涙酒

――敬愛せし君に捧ぐ――

彼の死に様は、伝えられていた。
その表情は鬼神の如くあり、一歩もそこを退かないという固い決意を秘めた眼は一度たりとも揺れ動く事はなかった。
いったい何が彼をそこまで奮い立たせたのか、彼亡き今となっては、知るすべは遺されていない。
だが、少しならば理解出来る。
彼が何を信じ、願い、闘って死んだのか。
無数の矢を全身に浴び、斬りつけられた傷口からは止めど無く血が流された。片足は落馬した時の影響で皹が入っていたはずなのに、「痛い」の一言もついぞ彼は口にしなかった。
白銀の鎧は赤黒く染まり、幾つもの傷を作って、最期まで彼に従った騎士のように彼を守り続けていたけれど、結局止め具まで破壊されて分解されたそれは、重い音を立てて主よりも先に地面に沈んだ。
すさまじい戦いだったと聞いている。おそらく歴史に残るほどの。
だがあまりにも生存者が少ないために憶測ばかりが行き交い、結局彼の死の真相も、多少の捏造が含まれているだろうというのが、現在の見解だ。
彼は立ったまま死んだらしい。
砦に通じる唯一の道の真ん中で、押しても倒しても尽きない無数にも錯覚させるほどの敵を前にしてもなお怯む事なく。たった独りきりになってもその場から動こうとせず。
彼が仁王立ちのままとっくの昔に息絶えていることにハイランド軍が気づいたのは、かなり後の事だったと伝え聞いた。
死してもその場に残りつづけた彼の闘志は、見事に我が軍の勝利を導いた。囮という役目を立派に終えた彼に、言える言葉は少ない。
せめて彼の死が無駄にならなかった事だけが、幸いなのか。
それとも、彼ほどの武将を失ってまでも決行しなければならない作戦だったのか。
今となってはもうその判断はつかない。戦争は終わってしまったし、彼の遺骸は焼け野原となった砦跡で辛うじていくつかの骨を拾う事が出来たに留まっていたのだから。
彼を失わねばならなかった戦いは、もう遠い記憶の空に漂っている。
あるいは、彼こそが真に英雄と呼ぶにふさわしい存在だったのやも知れない。だが判断するのは後に生まれ育つ人々で、一様に彼のような歴史の裏側で死んでいったものたちの記憶は残りにくいのが時代の常だった。
だから、歴史が名を刻む英雄には真の紋章などに運命をいいように操られて、躍らされただけの哀れな生き人形たちが顔を揃えている。
真実は多くを語らない。
ただ、静かに歴史を見守るのみ――

城の、酒場で。
夜も耽け、人々は見張りの兵士を残してその多くが眠りに就いた時間帯に、彼はひとり静かに酒をあおっていた。
立派な髭を蓄えた精悍な作りの顔立ちだが、その表情はどこか冴えない。あるいは酒のせいかも知れぬ。どこか浮かない表情のまま、彼は無言で酒を継ぎ足しては飲み、飲んでは盃に酒を注いでいた。
店内の照明は落とされ、僅かにテーブルに置かれた蝋燭と壁に並んだいくつかの燭台に火が灯るのみ。薄暗く、手元を確認する事がやっとのような明るさの中で、しかし彼は周囲の状況になど全く目を向けずにいる。
「ふぅ」
空になった酒瓶を床に置き、新たな酒を求めて彼は重い腰を上げた。よいしょ、と小さく掛け声を出してテーブルに置いた両の手に力を込め、膝の裏で座っていた椅子を押し出して立ち上がる。
だが酔いの回った身体は思った以上に平衡感覚を失っており、危うくテーブルを巻き込んで転倒する直前にまで行った。しかし長年の武人としての誇りが勝ったのか、寸前で足を踏みとどめ、寸でのところで醜態を晒さずにすんだ。
もっとも、酒場の主であるレオナでさえ眠りに就いたこの場所で、彼以外に動くものなどなく。
無論のこと、彼が大袈裟なまでに音を立てて転ぶ様を見て笑う者も、ない。
しかし彼は常に、いつ何処で何があってもいいように自分を戒めている。けっして恥ずかしい真似だけはするなと教えられて育ち、事実そのようにして生きてきた。齢は初老の域へと向かいつつあるが、未だ若いものには負けないという自負がある。たとえ誰のいない場所であっても、己を固持し、失態だけは避けなければならないのだ。
「いてて……」
だが、ふんばる時にぶつけた膝の痛みだけは抑える事が出来ず、つい口に出してしまった言葉を慌てて飲みこむと、赤く染まった顔を上げて小さく息を吐いた。
言葉に出来ない感情を飲み下して頭を掻き、新たに酒を求めてカウンターに向かいかけた足が、床の上に散乱す酒瓶にぶつかった。
カラン、ごつん。
すでに空瓶は片手を越えており、あと数回カウンターとテーブルを往復すれば今度は両手でも足りなくなりそうな雰囲気だ。しかし誰もいないということは、つまり誰も彼を止めたり咎めたりするものがいない事でもある。散々止めておけと忠告していたレオナでさえ、最終的には匙を投げてさっさと眠ってしまったほどだ。
「どこに仕舞ってあるのだ……?」
蝋燭を片手に掲げ持ち、彼はカウンターの内側に回りこんでお気に入りの銘柄の酒を探す。しかしなかなか見つからず、数分ほど悩んだすえ、ついに発見にいたる事が出来なくて仕方無しに彼は、手前にあった初めて見る銘柄の酒瓶を掴むとテーブルに戻った。
酒瓶の栓は既に開けられており、中身は三分の一近く減っていた。おそらくレオナが閉店前に来ていた兵士に出していた酒の残りだろう。彼らが何を注文して、この酒にどういった評価を下していたかを彼は知らない。興味も無かったし、その時にはもう彼は半分できあがっていて、人の話を聞いてもまともに記憶に止めておく事など不可能な状態であったから、無理も無い事なのだろうが。
 残量の少ない酒瓶をもうひとつ確保して、カウンターに蝋燭を置いたまま彼はテーブルに戻る短い道のりをのろのろと歩き出す。薄暗い店内のテーブルには、普段は床に置かれて人を座らせるための椅子が今は逆に、掃除がしやすいようにと逆さま向けにされてテーブルに鎮座していた。
 何故これほどまでに彼が今夜に限ってこれほどまで荒れているのか、理由は誰も知らない。レオナも一応問いただしてみたが、彼が黙って首を振るばかりで一向に理由を語ろうとしなかった。おそらく何かいやな作戦でも任せられたのだろう、というのが仲間内で出された結論で、然からば触らぬ神に祟り無し、と以後誰ひとりとして彼に近づこうとはしなかった。
 彼が酒場に来る直前まで、筆頭軍師のシュウから呼び出しを受けていたという話は、皆が知っていることだったから。
 しかし荒れている、にしては妙に静かな飲み方で首をひねる者も少なくなかったのだが。
 ただ、酒をあおるだけ。他人に絡むこともなく、愚痴をこぼすのでもなく。ひたすら酒を飲み何かを忘れようとしている雰囲気に、確かに近寄りがたい空気を感じていたのは確かだろうが。
 閉店の間際に彼の息子が様子を見にやってきたのだが、一言二言、言葉を交わしあって息子はあえなく退散した。息子にしてみれば、父親の体調を心配しての忠告をしにやってきたはずなのだが、彼の方が何か言いくるめられてしまった感じがあった。困った顔をして、それから「程々にして下さいね」と諦め口調で呟いて帰っていった息子の背中を見つめる彼の瞳は、酒に酔っているせいもあったろうが、少々潤んでいた。
 ごとん、と乱暴にテーブル上に酒瓶を置き、椅子に座り直そうとして彼は赤く染まった顔を上げた。
「よう、ひとりか」
 酒場の城側からの入り口に、男が立っていた。
 精悍な顔つきと引き締まった体躯。飄々としてどこか掴めない表情をした男の出現に、それまでどことなく虚ろだった彼の眼に僅かばかりの光が戻る。
「珍しいな、こんな時間に。なあ、キバ将軍」
目上の者であっても変わることのない馴れ馴れしい、と聞く者によっては感じる口調で言い、男――ビクトールはキバが座る席に歩み寄った。
「珍しいのはお互い様だろう」
 やや憮然として言い放ち、椅子に腰を落ち着けたキバは取ってきたばかりの酒を早速盃に継ぎ足し一口飲む。
「……むぅぅ……」
 だが、予想していたのとはかなり違う味に一気に眉を寄せ顰めっ面を作った。
「ははは、どうやらお目当ての酒にはぶつからなかったらしいな」
 その姿を見てビクトールが声を立てて笑い、更にキバの顔を渋面にさせる。仕方なくキバは別の酒に注ぎ変えて試し飲みをしてみたが、こちらも先ほどの酒と大差ない味に彼の表情は益々厳しくなるばかりだ。
「不味いか」
「ああ、不味い。この程度で酒を名乗るとは烏滸がましいにも程がある」
 断りもなくキバの向かいの席に腰を下ろしたビクトールの問いかけに即答し、キバはまだ十分に残りのある酒瓶二本を脇に避けた。
 別段この酒が不味いのではない。単にキバが好むアルコール度数の高い酒では無かっただけのことなのだ。故に、一般の消費者に取ってみればキバの飲む酒こそが強すぎて飲むには絶えられず、この程度の酒で丁度いい具合、なのだろうが。
「困ったな」
「ああ、明日店主に言ってやらねばなるまい」
「そりゃあ、見物だ」
 カラカラと笑い、ビクトールは自分が持っていた一升瓶を揺らした。あのレオナとキバ将軍との一戦は、下手をすればハイランド軍との戦闘よりも見る価値があるかもしれない、と言いながら。
「ふん、勝手ぬかしおって。貴様こそ、その不抜けた顔を引き締めたらどうだ」
「そんじゃあ、お言葉に甘えさせていただくとしようかな、俺も」
 どん、と彼は持っていた一升瓶を乱暴にテーブルに置いた。衝撃で卓が揺れ動き、つまみが入っていた(言うまでもないと思うが、今はすでに空だ)皿がからん、と傾きキバの酒にぶつかる。
「躾のなっておらん男だ」
「おいおい、酒を飲むのに行儀が良いも悪いもないだろう?」
 酒の席は無礼講に決まっている、と言外に告げた男の不敵な笑みにキバもにやりとやり返し、ならばとビクトールの酒に無遠慮で手を伸ばす。
「おっと、俺に注がせてくれよ」
 しかし寸前でビクトールに瓶を攫われ、ならば、と反対の手に持っていた空になった盃を差し出す。
 なみなみと注がれる透明の液体をうっとりとした表情で眺めたキバは、ビクトールが注ぐのを止めた次の瞬間にはもう、盃を口元に送ってぐいっと一息に飲み干してしまっていた。
「おいおい、ちょっとペース速すぎやしないか?」
 これにはビクトールも呆れ顔だ。しかし止めようとはしない。まるでキバが今夜独りきりで飲み明かしている理由を知っているような眼差しで、目の前に座る一日で数年分も年を重ねてしまった男を眺めつづけるだけだ。
「こりゃあ、なかなかいい酒だ。どこで手に入れた」
「気に入ってもらえたのは嬉しいが、俺も出所は知らないんだ。もらい物、だな」
 本当はゴードンの店でくすねて来たのだが、その事は口にしない。倉庫に山積みされていたワインの片隅で、忘れ去られたようにぽつんと転がっていた一升瓶を拾ってきて、試しに飲んでみたら意外にいけたので持ってきただけなのだ。
「貴様も飲め。そのつもりで来たのだろう」
 酒場に酒を持ってきていながら、飲まないのはおかしい。赤い顔と熱にうなされた声でしつこく酒を勧めてくるキバの申し出を断る理由も、ビクトールには無く。
「じゃ、遠慮なく」
 もともとはビクトールが持ち込んだ酒だ。遠慮するのはキバの方だろが、そんなことは二人、どうでも良かった。ただ互いの寂しさを紛らわす酒と、愚痴を聞き流してくれる相手がいてくれさえすれば。
「……セレン殿は……」
「?」
 そしてしばらく無言のまま酒を酌しあう行為が続いた後。ぽつり、とキバが先に呟いた。
「セレン殿は、この戦で誰かが欠ける事を、考えてはおられぬようだ」
「………………」
 半分ほど盃の酒を飲み干したビクトールが、答えないまま杯を卓に戻す。酔いの回りかけた瞳におぼろげに、卓上の蝋燭の火が揺らめき映る。
 だいぶ、燭台に差し込まれた蝋の長さも頼りなくなってきていた。
 しかし夜明けまでまだ早い。
「今後、戦況は今以上により熾烈、かつ過酷なものとなってゆくだろう。当然、失われる命の数も多くなる。だが……」
 ぐい、とそこで言葉を切ったキバは杯に残っていた酒のすべてを一口のうちに飲み下す。
「セレン殿は、たったひとりの兵を失ったことでさえ、大いに悲しまれるようなお方だ」
「ああ、そうだな」
 短い相槌を返し、ビクトールは促すように残り少ない酒をキバに注ぐ。
 風さえ吹かない静か過ぎる夜。見張りの兵士も立ったままうつらうつらと舟をこぐような、そんなとても戦争をしている人間の本拠地には思えない長閑過ぎる城の、闇。
「セレン殿はお優し過ぎる」
 ことん、と一升瓶を置く音とキバの言葉が重なり合って奇妙に寂しげな音を作り出した。
「そうだな」
 だから人は、彼の優しい心に惹かれ、同調し、守るために彼のもとに集ってくる。とてもそれまでの人生に共通項を見て取れない人間が、この城には溢れている。各々の目的を持っていながら、セレンの心に導かれて寄り道とも言えない戦いに駆けつけてくれる多くの、同胞たち。
 その一人ひとりが愛しく、大切であるからこそ、セレンは誰も失いたくないと泣く。涙を見せないままに、心で悲鳴をあげて血の涙を流している。
 それが不憫でならない。
 そして、その優しさこそが彼の最大の弱点だった。
 優しさは確かに強さにつながる。だが、裏を返せばとても弱い部分でもあるのだ。
 一番人間らしい感情だからこそ、人間であることを忘れて鬼人となり血に飢えた亡者の如く剣を振りかざして戦うことができない。殺すべき相手のことを考えてしまうような戦士は、生き残ることなど到底不可能だ。
 もし、友たる者が失われたとき。
 もし、家族同然の存在が失われたとき。
 彼は――セレンは、壊れてしまうかもしれない。
「奴は、そこまで弱くはないだろう」
 空になった瓶を指ではじいて、ビクトールは呟く。頬杖をつき一見やる気のなさそうな態度を見せているが、隙の感じられない瞳の輝きに酔いはない。
「傷は引きずるかもしれないが、あいつは……自分がリーダーであることをよく承知しているさ」
 人前で涙を見せない。気丈に振舞えるその姿は、見方を変えればとても痛々しく映る。
 彼はまだ16歳の少年なのだ。本来なら戦うことを強要されるような年ではない。ただ偶然――皮肉にも真の紋章を継承し、義父がかつて英雄と称された男であったが為に。
 彼の人生は彼の思いとは裏腹の道をたどってはいないか。この生き方が果たして本当に、彼にとって幸せだったのだろうか。
 あるいは壊れてしまったほうが幸せなのかもしれないとさえ――
「セレンは、壊れないさ。壊れるとしたらもうとっくに――親友だった男が敵に寝返った時点ですでに、壊れていただろうさ」
 いや、寝返ったのとは少し違うか、と顎に手をやって視線をずらし自問するビクトールを一瞥し、キバは今ビクトールが言った青年を思い出した。
 細身で、華奢で、その体躯のどこにあのような燃え盛る炎を宿しているのかとしきりに不思議に思ったもう片方の真の紋章を継承した青年。確かにソロン・ジー以上の器を持っていた事は否定しようの無い事実だが、彼がハイランドの皇王にまで上り詰めるとは夢にも思わなかった。
 そして、彼がセレンと親友である事実が消えない限り、キバの不安も消えることはないのだろう。
 いつかあのふたりがぶつかり合ったとき、その先に輝ける未来は残されているのだろうかと。
「信じよう、奴らを」
「…………」
 すでに酒は切れ、あとはふたりとも酔いが冷めるのを待つしかない。
 夜はまだ明けない。
「わし等にはそれしか出来んか……」
 寂しげに、キバが呟く。
「……願わくば、あのふたりには生き残ってもらいたい。先の長い若者こそが、わし等の築いた平和を育てて行ってくれる存在なのだからな」
「おいおい、それじゃまるで、自分は老い先短くて死ぬみたいな言い方だぜ?」
「……ああ、すまんすまん。どうも、飲みすぎたらしいわ」
 俯き加減にキバが小さく笑った。
「そろそろ寝るとしよう。いささか疲れたわ」
 とんとん、と肩を叩いてキバはふらつく足取りのまま立ち上がる。引いた椅子の脚が床に転がる酒瓶を押し込め、ごろん、と転がって向かいの壁にぶつかってようやく止まった。
 この惨状は誰が掃除するのだろう。ビクトールは一瞬考えたが、自分でやってやろうという気分にはなるはずがない。結局彼は見てみぬふりを決め込んだため、朝になって出勤してきたレオナが怒り爆発させるのだろう。
「大丈夫か? 送ってってやろうか」
「結構。貴様の手を借りねばならんほど、ワシは落ちぶれておらん」
 千鳥足のキバの背中に声をかけるが突っぱねられ、ビクトールはやれやれと肩をすくめた。ならば勝手にするがいいさ、と口の中で言葉を濁してキバが酒場から完全に見えなくなるのを待ち、自分も立ち上がった。
「誰も死んで欲しく無いってのは、何もセレンだけの願いじゃないんだぜ……?」
 聞こえない言葉は永遠に届くこともなく、虚空をいつまでも彷徨い続けてやがて、静かに消えていく。
 キバが死んだのは、それから数日と経たない日だった。

 そして時は流れ――――
「久しぶりだな、ここに来るのも」
 懐かしさをかみ締めながら、傍らに立つ青いマントの青年が呟く。
「ああ、そうだな」
 すべての始まりはここにある。
そして、ある勇敢な戦士の最期はここで訪れた。
「寄っていくか」
「先に行っててくれるか。俺はちょっと、やることがある」
よいしょ、と背中に背負っていた重そうな荷物を抱えなおし言ったビクトールに、フリックは最初怪訝な顔をしつつ、分かった、と言い残して先に焼け野原となった砦に向けて歩き出す。
一本道の細い筋。砦に真っ直ぐ伸びるこの道を死守して、あの男は散った。その壮絶な最期は目を閉じれば容易に想像でき、そしてどんな言葉を使って飾り立てても陳腐なものに感じられてしまう。
「ここらへんか」
 焼けた地面を見下ろし、ビクトールは背中の荷物を降ろした。
 片口縛りの荷袋を解き、中から薄茶色の瓶を取り出す。口の長い特有の形状をしたその瓶は、あの夜彼がここで死んだ男と共に飲み明かした酒そのものだった。
「探し出すのに苦労したよ、なにせどこもかしこも焼け野原だ。だが、やっと見つけた。美味いって言ってただろう、だから、持ってきてやったぜ」
 彼の墓は別にちゃんとある。骨も収められ、彼の息子が定期的に掃除と花を捧げるために参っていると聞いている。
 しかしビクトールには、彼の魂は今もここに在り続けているのではと思えてならなかった。
 戦場で死んだ戦士の魂は、永遠に戦場をさ迷い出ることはないのだと。
 すぽん、と瓶の栓を抜いて彼は一口、盃も使わずに瓶を逆さまにして中身を仰いだ。
 焼けるような熱が喉を通り過ぎる。残るのは痺れた舌と、程よい清涼感だった。
「ふう」
 濡れた口元を手の甲で乱暴に拭い、ビクトールは酒瓶の底で地面を打ち付ける。どっかと腰を据えて座り込む彼の前には誰もいないが、もし見えたのなら、そこに誰かいるのかもしれなかった。
「もう止めやしねぇ。好きなだけ、飲めばいいさ」
 一升瓶を持ち上げ、地面に向けて首を傾ける。栓のない口からは透明な液体がとめどなく流れ落ち、焼けた大地に染み込んで消えていく。
「あんたのために用意した酒だ、遠慮せずやってくれ」
 一本目が空になれば、また荷物を漁って二本目を取り出して栓を切る。そうやってビクトールはずっと、彼の為に酒を注ぎ続ける。
 彼の背中を見る者はいない。
 静かな、午後。
 平和になった世界の中で、そこだけが奇妙に純粋だった。

「俺は、将軍、あんたの事を一生忘れねぇ……!」
 酒に混じり、塩っ辛い水も大地に染みていく。