Gale

 はらはらと、舞い散る薄桃色をした花びらに手を差し出す。
 けれど花びらは、気紛れに吹き荒んだ風に煽られて手の平の手前ですぅっ、と方向を変えてしまった。そのまま足許へ、揺らめきながら落ちていく。
「あ……」
 ワンテンポ遅れて呟き声を零し、視線を既に若草色の中に埋もれてしまった薄桃色へと向けた。が、日の光を受けて眩しく輝いている芝の中に沈んでしまった小さな儚きものを見つけだす事は困難であり、細めた瞳のままそっと息を吐く。
 間際を枝から溢れ出すばかりに咲き乱れた桜の花弁が、細雪のように降り注いでいる。顔を上げれば、太陽の光を遮ってまるで緑の葉の代わりに栄養を集めようとしているような、立派に枝を広げた樹木が目の前に。どれだけの年代を経てきているのか、見事なばかりの枝振りをした桜に、自然と嘆息が溢れる。
「溜息って、さ」
 不意に声がして、けれど振り返らずに桜の花々を眺め上げ続ける。返事が無いことにも気を悪くした様子無く、声の主はゆっくりと歩み寄りそして真横についた。
 ちらりと、目線だけで窺い見る。彼はこちらを観ずに同じように、桜の花を見上げていた。
「溜息が、どうかしたのか」
「ああ、うん」
 自分から話題を振っておきながら、途中で話題を忘れていたらしい。思い出すことを促した彼の声に、苦笑を浮かべて頬を引っ掻く。だけれど相変わらず単眼の丹朱は光を一面に浴び、豊かに花を咲かせる桜に向けられたままだった。
 彼から桜へと、自分もまた目線を戻す。暫く会話は途切れた。
 風が吹き、先の細い枝がゆらゆらと揺れる。五枚の花びらで構成された桜の花が、その度に不安定を訴えるように枝にしがみつく。けれど力無く項垂れたものたちは、足早に地上へと沈んでいくのだ。
 手を差し伸べたところで、それを助ける事は不可能。
 軽く地面の、冬を抜けて春を迎え色鮮やかに緑を奏で始めた芝を踏みしめた。刈り揃えられる前の、背が不揃いな彼らは力を込めて意地悪く潰されたことに苦情を言うように、足の裏からはみ出て来てまた身体を立て直す。
 力強く、決して負けるものかと言わんばかりの姿。
「溜息って、ついた数だけ寿命が縮むんだって」
 知ってた? 問われ、目を向けるといつの間にか彼は自分の方に向き直っていて驚く。顔にはなるべく出さないように、平常を装ってからそれがどうした、と目を細めることで問いかけるが、返事はなかった。
 ただ曖昧に微笑むだけで。隻眼の赤が楽しげに彩られ、見つめている方が不愉快さを覚えさせられる。
 むっと顔を歪ませると、彼は何かを察知したらしく反論を受ける前に予防策として、ゴメン、と小さな声で誤ってきた。
 出鼻を挫かれた格好になり、言いたかった言葉がするりと頭の中から抜け落ちて行ってしまう。結局なにも言い返せなくなって、開きかけた口を固く結んで気を取り直す為に桜を見上げる。
 庭に咲いた、桜。林のような高大な庭を持っているくせに、何故か城内に咲く桜はこれ一本だけ。疑問に感じた事はなかったが、もっと沢山生えていても良いのでは、と毎年この季節になると考えてしまう。
 ただ考えるだけで、行動に移さないから未だに桜はこれ一本だけしか聳えていないのだけれど。けれど例え群生していなくても、この桜は見事な花を咲かせて存在感を主張しており、決してこれ以外の花々に負けているとは言い難く。
 詰まるところ、桜がこれ一本だけであっても他の景色に紛れてしまうことなく、むしろ際立った存在として目に映るのでさして気になるわけではないのだ。それでも、こうやって樹下から咲き誇る桜を見上げていると、そこだけ浮き上がったかのようにうっすらとピンクに染まった白が空に紛れて、なんだか物悲しい気分にさせられるのだ。
「迷信だろう」
「うん」
 溜息の話に戻る。桜を見上げたままぽつりと返せば、同じようにぽつりと言葉が返ってきて横を見れば、薄い笑みさえも消してしまっている彼が神妙な顔つきで空を観ている。
 空と、空の手前にある桜の花々とを。
「そんなもので寿命が減っていたら」
 百年に満たない寿命しか持たない人間など、簡単に死滅してしまうだろう?
 嘲笑うようにして問いかけの形を借りた言葉を告げると、彼は変わらぬ表情のまま言葉もなく、頷いて返すだけに留まった。もし此処で彼の横顔を窺っていなければ、返事を知ることは出来なかっただろう。
 ひとつしかない瞳で、彼は目の前に広がっているこの季節だけしかお目にかかることの出来ない世界を見つめている。その世界には今、空と桜しか見当たらないのだろうか。
 此処にいる、この身体は彼の意識の外だ。
「それとも、お前はなにか」
 私に寿命を尽きさせたいのか?
 愚問だろうと思いながら口に出してしまった言葉は、あるいは自分への問いかけだったのかも知れない。
 溜息程度で寿命が薄れるのであれば、今まで何百何千と繰り返してきた溜息でも尽き果たせられない己の寿命は、一体どれくらい遺されているのだろう。一体どれだけの寿命が、自分の始まりに用意されていたのだろう。
 それはいつ潰えるのか。終わらせてくれるのか。
「ユーリって」
 そういう事、言うんだ。
 呟きを紛れさせる風が吹く。それは枝を揺らし、桜を散らす。折角綺麗に咲いている桜を、無惨に散らしていく。
 出来得るのなら今此処で、吹き荒れる風を止めてしまいたい。けれど温みだした風もまた、春の訪れを告げる大切な季節の変化を告げる自然界の声だから。自分の我が侭だけで世界を変化させる事なんて出来ない。
 生まれるものはいつか滅びる、その滅び去る手前に咲くのが色鮮やかに輝く花か。
 だとしたら、自分はいつになれば輝けるのだろう?
「ユーリ」
 ねえ、知ってる?
 彼方へと飛びかけていた意識を引き戻し、彼は笑う。いつもの、どこか巫山戯ているようで掴み所のない、意地悪げなあの笑顔で。
「なにを」
 主語を著しく欠いた台詞に眉根を寄せ、彼を軽く睨み付ける。春嵐の風は止まず、今も空を我が物顔で蹂躙している。高い屋根の上に据えられた小さな風見鶏がカラカラと騒々しく回っていた。
 丹朱の隻眼がにこやかに微笑む。
「桜ってさ、根本に何が埋まってると思う?」
 それは聞いたことがある、と質問の形を借りた彼の知識自慢に返し、それから腕を組み直した。
 身体の位置を若干変える。踏みしめた青草がじり、と足裏の底で歪む感覚がした。
 息を吐く、秘やかに。一瞬だけ作った難しい顔を解いて同時に腕も自由にする。脇に垂らした右腕が行き場もなく、前後に数回揺らいだ。
 強い嵐に流され、上空を駈ける白色の雲もまた忙しそうに東へと去っていく。風見鶏が目を回す暇もなく回転を続けている。
「死体」
 だろう?
 企み顔に負けないよう、企む瞳を持ち上げて若干だけ自分よりも上にある隻眼を見つめる。上目遣いにしながらも顔自体は俯き加減で見上げれば、問いかけるというよりも胸の中に何かを一物持っているぞ、と相手に示すような態度になる。自然と、行き場を失っていた左手が挙がって顎を掴んだ。
「アタリ」
 さすがは探偵さん、と茶化した態度で彼は肩を竦め苦笑した。
「さすがにこれは知ってたか」
「人を莫迦にするのも大概にしておけ」
「そんなつもりは無かったんだけどね~」
 何かが気に食わなくてつい不機嫌声になっていた台詞に、彼は肩を竦めたまま左右に緩く首を振る。その頬の間際を風に吹かれ、哀れにも散った桜が一枚ゆらゆらと滑り落ちてくる。
 ひらり、とそれは彼の肩に落ちた。
「あ」
 ワンテンポ遅れて、声を出す。気付いた彼が何事、と見つめる先である自分の肩を横目で観た。
 顎を引き、隻眼を苦しそうに端に寄せて口元を歪めてまで己の肩を確かめようとする様は、傍から見守る側からすればかなり滑稽だった。可笑しすぎて、けれど大っぴらに笑うのは彼に申し訳なく思い、顎にやっていた左手を口元に持っていって笑みを隠そうとする。
 だがやはり気付かれてしまい、彼は不服そうに目許を歪めさせた。悪い、と目だけで謝罪し、それから彼の機嫌を直すつもりで手を伸ばした。
 大人しくしながらも気になるのか、手が向かう先へ頻りに目線を向ける彼の前で、彼の肩に落ちた桜の花弁を摘み上げる。軽く持ちすぎたのか、それは自分の胸元に戻す前で風に攫われ、地面に落ちた。
「あぁ……」
 なんだ、という顔をして彼は落ちていく桜を見送った。
 春嵐が吹く、桜が一面を覆い尽くす程に揺らめき、散った。
「…………」
 しばし、また沈黙が続く。ふたりして並んで桜と、荒れ狂う春の空の風を見上げていた。
 言葉など無く、ましてや近付いて熱を確かめる事もせず。そこに立ち、其処に在るだけの時間が永い。なにかをするわけでもなく、しようとするわけでもなく、立ちつくし、桜が散る姿を見守るだけで。
 地表を舐めるように吹いた突風に髪が激しく煽られる。抑え込むために持ち上げた右手が、予測しなかった物体に触れてそこで動きが止まった。
 視界を影が覆う。それは天を過ぎる雲が太陽を隠してしまったのではなく、現に空は未だ澄んだ青色に一面を染めあげていて、目を細めなければ見上げることも困難な日の光が溢れんばかりに視界を埋め尽くしていた。
 だからこれ、雲が産んだ影ではない。ましてや自分の身体が突然膨張を始めたとか、そういう意味合いでもなく。
 難しく考える必要などない、ただ今までじっと動こうとしなかった彼がこの身体を包み込むように、両腕を回してきただけだ。
 軽い力を込められて、引き寄せられる。抗う事も忘れ、その引力に招かれるまま爪先で半歩分の距離を滑った。
 ずっと踏みつぶされていた青草がようやく解放され、曲がってしまった身体を伸ばそうと空を仰いだ。
「スマイル……?」
 風は凪いでいた、恐ろしいほどに静かだった。
 何も聞こえず、何も見えない。ただ視界を埋め尽くすのは白と薄桃の中間にある色をした桜吹雪と、彼の姿。
 いや、近すぎる彼の姿さえ朧にしか見えず、輪郭はぼやけて曖昧だった。
「桜、が」
 耳元で囁く声が告げる。一秒遅れで襟足に触れる冷たい感触、それは恐らく彼の指。
 直後に解放され、視界に光が戻る。見つめる先に立つ彼が二本指で抓み持っているそれを、言葉も無しに差し出してきた。
 反射的に手を差し伸べ、受け取る。それは彼の爪痕が少しだけ黒ずんだ線となって残ってしまっていた、一輪の桜。
「これを……?」
「欲しいのかな、って思ったから」
 さっきからずっと気にしてるでショ、と嘯いて彼は頭上を埋め尽くす桜の巨樹を見上げた。
 遙かに想像に難い年月をこの場所で、孤独に過ごしながらも毎年同じ季節に、同じ色をした花を咲かせる桜の大樹。移りゆく時間の中にあって、その月日を忘却させるばかりに毎年忘れることなく、同じ姿を見せてくれる桜。
「そう、だな……」
 欲しかったのかも知れない、年月を越えても変わることなく同じ景色を見せてくれる桜の、その欠片を。自分もまた同じように、いつまでも変わることなく在り続けるものとして、その強さを羨望していたのだから。
 桜は咲く、毎年春になれば。
 桜は散る、毎年花を咲かせれば。
 移ろう季節の一時期だけの、儚い時間。夢を、桜が咲き乱れる中で眠る夢を観よう。今だけ、この時にだけ許される我が侭だから。
 手の平で花びらを遊ばせる。
 春嵐が空から降りてくる。ひらり、と手の平に眠る桜ひとひらを掬い上げ、簡単に遠く彼方へと飛ばしてしまう。
「あ」
 短く、呟く。けれどもう、追いかける事はしなかった。
 軽くなった右手で乱れた髪を軽く梳き上げ、後ろへと流す。浮かべたのは微笑み、それから。
「来年もまた、咲くだろうか」
 自分へ、それから桜の古樹に向かっての問いかけに、彼が口元を緩める。伏せた瞳のまま少しだけ時間を作って、頷いた。
「咲かせるよ」
「まるでお前が手入れをしているような言い種だな」
「そりゃぁ、ね……」
 庭木の手入れは全部アッシュの仕事になってるけど、この桜だけは特別だから、と。
 彼は数歩開いていた桜までの距離を詰めて太い幹に手を伸ばす。表面をそっと撫で、そして愛おしそうに顔を寄せた。
 沈黙が流れ落ちる。
「さっき、さ。桜の下に埋もれているものが何かって、言ったでショ?」
 含みのある言葉尻で彼は振り返った。大切そうに木の幹に身体を預けたまま、顔だけで振り返る。
 何故かぞっとする寒気を覚えたのは、春嵐の風に体温を奪われたからだけではないはずだ。失った熱を取り戻そうと身体を両手で擦ろうとして、何かが奇妙である事に気付いた。
 彼が笑う、楽しげに。
「この桜は絶対に枯れさせやしないから、安心していいよ」
 来年も、再来年も、十年後も百年後も……一千年後でさえ、今と変わらず花を咲かせ続けるから。
 ひんやりとした汗が背中を流れる。否、それさえも錯覚なのかもしれなかった。
「だから、また来年まで」
 春嵐が吹く、風見鶏の軸が折れてしまいそうなくらいにペンキの剥げたそれがくるくると回っている。
 視界が白と薄桃に染まった。
「ゆっくり、おやすみなさい」
 ユーリ、またね。
 最後にそう囁く声が聞こえて。

また来年……この季節に
 

 そしてそこですべては途切れて。
 桜は散り、樹下には彼独りが遺される。
「また来年……」
 足許に設けられた小さな墓碑を前に、彼は小さく呟いた。
 春嵐は、もう終わりだった。