月魂

 湖から常に吹き続ける涼しい風が葉を揺らし、太い幹から伸びる枝に腰掛けた少年がこぼれてくる日差しに目を細めた。
「気持ちいーっ!」
 そこは彼のお気に入りの場所だった。
 古戦場の中心、幾度となく繰り広げられてきた南の大国との争乱で、この村にそびえる砦は文字通りの守りの要とされてきた。湖に突き出すように伸びる半島の先に建てられた古城は難攻不落として知られ、今でも湖の南に広がるサウスウィンドゥの防衛のシンボルとして扱われてきた。
 今はしばらくぶりの平和が続き、古城はその役目を離れているが、いつの日にかまた必要とされる日が来るかもしれない。だからノースウィンドゥの村人は、いつそんな事になってもいいように城の手入れを怠らない。けれど遊びたい盛りの少年にとってみれば、昼間でも日の入らない城の中は格好の遊び場であり、隠れ場所でもあった。
「ビクトール!」
 だが、枝の上で呑気に幹に背を預けて寝転がった少年をげんなりとさせる声が遠くから響いてきて、少年はむっくりと身を起こした。見慣れた──いや、見飽きた感じのする少女が走ってくるのが見える。
「またこんなところでさぼって!掃除当番、ビクトールでしょ!?」
 城の中庭。湖を望む広場にそびえ立つ古木の上に居座る少年の真下にやってきて、青い髪の少女が怒り心頭といった感じで声を荒立てる。
「やだね。それに、俺がやるよりディジーがやった方が早く終わるだろ?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
 高い場所にいる分、彼女よりも年下ではあるものの立場を上に感じている少年があっけらかんに言い放ち、少女は拳を握りしめて彼に下りてこい、と怒鳴った。
「えー?」
「さぼってたこと、長老に言いつけるわよ!」
「うう……」
 説教が始まると長い、少年の大の苦手とする人物を引き合いに出され、彼は枝の上で唸った。彼女ならやりかねない。長老に捕まれば、彼女に怒られるよりもずっとひどい目に遭う。それだけは嫌だった。
「分かったら、早く下りてきなさい」
「はーーい」
 間延びした気のない返事をして、彼は両足を揃えて枝の上に腰掛けなおした。吹き止まない風が彼の頬を優しく撫でる。
「ビクトール?」
 なんだか様子がおかしい事に気付き、少女は怪訝な顔をして木の上の彼を見つめる。途端、少年の体が大きく後ろに傾いだ。このままでは、落ちる──!
「きゃぁ!」
 茂る枝が激しく揺れる音がして、緑豊かな葉が舞い散る。少年が後ろ向きに地面に落ちる姿を想像して、少女は反射的に両手で目を覆い顔を背けた。
 しかし。
「……はははっ!」
 どすん、ともぼとん、とも音はせず、代わりに楽しそうな笑い声が聞こえてきて、少女はおそるおそるといった風情で手をどかし、視線を古木に戻した。てっきり落っこちたとばかり思っていた少年が、枝に足をしっかりと挟み込んだ形で逆さまにぶら下がっていた。
「だまされてやんの」
 してやったり、という顔で笑う少年とは対照的に、少女の顔がみるみる真っ赤になっていく。
「ビクトール、今日の晩ご飯抜き!!」
「えーー!!?」
 そんなあ、と少年は一気に泣きそうな表情になったが、少女は発言を撤回してくれそうになくぷん、とそっぽを向いている。
「ごめん、謝るよ。俺が悪かった、いえ、悪うございました。どうか、どうかご容赦下さい!」
 枝に腕を伸ばし足を外して天地を元に戻した少年が、地面に足をつけて慌てて少女の元に駆け込んで頭を下げるが聞き入れてもらえない。すがりついて泣きついてみても効果はなくて、ようやく彼は自分が度を超した悪ふざけに興じてしまっていたことに気付く。
「頼むよー、ディジー。育ち盛りのオトコノコに、それはひどすぎると思わないわけー?」
「思わないわ」
 つっけんどんに突き放す少女に、ますます彼は泣きそうになった。
「許してあげないんだから」
「そうだ。許すもんか」
 少女の声に、暗い男の声が重なる。
「──え?」
 少年は振り返った。いつの間にか、そこにそびえていたはずの巨木が消え、深く暗い闇が広がっていた。満々と水をたたえていた湖も見えない。
「許すものか。お前ひとりだけが生き残るだなんて」
「どうしてだ。どうしてお前だけが生き残った」
「私たちはまだ生きたかったのに」
「お前だけが生き残った」
「お前だけが……」
 闇に浮かび上がる、うつろな姿の人々。だらんと両手をぶら下げて、生気を感じさせない瞳で彼を見つめている。そげ落ちた肉が頬骨に引っかかり、白い骨が下に覗いている。それは、使いを終えて帰ってきた彼が見た、変わり果てた村人の──家族の姿。
「ぁ、ああ、あああ…………」
 彼は嫌々と首を振る。
「やめろ、やめてくれ。俺だって、俺だって好きで……」
「替わってくれ」
「私と替わって」
「おくれ」
「お前の体をおくれ」
「お前の命をおくれ」
 群がってくるかつての家族、村人たち。彼の肉を喰らい、命の果てまでも食い尽くそうと彼にのしかかる。
「やめろ。終わったんだ、もう終わったんだ!」
 だが彼は村人を振り払うことが出来ない。叫ぶことしかできない。
「終わったんだ!敵はとったじゃないか!どうして……どうしてまだ俺を苦しめるんだ!!」
 はっと、彼は虚空を掴もうとした右腕に気付き自分は今、ベットの中で、夢を見ていたのだと数秒かけて理解した。
「…………夢…………」
 ぽつり、呟く。
 横を向けば、同室の仲間がすやすやとのどかに寝息を立てている。
 汗びっしょりだった。肌に髪や衣服が張り付き、気持ち悪い。だがそれ以上に……夢の内容を思い出し、彼はやりきれない思いを抱かずにはいられなかった。
 ネクロードは倒した。ようやく、本当に、今度こそ。それなのに、あの夢。
「…………」
 彼は重い息を吐き、ベットから出た。本当は着替えたかったのだがそれには明かりを付けなくてはならず、それをすれば折角眠りについた仲間を起こしてしまう。だがまたベットに潜り込み眠りにつけそうにはとても思えず、彼はしばらく逡巡したのち、立ち上がると忍び足で部屋を出た。
 昔、探検ごっこで散々走り回った古城は今ではハイランドに抵抗するラストエデン軍の居城となり、昔よりもすっと立派になってその姿を誇示している。あの頃の面影を追おうにも、余りに代わりすぎていて同じ部分を探す方が難しかった。それでも、あの古木だけは残っていた。
 今でも緑濃い葉を茂らせ、涼しい木陰を人々に供給している。だがもう、彼はあの木に登ることはなかった。
「……何をしておる」
 真夜中だ。見張りの兵でさえこっくりこっくりと船を漕ぎかけている時間帯に、自分以外の人間が活動しているとは思わず、女性特有の高い声で話し掛けられたとき思わず彼は身構えてしまった。
「なんだ、お前か」
「なんだとはずいぶんな挨拶じゃな」
 振り返った彼は、そこに立っていた少女の姿に気の抜けた声を出した。しかし少女──の姿から成長を止めてしまったシエラは不満そうで、いつもの堅苦しく古めかしい言葉遣いで切り返してくる。
「こんな時間に、何をやっておる」
「そっちこそ、こんな時間まで起きてていいのか?」
「わらわは今頃が活動時間帯じゃ」
「……そらま、そうだったかな」
 バンパイアとして生きる彼女は昼間はもっぱら眠って過ごし、夜起きていることが多い。ラストエデン軍に合流してからはなるべく他の連中とあわせるようにしているようだったが、それでも昼間はかなり眠そうだった。
「……眠れんのか……」
「…………」
 彼は返事をしなかった。ただ彼女からわずかに視線を逸らし、窓から見えるうっすらと光に陰る月を見上げていた。
「昔のことでも、夢に見たか?」
「!」
 ばっ!と彼は勢いよく振り返り、彼女を驚かせる。
「…………ぁ……」
 だが、驚いたのはシエラだけではなかった。彼身さえも、自分の反応に驚いている。だが、
「……ああ、そうさ。その通りだよ」
 嫌になるほど、笑いまでがこみ上げてきて彼は髪を掻きむしった。シエラが形の良い眉をひそめ、彼を見つめ返す。
「俺は、俺はずっとネクロードを追ってきた。奴を殺すために、俺は強くなった。敵をとって、奴に殺された皆の恨みを晴らせば、それで終わると思っていた!なのに連中は……俺にまだだとささやいてくる。まだ足りないと俺を責め立てる!!」
 両手を大きく広げ、言葉荒く彼は叫んだ。
 シエラが、静かに彼を見つめ続ける。月の光を受け、まるで月の妖精のように。
「……では、おんしはどうするのだ?」
 ふっと、彼女はため息に乗せて言葉を運んだ。
「次は誰を殺すのだ? ネクロードめを止められなんだわらわを殺すか? それで村人の恨みが晴れるとでも言うのか?」
「ちがう! そんなんじゃねぇ!」
 最後まで言わせず、彼は怒鳴り返す。
「どこが違うと言うのだ」
「それは……」
 言葉を詰まらせ、彼は視線を泳がせた。真摯に問いかけてくる彼女の目を、まっすぐ見返して答えることが出来なかった。
「わらわを見て話せ。出来ないと言うのなら、それはおんしの心が本当は、もっと違うものを求めているからであろう」
「…………」
 答えられない。
 自分を苦しめているものの正体も、シエラが言いたいことの意味も。彼は分からなかったから。
「おんしはこのまま一生、ノースウィンドゥの住人の魂に縛り付けられて生きて行くつもりか」
 彼らが死んだのは、彼の責任ではない。彼が助かったのはただ単に運が良かっただけで、使いに行くのが一日ずれていたら、彼だってネクロードにいいように殺されていたはずだから。村が全滅したのは彼が悪い訳じゃない。悪いのはネクロードで、たったひとり生き残ったからといって彼が死んだ村人に呪われなくてはならない理由にはならないはずだ。
「それでも……」
 生きている自分が許せなくて、悔しかった。
 そう苦しげな声で呟く彼に、シエラはそっと息を吐く。
「おんしは旅に出た。南へ下り、トランの解放軍に加わった。そしておんしらは見事に赤月帝国から民を救い出したであろう」
「…………」
 彼は黙って彼女の声を聞いている。月明かりに照らされた二つの影が長く廊下に伸びていた。
「あの戦いでおんしの果たした役割は大きい。裏返せば、おんしがいなければ解放軍は勝利しなかったやもしれんということ。そして、おんしはノースウィンドゥが全滅せなんだら、トランへ渡ることもなかったであろう」
 すべては『もしも』の話。しかし、それはすでに現実化された『もしも』の世界。
「おんしはネクロードに殺された、ノースウィンドゥの民の命をせおって生きておる。おんしがトランで果たした仕事、そして再び都市同盟に戻りこの地を救い出そうとしているのも、すべてノースウィンドゥに生きた者達がおんしの背中を押しているのやもしれんと、どうして考えようとせんか」
 ふう、と彼女は息を吐く。顔を上げれば彼の少し意外そうな表情があった。
「なんじゃ」
「いや……さすが人より長生きしているだけあって、良いこと言うな……と」
 どげし。
 シエラのパンチが、容赦なく彼の右頬にクリーンヒット。
「い……ってーな!誉めてやったのになんで殴るんだ」
「うるさいわ!反省が足りんようならば、もう一発受けてみるか!?」
 両手で腫れあがった頬をかばう彼に、更に殴りかかろうとシエラが牙を出す。その右手には、先日ネクロードから取り返したばかりの月の紋章が輝いていた。
 ふと、懐かしい感覚に襲われる。さっきまでの気が狂いそうになる時とは違う笑いがこみ上げてきて、彼は壁に肩からぶつかり喉をならした。
「ビクトール……?」
 ついにおかしくなったかと、そんなに強く殴ったはずはないのだが……と自分の手を見たシエラに、彼はちがう違うと首を振った。
「いや、な。昔に……よく今みたいに殴られてたな、って。思い出したらさ、なんだか……嬉しくなっちまって」
 片手で顔をおおう。その指の間から覗く彼の深い色合いの瞳から、一筋の光が流れ落ちた。
「……わらわは何も見ておらん……」
 そっと囁き、彼女は彼から窓の外へ視線を移す。
「ちぇっ。格好つけすぎだ、お前は」
 首を傾ぎ、天井を仰いだ彼が悔しげにこぼす。
 月は変わらず空で淡い光を地上に降り注いでいる。昼間の太陽とは違い、どこまでもやさしく、包み込むような光。心を安らげてくれる、静かで柔らかく暖かな、母のぬくもりに似た輝きだ。
「ビクトール」
「なんだ?」
「かがめ」
「はぁ?」
「わらわが屈め、と言っておるのだ。さっさと屈め!」
 突然名前を呼ばれて、なんだろうと返事をすれば、いきなり訳も言わずしゃがめと怒鳴られ、なんなんだと思いながらしかし逆らうと怖いことは実証済みなので彼は渋々彼女の言うとおりに膝を折り、その場に座ろうとした。
 しかし、その前の中腰の状態で彼女に抱きしめられ、彼は目を丸くする。
「シエラ!?」
 一体何のつもりかと叫ぼうとして、頭にやさしい手のひらのぬくもりを感じ彼は戸惑った。この、胸に頭を押しつけられた状態は非常に危険であるような気もするが……。
「いい加減、自分を赦してやれ」
 すぐ近くで声がする。彼を抱く彼女の手が、絶えず彼の頭をなで続ける。やさしく、どこまでも優しく。
 こんな事が免罪符になるとは、彼女だって思ってはいないだろう。しかし今の、自分を責めて自分を苦しめるしかできないでいる彼を救う方法を、これ以外彼女は思いつかなかった。
「おんしは立派に戦った。それを誇りに思え。おんしがいなければこの戦いだってどうなっていたか分からぬ。おんしはすでに、ノースウィンドゥで救えなかった以上の多くの命を救ってきておるではないか」
 体から力を抜き、彼はそっと、彼女の背に腕を回した。彼女は何も言わなかった。
「そろそろ……おんし自身の命も救ってやれ。その資格は、とうの昔に手に入れておろうに」
「そう……だろうか」
「そうじゃ。わらわが言っておるんじゃ、間違いなかろう」
「……そうか」
 言葉の端に笑いが伺えて、シエラはぎゅっと、彼の耳をつねってやった。
「いててててっ」
「反省が足りん!」
 ばしい!と頭をはたかれ、彼は床に沈没した。
「そこで頭を冷やしておれ」
 冷たく吐き捨てられ、見捨てられた彼が情けない顔で彼女を見上げる。
「生憎と、俺は生まれつきこういう性格なんでね」
 にやりと笑えば、彼女も同じように笑い返してきた。
 月は、変わらず輝いていた。