Chink

 人がふたり、言い争うような声。
 たまたま、特別な目的地も定めぬまま探検する気分であちこちを歩き回っている途中で通りがかった、部屋の、前。
 扉越しに聞こえてくるのは紛れもなく、この巨大な城の所有者である銀糸のヴァンパイアと、白い包帯で己の存在を主張する存在希薄な透明人間の声だ。どちらかと言えば、アンパイアが一方的に怒っているようで、彼の怒鳴り声ばかりが耳殻を打って神経を刺激する。
 時折合いの手を入れるような、宥めようとしている透明人間の声を掻き消すほどに、荒立てた声を振りかざす誇り高きヴァンパイアの青年――とはいえ、その年齢はゆうに数百歳に達しているとかでこの、人間の平均年齢と外見に依るしかない表現方法をそのまま彼に当てはめて良いものかは甚だ疑問が残るのだけれど――は、忌々しげに一度言葉を切り、舌打ちしたようだった。
 フローリングの床を踏みならす足音がそれに続く。
 はっとなって、慌てて身を引いた。外側に開かれようとする扉に挟まれぬよう、壁に出来る限り背中を押しつけて息を殺すと、間髪入れず扉は内側から押し開かれた。
 蝶番の隙間からかろうじて一瞬だけ観ることの出来た城の主は、透けるような白い肌を僅かに紅潮させており、彼がいかに興奮状態であるのかを如実に顕していた。乱暴に後ろ手に扉を閉め、それがか細い悲鳴を上げて彼へ抗議するのも聞かず、廊下をこちらに背を向けたまま歩き去っていく。
 足早で、やや大股気味に。
 ここに立つ彼女の存在にすら気付く様子もなく姿を消した彼の背中をそぉっと見送って、彼女は今、彼が閉じようとした扉がしっかりと閉まりきっていない事に気がついた。勢いが良すぎたのだろう、それは壁と扉を繋ぐ凹凸を巧く噛み合わせる事が出来ず、宙ぶらりんにゆらゆらと揺れている。
 そろりと足を前に出し、背中を壁から離す。思いの外自分の耳には大きく響いてしまった己の足音に小さな肩を竦め、ほんの微かに覚えた寒気に両腕を擦り合わせる。
 未だ閉じられようとせず半端に開いたままになっている扉の隙間から、部屋の中を覗き込んだ。そしてオーディオ機器と室内の中央にある、古めかしいグランドピアノに占領されている間にぽつりと座っている、彼を見つける。
 軽く、気付いて貰えるか貰えないかの瀬戸際な音量で一度だけノックをし、ドアノブを引いて抵抗を見せない扉を開けた。自分が通り抜けられるだけの空間を作りだし、すり抜ける。
「スマイル?」
 声をかけると、今まで床の上に直に座り込み膝の上で広げたなにかに見入っていた彼は漸く、彼女の訪問に気付いた。顔を上げ、自分の髪を引っかき回していた右手を下ろす。
「なに?」
「じゃま?」
「え……と、そんなことないよ」
 今は、と付け足して呟いた彼に多少の引っかかりを覚えつつ、彼女は前へと進み出た。ひんやりとしたフローリングに一歩一歩足をつけ、座ったままの彼へと近付く。
 そしてそれが自然であるかのように、すとん、と彼の一歩半手前の位置で腰を落とした。ふわりと空気抵抗で浮き上がったスカートの裾の中に白い素足をすっぽりと隠し、折り畳んだ股の脇に両手を下ろす。指先は、濃い茶色一色の床の上に押しつけられて。
 身長差の所為で下になってしまった視線で、彼を射抜くように見上げる。
「さっき」
「ユーリ、出ていくの見たんでショ?」
 言葉の出だしだけを口にしただけなのに、彼女がなにを言いたいのか察した彼が膝の上に広げている雑誌、だろうか。英文が並ぶ紙面を捲りながら先手を打って言った。こくりと頷き、彼女は彼が読んでいる雑誌へと視線を落とす。
 当然のことだけれども、そこに掲載されている写真が何を映しているのかを理解するだけで、何が書かれているのかまでは読むことが出来ない。写真の人物の格好からして、海外のアーティストのようだが。
「けんか……したの?」
 彼は紙面から顔を上げてこない。彼女の訪問に気付いた時にしか、今のところ彼女を見てもいない。まるで避けられているようで、彼女は少しだけ哀しくなった。
 問いかけは、吐息に混ぜられる。
 解答は、溜息の中にあった。
「聞いていたんだ」
 彼女はふるふると首を横に数回振った、聞いていたのではなく聞こえてしまったのだ、と訂正する。たまたま、だったのだから。立ち聞きをするような嫌な趣味は持ち合わせていないと、態度だけで表した彼女に彼は些か自嘲気味に苦笑した。
「そ」
 短い、合いの手。
 そしてまた、沈黙が訪れる。彼女の問いかけは肯定も否定もされぬまま、彼によって遠くの壁に放り投げられてしまったようだ。だから彼女は、またそれを拾って戻ってくる。
「どうして、けんか……したの?」
 喧嘩というよりかは、ユーリが一方的に怒鳴って怒っていただけのような印象を持ったけれども。
 殆ど終わりのほうだけしか耳にすることがなかったから、具体的に彼らが何を口論していたのかは知る術がない。彼がユーリを怒らせたのか、ユーリが彼のなにかに怒っていたのか……発端は、想像の範囲から出ることがない。
 ぱたん、と彼は開いていた雑誌を両手を使って閉じた。
「さぁ……」
 曖昧に、視線を遠くに投げやって言葉も濁す。
「どうして、だったんだろうね」
 やはり自嘲気味に、笑う。
 理由など些細なことでしかなかったはずだ、それこそ直ぐに直接の原因が思い出せないくらいに微細な事。時々ユーリはいたく神経質であり、彼は無神経になりがちだったから意志疎通が巧く行かないことも少なくなく、だからこそ衝突しあう。
 喧嘩の行く末は、どちらが原因のものであってもユーリが怒る一方であり、彼が宥める側に回る事で終わる。
 いつものことだから、と、彼は透ける声色で呟いた。
「スマイルは、ユーリのこと、きらいなの?」
「それはまた、どうして?」
 突然飛躍した彼女の問いかけに、幾らか目を丸くして驚きを表現した彼が逆に問い返す。今の今まで喧嘩の理由を尋ねられていたはずなのに、今度は唐突に喧嘩をしていた相手の事を嫌いか、と問う。
 一貫性を欠いた彼女の質問に、彼は雑誌を脇に置いた。両手を背の後ろにある床へ押しあて、上半身を反り返して天井を仰ぐ。細かな光を大量に掲げたシャンデリアが、目に眩しい。
「だって」
 視線を泳がせながら、ことばを探して彼女は床の上だった手を膝の上に移した。指を互いに絡ませて、爪先を弄る。
「きらい、だから……けんか、するんでしょう?」
 好きと、嫌い、との関係は微妙。
 好きな相手とは仲良くして、嫌いな相手とは喧嘩をするという目に見えて解りやすい関係に例えてしまえば、今の彼とユーリはまさに互いを嫌いあっている関係に収まってしまう。彼女はその事を問いたかったようで、ゆっくりと理解した彼は「ああ」と呟き、少し乱暴に右手で固めの髪を掻き回した。
「それは、う~ん……ちょっと違うかな」
 厳密に言えば、彼はユーリのことを嫌いではない。嫌いであるはずがない。嫌いだったら最初からバンドメンバーとして彼に関わりを持とうとしなかっただろう。
 もともと、彼は単独行動を好みなにものかに拘束される事を嫌う自由人なのだから。
「じゃあ」
 好きなの?
 目線を持ち上げて純粋な黒を向ける彼女に、彼は髪から放した手で頬を二度、人差し指の腹で撫でる仕草をした。引っ掻こうとしたのだろうけれど、その爪先が包帯で綺麗に包まれてしまっているので出来なかったのだ。
 黒のワンピースの上に置かれている彼女の白い手が、指を絡め合って握りしめられている。なにかを覚悟しているような、祈るような時の仕草に似ている。
 ちらりと彼女の、そんな細い手を見下ろしてから再度黒髪の少女を見つめる。隻眼を細めてやると、同じように彼女の黒真珠の瞳が和らいだ。
「好き、とも少し違う」
 多分、だけれど。
 君が考えているような“好き”とは違う。
 断言し切れていない彼の解答に、彼女は少しだけ顔を顰めて首を捻った。分からない、という仕草だろう。眺めていた彼も、黙ったまま肩を竦める。
「好きでも……きらいでも、ないの?」
 確かめるようなゆっくりとした問いかけに、彼は逡巡を見せながらも縦に頷いて返した。益々彼女は顔を顰め、なんとか理解しようとして俯く。口元に片手をやり、必死に思考を巡らせている姿は健気にも映る。
「君は、じゃあ、さ。ユーリの事、嫌い?」
 考え中に中断させてしまって申し訳ないんだけど、と前置きをしてから彼は膝の上に肘を載せて問いかけた。伏せていた瞳を持ち上げた彼女が、また黒い瞳を翳らせて考え込む。
 若干の間があって、彼女は首を縦に振った。
「きらい?」
 それはそれは、意外だったと彼は驚きを隠さずに彼はことばを紡ぐ。彼女の声がそれに続いた。
「だって、あのひとは、スマイルのこと……」
 きらい、なんでしょう?
 最初の堂々巡りに戻る。
 喧嘩をするから、相手のことを嫌いだと認識している。単純な二次方程式に絡まった彼女の思考に、彼は苦笑を禁じ得ず口元を隠した。
「別に、好きあっている同士でも喧嘩をすることはあるよ?」
 自分は自分であり、他者にはなれないのだから完璧に相手と同調することは限りなく不可能の領域に近い。故に意志疎通のずれが必ず発生して、そこから生まれた軋轢により人は、不和を作り出す。
 テレビなんかのドラマでも、恋人同士が喧嘩をしているシーンがあるでしょう?
 たとえ話を持ち出そうとした彼だけれど、その瞬間に彼女が首を横に振ってまた驚いた。見たことない? と続けて尋ねると、今度は縦に首を振る。
 あらら、という声が一瞬だけ響いた。
「本当に?」
「うん」
 しつこく問い質しても、それ以外の返答は期待できそうになく。
 成る程、これでは人の感情に鋭敏でありながら理解出来ずにいるという、ちぐはぐな彼女の心理状態が形成されていった経過も分かる気がする。ぽりぽりと頬を撫でた彼がひとつため息を零し、そして床の上の胡座を組み直した。
「ぼくと、ユーリが喧嘩をしていたのはね」
 まず其処に戻る必要がありそうだった。だから記憶を巡らせ、先の喧嘩の理由を思い出す。
「ふたりとも、譲れないところがあったから、だよ」
 好き、嫌いの問題外の場所で。個々に別々の道を歩んで生きてきたからこそ、その間に出来上がった他人に曲げられたくない信念のようなものが相手を理解するときに邪魔になることがある。
 生きる道が平行して横並びになる事はあっても、決して道そのものが完全に重なってひとつになるわけではないのだから。片方の道にでこぼこがあっても、もう片方にはそれがなくって並んで歩いていたのに少しだけ速度がその瞬間だけ違ってしまって、そこからすれ違いが誕生することだってあり得ない話しではない。
 曲げられないもの、譲れないものがあるから喧嘩もするし、口論もするし、でもだからこそ、相手の事を理解しようとする努力も生まれてくる。
 そこから新しい関係が作り出せるかもしれない。
「…………そうなの?」
「そうなの」
 君の数十倍を生きているぼくの言うことを、信じなさい、と。
 茶化したような態度で彼は笑った。つられるようにして彼女も、口元を綻ばせる。
「じゃあユーリは、スマイルのこと、好きなの?」
 だからそんな、微笑みながらの無邪気な問いかけに一瞬彼は顔を硬直させて、それから微妙に困った顔をして視線を浮かせた。あてもなく彷徨わせ、しきりに頬を指先で弄る。
 決して彼女と目を合わせようとしないままに。
「あ~……どうだろう。そう、だと嬉しい……んだろう、けど」
 複雑そうに呟き、自分のことばに照れたように微かに頬を赤らめて彼は視線を伏した。
 不思議そうに彼女は首を傾げる。
「わたし、は……スマイルのこと、好きだよ?」
 これはこれで、思いがけない告白である。立て続けに動揺しないで済むはずがない事を言われ、彼は苦笑しながら頬を引きつらせた。
「アリガト……」 
 そうとしか返す言葉を見つけられず、そのままの顔で告げると些か彼女は反感を覚えたらしい。膝の上から床の上へ手をスライドさせ、僅かに身を乗り出して彼を下から覗き込む。
「うそじゃ、ないよ」
 至って真剣な顔をして告げる彼女は、可愛いし健気で純粋だ。例え彼女の言う“好き”がどの分類に属している“好き”なのかは別問題としても、真正面から本気でそのことばを差し出されると、照れもするし嬉しくなるのは致し方ない。
「ありがとう」
 今度こそちゃんと微笑んで、礼を告げる。
 彼女は漸く満足したようで、姿勢を戻した。
「ぼくも、君のことは好きだよ」
 軽い調子で、言う。微笑んだ隻眼は、横に伸びて細くなっていた。
「ほんとうに?」
 あまりにすんなりと差し出された彼の返事に、彼女は幾分驚いたようで、けれど素直に喜んでいる顔をしながらもなお、確認を求めてくる。追求されて、彼は二度、同じ仕草で頷きもう一度同じことばを繰り返してやった。
 そして、彼女から目を逸らし。
 半端に開いたままでいる扉の外を見やって。
「ユーリは、“大切”」
 好きや嫌いの領域だけで判断することの出来ない場所に居る、“大切”な存在。
 彼は瞳を伏せた。傍らに置いた雑誌の表面を指でなぞりながら、ことばだけを続ける。
「ぼくが“好き”って思ってる存在はこう見えても、結構少ないから、自慢しても良いよ?」
 それは本当、嘘じゃない。
 誰かを嫌うか、好むかの以前の問題で彼は相手のことをどうでも良い存在、と認識してしまう。そして一旦そちらに分類されてしまった相手は永遠に、余程努力を示さない限り、彼からは“どうでも良い相手”とだけしか認識してもらえなくなる。
 だから、彼の“好き”という領域はかなり入り口が狭い。その上で、中は有り余るくらいに広い。
「ありがとう」
 嬉しい、と素直に感想を述べる彼女の頭を撫でてやり、彼は微笑んだ。
 開きっぱなしだった扉から、階下でアッシュが昼食の支度が出来たと告げる大声が流れ込んできた。それを耳にした瞬間、彼はぽん、と彼女の方を叩く。
「行こうか、遅れたら怒られちゃう」
「うん」
 促されるままに彼女は立ち上がった。スカートの埃を軽く叩き落とし、くるりと素足の踵で方向転換してぱたぱたと、軽快なリズムで床の上を小走りに駆けだした。
 扉の前で一度立ち止まり、ようやく立ち上がったばかりである彼に声をかける。早くね、と急かして彼女は振り返りもせず部屋を出ていった。足音は、階段に敷かれた赤い絨毯に吸い込まれてじきに聞こえなくなる。 
 彼もまた階下へと向かおうとするけれど、今度は開かれた扉の前で立ち止まってくくっ、と喉を鳴らした。
「立ち聞き?」
「聞こえただけだ」
 細長い廊下を垂直に二分している扉を挟み、顔を見合わせることなく会話の絨毯が広げられる。不機嫌そうに言い返したユーリに、彼はまた喉を鳴らして笑った。
「そ?」
「随分と……」
 短い合いの手を破って、ユーリは地上階へと降りたってそこからリビングへ向かおうとする彼女の小さな後頭部を見下ろし、言う。
「ご執心のようだが」
 人間の娘に興味を持つとは、どういうつもりだ?
 扉があるので当然見えないのだけれど、そこにいる彼を向いて問いかける。胸の前で君だ腕を指で叩きながらの彼に、
「だって、可愛いじゃない」
 娘がいたら、あんな感じかな~、って思ってさ。
 随分とらしくない事を言いながら、彼は更に笑う。眉間に皺を寄せたユーリの顔を想像したのだろう、秘やかに笑う声を次第に殺して、息を吐く。
「心配?」
「なにを」
「べ~つに?」
 抽象的で曖昧な、主語を著しく欠いた彼の台詞に応対しながらも、ユーリはこんなやりとりは自分たちらしくないような気がしていた。それでいて、酷く自分たちらしい光景であるようにも、感じられて。
 組んでいた腕の片方を持ち上げ、鼻筋を押さえる。
「安心しても、良いよ」
 つと、告げる声が妙に柔らかい。
「彼女のことは“好き”な相手のひとりだけど、さ」
 キィと扉が軋んで緩やかに、弧を描きそれは閉じられる。
 本当に間近に立っていた彼に驚き、ユーリは目を見張った。
 そして視線を逸らす。
 意識しないままに顔が赤らむのが分かった。
 耳元に吐息を感じる。その瞬間、背筋が震えた。
「他のものに比べられないくらいに“大切”なのは、ユーリだけだから」
 囁かれ、掠めるように頬にくちづけされた。
 瞬間的にその場所から熱が生まれていく。湯気が立ちそうなくらいに赤くなってしまった自分に気がついて、ユーリは今触れられた場所に手を置きなるべく強めに、彼を睨み上げた。
「バカなことを」
「バカですから」
 知ってるでショ? そう言って彼は笑う、屈託無く。
 階下から再びアッシュの呼び声が響き渡って、今行く、と大声で返事をした彼はまだ頬を片手で押さえたままのユーリに、左手を差し出した。
「行こ?」
 楽しそうに、顔を綻ばせて。
 ユーリは一瞬だけ迷ったものの、一秒ほど彼の差し出した手を見つめ、それから彼の隻眼を見つめる。
 ふっ、と零した吐息にどんな想いが詰まっていたのか。
「痴れ者が」
 笑いながら呟き、そしてスマイルの手を取った。