Sweet Valentine Kiss

 ボゥルを片手に、もう片手にゴムべらを構え、悪戦苦闘している様子は一見すると微笑ましい限りなのだろうが。
 なにせその両方を持ってガチャガチャと不協和音を奏でている本人は、鬼のような形相をしているものだから笑うに笑えず。もし笑おうものなら、すぐさま睨まれると石下しそうな目を向けられるだろうから、彼は苦笑を噛み殺して自分も作業を進め、手を動かす。
 けれど彼の手の中にも同じようなボゥルがあるというのに、静かにカチャカチャと可愛らしい音を響かせているだけで、横に立って頑張っている人との差は歴然だった。
 それが悔しいらしく、隣の彼は邪魔になる髪を三角巾で抑え込むという普段ならば絶対に見ることの叶わないだろう格好にも構わず、歯を食いしばりながらボゥルの中の茶色い液体を掻き混ぜている。けれど力を込めればその分ボゥルを支える手にも力が必要で、しかも中身は柔らかくなった半液体だから下手な力配分を行えば簡単に、飛び跳ねていってしまうから。
「あっ!」
 つるん、と彼の手を滑った金属製の銀色のボゥルが床の上を跳ねた。慌てて手を伸ばし彼は掴もうとしたが、彼の目の前でそれは転倒し、生クリームと半分混じり合ったチョコレートは床の上に巻き散らかされてしまった。
「ああぁ……」
 アッシュが膝を折り、屈んでテーブルの下に潜り込んでしまったボゥルを引っ張り出す。フローリングでもとから茶色かった床のが、更に濃さを増してなおかつ甘い香りを放っている。
 甘いもの大好きのアッシュでさえ、眩暈がしそうなくらいに強烈な芳香だ。
「すまん」
 頭を垂れて三角巾を外しながら、ユーリは小さな声で申し訳なさそうに詫びのことばを口に出す。こびり付いていたチョコ以外は全滅のボゥルを手の平で返しながら、アッシュは仕方がないっス、と曖昧な笑みを浮かべながら返した。
 実を言うと、ユーリの失敗はこれで三度目だった。
 料理に関してはてんで不器用なユーリだから、失敗する事を見越して材料は多めに用意して置いたが、果たして足りるだろうかとアッシュは心の中で不安を覚える。素早く残りの材料と時間とを計りに載せて計算し、まだ大丈夫と自分に安心させてから、落下してしまったボゥルを流し台に置いた。
 水をかけ、汚れを落とす事から再開させるためだ。
「すまない、本当に」
 顔に出さないように心がけていたアッシュだが、全部を隠し通すことは出来なかったらしくユーリが彼の背中に声をかけ、自分から雑巾で床の上を拭き始めた。甘い香りに、酔いそうになる。最初は白かった雑巾も今はすっかりチョコレート色に染まり、香りまでカカオが染みついてしまっている。
 彼が身につけているエプロンも、おろしたてのはずだったのにマーブルチョコの色を表面に描き出していた。洗濯をして漂白しても、もとの色を取り戻すことは難しいかも知れない。
 だんだん自分が惨めに思えてきて、ユーリは雑巾を畳みながら壁時計を見上げた。
 昼食が終わってから直ぐに始めたから、もう三時間以上経過している。だと言うのに、未だ完成品には程遠く最初の段階で躓いたままだ。これでは間に合うどころの問題ではない。
「大丈夫っス、ユーリ」
 その為に俺が居るんスから。
 気落ちしていることが丸分かりの背中を向けているユーリに気付いて、アッシュは水に濡れた手をタオルでくるみながら右腕に力瘤を作った。基本的にお人好しで面倒見の良い彼が、今更引き受けた仕事を放り出すはずがなく、なんとしてでも目的は達成させてみせるという意気込みを、自分でも作り出そうと彼は鼻息を荒くする。
 ひとりの料理人としての意地も手伝っているのだろう。なんとしてでも、夕食までにこの一品を完成させてみせる、と。
 だがこのままでは、今晩の夕食はこれひとつに終わってしまいかねないことを、彼は知るべきだっただろう。
「まだまだ時間はたっぷり有るっス。ゆっくり、行きましょうっス」
「……分かった」
 言い出したのはユーリだし、それを撤回するにはプライドが邪魔をする。たかがお菓子ひとつ、作れなくてどうする、と自分に叱咤して彼は再び綺麗に磨かれたボゥルと対面を果たした。
 ぴかぴかの表面に、歪んだ顔の自分が映し出される。
 先に生クリームを沸騰させるために鍋に入れて火をかけ、その間にクーベルテュールチョコレートを細かく包丁で刻んでボゥルの中へ。これはアッシュの作業であり、ユーリはひたすら鍋と睨み合ってクリームが沸騰するのを待つだけ。ユーリに包丁を持たせると、その包丁が宙を舞うという事例が過去に何度か発生しており、へたに怪我をされるよりは、というアッシュの配慮である。
 だがユーリはやはり、最初から最後まで自分でやりたいという想いがあって、その辺の気配りは不満が残っていた。
「アッシュ、沸いたぞ」
「はいっス」
 鍋の外縁から泡が発生し始めたのを確認し、ユーリはアッシュに呼びかけてからガスを切って片手鍋を両手で慎重に掴み、持ち上げた。
 零さぬように気を配りながら、刻まれたチョコレートが待つボゥルに湯気を立てている生クリームを流し込む。濃い香りがして、熱せられたクリームがチョコレートの表面を溶かしていくのが湯気の中で見て取れた。
 今度はそれを、ゴムべらで掻き混ぜていく。そこからはユーリの仕事であり、完全に混ざりきるまで彼の作業は続く。ようやく解放されたアッシュはというと、自分が引き受けた仕事に戻っていった。
 出来上がっていたメレンゲをもう一度掻き混ぜて角を確かめ、それを卵と粉を混ぜて馴染ませておいたボゥルに少しずつ、分け入れていく。
 ユーリはガチャガチャと相変わらずの、強すぎる力加減でボゥルの中のチョコクリーム作成に懸命になっていた。
 やはりその光景だけを見ていると微笑ましい感じがする。
 ユーリが「作りたい」と言い出したのは昨日の夜のことであり、どうやら偶然見ていたテレビ番組に触発されたらしい。別にこれでなくとも良いのではないかと、一応アッシュは止めてみたのだがユーリは聞かなかった。
 どう考えても、このお菓子は甘すぎて食べられないメンバーが約一名いる、と説得してみたものの。
 別にあいつのために作るのではない、と突っぱねられた。
 シーズン的に、また、彼が見ていたテレビ番組からしても、その言い訳は苦しいものであったはずなのに。
 そんな渋るアッシュをやる気にさせたのは、ユーリの「料理人の風上にも置けない奴」というひとことで、それに逆に奮起してじゃあ作ろう、と話がまとまるのにものの五分もかからなかった。あとからアッシュは後悔したが、お菓子でもなんでも作るのは楽しいから、今は構わないと思っている。
 珍しいユーリも沢山見られたことだし。
「アッシュ、これは……どうすれば良いのだ?」
 苦闘の末、完全にチョコレートとクリームが混じり合ったボゥルを差し出しユーリは物思いに耽っていたアッシュに呼びかけた。
 慌てて我に返った彼は、テーブルの端に置いてあるふるいを顎で示した。それを使って、クリームを濾すのだ。
「それが終わったら、常温で冷やす……ってのも変な話っスけど、そのまま置いておいてくださいっス。じゃ、次の行程っスね」
 四度目の正直で完成したガナッシュを横目で見て、あれは固くなってしまうのでは、とアッシュは正直思ったが折角ユーリが頑張ったのであるから、使ってやるべきだろう。どうせ生地に塗るだけだ。
 ユーリを尻目に、自分の手元で溶かしバターを流し込んだ生地を掻き混ぜ終えたアッシュはそれを、クッキングペーパーをあらかじめ敷いて置いた角形のオーブンプレートに流し込んだ。表面をへらで均し、温めて置いたオーブンに押しこむ。
「次は?」
「シロップと、バタークリームっすね。どっちをやりたいっスか?」
 興味津々にオーブンを眺めてから顔を上げ、頬にクリームを付けたユーリが尋ねる。ついていることをアッシュが教えてやると、彼は慌てて両手で頬を拭った。
「どちらが……その、簡単だ?」
 自分が不器用であることをようやく認めたらしいユーリの発言に、アッシュは笑みを表に出して粉末コーヒーの入った袋を指さした。
「じゃあ、シロップの方お願いするっス」
「分かった」
 生地が焼き上がるまでの間に、両方の準備が終わるはずがなかったが、それでも少しずつものは揃い始め、太陽が西に傾き出す時間帯にはなんとか、飾り付けの段階まで進むことが出来ていた。
 タイムリミットまで、あと一時間ほど。
 間に合うか否か、ギリギリといったところか。アッシュも多少なりとも焦り始め、ユーリはパレットナイフを握る手に力が籠もった。
 目の前でコーティング用のチョコレートを均等にまんべんなく、ビスキュイ生地に塗り広げていく。更にその裏側にもたっぷりと、先程作ったコーヒー味のシロップを滴る寸前まで染みこませ、ガナッシュクリームを広げた。二枚目の生地を被せ、その上にもシロップを染みこませてバタークリームを塗り、この行程が二度、繰り返されて。
 最後に塗ったバタークリームの上にラップを敷き、綺麗に表面が整うように重しを載せて冷蔵庫へ。
 一段落。
 時間は、予定ではあと三十分ほど。
 ユーリがほっと一息ついている間もアッシュは休まず、最後のコーティング用チョコレートを熱して溶かしていた。台所に、彼が作業する音と壁時計が秒針を刻む音だけが混じり合っていやに大きく響き渡る。
 高椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をついてユーリは溜息をついた。
 そもそも、何故こういう事をしようと思ったのかを思い出す。
 昨夜、彼はリビングでテレビを見ていた。番組を選んだ覚えはなかったが、気が付けば番組の話題がバレンタイン、というイベントに至っていたのだ。
 この季節になると、街中がどこかソワソワした雰囲気に包まれて甘い香りも、あちこちから漂い始める。今までユーリも、仲間達もあまり気にしたことのない人間達のイベントに、今更交わろうという気はさらさらなくて、ただユーリは画面に現れるチョコレート菓子の数々にばかり目をやっていた。
 この季節でしかお目にかかれないチョコレートも確かにあって、その日のためだけに用意されるチョコレートケーキに目を奪われた。
 そんな中で、取り扱われていたケーキ。
 コーヒーと、ガナッシュチョコのコンビ。
 甘そうなチョコレートの数々にうんざりした顔をしながらも、ユーリにつきあって一緒にテレビを見ていた彼が、そのケーキを見た瞬間に何気なく呟いた、ひとことに。
 何故あそこまで過敏に反応してしまったのか、自分でも不思議だった。
『これだったら、食べられる……かな?』
 あくまでもその呟きは疑問型だった。生クリームで失神するような男が、チョコクリームに耐えられるはずがない。それはユーリとて重々承知しているはずだ。
 画面が直ぐに切り替わってしまったこともあって、会話は発生しなかった。頬杖をついて番組を最後まで見ていた彼は結局その後、あのケーキに関してひとことも口に出さなかった事からまず間違いなく、自分の発言を記憶していないだろう。
 それなのに、ユーリはその日のうちにアッシュを掴まえ、午前中に買い出しを済ませて午後からは台所に籠もり、悪戦苦闘を果たしている。
 事の発端となるひとことを吐き出した男は本日、お仕事でお出掛け中。本当ならユーリも一緒に行くはずだった打ち合わせは、彼の仮病でスマイルひとりが出向くことになってしまった。
 彼はユーリの仮病に気付いていたようで、アッシュがなにか我が侭に引き込まれていることも察していたらしい。出かける直前、なにをするつもりなのかは知らないけど、という前置きつきでアッシュに、ヨロシク頼むよ、とまで言っていた。
 贅沢者め、とまでは言い返さなかったがアッシュは少し、彼が羨ましく思ったり、も。
「ユーリ、なにか書く事あるっスか?」
 冷やし固まったケーキの表面に、更に熱して溶かしたコーティングチョコを塗り均してアッシュは尋ねた。どういう意味か、と首を傾げて聞き返すユーリに、彼はボゥルの中にまだ僅かに残っていたチョコレートをゴムべらで掬い上げた。
 これで、と器用にオーブンペーパーの切れ端を丸めて三角錐を作り、その中にチョコレートを流し込んで先端の細くなっている部分を切り取る。中のチョコレートを絞り出しながら、ケーキの表面に文字を書くことが出来るのだと彼は簡単に説明した。
 そして試しに、と形を整えるために切り取ったケーキの端に作ったばかりのコルネでサラサラと、慣れた手つきでユーリの名前を、アルファベットで書き記して見せた。
 感心したように、ユーリが手を叩く。だが目の前に新しい紙のコルネを差し出されて、彼は固まった。
 人がやるのを見るのと、自分がやるのとではわけが違う。その上、初めてやることだ、失敗したら取り返しがつかないではないか。
「あぁ、平気っス。表面に塗ってあるチョコと同じやつっスから、ミスっても馴染ませればばれないっスよ」
 アッシュは軽い調子で笑って、ユーリにコルネを押しつけた。さあ、と手を広げてケーキへと彼を導く。
「うぅ……」
 まさか最後の最後でこんな仕打ちが待っているとは予想だにせず、ユーリは小さく呻きながらも促されてやむなく、ケーキの前に出た。
 しかし、書くことばが思い浮かばない。
 時間は迫っている。夕食前には帰ってくるはずだ、奴ひとりに行かせると打ち合わせも早く終わるから下手をすれば今このタイミングで、玄関に帰宅を告げる彼の大声が響くかも知れなかった。
 後ろで、ようやくアッシュが夕食の支度を何も出来ていない事に気付いて愕然とし、顎を外していた。それどころか台所は、まるで戦争があった後のように見事にものが散乱していて、壁にまでクリームが飛び散り、こびり付いている始末。
「アッシュ!」
「はいぃ!」
 唐突な呼び声に過剰に反応して、背筋をぴーんと伸ばしたアッシュがユーリを振り返った。
 きつい色合いの双眸で、ユーリが彼を睨んでいた。なにか悪いことをしただろうか、とアッシュは怯えて逃げ腰になるが、ユーリは奥歯をぎりっ、と強く噛みしめたあとひとことだけ、言った。
「見るなよ?」
 態度とは随分と違う、気弱で小さな声で、だ。
 聞き違いかと呆けてしまったアッシュも、瞬きを三度繰り返してから「はいはい」と大仰に肩を竦めて笑った。
 その笑い方が気に入らなくて、ユーリは腕を伸ばして彼を突き飛ばした。一日で殆ど中身を使い切ってしまった大きな粉袋に彼の巨体は倒れ込み、白い粉を撒き散らして一瞬、視界が白く染まる。
 ケーキにまで飛んだのではないかと不安が過ぎったが、粒子の細かい粉はケーキに大した被害を与えていなかった。むしろ、頭が真っ白になったアッシュの方が余程酷い。床の上で座り込み、けほっ、と咳き込んで彼は涙目になっていた。
「酷いっス……」
「お前が笑うからだ」
「それより、夕食どうするっスか?」
 時計を見る、あと半刻で通常の夕食タイムが訪れてしまう時間帯だった。どう考えても、今晩の夕食は諦めるしかなさそうな雰囲気。
「なにか、作れないのか……?」
「簡単な奴で良いのなら、なんとかなるかもしれないっスケド」
「なら、それで頼む」
 今から道具を片付けて、器具も洗浄して、同時進行で材料の下ごしらえもして……。考えるだけで頭が痛くなりそうなアッシュを尻目に、ユーリは完成してあとは最後の飾り付けを済ませるだけのケーキを皿に移し替えた。先程渡され、使っていない紙のコルネも一緒に皿に載せ、ぐるりと作業台のテーブルを回り込み台所とリビングを遮る扉へと向かう。
 粉まみれのアッシュになど、目もくれない。
「トホホ」
 軽く粉を払ってまた咳き込み、アッシュは苦笑した。
 たまには、こういう事も悪くないか、と。
「自分に子供が出来たら、こんな感じっスかね~」
 ユーリが聞いていたら拳が飛んできそうな事を笑いながら呟き、彼は立ち上がった。

 玄関を抜け、広い吹き抜けのホールを通り過ぎる。そのまま普段なら真っ先に尋ねるリビングには足を向けず、彼は先に階段を登って自分の部屋に戻った。
 飾り気のないシンプルなキーホルダーにぶら下げたバイクのキーをベッドに投げ出し、もう一方の手で抱えていたものは慎重に大事に扱いながら、机の上に置いた。それから上着を脱ぎ、やはりベッドの上に放り投げる。
「ん~~、疲れた」
 部屋に入った瞬間に放り投げていた鞄を広げ、幾種類かのファイルを抜き取る。そのうち、必要と思われるものだけを選別して残りは鞄に押し込み、踵を返した。
 いつもなら開けっ放しにしておくドアに鍵を掛け、それをズボンの後ろポケットに押し込みファイルを片手に登ってきたばかりの階段を下りる。
 そうしてようやく、スマイルはリビングのドアノブに手をかけた。
 開けた瞬間、甘い香りが鼻腔を掠めていってうっ、と唸ってしまったが。
 嫌な予感がする、本能的に彼は悟った。
 しかし開けた扉の向こう側にユーリが座っているのが見えて、しかもしっかり扉の方を向いていたからまず間違いなく、発見されてしまっているに違いない。背中に垂れる冷たい汗を堪えつつ、彼は唾を飲み込んでリビングに入った。
 絨毯の感触が柔らかい、だが無性に、甘い薫りがする。
「ユーリ?」
「…………」
 リビングのソファ、扉に向かう格好で並んでいるひとつに深く腰を沈めている彼は難しい顔をして、スマイルを見上げていた。膝の上に置いた両肘を顔の前で組み、その上に顎を置いている。
 彼は何も言わず、目線だけでこちらへ来い、と告げていた。
 怪訝に想いながら、スマイルは三人掛けソファの背後から前に回った。ユーリの座っているソファの真向かいに居場所を定め、腰を下ろす。
 ふたりの間には、クリスタルガラスのテーブルが、ひとつ。
 その上に、真っ白い大皿に乗ったチョコレート色の、ケーキがどでん、と。
 偉そうにふんぞり返っているのをその目で確かめて、スマイルは一瞬眩暈がした。甘い薫りの発生源に今ようやく気付いて、近付くのではなかったと思い切り後悔する。
 が、遅い。
 そう、「おそい」。
 ケーキの表面にチョコレートで書かれていた文字が、それで。
 笑うに笑えなかった。
「なにコレ……」
「見ての通りだ」
 ケーキに対してか、ケーキの表面を飾っているあまりにケーキに不釣り合いなメッセージに対して尋ねたのか、もうスマイル自身にも分からない。ただユーリが仏頂面で返して、苦笑が漏れる。
 そんな脳裏の端で、昨夜の出来事が不意に思い起こされた。
 多少形が違っている事や、表面に書かれている文字が違っているという点はあるが、このケーキには見覚えがある。
「ああ、もしかして」
 いや、もしかしなくてもその通りだろうが。
「ぼくに?」
 売っているケーキがこんな、気の利かない随分と直接的なメッセージを書き記してくれるはずがない。それに、職人であったならもっと綺麗な字を書くだろう。
 だからこのケーキが、今日の打ち合わせをユーリが仮病でサボった理由なのだと、彼は瞬間に悟った。
 自然と顔が緩んでしまう。
 だが同時に、心の中で冷や汗がどんどん増えていく。
 どうしよう、もの凄く嬉しいけど、もの凄く困る。
 スマイルは甘いものがだめだ。アレルギーが出るわけではないが、もれなく気分が悪くなって胃の内容物を逆流させてしまう事になる。今現在も、ケーキから漂う甘い香りに既に酔いそうになっているというのに。
 見るからにチョコレートだらけのこれを、どうやって平らげろと言うのか、ユーリは。
 天国だが、地獄だ。
「……やはり、駄目か?」
 黙り込んでしまったスマイルを上目遣いに見やりながらユーリが尋ねる。三角巾は外していたが、まだら色になっているエプロンはそのままだったユーリの姿に、グラグラ来ている事は事実だ。こんなになるまで頑張って作ってくれたケーキを、どうやって食わずに過ごすことが出来ようか。
 だが哀しいかな、確実に食べればそのまま水場に直行である。
 未だ嘗て無い激しいジレンマに、彼は襲われた。
「そう、だな……。すまない、忘れて」
「待った」
 皿を片付けようと手を伸ばしたユーリを遮り、スマイルは素早く更に乗っていたフォークを手の中に収めた。
 ユーリが顔を顰めるのを視界におさめ、銀色のフォークを逆手に持ちスマイルは、四角いケーキの角へとそれを差し込んだ。
 切れ目を付け、掬い上げる。
 チョコレートとバタークリーム、それに生地からしみ出たシロップがたっぷりのケーキ、ひとくち分。それをフォークに載せ、空中に浮かせた。
 じっと、見つめる。ユーリまでつられて、じいっとフォーク上のケーキを見入ってしまった。
「ユーリ」
 先に口を開いたのは、スマイル。
 ユーリはてっきり、ひとくちだけでも彼がケーキを食べてくれるものだと思って、視線をケーキから外し隻眼の丹朱を見つめ返した。けれど、次に言われたことばに意味も理解できずただ言われたとおりにしてしまって。
「あーん」
「あ?」
 ぱかっ、と開かれたスマイルの口を見た瞬間に何故か自分の口まで開いてしまっていて、ユーリが慌てて閉じようとした寸前、彼の舌の上に甘ったるいチョコレートの味が広がった。
「ん」
 閉じた唇から茶色をまぶした銀色のフォークが引き抜かれる。目を丸くしたユーリだったが、身体の構造は現金で、舌の上にものが載せられたと判断した途端彼は数回咀嚼して、口いっぱいにチョコレート味を広げてしまっていた。
 それは、先程スマイルがフォークで掬い上げたケーキに他ならず。
 どういうつもりか、と問おうと再び視線を持ち上げた瞬間、くちづけが降りてきた。
 カシャン、と皿の上に戻されていたフォークが、テーブルに置かれたスマイルの両手から伝わる振動に反応して音を立てた。両手をつき、身体を支えて身を乗り出した彼が、テーブルの向こう側に座っているユーリに伸び上がり、くちづけている。
 唇は、甘い。
「これくらいなら、まだ平気なんだよね」
 離れる瞬間に伸ばした舌で唇の表面を撫でてから、スマイルはそう言った。
 見る間にユーリの顔が赤くなり、「あ」とも「う」ともつかない声を絞り出しながら口をぱくぱくと開閉させる。
「もうひとくち、行ってみる?」
「バカ!!」 
 茶化しているのだろう、再び手に取ったフォークでケーキを指し示したスマイルの楽しげな顔に、ユーリはようやく呼吸を正常に戻してひとこと、叫んだ。
 どこまでも顔が赤い。
「ばかもの……」
「うん。でも折角だし、勿体ないし、ね?」
 夕食が出来上がるまでまだ当分時間もかかるだろうし、とちらりと壁時計と閉められたままの台所に通じる扉を交互に眺め、スマイルは笑った。どこまでも、聡い。
 ユーリはばつが悪そうに俯いて、上目遣いでスマイルのことを睨んだ。けれど彼にダメージはなく、渋々、頷いて返す。
 口の中はどこまでも甘い。けれどそれ以上に、触れられた唇が熱く、甘い感じがした。
「あーん♪」
「言わなくて良い、それは」
 ひどく楽しげにフォークを向けてくるスマイルをねめつけてから、ユーリは口を開いてケーキを受け入れた。
 ケーキもキスも、同じくらいに甘くてくらくらしそうだった。

 余談。
 次の日。目が覚めたユーリの枕許には眠る前にはなかったはずの真っ赤な薔薇の花束があって、笑うに笑えず彼は起きあがったばかりの枕に沈没し、頭の先まで蒲団を被って昼まで起きて来なかった。