Butterfly

 ぼんやりと、眺めている月は大きくてそして丸い。
 ふくよかな頬を持った女性のような顔つきをして、のんびりと地上を照らしながら見下ろしている月はとても綺麗。だけれど月は案外表面もでこぼこしていて歪だし、なにより太陽の光を受けなければ自分で輝くことも出来ない、実に曖昧で中途半端であり、その上他力本願な存在だ。
 そう考えて、ことばにした時、聞いていた相手は呆れた顔をして、夢がないな、とだけを呟いて返してくれた。
 そうかもしれないね、とこの時は返したはずだ。自分には夢がない、それはよく分かっている。相手もこの事は熟知しているはずで、だからこそ呟きにして声に乗せたのだろうけれども、そうすることで何かが変わるとはお互い思っていない。
 空虚で、どことなく寂しい関係。
 この関係にひびを入れてみたいと思った事が、果たして今までの無尽蔵な時間の中でどれくらいあっただろう。数え始めようとして左手を持ち上げてみて、けれど指を一本折り曲げたところで止めた。
 こんな事をしたって無意味、そう考えてしまうともう何かをすることなんて出来ない。
 ぼんやりとした思考をそのまま保持し、何もない草の上を歩き続ける。
 そこは現在の借宿として自分が定めた、そして自分には恐ろしく似つかわしくない古めかしく巨大な城の一角。踝の高さで刈り揃えられ、綺麗に整えられた明らかに第三者の手が入っていると分かる芝の上。
 一般的に、庭と呼ばれる場所に相当する。
 月の明るい夜に、ひとりで、通常の感覚では広すぎるけれど放浪するには狭すぎる庭を歩き回る。空を見上げながらの彷徨は首を疲れさせるだけだったけれど、彼は苦にすることもなくその姿勢を保ちながら歩いていた。
 突き当たりに遭遇すると、気が向いた方向に踵を返し、また歩き続ける。あてなど無く、ただ無為な時間をそうやって過ごしているとしか周囲には映らないだろう。
 事実彼もそうやって、有り余ってなお消費に苦しむ時間を浪費しているにすぎないのだから。
 二度目の突き当たりに出会って、彼は首を前向きに戻し左肩を軽く回した。足を止め、目の前に見える鬱蒼とした茂みを見やる。
 枝を伸ばし、お互いに絡め合わせて密接しあっている木々の隙間に白っぽい半透明な糸があった。
 朝にはまだ早く、露に濡れてもいない。だけれどそれは、鮮やかなまでに見事に織られた蜘蛛の巣。六角形が整えられ、その間に僅かな隙間を残しつつ織り絡められた蜘蛛の糸が、月明かりに照らされて輝いて見えた。
 巣の主でさえ今の夜闇の中では就寝中なのか、姿は見当たらなかった。いつ張られたものであるかは分からないが、それほど時間を経過しているとは考えづらい。ここまで見事に形が保たれているという事は、少なくとも日付が変わる直前に張られたものなのだろう。こんな時間に巣にかかる愚かな昆虫があるとは思えず、蜘蛛が何を思って巣をこの場所に改めたのか、少しだけ興味が沸いた。
 ヒラリヒラリと舞い遊ぶように、彼の脳裏に浮かび上がるのは。
 夏の夜の最中、月明かりだけが照らし出す世界に姿を現すアゲハ蝶。
 彩りは鮮やかであり、黄色と青と、そしてすべてを呑み込む闇に似た漆黒の羽を持つ、アゲハ蝶。
「黒アゲハ……」
 ぽつりと呟き、月だけしか見えない夜空を仰ぐ。雲ひとつ見当たらない視界に一点だけ明るい月が、昼の太陽のように眩しい。
 自分は何処へ行くのか、どこへ行こうとしているのか。
 尽き果てることを知らない魂が目指す方向は未だ見えず、なにを目指して良いのかも分からない。ただ手探りに、無闇に突き進む事しか出来ずにいる自分の存在が卑小で、寂しいものに思えてくる。
 胸元に置いた手を握りしめ、視線を逸らした。
 目の前にあるのは、鮮やかに編まれて獲物を静かに待ち続ける蜘蛛の巣。
 この巣に絡め取られたとしたら、自分は終わる事が出来るのだろうか。自分から終わらせる事が出来るのだろうか。
 どこまで行けばいい、どこへ行けばいい。終わりはどこにある、どうすれば終えられる。
 悩んで、考えて、考え続けてそうやって今までずっと見送ってきた終わりを、これ以上重ねないにはどうすればいい。戻ることが出来ない時間を取り戻したいと思うことは愚かすぎて、だからといってこのまま前だけを目指すことも出来ない。
 本当は。
 出逢えただけで良かったのに。
 結んでいた手を解く。力無く脇に垂らすと、指先をスッと冷たい風が掠めていった。
 視線を上向けてみる、空に雲が出てきたらしい、視界は僅かに明るさを減らして目を細めなくても月を凝視することが出来る程になっていた。
 出逢えただけで、それだけで良かった。
 なのに、願ってしまった。
 この願いは罪、この願いを持ち続ける事も罪。この願いを告げる事も、隠し続ける事でさえも、罪。
 罪は積み重なってどんどん大きくなる、やがて自分で抱え上げる事も出来ないほどに膨張を繰り返し、そしていつか破裂するだろう。
 その時自分はどうなるのか、考える事も恐ろしくてそうやって逃げている。
「ユーリ」
 この思いは罪。
 この想いは罪。
 だったら封印してしまおう、誰も到達することの出来ない海の底、荒れ果てた砂漠の彼方、月闇の照らす深淵の世界へ。
 自分自身さえも手を伸ばす事が叶わない場所へ投げ捨てて、無かったことにしてしまおう。そうすればこの罪は消える、今までと同じようにこの場所に在り続けられる。
 終わりを願わずに済む。
「ユーリ」
 もう一度囁く、宝物を包み込むように胸の前で両手を組んだ。
 この場所に居ないあの人のために、今は祈ろうか。あの人を傷つけるものがなにもないように、と。自分自身でさえもあの人を傷つける刃になりかねない、この想いを捨てきれるようにと、祈ろうか。
 出逢えただけで良かった、それだけで世界が満たされた。
 空虚なだけだった世界は光に溢れかえり、音の無かった世界は騒がしい程に豊かになった。その中心にはいつも君が居た、君が居てくれるだけで良かった。
 だけれど、それ以上を願ってしまったから。
「ユーリ」
 目を閉じる、名を呟く事だけでさえ罪。だからもう呼ばない、今呼んだその名前を愛おしく抱きしめて、それで終わりにしよう。
 もう願わない、なにも。なにもかも、今まで通りであるために。
 その為だったらなんだって出来る、なんだってしよう。
 君を傷つける刃にはなりたくない。君を傷つけたとき、きっとぼくは自分を許せなくて自分を殺してしまうだろうから。
 この想いは地の底へと沈めよう。誰にも届かない、光さえも届かないほどに深く暗い闇の底へと棄ててしまおう。
 そうすることで君を守れるのなら、ぼくはなんだってしよう。
 貴方を守るためなら、ぼくはどんな事だって出来る。君を守るためなら、この身が砕け散る事さえ構わない。君を傷つけようとするものがあるのなら、身を挺して君を守る事を誓おう。
 ただひとつ、我が侭を言うのなら。
 どうか消えゆくぼくを忘れないで。
 心の片隅で良い、どんなに小さくても構わない。ただぼくのことを覚えていて、忘れないで居て。ぼくという存在が在ったことを、貴方の心の片隅に置いて。拳大の大きさだけでしか残らないかもしれない、ぼくの心を貴方の傍らに置かせて。
 貴方に出逢えた、それだけで良かった。
 夢の中で会えるだけでも、それだけでも良かった。
 なのに。
 この想いは罪、この願いは罪。
 愛されたいと思った、愛されたいと願った。
 この想いは罪、その結末は残酷。
 答えなど分かっていた、それなのに願ってしまった。救いはない、どこにも行けないしどこにも戻れない。
 誰にも告げることなく、この想いは海の底に沈めよう。誰にも拾われる事がないように、光さえ届かないほどに深く暗い闇の底へと沈めてしまおう。自分自身でさえも手が届かない場所へと、永久に追放してしまおう。
 そうすればこれからも此処に居られる、君の隣に居られる。
 その為ならなんだってしよう、例えこの思いを否定してうち砕いて、心を封印することになったとしても。
 それでも構わない、だからどうか君の隣に居させて。
 それが願い、それが望み。
 ひらりひらりと舞い上がる、夜空に浮かぶシルエット。
 雲が晴れる、月が見える。変わらずにそこに在り続ける、金色で丸い顔をした眩しい光を照らす月。
 だけれどその光さえも、世界から忘れ去られたこの躯を突き抜ける、触れることなく地上へと落ちていく。
 結んだ手を解く、手の平を上にして月へと差し向けた。
 掴もうと藻掻く、けれど届かない。
 この願いはこの行為と同じ。届かない場所に手を伸ばし続け、届かない事を改めて思い知らされて心を空虚に染めあげるだけ。
「ユーリ」
 この呼び声は罪、だけれどこの心に灯った微かな希望の光。
 どうか伝えて、この想いを。罪と知っている、罪と分かっている。それでも届いて欲しいと願ってしまう。
 伸ばした腕を更に空へと突き上げる。足掻くように指を広げ、月へと差し出す爪の先に風が奔る。
 この想いは空と大地と同じくらいにかけ離れていて、決して届かない。だけれど世界の果てで再会を遂げる彼らにかこつけて、いつか自分もと思ってしまうこの心が浅ましい。
 不意に視界が揺らいだ。水の中に放り込まれたように、世界が歪んで滲む。月の輪郭がぼやけ、靄がかかった時のように色が薄くなっていく。
 その片隅で、空を舞う小さなものが見えた。
 ひらりひらりと舞い上がる、夜空に咲いた一輪の花。黄色と青と、そして闇よりも濃い黒を纏ったアゲハ蝶。
「ユーリ」
 祈るように名前を囁く。
 守るように手を差し出せば、蝶は蜘蛛の巣を避けて月が待つ空へと舞い上がっていく。小さな羽を揺らして、色鮮やかな黒に染まったアゲハ蝶は彼を置き去りにして遠く世界を駆けめぐる。
 決して彼が近付くことの出来ない場所へ、一時の戯れで近付いてけれど最後は離れていく。なんて冷たくて残酷なんだろう。
 それでも離れる事が出来ない、離れたくない。
 戯れでも構わない、一瞬のすれ違いだけでも構わない。
 どうかぼくに触れてください、心を与えてください。我が侭だと分かっている、叶えられない願いだとも知っている。
 それでもどうか、届いてください。
 願わくば、愛してください。
 その気紛れな翼を、この肩で休めておくれ。