Piano

 軽やかに鳴り響くピアノの音色に、広すぎる城内を彷徨っていた彼女はふと、足を止めた。
 案外に近い。防音設備が整っているからだろうか、この距離にまで接近しなければ気づけなかった音色に僅かに首を傾げ、彼女は音がする部屋の扉へと進んだ。そしてなるべく慎重に、ピアノの音色を邪魔しないように心がけながらノブを回して押し開く。
 自分の顔の半分程度開いて、中を覗き込むとやや薄暗い室内に置かれたピアノを前にして座っている背中が見えた。
「あ……」
 小さく声を漏らし、もう少し手に力を込めて扉を開いてみる。ほんの少し起きてしまった蝶番の軋む音に、怯えたように肩を縮めながら彼女はその細い肩に揃えるようにカットされている髪の毛を揺らした。
 髪の色と同じ漆黒のワンピースが裾をはためかせる。ドアノブに両手を預けるようにして添え、ドアに体重の半分を預ける格好のまま、彼女はよりはっきりと視界におさめることが出来るようになった人物を見つめた。
 普段の様子からではとてもピアノを奏でるような性格には思われないのに、ひとたび黒塗りの大きなピアノを前にしてしまうとその思いも呆気なくうち砕かれてしまう。スタインウェイと言われる超高級ピアノを難なく弾きこなす彼の背中は、時折リズムに合わせて左右に揺らいだ。
 じっと、入り口に立ったまま眺め続ける。
 奏でられている曲名は彼女の知らないものだった、だけれど心安らぐようなそんな雰囲気がある。優しいメロディーに心預けていると、不意に音が止まった。
 邪魔をしてしまったのだろうか、びくりと体を震わせて彼女は扉から身体を半歩分退いた。しかし背中を向けたままの存在は左手を脇に伸ばしてペンを取り、手早くスコアに何かを書き込んでいった。ペンが置かれると、再びその手は鍵盤を弾いて多重の音色を奏で始める。
 ホッと、何故かそんな息を吐き出した彼女に、だけれど、
「中に入っておいでよ」
 予想していなかった呼びかけに、またしても身体が緊張を覚えて立ちすくんでしまう。気配を察したのだろうか、次に続けられた言葉には若干の笑みが含まれていた。
 カラカラとまでは行かずとも、楽しげな様子が伝わってくる。
「こっち、おいで。怒ってるわけじゃないから」
 片手だけでメロディーを爪弾きながら、もう片手で手招きをする。その間も彼の眼は前を――ピアノを見据えたままだった。
 恐る恐る彼女は足を踏み出した。扉から離れ、冷たいフローリングの床をゆっくりと進んでいく。足裏に伝わる温度の低さは、彼女がその足を庇うものを一切纏っていない事が原因だった。
 用意されたスリッパは上物すぎて、自分が履くことも憚られたからベッド脇にそのまま置き去りにしてきてしまった。
 ピアノの音色が近付き、鍵盤の白と黒が視界に納まり始めた頃、ようやく彼は片方だけしかない瞳を持ち上げて彼女を見た。血よりも赤い丹朱の瞳が、漆黒に染まる彼女の双眸を見つめ返す。
 にこりと、先に微笑まれた。
「よく眠れた?」
「……ピアノ」
「ん?」
 朝食は食べたの? という問いかけには首を横に振って答える。食堂へ行こうにも、その食堂へ行く道順が分からなかったし案内してくれる人も居なかった。目が覚めれば部屋にはひとりきりで、洗濯を終えてアイロンもきっちりかけられた服が置かれていただけ。それで不安にならずに済む方が可笑しい。
 全部を言葉で説明されたわけではないが、「誰も居なかったから」という返事で一通りの事情を察した彼は薄く笑みを浮かべたまま、困ったように肩を竦めた。
「お腹空いてる?」
 壁に据えられた時計を見上げれば、朝食の時間帯にはほんの少し遅い感じがする時間帯だった。もうじき行けば大工のおやつ時間になってしまう。いわゆる、十時。
 鍵盤を見ずとも音を紡ぎ続ける器用な彼の手を見下ろしたまま、彼女はふるふると二度首を横に振った。そう、と彼はそれだけを短く返し、一旦手を止めてまたスコアになにやら記号とコードを書き込み始めた。
 機械的にも思われる動作を不思議そうに眺める彼女に、彼は乱雑なメモになってしまっている紙を見せてくれた。時折詩のような言葉も書き込まれているそれは、本当にメモ程度としか彼女には分からなかった。
 だけれど彼にとっては、それは新曲を作る為の大事な資料。ノルマの提出が迫っており、残る曲目の作成に彼も彼なりに必死な時期なのである。
「ピアノ」
「ん」
 ぽろん、と表面を撫でるようにコードを順に引いていった彼の耳に彼女の呟きが届く。じっと見つめられたままのスタインウェイもどこか照れくさそうだ。
「……じょうず、だね」
「ああ」
 ちゃんとした曲の形を成したものを弾いていたわけではないので、今のところだけを聞いて上手か下手かを判別されるのは本当のところ、彼としては不本意だった。けれど少女の純粋な感想であり、この場合はありがたく受け取っておくことにする。
 でも、と彼は続けた。
「ユーリの方がもっと上手だよ」
 鍵盤楽器はどちらかというと、不得手な方なんだよと告げると彼女は少し不思議そうに首を右に揺らした。
「そうなの……?」
「うん」
 問いかけに頷いて返し、彼はまた鍵盤へ向き直る。けれど両手をいざ弾こう、と構えたところで空中に停止させた。
 身体はスタインウェイに向けたまま、少女に視線だけを向ける。
「リクエストとか、ある?」
 今だけ特別に、聴きたい曲を弾いてあげると、と彼は笑った。但しぼくが知ってる曲だけだけどね、と後から付け足して。
 少女は少し困ったように顔を翳らせた。彼の座る背もたれのない椅子に寄り添うように立ち、思案顔で俯く。口元にやった右手は透けるように白く、ガラス細工のように細い。
「えっと、ね……」
「これなんかは?」
 結論が出ずに困っている少女に助け船を出すつもりで、彼は言われるより先に指先へ力を込めた。
 両手を器用に動かしながら奏でる曲は、童謡。
 子供達の遊び唄。

 かごめ かごめ
 かごのなかの とりは
 いついつ でやる
 
「その唄、……きらい」
「え」
 ぽつりと、聞き漏らしてしまいそうな程にか弱い声で呟かれたことばに、彼はそのタイミングで手を止めた。中途半端に浮いてしまっている手をゆっくりと鍵盤上に下ろす。
「嫌い?」
 彼女の名前と同じ曲、だけれどそれを嫌いと彼女は言った。俯いたままでいる彼女を暫く眺めたのち、彼は困ったように左手で頭を掻く。隻眼を細めて零した息は、鍵盤の隙間に沈んで音もなく消えていった。
 問いかけに、彼女はひとつ頷くだけ。
「わたしは、いつもまんなかでひとりぼっちだもの」
「…………」
 押し殺すように囁かれた言葉は聞き流して終わりにする。一瞬流れた重苦しい、それでいて居心地の悪い沈んだ空気は、スタインウェイが落とした一段と高い音によって揉み消された。
 とん、とん、とん。
 同じキーを何度も弾ませた彼の指先がやがて、ひとつのメロディーを演奏し始めた。それは耳に良く馴染んでいる楽曲。軽快な音色と、楽しい歌詞でも知られている。
「これ、知ってる」
「知らないは知らないで、凄いと思うけどねぇ」
 苦笑しながら彼はメロディーが一巡すると、調をひとつずつずらしてまた一巡させ、そしてまた調を変えていく。次第に表情を綻ばせていく彼女を見上げて安堵の息をもらし、四巡させて彼は手を休めた。
 面白かった、と彼女は言った。最後の方ではついつい、ピアノに合わせて身体を揺らしてリズムまで取っていたその曲名は『ねこふんじゃった』。
 ふぅ、と長めの息を吐き出した彼は改めて少女を仰ぎ見た。隻眼を緩め、小首を傾げて問いかける。
「リクエストは御座いますか? お嬢さん」
 笑んだ彼に、彼女も笑みを返す。控えめな、春先の野原に咲く小さくて白い花のように。
「あの唄が、いい」
「どの?」
「つばさ、……」
 言いかけ、途中で彼女は口澱んだ。タイトルを言おうとして思い出せなくなったのだろう、視線を泳がせた先がなにもない空間に宿る。窓から差し込む光に心持ち目を細め、困惑を顕すかのように艶のある黒髪を左右に振り、落ち着きなく指を曲げ伸ばしさせた。
 その彼女を眺め、彼は左手で鍵盤を幾つか押した。固めに調節されたそれが抵抗し、半ば程まで沈んでそれ以上進んではくれなかった。
「歌詞は覚えてるの?」
 彼女を見ぬままに問いかければ、控えめに少女は頷いた。返事に視線を持ち上げた彼と目があった瞬間、彼女は避けるように顔を逸らす。
「出だしだけでも歌ってくれたら、多分分かるよ」
「でも……」
「歌うの、嫌い?」
 重ねて問いかけると、彼女は遠慮がちに首を振った。しかし抵抗感が残るようで、口元に手をやって形良いピンク色をした唇を隠してしまう。
 ふっ、と彼は吐息を零して微かに笑った。鍵盤に向き直り、スタインウェイの表面を軽く撫でてやる。
「多分、君の言ってるのはこれの事だと、思うけど」
 違うかな、と呟きながら彼は鍵盤上で軽やかに両手を踊らせた。
『翼をください』
 そう名付けられた曲を、若干のアレンジをくわえて彼は奏で始める。演奏に耳を傾けながら、少女は些か驚いた顔をして彼の手元を凝視した。
「飛んでいきたい?」
 歌詞になぞらえ、彼はそう尋ねた。鍵盤上に指先を滑らせながら、前だけを見据え続けている彼に少女は小さく、頷く。
 どこへ、とは問われなかった。ただ、そう、と短く返されるだけで会話は途切れた。

 今、もし
 この願いが叶うのならば
 私の背中に真っ白い翼を
 そして自由の空へと羽ばたかせて