翌朝、目が覚めたときにはもう彼のベッドは空っぽだった。
綺麗にベッドメイクが為されており、けれどだからこそそこで昨夜まで横になっていたのかと思うと、信じられない気分にさせられた。
柔らかいクッションに手を置いてみる。体重を乗せると、手の平がゆっくりとその中に沈んでいった。けれどある程度の深みまで進むとそこで手は止まってしまう。そこから先への侵入を拒否される。
姿勢を直し、改めて室内を見回してみた。
入ってきて直ぐにカーテンを広げたので、室内は外から差し込む光を受け入れてかなり明るい。天井のライトに光を入れる必要もなく、床の上には薄い影が伸びていた。
綺麗に整理整頓された、彼の部屋。片側の壁には一体どれだけ浪費したのかと言いたくなる、数多くのインテリア代わりにもなっているオーディオ機器。反対側の壁沿いには、これまた彼の趣味であるギャンブラーZにまつわる品々が、種類ごとに分別されてガラスケースに陳列されている。しっかりと鍵までかけられているその棚に近付いて、ユーリは腰を屈め中を覗き込んでみた。
正直、これのどこが良いのかユーリには分からない。けれど彼は大好きで、よく大声でテーマソングを歌ったり、必殺技を叫びながらアッシュに飛びかかっていた事を思い出す。
その本人は、もうこの部屋にいないけれど。
部屋だけではない、もうこの城のどこを探しても彼は見付からない。引き留めたけれど、無駄だった。
彼の意志は固く、決定が翻される事はなかった。何処へ行くのか、何をしに行くのか、――戻ってくるのか、それさえも彼は口に出さなかった。
ただ、「出ていく」とだけを繰り返して。
それ以外のことばは紡がず、質問も受け付けられなかった。会話にさえならず、広場からの帰り道は往路以上にふたりとも寡黙だった。
息が詰まり、苦しかった事だけが印象に残っている。日が暮れてしまい、道端に転々と佇む街灯の明かりに薄暗く照らされる中を、黙々とただ前に進むことだけを考えながら。
その時自分が何を考え、どうしていたのかをユーリは一晩明けた今も思い出せないでいる。きっと色々と複雑に、なにかを整理がつかない頭の中で考えていたはずなのに、そのいずれもが記憶に残っていなかったのだ。
それどころか、夕食がなんでありどんな味がして、美味かったのか不味かったのかも実のところ記憶が曖昧だった。いつ頃眠りに就いたのかさえ思い出せない。どうにか彼を引き留めようと、夜半に彼の部屋を訪れたことだけは覚えているのに。
彼以外の事柄がどれもあやふやで、曖昧になってしまっている。
そして彼はもう居ない。
朝、ユーリが目覚めたときには彼の気配は微塵とも残っていなかった。そこに彼が居たはずなのに、その残り香さえも全部消して行ってしまったのかと思ってしまいたくなる程に、彼の存在が希薄になっている。
彼がこの部屋に住んでいた証拠がこんなにもたくさん、確かに残されているのに。肝心の彼の気配がどこにも残っていない。
だから哀しくなる。
ユーリはギャンブラー関係の棚から離れ、閉めきられたままでいるクローゼットの戸を広げてみた。天井のレールを滑り、戸は思ったよりもずっと勢い良く開かれた。
明かりが遠くなってしまい見づらいけれど、中もきっとそのままなのだろう。ハンガーにつり下げられている服はどれも黒やそれに近い系統色ばかりで、モノトーンの色彩は部屋の配置そのままであり、どことなくおかしかった。
目を細めてユーリはクローゼットの中に、昨日彼が着ていたコートが無いことを確認する。似た色のものがいくつかあったけれど、ユーリが覚えているコートはついに発見できず、こんなところで彼が本当に出て行ってしまったのだと思い知った。
よくよく見回せば、確かに少々ものが減っている感じがする。一番変わってしまっているのは机の上で、散乱していた譜面や文房具の類が一掃されていた。
そこだけが生活感を薄れさせていて、異質。つい昨日のこの時間、彼はまだこの椅子に座って机に向かい、なにかをしていたはずだ。後ろでは聞こえもしない耳で拾える音を求めて、レコードを喧しいばかりに大音響で鳴り響かせて。
彼は、ここでなにをしていたのだろう。
彼は、ずっとこうする事をひとりで考えていたのだろうか。
「スマイル……」
お前は、今、どこにいる? どこに行こうとしている? なにを目指している?
あんなにも切望していた場所を放り出して、自分から捨てるような真似をして置いて、何処へ行こうと言うのだ。他に行く場所などないと自分から否定しておきながら、こんなにも簡単にこの部屋を空白に染めて行ってしまった。
『ぼくを呼んで、ユーリ。ぼくはきっと、応えるから』
そう言った、けれど呼んだところで返事はない。
ただ代わりに、と主張しているかのように。
整頓された机の上に並べられた分厚い書籍の隙間に差し込まれているらしい、紙の端がユーリの目に映し出された。随分と乱暴に押し込められたものなのか、皺が走っているそれに興味を引かれて彼は手を伸ばし、机の角に左手を置いて右手を伸ばした。
ただかなり窮屈に並べられている本の間から、紙だけを引っ張り出すと途中で破れてしまいそうだった。だから仕方なく、ユーリはその紙を押さえつけている片側の本も一緒に引き出す事にした。
厚さ二センチはあるだろう専門書の、背表紙の頂点――分厚くなっている表紙の端が少々突起しているところに指をかけて、斜めに引き倒す。摩擦力に引きずられ、挟み込まれていた白い紙も一緒になって前に倒れ落ちた。
「…………?」
取りだした本を横向けにして机に置き、裏向きに落ちたせいで表面が見えなかった紙を拾う。胸の前まで持っていき、裏返した。
両手で両端を持ち、視線を落とす。
please call a name ―― my name
Please tell me your voice
It becomes my power
I can make a living
Therefore
please call me ―― your voice
I want to hear your voice
I will do anything, if the wish is fulfilled
I could do anything, if the wish is fulfilled
Therefore, please tell me your voice
一瞬、なんの笑い話かと思った。
「あの、バカ……」
他に形容することばが見付からない。掴んだ紙を握りしめながら、ユーリはくしゃくしゃになりかけている自分の顔を片手で押さえ込んだ。
「これが、お前の気持ちか?」
これから先も、今までと同じである為に。傍に居るために、今一番必要なこと。
それが見付かったと言うのだろうか、彼に。彼はまた、ここに戻ってくると、そう伝えてくれているのだろうか。
「呼んでやるさ、何度だって……呼んでやる」
だから、どうか。
一秒でも早く。
「ここに、帰ってこい」
ユーリはその紙を抱きしめて囁いた。祈るように目を閉ざし、頭を垂れて唇を固く結ばせる。
お前が帰ってくるまで、お前の場所は守るから。帰ってきたお前を迎え入れられるように、その席を空けておくから。
お前のための場所を、作っておくから。
ちゃんと、帰ってこい。
お前はお前のまま、ここに帰ってこい。
呼んでやるから、何度でもお前の名前を、飽きるくらいに大声で叫んでやるから。誰よりも大きな声で、お前に届くように何度でも幾度でも、この喉が潰れるまで呼んでやる、だから。
どうか応えて、この声に応えて。
*
名前を呼んで、私の名前を
貴方の声を私に聴かせて
それは私の力になる
私は生きていける
だから私を呼んで――貴方の声で
貴方の声が聴きたいのです
その願いが叶うのならば、私は何だってするでしょう
その願いが叶うのならば、私は何だって出来るでしょう
だから私に、貴方の声を聴かせて
*
がやがやと、それでいて喧噪が湧き起こっている空間に佇む。
空気は震え、熱を含み今にも破裂しそうな勢いで膨張を続けている。その一瞬の緊張感が溜まらなく嬉しくて、心地がよい。
こんな場所、他に知らない。
こんな場所、きっと世界中のどこを探したって見付からない。
ここだけが、帰るべき場所。
此処こそが、在るべき世界。
自分を求めてくれる存在が在る事が。
自分を待ってくれている存在が居る事が。
自分を必要としてくれる存在を前にする事が出来る、その事がどれだけ恵まれ、幸福な事なのかが離れていてよく分かった。
だからこそ、もう一度手に入れてみたいと思う。
ひとたび手を放し、距離を作ってしまったけれど、そのお互いに無言だった時間が無駄ではなかった事を信じていたい。広がって出来上がってしまった隙間を埋める為の時間を、どうかふたりでこれから築き上げていきたいんだ。
そう願う事が我が侭だと、君は言うだろうけれど。
きっと、言うだろうけれど。
ぼくの瞳には、そう言う君が不満そうにしながらも、でもどこかはにかんだ、照れくさそうな顔をしているのが見えるんだ。これは幻でもない、空想や夢でもない。
それは近い未来に訪れるだろう、確かな記憶。
だから今はもう少しだけ、この熱気迫る空間を楽しんでいたい。喜びに打ち震える胸を抱きしめていたい。
君を抱きしめる前に、自分がこの場所へ戻ってきたという事を確かめていたいんだ。一番じゃないことを君は嫌がるかもしれないけれど、分かってくれるだろうと信じている。君だってきっと、最初に求めるのはぼくだけの手ではなくて。
君を求めて存在を確かにしてくれる、多くの人から発せられる沢山の呼び声なのだろう?
その呼び声に応えない君じゃない、君はきっとまずなによりも誰よりも、その呼び声に向かって手を振るだろう。その背中を見つめる事は、決して不愉快な事じゃない。むしろ誇りに思えることだと、ぼくは思っている。
目を閉じる。
呼び声が聞こえる、沢山の人の声が混じり合い、それぞれが叫ぶ声が空間を震わせて木霊している。この声は偽りではなく、心の底から求めて欲してやまない人々の魂の共鳴。
なんと心地よく、胸を震わせてくれるものなのだろう。
帰ってきたと実感させてくれる、確かな質量に包まれて心臓が高鳴っていくのが分かる。
もう少しここでこうしていようか。君は怒るかもしれないけれど、その時の顔を想像するだけでも楽しいから、うん、悪くない。
くすっ、と笑う。口元が危うく開きかけて、慌てて意識を集中させて口を閉じた。その代わり、見開いた隻眼が細くなって口元はやはり開きはしないものの、緩んでしまう。見えなくなるように隠す為、右手を持ち上げて軽く広げそれを口の前に翳し、細めた目で眼前の光景を見据えた。
約束は、伝わったらしい。そして彼は守ってくれたようだった。
ありがとう、と心の中で礼を告げる。あとで改めて、彼を前にしてもう一度同じことばを繰り返して告げるつもりでいるけれど、こうやって此処に立てる日に再び巡り会えた事を、彼にどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
唇を結び、手を今度は左目に重ねてみた。
痛みはもう、どこにもない。あれだけ自分を苦しめた痛みも辛さも、すっかり綺麗に消え失せている。頭痛は遠く、鐘が鳴るように頭蓋の内部で反響していた不協和音ももう聞こえなくなった。
ただこの感覚を得るために、あの鈍痛よりも遙かに酷い痛みに耐えなければならなかったけれど、それはもう過去のことである。思い出さなければ、繰り返される痛みでもない。廃れてしまった神経管を繋ぎ直すために、既に肉と同一化しかけていたこの義眼を、摘出せねばならなかったのだ。
それが、耳の聞こえなくなった一番の原因。
医者が原因を突き止められなかったのは、この義眼をくるんでいる神経その他諸々が通常の技術を要して接合されていなかったから。これは全部、人以外の技術によって作られ与えられた、世界にふたつとない代物だから。
スペアはない。失う事も出来ない。そして、すぐに正常に戻す事の出来るような簡単な仕組みでもなかったから、時間が必要だった。
タイムリミットは一ヶ月、ギリギリ、間に合った。
間に合わせた。
安堵感の息がこぼれ落ちる。吐き出した呼気が熱気の渦に巻かれて空を駆け上って行く。
スタートまで、あと数分。
君の驚く顔が、楽しみ。
*
「どうするんスか? このままスマイルが来なかったら……」
既に満席となっている観客席を袖から見やり、アッシュが切羽詰まった声でユーリに叫ぶ。開演時間はもう間もなくとなっており、時計と睨めっこをしている彼の顔は赤くなったり、青くなったり。
さすがにこの状況ではそれを面白がって見ているわけにもいかず、マイクを握る手に力を込めてユーリはギリッ、と唇を噛んだ。
振り返れば、一列になったメンバーが揃っている。その顔は一様に不安を浮かべており、決断を迫られてユーリは益々強く唇を噛む。
「あの……バカが!」
ユーリが腹立たしげに小さな声で怒鳴ったその対象が誰であるか、聞いている方はひとりとして間違える事はなかった。確実に、此処にいる自分たちではない。この場に顔を連ねあわせている自分たちではなく、此処に居ない存在に対しての、怒りだ。
不用意に触れたらその怒りが自分に向きかねないので、アッシュ以外は誰ひとりとして口に出さなかったけれど。
「ユーリ、もう時間が」
アッシュに急かされ、ユーリは瞑目する。伏せた瞳が己の足許を映し出し、視界が歪んだ。
一ヶ月、ただひたすらに彼の居ない時間を過ごした。彼無しで出来ることは全部やったし、彼が必要だと思われる部分は不本意であったが代役を立てる事でなんとか凌いできた。
そして約束の、ライブ当日。
彼はまだ現れない。もしかしたら、このまま永遠に現れないかも知れない。昨夜から考えていた一番最悪なシナリオが現実になりつつあって、ユーリは爪が食い込む寸前までマイクを握り込んだ。
「時間です!」
スタッフが叫ぶ。
「もう少し待てないか?」
「ですがもう既に、三十分近く押してるんです。観客も限界ですよ」
予定時刻を押して待ってみても、芳しい報告は届けられない。このまま始めるしかないのかと、アッシュは爪を噛んだ。他のメンバーも揃って浮かない顔をし、ユーリの様子を窺っている。
彼が決定を下さなければ、他はどうにも動けない。
俯いていたユーリが顔を上げる。瞳に、怒り以外の強い決意が浮かび上がっていた。
「出るぞ」
ステージ衣装のコートを翻し、彼は歩き出した。後方で彼の一声を受け、待機していたスタッフとメンバーが一気に動き出す。
照明の落とされたステージ。自分の立ち位置を確認して、モニターの場所を素早くチェックして、袖までと前方の端までの距離を相互に計算し、間違っても落下しない事だけは念頭に置いて。
深呼吸を、ひとつ。
観客席から流れてくるざわめき、熱気、歓声。饗宴の始まりを待ちかねた人々の魂が、無限の大気を震わせて胸に押し寄せてくる。
それはなんと心地よく、緊張感の走る世界なのだろう。ただ、ここに君が居ないことだけが残念でならない。
そう思った。
だけれど、不意に。
笑い声が聞こえた気が、して。
ユーリは振り返ってみた。けれどそこにはなにもなく、ただ黒々とした無機質なスピーカーと照明機材を吊したイントレが聳えているだけ。
「?」
首を捻る、右側へ。
微かに、大気が揺れ動く。
ユーリは握っているワイヤレスマイクの電源がオンになっていることを、横目で確認した。赤いランプが点灯している、電波は間違いなくチューナーを経由してミキサーへと届くだろう。エフェクターで処理されたそれはアンプを通過し、最終的にスピーカーで拡大されて“音”になる。そうなる前は、音はただの電子に変換された波に過ぎない。
だがその波は、一瞬にして空間を駆けめぐる。
「スマイル」
微かな音色が、会場内の各所に設置された巨大スピーカーから流れ出た。
会場内が唐突に、水を打ったように静まりかえった。拡大されて聞こえてきたのは、確かにユーリの声だけれど、ライブ開始を告げる声とは少々趣が違っている。観客はいずれも首を傾げ、次の声を待った。
裏方のスタッフと、ステージ上でセッティングを終えたメンバーも、中央に立つユーリの背中を半ば茫然とした思いで見つめていた。
透明な笑い声が、聞こえる。
アッシュも気付いた。もしかしたら、と。
「スマイル」
マイクを通し、スピーカーで会場全体に彼の声が響き渡る。俄に会場内がざわつき始めた、今までのような開演を待ちわびる人の喧噪とは違うざわめきが広がる。
お互いの顔を見合わせて、ひそひそとうわさ話に会話が流れていく。この一ヶ月、一切姿を現すことの無かったdeuilのメンバーのひとりが、実は行方不明で所在地不明であるという噂だ。
これを決定付けるものはなにも証拠として上がってこなかったから、あくまでも噂の域を出ていなかった。けれど薄暗い中でかろうじて見えるステージ上には、ベース奏者が立つ位置が空白のままである。そしてなにより、ユーリのこの呼びかけに似た名前の連呼が。
クスクスと、笑っている。
どこまでも性悪で、ひねくれた、人をからかって遊ぶのが大好きな奴の笑い声が聞こえてくる。
ユーリは深呼吸を繰り返した。最後に思い切り肺の中へこれでもか、というくらいに息を吸い込んで、止めて。
マイクを構える。
音響担当のスタッフが、嫌な予感を覚えてユーリが持つマイクのフェーダーを咄嗟に10デシベルほど下げた。
ゆっくりとユーリは吸い込んだ息を、吐き出す。
「スマイルーーー!!!!!!!!!!!!」
きぃ~~~ん、とスピーカーが一斉にハウリングし、例えば黒板を爪で引っ掻いたときに出る音のような、耳に耐え難い高音が会場内に翻された。
予想出来ていたアッシュだけが、あらかじめスティックを外した両手で耳を押さえ込んでいて、かろうじて事なきを得たけれど他の面々はいずれも、重症。それは言うに及ばず観客席にいる人々と、ステージ裏や前方に設置されたイントレに構えるスタッフ等々にも甚大なダメージを与えていた。
鼓膜を激しく打ちつけさせた高音が消滅するのに、それから一分少々の時間が必要であった。真っ先に回復したのは、滅多に在ることではないけれど(あったら困る)そこそこハウリングにも慣れているスタッフ達だった。
ただ彼らがいずれも、今のでスピーカーが飛んでしまっていないかどうかの恐怖にさらされ、冷や汗を隠せずにいたのだけれど。それはまた、別の話。
ふぅ、と吸い込んだ分の息を全部吐き出し終えて、すっきりした顔を作ったユーリが肩を落とす。
瞬間、笑い声が透明から色を持った。
クスクス、と入りっぱなしのユーリのワイヤレスマイクがその声を拾い上げる。
彼はゆっくりと振り返った、肩越しにステージ脇の空白が出来ているスペースを睨み付ける。
「ユーリってば」
笑い声は止まない。
なにもなかったはずの空間が、徐々に揺らぎ始める。
そして。
「そんな大声出さなくったって、聞こえてるってば~」
心底楽しそうに、彼は笑っていた。
一体いつからそこにいたのか、しっかりと自分が担当している楽器を両手に抱え持ってステージに腰を据えているスマイルが、隻眼の丹朱を細めてユーリを見上げている。
スッと、ユーリはまたしてもマイクを構えた。
反射的に、ミキサー卓前に座っている音響チーフがフェーダーに指を添える。この場合、トリム自体をワンクリック落とすべきではないかと、横に座っていたサブチーフは思ったが、言わない事にした。どうせ間に合わないのだし、と思っていたら本当に間に合わなかった。
「遅いわ!!」
再び、ユーリの大絶叫がスピーカーに乗って会場内に轟いた。だが先程のようなハウリングも起きず、トーンも些か落ち気味だった。
「え~? だってぼく、みんなよりも早くからずっと此処にいたよ?」
但し透明で。
にっこりと無邪気なくらいに微笑んで喋る彼の声も、いつの間にかしっかりとマイクに拾われていた。一体何処で拝借してきたのかも不明な、けれどどういうわけかちゃんとパッチングされてフェーダーにも割り振られているワイヤレスのマイクが、気付いたときにはもう彼の胸元に装備されていて。
ひょっとしてスタッフの方が先に知らされていて、自分たちは騙されたのだろうかと一瞬、ユーリは凄まじい怒気をその場に立ち上げた。このままでは永遠にライブが始められないと踏んだアッシュが、助け船にもならないかとは思ったがとりあえず、自分の左手方向にあったハイハットシンバルを数回、軽く叩いて鳴らしてみた。
座っていたスマイルが、口元を綻ばせながら立ち上がる。ユーリは片足分、後方に身体を退いた。
スマイルの左手が挙がる。
ゆっくりと、ユーリが後方――つまりはステージの中央である本来の自分の立ち位置へと戻っていく。
アッシュが全身を使ってリズムを練り始める。
誰かが特別合図を送ったわけでもないのに、全員がタイミングを見計らって大きく頷いた。
最後にちらりと、ユーリがスマイルを振り返る。相変わらずの笑顔を浮かべ、彼はユーリに微笑みかけた直後掲げていた左手を振り下ろした。
照明が一気に点灯する。
爆音が鳴り響いた。
静まりかえっていた観客席が熱気に包まれる。歓声が湧き起こった。
全身でそれらを受け止めながら、ユーリは絶叫した。暗譜している譜面を思い出しながら、スマイルもベースを掻き鳴らす。
照らされる照明の眩しさにも負けず、目の前を挑むように見つめて。
Can you hear my voice?
Has my voice reached you?
Would you respond to my voice?
Can my voice which you call you be heard?
I am continuing calling you.
I will continue calling you forever.
Does this voice reach you?
Does my voice reach you?
Please respond to me
I want to hear your voice
Only it is all
Therefore, I wish
Only it is all that I desire
Does this voice reach you?
Yes, I am ……