にゃ?」
人が真剣に、沈痛な面持ちで万が一の事を考えているのに猫スマイルはまるで人の気を知らないまま、差し出されたユーリの手を弄ったり舐めたりとして遊んでいる。頬を撫でてやれば顔をすり寄せて来るし、指を一本だけ伸ばして前に差し出すとかりっ、と軽く歯を立てて噛みついたりもする。
猫だ。
完全に猫であり、最早これは“スマイル”とは言い難い。
もし戻らなかったら、どうしよう。一生彼がこのままだったら、どうすればいいのだろう。不意に泣きたい気持ちにさせられたユーリだけれど、まったく気にしていないスマイルがのんびりと首を伸ばして甘えて来た。目線を上げると、真正面に微笑んでいるスマイルの隻眼があった。
「スマイル……」
「にゃー」
全然戻る気配を見せない彼の頭を撫でながら名前を呼び、スマイルが嬉しそうに返事をして。
顔を、寄せて。
ぺろっと伸ばした舌で、ユーリの鼻の頭を舐めた。
「!?」
咄嗟に状況が把握できず目を丸くしたユーリに、続けて。
ちぅ。
触れるだけのキスが、落ちてきた。更に付け加えるようにして、一旦離れた後また舌で唇を舐められる。
反射的に閉じようとした目を見開いて、ユーリは心底楽しげに笑っているスマイルを見つけた。停止してしまっていた思考能力が稼動を再開する、次の瞬間彼の頭脳が導き出した結論、それは。
「貴様、最初からっ!!」
スマイルはユーリの催眠術になど最初から、かかっていたわけではなく。
真剣なユーリに付き合ってわざと猫になった演技を振りまいていた、と。
つまりは、そういう事。
「にゃ~~」
しかしスマイルは未だ猫の真似を解かず、猫啼を続けながら喉を鳴らして笑い続けた。そして怒り心頭を起こすユーリの唇をまたもう一度舐めて、ひょいっと軽い身のこなしでソファから飛び降りた。殴ってやるつもりでユーリが振りかざした拳は、虚しく狙いを外して空を切る。
一段とけたたましく床の上のスマイルが笑った。
「スマイル!!」
「にゃ~」
いつまでもどこまでも猫真似を止めようとしない彼に、ユーリも雑誌を蹴り飛ばしてソファから立ち上がった。それを見てスマイルが逃げ出す。勿論、四足走行で、だ。
どこまでも律儀に猫真似を続けている彼に、どこか怒りの調子も狂ってしまうユーリ。けれどこのまま逃がしては調子に乗るだけだから、と解きかけた拳を握り直して彼は逃げるスマイルを追い掛ける。
「待たんか、スマイル!」
「騒がしいっスけど、どうかしたんっスか?」
「にゃ~~」
かちゃ、と台所仕事が片づいたのかリビングへ顔をだしたアッシュに向かってスマイルが突進する。何事か咄嗟の判断が出来ず停止したアッシュの前で、彼を躱しスマイルは直前で右折。しかし、追い掛けていたユーリは止まり切れず。
振り上げていた拳を、そのまま下ろしてしまった。それももの凄い勢いのままに。
「あっ!」
「がはぁ!!」
「にゃは!」
三者三様、叫びと悲鳴と笑い声が城内に響き渡る。
今夜もどうやら、静かには済まされそうにないらしい。