Holiday

 街中を、彷徨う。
 行くあてなど当然ながら、ない。どこへ行こうかという思いすらそもそも頭の中にはなかった、ただ漠然と何処かへ行きたいと、それしか考えていなかったから。
 無駄に山を成している人混みを掻き分けながら、騒然としている世界を歩き続ける。季節外れの黒いロングコートに両手を放り込んだまま、無機質な世界を駆逐するようにただ前だけに進み続ける。
 視界に収まる電信柱と信号とを眺め上げ、あの信号が次赤に変わったら、あの角を曲がってみようと、そういう行き当たりばったり的な思考だけを残してそれ以外は放棄した。もし青だったならこのまま直進する。そして赤信号に出くわすまで、この道をただ真っ直ぐに進むだけなのだ。
 どこへ辿り着くかなど、予想も想像もしない。どこへ辿り着こうと構わないし、どこにも辿り着けなくても良いのだ。
 結局は、何処かへ――ここではない場所へ行ければそれで済むだけの事。
 喧噪と争乱で騒がしい限りの世界から抜け出して、静かに、空虚に時間を乗り越していければ。
 なにも考えずに、苦しみも喜びも遠く離れる事が出来るのなら、どれほどに楽な事か。
 なにも見つめず、映し出さず、また望まれもせず望みもせず、願いすら闇の中に溶けて消え失せる。
 存在さえも虚無に紛れて失われるような、そんな世界を求めていた。
 だというのに。
 ざわめく世界、色付く空間。
 ふと、そんな雑多に混じり合ってなんらかの感慨さえ浮かばせる事のない世界の一角において。
 さらり、と通り過ぎた音色に足が止まる。
 至極自然に、それがあたかも当たり前に設定された事物であるかのように。
 耳殻に流れ込んできた、軽やかでいて重みを含んだ、澄んでいながら色濃い音声に、背筋が震える。
 聞き間違いだと最初は思い、そして思いこもうとして、立ち止まったまま動くことを忘れてしまった足を叱りつける。
 動き止まない街の景色は、歩きすぎていく人々が好き勝手に立ち止まっているこの身体を押しつぶし、邪魔だと心の中で蔑んで去っていく。その声を聞きたくなくて耳を塞ぎたいのに、身体がまるで反応しない。
 聞こえてくるは、君の声。
 爽やかに、楽しげに――形作っている、あくまでも体面上の体裁を整えるためだけに用意された顔を使って。
『ええ、そうですね。音楽というものは、誰かを楽しませるだけのものではなく、なんらかの心に不足してしまっている穴を塞ぐ一因を為すものであると、考えています』
 質問者が差し出すマイクに向かい、伏し目がちに畏まった態度で言葉を紡ぐ君の姿が、目の前に聳える背の高いビル壁面を飾るテレビジョンに巨大に映し出されている。柔らかなクッションに背を預け、脚を組み、その一段高くなった膝の上で両手を結んでいる銀糸の、彼。
 あれは確か、先々週に収録された番組ではなかっただろうか。生番組であるとは到底言い難い編集のぶつ切りだらけな番組に、本当は出演を渋っていたくせに彼は最終的に、体面を重んじて出演を決めた。
 主に喋っていたのは彼だけだったものの、彼の後方に並ぶやはり柔らかな弾力を持つクッションに身体を預けている自分自身の姿も端切れながら、画面に見えた。
 膝から上部分と胸から下部分しか映し出されていないから、かなり滑稽である。
「……ユーリ……」
 営業の笑顔を絶やさない彼に、画面を見入っていたまだ年若い女性が数人、黄色く染まった悲鳴をあげた。彼女たちは今、自分たちの真後ろにその画面に映し出されている面々のひとりが立っていることに、まるで気付いていない。
 当然かも知れない。
 普段外すことがない包帯をすべて取り払い、その上常に隠し通している左目も隠すための包帯や眼帯を除去し、代わりに色濃いサングラスをかけている。黒のロングコートは異様ではあるものの、特徴を隠すのには一役買っていた。青白く化粧している肌も、人並みの色に変えているから、傍目からすれば少々風変わりな男、という程度にしか見えないだろう。
 誰も、この人物がdeuilのメンバーであるとは気付かない。
 彼は踵を返した。いつまでもこの場所に留まり続ける理由はない。収録場所には自分も存在していたのだから、彼が何を喋っていたのか思い出さずとも記憶している。目新しさはなにひとつ存在していないわけで、だから見ていても仕方がないのだ。
 ポケットに入れた両手を軽く握り、そこに汗がじっとりと浮かんでいる事に気付いて苦笑う。サングラスの下で両目が不釣り合いに細められた。
 後方の大型ビジョンでは、未だにユーリが録画された映像の中で喋り続けている。時折合いの手を求めて司会者はユーリの後ろに座る、バンドのドラムでありながらソロ活動も積極的に行っている人物にマイクを差し向けていた。
 思えばこの時、自分はただ座っているだけでひとことも言葉を発しなかったように思う。
 望まれていなかったのだろうし、そもそも自分は極端にバンドメンバーの中でも目立たない。そう仕向けてきたのは自分自身であるから、ある意味仕方ないといえばそれまでだろうけれど。
 リーダーはいたくその事を気にしていたような事を、今頃思い出した。
 誰かに注目して貰おうとも、誰かに好いて貰おうという気もなかったから、別段気にしてこなかったけれど……
「あぁん、どうしてスマイル映してくれないのよ!」
 後ろの方から、不満を口にする女性の声を直に聞いてしまって思わず吹き出してしまう。咄嗟に口元を隠し声も殺したものの、その瞬間に脇を通り過ぎていった人には不審に思われてしまったことだろう。サングラスで目を隠していなかったら、かなり怪しい人になっていたに違いない。
「なにを笑っている、貴様」
 人混みの中、憮然として立つ存在を思い出す。
 自分よりも数歩先を進んでいた背中が、前を向いて戻ってくる。
「べつに?」
「鼻の下が伸びているぞ」
 そんなにも若い女に黄色い歓声をあげられるのが嬉しいのかと、言葉尻に含ませて告げた彼に肩を竦めながら、笑って首を横に振ってみた。それでも納得できないらしい彼が、より距離を狭めて間近から睨んでくる。
「怒りはせん。素直に認めてはどうだ?」
 なにかを勘違いしているらしい彼が早口に捲し立てる横で、青信号に間に合おうと急ぐ人が肩をぶつけて走り去っていく。若干揺らいだ身体を立て直しながら、同じようにずれてしまったやはり顔を隠す薄紫色のレンズが嵌った眼鏡を直した彼に、二度首を振って先へ進むことを促した。
 目の前の信号は、交差点に辿り着く頃には赤に切り替わってしまっている事だろう。だから次の角は、左に曲がることにする。
 仕事が一段落ついて、朝から夕方まで予定が空いてしまった日の午後。
 なにかをするわけでもなく、ただ騒々しい街中を歩き回る事で終わらせてみようと思った、気紛れな時間。言い出したのは、どちらが先だったのか。
「君こそ」
 街中で、嫌というくらいに目立つ銀糸の髪は黒のウィッグで隠して更に念入りに帽子まで被って、眼鏡に普段なら殆ど袖を通さないカジュアルな衣服に身を包んで。
 ただ忘れずに首許には十字架をあしらったネックレス。細い指には少々重そうな印象を抱く、ごつごつした飾りのあるシルバーのリング。踵のない靴に不慣れそうにしながらも、アスファルトを快活に蹴って歩く君の、背中。
 名前を呼ぶことは憚られて、少し悩んで二人称で呼びかけると少し不満げに、彼は振り返る。相変わらずポケットから両手を抜き出そうとはせず、スマイルはサングラスの下で両目を細めた。
 片方だけが金色の瞳が、スモッグに煙る地上に揺らぐ。
「ちゃんと、名前で呼べ」
 この人混みの中でそんな抽象的な呼び方をされても、次からは返事をしないぞと脅しをかけてくる彼に、もし誰かに見付かり出もしたら? と言葉を返すけれど。
 ユーリは不遜に笑んで、自信満々に胸を張った。
「今日はオフだ、仕事は一切無しだ」
 寸分の迷いも逡巡さえなく断言し、人差し指を突き立てる。
 思わず呆れてしまったスマイルにもう一度笑いかけ、彼は踵を返した。
 赤信号だろうと思った目の前の三食団子は、いつの間にか青へと切り替えられている。このままでは直進せざるを得ない。
「行くぞ」
 この道がどこまで続くのかは、知らない。どこかで行き止まりにぶつかるかもしれない、そうなる前に角を曲がって新たな道に交わるのかもしれない。
 どこへ行くのかなんて、今はまだ知らない。
「はいは~い」
 ポケットの中で握っていた手を解く。浮かんでいた汗は、暫く放置しておけば気化して跡形もなくどこかへと紛れた。
 サングラスの色越しに歪んだ世界を見つめる。
 その中で、唯一真っ直ぐに映し出される空間。中心に柱のようにそびえ立つ、君。
 揺るぎない自信と、確固たる信念と、それでいて酷く脆く砕けやすい精神を持ち合わせた、君。
 君はいったい、何処へ行くの? どこまで行くの?
 背中に声無く問いかける。
「あ」
 ゆっくりと進んでいる間に、人波は速度を落として間もなく、信号は明滅して赤へと切り替わってしまった。白とアスファルトの色とが交差するゼブラ地帯に取り残された人々が、大急ぎで駆け抜けていく。また、切り替わった直後であれば対向車線から走り込んでくる乗用車が無いことを確認した上で、違法を承知しながら駆け出す人の姿もいくつか見受けられた。
 速度を落とし、完全に制止した人の群れに背後につき、ユーリはほんの少し退屈そうに背後を降り仰いだ。
「曲がるのか?」
「そうだねぇ……」
 最初から目的地など無い。どこへ行くのかも定まらず、どこか行きたい場所があるわけでもなし。
 ただ歩き回るだけの、そんな時間の過ごし方。
「曲がる?」
「そうだな」
 青信号なら直進、赤信号なら進める方向に曲がる。それが最初に決めた、たったひとつのルール。腹が空いたならその近くにあるありふれた喫茶店で茶を飲み、疲れたならやはりそこらにある店で休み、気が向けば店舗も覗いて、気ままに、好き勝手に、ただ思い立つ道を進むだけ。
 何処へ行くのも自由。
 何をするのも、自由。
「ね、ユーリ」
 道端に掲げられた大きな看板を目にして、スマイルが前を行く背中に声をかける。
 ユーリが見たのは、平日の昼間だと非常にお安く設定されているカラオケボックスの宣伝文句だった。一時間ワンドリンク制で、ふたりで利用しても五百円硬貨でお釣りが来るという値段に、金銭感覚がただでさえ狂いがちなユーリは眩暈を覚えた。
「歌って行こうか」
「今日くらい休ませろ」
 とは言いながら、休日に身体を酷使して行くあても定めず方々を歩き回っているのは誰でしょう。疲れたんだよ、とにべもなく告げるスマイルに、ユーリはこめかみを眼鏡の上から押さえた。
「昨日まで散々歌ってやっただろう」
「チガウヨ、ユーリ」
 片言になりながら、サングラスの裏で瞳を細める。裏道に紛れた所為か先程よりも人波が減った中でも、カラオケに繰り出す若者は多いのか、時折看板の横で立ち止まっている男ふたり組を奇妙な目で見つめながら人は通り過ぎていく。
 さすがのユーリも人目を気にしてか、声を潜めさせた。入り口付近で待ちかまえる店員も奇異な目を向けてくる。
「なにが違うと?」
「だってさ~、昨日のコンサートでユーリが歌ってたのは」
 ファンのみんなのため、でしょう?
 間違っても彼の歌声は、目の前に波模様に広がるファンの為に捧げられたものであって、背景として音を作り出しているバンドの面々の為に紡がれた音色ではなかったはずだ。
「だから、さ。ユーリ」
 唄ってよ。
 ぼくのために。
 他の不特定多数の、顔もろくに見えやしないし知りもしない相手の為に、などではなくて。
 目の前にいる、他でもないこの身の為に、その声を捧げてはくれないか?
「……我が侭」
「それが取り柄ですから」
 ややして、呆れ調子に溜息を零すついでに呟いたユーリに、にっこりと微笑んでスマイルはあっけらかんと言い放った。
「高いぞ?」
「ん。でも料金はお安く設定されております」
 わざとらしく看板を手の平で指し示して、店員の宣伝文句を口にし、それから喉を鳴らして笑う。ようやくユーリもふっ、と表情を緩めた。
「貴様持ちだからな」
「それは授受承知の上。誘ったのはこっちだし?」
「分かっているのなら、それでいい」
 多少汚いように思える店構えではあるが、今日はオフ。行き当たりばったりの散歩を強行しているわけだから、こういうことだって起きても不思議ではない。
 たまになら、良いか、と。
 一旦閉じた目を開いて、ユーリは静かにひとつ頷いた。