Hither

 朝から空気は不穏な様相を呈していて、落ち着かない。
 なにが気にくわないのか分からない、ただ城主の彼がやたらと不機嫌そうな顔をしてむっつりと、苛々した様子で居るものだから。
 城中がそんな空気に占拠されてしまって、彼を取り巻く面々は否応が無しに緊張を迫られた。少しでも彼の機嫌を損ねるような事をすれば、即座に轟音が周囲に鳴り響き雷が直撃する。だから皆、腫れ物を触る時に似て遠巻きに、どこか怯えながら彼を眺めるばかり。
 既に朝食の段階で、スープが熱いと文句を言われたアッシュがその熱いスープ皿を、中身が盛られたまま投げつけられている。かろうじて避けたものの、飛沫を被って彼の柔らかい毛に包まれている細長い耳の先が剥げてしまっていた。
 なにが原因なのか、さっぱり分からない。だがユーリは目覚めて部屋を出てきた段階から既に不機嫌のただ中に居た。
 まず口数が極端に少ない。普段から多弁な方ではない彼だが、それにも増して無口になっていた。
 それから、行動が突飛。これも別段今に始まった事ではないのだけれど、それでも普段以上にやることが突然だった。更にやることが少々、凶暴になっている感じもした。現にアッシュに向けてスープ皿を投げつけている。いつもならば口で文句を言い、睨み付ける程度で終わっていた事だ。
 ちょっとどこかおかしいんじゃないだろうか、と思うところは多々あるものの、みんなして雷が恐くて声を掛けられない。
 食事の後の、ミーティング。ひとつの机を囲んでメンバー全員が一同に会する場所でも、ユーリの不機嫌は収まるどころか逆にヒートアップ。
 ここの歌詞が気にくわない、ここのリズムは変だ、云々。あげればキリがないくらいの苦情を口にして、一方的な調子の彼に皆がへこへこしながら時間が来て、午前の打ち合わせはこれにて終了。
 結局決まったのは、歌詞のリテイクと編曲のやり直し、合計して六曲分。自分たちの今までの苦労はなんだったのか、と己の存在意義を疑いたくなるようなダメージを残して、場は一時解散となった。
「ふぅむ」
 次々とメンバーが、脱力した息を吐きながら椅子から立ち上がり去っていく。彼らの背中を眺めながら、最後まで立ち上がろうとしなかったスマイルが腕組みを解いた。けれど完全に解いたわけではなく、組んでいる脚の上に片肘を載せ、そこにもう片手を置き、肘を立てている手の五指でもって顎をなぞる。
 考えごとをしている証拠で、眼を細めて視線を室内に巡らせ、最後は天井を睨むようにして見上げて、深く長い息を吐き出す。それから漸く手を解いて組んでいた脚も解放し、手は結びあわせて頭上へと伸ばした。
 椅子の背もたれに身体を預け、椅子の前脚を浮かせて重心を後方へ移した。
「んん~~……」
 完全に後方に倒れきってしまわぬよう、床に足を貼り付けさせて突っ張る。背骨が良い具合に音を立てた。
「ふぅ」
 短く吐き出した息を合図に、姿勢を戻す。床を叩く椅子の音が、仲間も立ち去って誰も居なくなった室内に無駄に大きく響き渡った。
 今度は両手を前に向け、机の上に散乱させたままだったメモ書きや譜面、それから文房具の類を寄せ集めてひとつにまとめ、ファイルに挟み込んだ。ペンは胸ポケットに差し込み、片手は机上に、片手で椅子を引いて立ち上がる。
 そのついでに首を回して肩の凝りを軽くほぐし、最終的に行き着いた視線の先は壁時計。時刻を確認したと同時に、ぐぅ、と腹の虫が現金な鳴き声をあげた。
 今日の昼食は一体なんだろう、と会議が始まる直前まで泣きそうな顔をしていたアッシュを思い出しながら、自分が立ち上がった事で空席になった椅子を机の下に押し込めながら思う。そのアッシュは、会議中もずっとはらはらという顔をして仲間内とユーリとも対立――と呼べないような、一方的なユーリの王様ぶり――を見つめていたが。
 そのうちあいつ、胃に穴でも開けるんじゃなかろうか、とも考えてファイルを小脇に挟み持ち、頭を掻いてミーティングルームを出る。見事に出たところにさえ、誰ひとり残っていなかった。
 完全に置いて行かれた事に苦笑し、自嘲気味に口元を歪めさせる。歩みは止めず、そのまま進み続けて階段を下りると、見慣れたシャンデリアが頭上に現れる。
 それから、矢を射るような鋭さを持った怒鳴り声。
 反射的に出していた足を引っ込め、身体を半分手摺りから乗り出すような格好で立ち止まった。
 見下ろせば、数人分の頭が見える。一番玄関ホールの中心に近い位置に立っているのは、間違いなくユーリだ。あの特徴ある銀色の髪は絶対に見間違えない自信がある。
 敵対するように徒党を組んでユーリを前にしているのは、それ以外のメンバー。アッシュはというと、両者の中間から少し距離を置いた場所で、相変わらずオロオロした様子で交互に両側を見つめていた。
「ふぅん」
 一通り状況確認を終え、ここでは何を怒鳴りあっているのかが分からないものの、どうやらユーリがかなり強い調子で攻めたてられているらしい事だけは把握する。内容は、確実にさっきの打ち合わせで出たリテイクについての事だろう。
 彼らにしてみれば、どうしてこんな些細な事でやり直しを命じられるかが分からないのだろう。どう考えてもユーリの気紛れから出た発言としか思えない、ことばの応酬に黙るしかなかった彼らが一体なにを起因として胸の内に溜めていた鬱積を爆発させたかは、分からない。
 ただ状況はユーリに不利な方向へ動こうとしているらしい。止めようとしているアッシュのことばさえ聞き届けず、ユーリを弁護する彼を非難する怒号が上がる。
「いい大人が情けないよねぇ……」
 もっとも自分の年齢から換算すれば、成人を迎えている彼らであっても充分子供でしかないのだけれど。苦笑を禁じ得ず、脇に挟んでいたファイルを持ち直して階段を降り切り、ホールへ足を着けたスマイルはにっ、と感情の判別に苦しむ笑みを浮かべたまま近付いていった。
 割り込んできた足音に、今まさにユーリに掴みかかろうとしていたメンバーが顔を向ける。表情が明らかに不満げに、億劫そうに歪められていた。
「皆さんオソロイで、遊びに行くご相談?」
 冗談だと丸分かりの台詞を吐き、スマイルは片手にファイルを持ったまま大袈裟に肩を竦めてみせた。右腕を振り上げていたメンバーが、やる気を削がれたとばかりに手を引っ込め、ユーリやスマイルからも距離を取る。
 にんまり、とスマイルが嗤う。
「嫌われちゃったカナ」
 芝居じみた仕草に、誰かが舌打ちするのが聞こえた。
 一触即発寸前だった状況がひとまず回避された事に、向こう側のアッシュが安堵の息をもらした。
「アッシュ」
 その彼を呼び、スマイルは持ったままだったファイルを空中に放り投げた。中身を満載させたファイルは、しかし投げ方が良かったのか中身を空中にぶちまける前に孤を描き、慌てて手を伸ばしたアッシュの左手に収まった。
「……っと」
 いきなり何をするのか、という顔でアッシュがファイルから視線をスマイルに戻す。その他の面々もスマイルの行動を無言のまま見守る。
 ユーリがじり、と半歩後退した。
 その分、スマイルが三歩分あった距離を一息で詰める。
「ユーリ」
 彼の伸ばした手の腹がぴと、と。
「っ!?」
 目を丸くするユーリの額に押し当てられた。
「!!!」
 三者三様の反応が周辺に立ちこめた。
 アッシュと、deuilを構成するその他のメンバーたちは驚愕の表情を浮かべ、間違いなく三秒後には落下するだろう雷を想像して震え上がった。
 ユーリは、一瞬なにが起きたのか判断できずに瞳を見開いたまま、自分に触れているスマイルの左手を茫然と見上げていた。
 スマイルは、ユーリの額に手を置いた瞬間に、難しい顔をして眉間に皺を刻んだ。
 一呼吸置いて、それから。
 やっぱりね、と呟く。
「アッシュ」
 手の位置はそのままに、彼は惚けたままで居るアッシュを振り返る。
「お昼ご飯、お粥でヨロシク」
「え? あ、はいっス」
 軽い調子でのことばに、慌てたアッシュが頷いて返事をしてから、言われた内容を反芻させて首を捻った。見ているだけしか出来ていない面々も同じような顔をして、互いに見合わせている。
 半秒遅れて、ユーリがようやく反応した。
「なにをする!」
 怒鳴り声をあげながら、置かれたままのスマイルの手を叩き落とした彼の息は微妙に荒かった。顔が、赤いのは怒っているからでも照れているから、でもないはず。
 叩かれた部位をさすって、スマイルはアッシュからユーリへと目線を戻す。
「ユーリ、昨日何時まで仕事してた?」
 明け方は冷え込む、夜も殊更寒かった昨晩。着込む事をあまり好まないユーリが、寝夜着一枚で日が昇る寸前まで机に向かっていたとして。
 ボーン、とユーリの返事の代わりにロビーに飾られている巨大な柱時計が、昼食時間の終了時刻を宣告してくれた。
 にっこりと、無邪気に微笑むスマイルがそこにいる。不機嫌そうに、それでいて居心地が悪そうにユーリは視線を逸らした。
 わけがわからない、とアッシュが怯えた調子でスマイルを呼ぶ。
「うん、だからお粥。あ、でもぼくのは普通のご飯が良いな」
「なんの話……」
「ユーリ、熱がある。自覚してなかったみたいだけど」
 こそこそと立ち去ろうとしているユーリの首根っこを掴んで、スマイルはアッシュに笑いながら言う。なんでもない事のように。
「熱?」
 え、嘘。
 誰かが呟いて、誰かが頷いて、誰かがスマイルの手から逃れようと藻掻いているユーリを見た。アッシュも驚きを隠せずにいる顔でユーリを見る。言われてみれば、彼の顔は微妙に赤みを増しているし、呼吸は間隔が短く落ちつきのない態度も変だ。
 だけれど、今の今、指摘を受けるまで誰も気付かなかった。ユーリ自身も、スマイルの弁を信じるとしたら気付いていなかった事になる。
「朝からずっと苛々してたし、怠そうだったし。疲れてるところに身体冷やして、それででショ。風邪になるまえに、ゆっくり休んでおいで」
 朗らかに告げ、スマイルは足掻いているユーリの首にがっ、と腕を回して完全に拘束した。逃げ切れず、ユーリが地団駄を踏んで肘鉄を背後に居るスマイルに食らわせようと暴れるが、体調不良が災いしてか効果は期待していた一割にも届かなかった。
「そういうわけだから、さ」
 午前の会議、時間の無駄だったと思って置いてよ。
 それで気が済むとは思ってないけど、とも付け足して彼はまだ暴れ止まないユーリの頭を撫でた。
 途端、ユーリが大人しくなる。顔は不服そうだったが、無駄に体力を削る事は止めたようだ。
「お粥、よろしくね」
「う、了解っス……」
 静かになったユーリを抱えるように、あるいは引きずるように、とも言うのかも知れない。微妙な体位で彼を引き連れて歩き出したスマイルに言われ、アッシュは複雑な顔をして頷く。
 残されたメンバーは顔を見合わせ、納得がいかないものの理由だけは解明された事に息を吐いた。これからどうしようか、と目線で相手に問いかけ、けれど答えは出てこない。
「譜面、見直すか」
 誰かが提案して、残りの面々も頷いた。アッシュはスマイルに頼まれた粥を一人前、用意するために踵を返して台所へと向かう。スマイルに促され、ユーリは階段へそろりと足を踏み出していた。
 上階にあるユーリの部屋の扉は、スマイルが押し開けた。手探りで照明のスイッチを探し出し、押す。俄に明るくなった室内に眼を細め、彼はそのままユーリの背中を押してベッドへと真っ直ぐに向かった。
「っ!」
 最後の抵抗を見せるユーリを強引にベッドに押し倒し、靴だけ脱がせて身体に蒲団を掛けてやる。
「スマイル!」
 やや乱暴だった彼に怒鳴り声をあげて上半身を起こそうとしたユーリだったが、間近に吐息を感じて背を強張らせた。
 見開いた眼のすぐ前に、スマイルの鼻先がある。
 触れられているのは額。ただ、その仕草の中でのスマイルの両手は、ユーリの頭部を支えるようにして両側から耳元周辺に添えるのに使われていた。
 触れられた場所が熱を持つ。間近で受け止めるしかない彼の呼吸が、変に熱い。それにも増して、自分が吐き出すものの熱が。
「スマイル……」
 声が震えていて、ようやく目線を落とした彼を見上げるユーリの表情に、笑みを消して真剣になっている彼が低く呟く。
「熱い」
 押し当てられた額を通じて流れてくる体温に眉根を寄せ、そして彼は離れていった。
「はい、寝る」
 茫然とした状態から脱却しきる前に、スマイルの伸びてきた手でユーリはベッドへ後頭部を沈められた。弾力のある枕に頭が埋もれる、肩の上まで蒲団を被せられて、それからやっと目元を抑え込んでいた彼の手は退いた。
 離れていく体温が、妙に名残惜しく感じられる。
 ユーリは片手を蒲団から抜き出して、自分の額に触れてみた。けれど、手自体の体温が高すぎるのか、熱の高低の判断がつかなかった。
 諦めた息を零し、腕の位置を戻す。同時に、ベッドサイドに立っていたスマイルが動く気配があって目線を巡らせた。
 高い天井から、彼へ。見上げる視線に気付いてスマイルはにこりと邪気のない笑みを向け返してくれた。
 その姿勢が、扉側を向いている。上半身だけでユーリの方を見ている彼に気が付いて、反射的にユーリの左手が蒲団からはみ出ていた。
「ユーリ?」
「……午後」
 本当は、午前のうちに打ち合わせをしてしまって昼からは各パートの音あわせが予定されていた。ただこの状況では、それを為し得るのは困難どころか不可能だろう。前もって計画されていた日程が一日、丸々ずれ込むことになる。
 そして午後から、ユーリ以外の面々は時間が空いて予定外のフリー。ユーリにしてみれば、自分ひとりが体調不良だからとベッドに貼り付けにされて、退屈な想いを味わうのは不公平というもの。
 きゅっ、と握られたスマイルの上着の裾に刻まれた皺が、そう告げている。
 ユーリの白い手と、赤い顔をしているユーリを順番に眺めて、スマイルは姿勢を戻した。爪先でユーリの椅子を引き寄せ、ベッドサイドに居場所を決めると座り込む。
「我が侭」
「うるさい。お前さえ気付かなければ、こんな事にはならなかったんだ」
「はいはい、まったくもってその通りで返す言葉もありません」
 膝の上に両肘を置いて、その上で頬杖をつく。
「付き合うから、寝ちゃえば?」
「言われなくても、そうする」
 ユーリは言わなかったけれど。そしてスマイルも問いかけなかったけれど。
 ユーリの手はしっかりとスマイルの服を握ったままで、スマイルも無理にそれを振り解こうとはしなかった。