まさに春爛漫と言わんばかりの穏やかな空模様の午後。ユーリはいつものようにテラスのパラソルの下でのんびりと、午後のティータイムを楽しんでいた。
陽射しは柔らかく温み、空から地上を見下ろしている陽光も限りなく優しい。パラソルが作り出す木陰に椅子を置きその上に腰を下ろした彼は、ゆったりとした気分で紅茶を口に含む。
伸ばした片手は真っ白いクロスが被せられた丸テーブルに据えられた、やはりこれも真っ白い平皿の上に盛りつけられた焼きたてのクッキーに触れる。人差し指と中指だけでひとつ摘み上げ、軽く前後に振って形と色を確かめながら口元へと運んだ。
カリッ、と前歯で囓れば焼きたての芳しい香りと、なんとも言えない仄かに甘い味が舌全体に広がる。まるで魔法の粉を使っているのかと思わせるほどに、それは市販されているものとは明らかに異なる味をしていた。
「アッシュ」
傍らでまるで執事のように控えているバンドメンバーに声を掛け、半分ほど囓ったクッキーを彼に示す。これを作ったのは彼であり、ユーリが感じた味の秘密を知っているのもまた、作成者である彼だけなのだ。確か、テーブルに運ばれてきた時にオリジナルだとアッシュが自ら口にしていたから。
「これは、どう違うのだ?」
穏やかな空気が周囲を流れる。時折吹き付ける風は遠く、どこかの青く茂る若葉の香りや、咲き乱れる色鮮やかな花々の香りを運んできてくれる。
静かに瞳を閉ざし、そして再び開いて、ユーリはアッシュを見た。紅茶のポットを両手で支え持っていた彼は、待っていましたとばかりの顔つきで一歩ユーリへと近付く。
「それはっスね」
いつもの口調で彼はユーリに語りかける。ポットにまだ沢山残っている紅茶がちゃぽん、と揺れて音がした。
「実はっスね……」
やけに神妙な顔をして、いかにも秘密ですよ、という雰囲気でアッシュは声を潜めてユーリに近付く。ユーリもつられ、つい真剣な顔になってアッシュに次の言葉を待つ。ごくり、と唾を飲み込む音を立てたのは果たしてどちらだったのか。
一呼吸置いて、アッシュが喋る。
「隠し味に、鷹の爪を少々……」
「アッシュ」
しかし、硬質になっていた空気はアッシュが台詞を最後まで言うことなく見事に砕け散った。
いくらユーリであっても、“鷹の爪”と呼ばれる食材が何であるかくらい知っている。そしてそれが、この微かに甘い味を作り出すものではない事も承知している。
だからアッシュが言ったのは、紛れもない嘘。
そう、冗談。
「……ユーリ……」
最後まで言わせて欲しいっス。
泣き言を言うアッシュに一瞥を加え、ユーリは手元のカップに残っていた紅茶を飲み干した。溶け損ねた砂糖が底の方に沈殿していたらしく、最後は妙に舌の上で甘ったるい味が残る。
無言のまま彼はアッシュへ、空になったカップを差し出す。
アッシュはまだどこか無念そうな顔をしつつもユーリには逆らえず、同じように無言のままカップへ暖かい紅茶を注いだ。
白い湯気が薄く、春の空へと昇っていく。
その光景をしばし見送って、ユーリはカップへ自分でミルクを数滴垂らした。ティースプーンで掻き混ぜると、薄茶色い液体の水面に白い渦が描き出される。暫く見送れば、ミルクは完全に紅茶と混じり合って半透明だった液体を薄く濁らせた。
ひとくち含むと、優しい味が広がって砂糖の甘さをうち消してくれた。
「ふぅ」
息を吐き、カップをソーサーへと戻してユーリは空を仰いだ。パラソル越しに見える太陽は薄い雲に囲まれて、輪郭を若干ぼやけさせている。だがその分陽射しは落ちついているし、直射日光を遮断してくれていてユーリにとっては救いだった。今日のような天候でなければ、とても外で茶を飲もうという気分にはならなかっただろう。
日光で灰になる事はないが、苦手である事に違いないのだから。
一息ついてユーリは食べ差しのクッキーを口に放り込んだ。数回咀嚼し、飲み下す。ごくり、と上下した喉を見送り、アッシュは持ったままだったポットをテーブルに戻した。ティーコジーを被せ、テーブルを挟む格好でもうひとつ置かれている椅子を引く。
その椅子にアッシュが座ろうとした時。
午前の早い時間からずっと姿を見かけなかったスマイルが唐突に、屋内と屋外を繋ぐドアを勢い良く開けて現れた。
「此処にいた!」
扉の蝶番が壊れるのでは、という凄まじい勢いでドアを開け放ち、テラスへの第一歩を果たした瞬間に彼は叫ぶ。そして即座に、何かを握っているらしい左手をサッと背後に回した。
ユーリとアッシュ、同時に彼を振り返って奇異なものを見る目つきを作り出す。伸ばそうとしていたティーカップへの手を引き戻し、ユーリは眉間に皺を寄せる。だけれどもスマイルは一向に構う様子無く大股で近付いてくる。
ユーリの方へ、と。
意外に長かったようで短かった距離を詰め、スマイルは椅子に深く腰掛けているユーリの前で立ち止まった。完全にアッシュは視界に入っていないようで、無視された格好のアッシュは少し寂しげに、ティーコジーの縫い目からはみ出ていた糸を引っ張る。
「ユーリ」
「なんだ」
不躾に名前を呼ぶスマイルに、彼はまだ険しい表情をしたまま視線を上げる。鋭くなりきれない瞳は太陽を背景にして暗く、表情の見えづらくなってしまっているスマイルを射止めた。
にこり、と彼は恐らく微笑んだはずだ。そして瞬時に表情を消し、固め、それから。
今まで隠していた左手をサッとユーリの前へと差し出した。同時に右手を使い、左手で持っている小さな白色の箱の蓋を開く。
日の光を浴びて、箱から現れた物体が鋭く輝いた。
表現するとしたらキラン、と。それも嫌味なようで、けれどいやらしくない上品な、それでいて甘ったるいくせに清楚な輝き。
ユーリは目を見開き、己の目に映し出されたそれを凝視する。それから視線を上向けてスマイルを見つめたタイミングを待っていたように、スマイルはにこにことした顔のまま忙しなく台詞を繰り出してきた。
息継ぎは、ない。
「ユーリ好きだこの世で一番というか世界中の誰よりも君のことを愛してるだからぼくと是非結婚して欲しいんだけどって言うか結婚しようそうしよう絶対に幸せにするし永遠にこの愛は破れないって太陽に誓えるからいやこの世の生きとし生けるもの全部を敵に回しても君だけを愛して守り抜くって誓うからだからこのぼくと結婚してくれないか必ず幸せにするからユーリ!!」
全部言い終えてから、彼はふー、と長く深い息を吐いた。言い終えてすっきりしたのか、いつになく爽やかな笑顔を浮かべている。額に浮いてもいない汗を拭う仕草をして、左手の箱をユーリへと差し出した。
虹色の輝きを放つダイヤモンドがユーリの前で明滅している。
向こう側でアッシュが、ムンクの叫び宜しく奇怪な表情と仕草を作って硬直していた。ユーリでさえも、アッシュほどではないが呆気にとられた顔をし、ぽかんと開いた口を閉じることも忘れてスマイルを凝視している。
にっこりとスマイルが笑いかけると、途端に爆弾が爆発する音がして彼の顔は真っ赤になった。
「なっ、なにを!?」
「もう一回言おうか?」
「いらん!」
すっかり狼狽して混乱の極みに達しようとしているユーリに笑いながら言い返すスマイルに、ユーリは即座に否定の言葉を叫んで差し出されている指輪も箱ごと押し返した。だが否応が無く赤くなる顔は押さえきれず、ばくばく鳴り響く心音も納まりが利かない。
片手で頬を押さえどうにか平静を取り戻そうとするのはなにもユーリだけではなく、アッシュも危うく前に意味無く飛ばした腕がポットにぶつかってしまいかけ、慌てて引き戻していた。椅子の脚ががごっ、と床と擦れて痛い音を立てている。
ぷっ、とスマイルが吹き出したのはまさにそのタイミング。
先に我に返ったのはアッシュが先だった。
「ふっ……!」
口を右手で押さえ、堪えきれない笑いを必死に噛み殺そうとして肩を震わせている彼の不可解さにユーリも気付く。奇異なものを見る目で彼を見つめ返せば、スマイルは懸命に大笑いしそうになるのを耐えながら後方へ一歩半ほど、退いた。
その隻眼はユーリも、アッシュでさえ見ようとしない。
「スマイル……?」
怪訝な表情で名前を呼ぶが、笑いの限界で踏み止まっているスマイルは返事をする余裕もない。肩を小刻みに震わせながら、ついには涙目になっている彼を見つめていたアッシュが先に、ピンときた。
今日は、4月1日。
さっき自分がユーリに、程度の低い嘘をつこうとして見抜かれて睨まれた事を思い出す。
そう、今日はエイプリル・フール。一年で一度だけ、嘘をついても許されてしまう日。
だから、か。
ひとり納得顔をして頷いたアッシュはすっかり平常心を取り戻し、だけれどよりにもよってそういう冗談は酷すぎやしないか、とユーリを少しだけ気の毒に思う。彼はまだ気付いていないようで、返す言葉に困る口をぱくぱくさせていた。赤い顔は耳まで綺麗に染まっていて、彼の心内が容易に知れる。
「ユーリ」
まだまともに喋れないで居るスマイルに代わり、アッシュが言葉を挟んだ。
「今日は、エイプリル・フールっス……」
自分で嘘をつこうとして失敗していた立場上言いにくかったが、このまま彼を信じ込ませたままで居るのも気の毒に思え結局、弱々しい声ながら彼に告げる。スマイルが言っちゃダメじゃないか、と涙目のままアッシュを睨んだ。
ユーリが間の抜けた顔をしたままアッシュを見返す。そして約五秒後、冷水を被ったかのように我を取り戻した。
俄にユーリの顔色が、別の意味での赤に染まっていく。即ち、怒りの赤へ。
「スマイル!」
「だっ、だってユーリってばあんまりまともに受け取るから……!」
てっきり今日がエイプリル・フールだと知っているものと思っていたスマイルが、言い訳がましく逃げ腰で怒鳴るユーリに言い返した。
しかしわざわざその為だけに本物のように指輪を用意してくる辺りどうかと思う、とアッシュは言わなかった。
「……で、返事は?」
未だ逃げ腰気味のままスマイルは問いかける。
ユーリが頭の上に「?」マークを浮かべ、スマイルを見返す。そこまで意地が悪いかと、アッシュは人知れず肩を竦めた。
春の風が吹き、ユーリの銀糸を揺らがせる。それはまるで彼の心境を現すような風で、彼を乱し、そして一息置かせた。
「え……」
今日は、嘘つきの日。
嘘には嘘で、返しても問題が無い日。
けれど、スマイルのついた嘘に嘘で返すためには“Yes”と返すしかなく、そしてユーリはその返事を口が裂けても大地が裂けても、言えるはずがなかった。
だからこそ、アッシュはスマイルの冗談を意地が悪いと感じたのだ。
「はい」とも言えず、ましてや「いいえ」と答えれば肯定の返事と取られかねないこの状況でユーリは、どう返して良いのか分からず低く呻いた。恨めしそうにスマイルを睨み、けれど彼は涼しい顔をしてユーリを見下ろしている。
テーブルの上に置いたままの彼の指先が、冷たくなってしまったティーカップに触れた。
「それ、は……」
「ユーリ」
今日は4月1日で、嘘をついても良い日だと言われているけれど。
スマイルが彼から視線を外し、薄い雲を広げている天頂の青空と太陽を見上げて言った。つられてその場に居るふたりも顔を上げる、風は優しく穏やかで陽射しは柔らかい。遙か彼方の地平からは、春の香りが心地よく伝えられてくる。
目を閉じれば、光景が思い浮かぶほどに。
静かに、スマイルは言った。
「だからって、今日は嘘だけを言わなくちゃいけない日でもないんだよ」
嘘は、嘘。
けれどあるがままをすべて偽りで塗り替えてしまえるほど、生けるものたちは器用ではない。許される嘘、けれどなにもかもを嘘で固めてしまえるほど、ひとは欺瞞に満ちているわけでもない。
スッと伏せられた瞳が陰り、丹朱が濁る。
沈黙したままユーリは彼を見送り、ひとつ息を吐いた。アッシュも視線を前方へ戻し、ふたりを見守る。緩く首を振って右のこめかみを手首の内側で軽く叩いた。
「……そう、だな」
嘘ばかりをついていても、疲れるだけだし。
嘘じゃない事を言っていけないという罰則は、どこにも規定されていない。
だから、と。
ユーリはようやく取り戻せた平常心でスマイルを見返した。真正面から彼を見据え、決して逃さない魔の力を秘めた紅玉を輝かせる。
「お断り、だ」
誰がお前なぞと生涯を共にするものか、と薄く舌まで出して彼は笑った。気持ちよさそうに、春の風に煽られながら。
「ちぇー」
つまらなそうにスマイルは唇を尖らせた。手にしていた指輪の収まった箱の蓋を閉め、懐に戻そうと動く。
けれど一足早く、ユーリは椅子の上から手を伸ばして彼の手首を掴んだ。一瞬顔を顰める彼の力が込められていない手の平から、素早く箱を奪い去ったユーリがにっ、と牙を見せて笑む。
蓋の閉められた箱を揺らし、クッション材に埋もれている御陰で音もしない指輪を彼に示した。親指と人差し指でクッキーを摘んでいた時と同じように前後に揺らして四角い形を確かめ、
「だが、これは」
嘘だけをつく日ではないのだろう? 先程スマイルが自分から言った台詞を瞳で告げ、箱の表面に軽く口付ける。
「有り難く受け取って置こう」
パッと見だったので詳細までは目が行かなかったが、デザインからしてどう考えてもこの指輪はユーリ用に設えられたものであろう。明らかにスマイルが身につけたがるジュエリーとは姿形からして違う。そもそも、スマイルはダイヤなど身につけない。
「ちぇー」
更に唇を尖らせてスマイルは不満を露わにしたものの、ユーリの手から箱を取り返そうとはしなかった。
アッシュが溜息混じりに肩を竦める。そしてポットからティーコジーを取り去り、布巾の上で裏返していた別のティーカップを表にする。まだかろうじてぬくもりが抜けきっていない紅茶をカップに注ぎ入れ、スマイルへと差し出した。
「ダージリンのファーストフラッシュ、っス」
「アリガト」
受け取ったスマイルは椅子が無いため、立ったまま紅茶を口に運んだ。春の一番茶らしいみずみずしい香りと味がいっぱいに広がり、何とも言えない気分にさせてくれる。
「これは、嘘じゃないよね」
「本物っスよ」
苦笑混じりにアッシュは答え、自分のカップにも残っていた紅茶を注ぎ込んだ。ユーリは指輪を胸に納め、すっかり冷めてしまった紅茶をひとくち飲んだ。続けて残り少ないクッキーへと手を伸ばし、口に運ぶ。
穏やかさを取り戻したテラスで、のんびりとした時間が流れ始める。
「ま、全部が嘘だとか、本当だとか、言わないし」
すっかり無かったことにされつつある先の出来事を振り返りながら呟いたスマイルに、
「信じる、信じないも貴様の勝手だ」
ユーリは顔も見ずに答え、クッキーを呑み込んだ。