頭が痛かった。
昨日の夜のことだ。
耳鳴りもした。頭の奥の方でなにかが唸っているような、金切り声を上げているような、とにかくそんな感じだった。
だけどそれはここ数日続いていた事で、今までは蒲団を被ってそのまま痛みも止みに押し込めるみたいに一晩、眠ってやり過ごしてしまえば朝には回復していたから、この日もいつもと同じように、眠ってしまった。
頭が痛く、耳鳴りもした。それだけだった、それだけのはずだった。
太陽が東の空に昇り、朝が訪れれば痛みは消え失せているはずだった、いつものように。目覚めは決して健やかなものではなかったけれど、怠い頭を振っていまいち取れない眠気に欠伸を何度も零さなければならなかったけれど。
それでもちゃんと、何事もなく、頭痛も耳鳴りも消え失せて普段の調子に戻っているはずだったのに。
今日に限って、何故。
最初、異変に気づくことは出来なかった。いつもよりも気怠さが全身に残り、目覚めた後もなかなかベッドから起きあがることが出来ず気分も悪くて胃の辺りがムカムカしていた。重たい左腕をかろうじて持ち上げ、崩れてしまっている前髪を目の上から払うもののその手を戻すことも出来ず、関節までもが痛み出してしまってどうしようもなかった。けれどそれだけで、それ以上はなにもおかしいと思う部分は見当たらなかった。
随分と長い時間をかけて起きあがり、緩慢に首を振って再び落ちてきた髪を後ろへと梳き流した。被っていた蒲団を取り払った事で、何も身につけていなかった半身が冷え、寒さを覚える。ベッドサイドで横向きに腰を下ろした状態で鳥肌が立っていた肌を両手で擦り合わせ、長い欠伸の最後に小さくくしゃみをした。
その辺りから、だった。
なにか自分の調子がいつもと異なっていると、そう感じ始めたのは。
しかしすぐに、その変調がどこにあるのかを見出すことが出来なかった。
目はしっかりとものを見据えている。試しに両手両足の五指を折り曲げ、広げてみても異変はなかった。身体がようやく眠りから覚め、鈍っていた関節の調子を取り戻す意味も含めて肩、膝を回してみたけれど特別な痛みも感じられない。
だのに残る、違和感。
彼は首をぐるりと回した。相変わらず上半身に何も身につけていない為に冷え切った身体はもう一度、彼にくしゃみを強要した。
寒いな、と呟いて彼は腰を浮かし服を取りに行く為に立ち上がろうとした。
立ち上がろうとして、その状態で彼は停止した。
なにがおかしいのかが、分かった気がしたからだ。
けれど確信も持てなくて、ギリギリと油の切れたブリキの玩具のような動きでもって何もない、壁があるだけの背後を振り返りそして、自分の喉を押さえ込んだ。
人差し指が喉仏に突き当たる。
まさか、ね。
その姿勢のまま彼は呟いた。喉が上下し、肌の下にある気管が肺から空気を押し出して震えるのが指先を伝っていく。
けれど、彼に耳には。
ちょうどそのタイミングで彼の部屋の、外とを繋ぐ、窓ではない方の入り口が唐突に開かれた。廊下に続いているその扉の前には、蝶番を壊しかねない勢いで扉を開いた人物が立っている。肩を怒らせ、表情も険しく怒気に満ちている。
サラサラとしていてよく櫛の入った髪を左右に振り、その人はベッド前で停止したまま動けないでいる彼を指さしてなにやら怒鳴った。紅玉の瞳は勿論怒りに満ちていたし、開閉を繰り返す唇の動きに合わせて彼を指さしている手も激しく上下左右に揺らされている。
しかし、彼には。
聞こえてこなかった、なにも。
相変わらず動けないで居る彼を怪訝に思ったのか、その人はズカズカと荒っぽい足取りで開け放ったままの扉を抜けて室内に入り込んだ。そしてベッドサイドに置かれている小さなテーブルに置かれた目覚まし時計をやはり乱暴に、叩いた。
きっとテーブルとそして時計は、乱暴な彼のやり方に不平不満をひとしきりぶつけた後黙り込んだ事だろう。
ユーリ、と無意識のうちに唇が刻んだ音はやはり彼の脳裏には響いても耳からは、何の音も拾いはしなかった。
振り返る、銀糸が揺れた。その隙間から、強い光を抱く紅玉の双眸がちらちらと覗く。
彼は漸く、ユーリが鳴りやまないで居た目覚まし時計を止めたのだと気づいた。しかし昨夜、眠りに入る前に彼がタイマー予約をした時間は時計の文字盤が示すものよりも、三十分以上早い時間帯だったはずだ。
自然と彼の表情が険しくなる。ユーリもその時間のずれに気づいているようで、時計と彼とを交互に指さしながらまたもやなにかを喚いているようだ。
ようだ――――と、しか言えない。
なにも聞こえないのだ、本当に。
今になって現実が見えてきて彼は足許がふらつき、立ち上がったばかりのベッドサイドに再び腰を下ろした。いや、膝の力が抜けて後ろに倒れかけた先にベッドがあった、という方が正しい。それがなかったなら、彼はだらしなくも床の上に転倒してしまっていた事だろう。
ユーリもいつまで経っても返事をしない彼に顔を顰めた。
ベッドに倒れ込み、仰向けになって天井を見上げる目も片手で覆い隠してしまった彼を上から覗き込み、なにかを呟く。
その言葉さえも、彼の耳には届かなかった。
――どうなっている?
冷静さを欠いた思考でどこまで明確な答えが導き出せるか、分からない。そもそも原因はなんだ、病気をした覚えはないし聴覚を麻痺するような高熱を出した記憶もない。あるとしたら、あの頭痛と耳鳴りくらいか。
頭上ではユーリが何度も彼を呼んでいる。唇が刻む形は、恐らく子音が正しければ彼の名前――スマイル――になるはずだ。違っていたら大笑いだが、とにかく呼ばれているだろう事だけは理解できて、彼は指の隙間から見上げるのは止めてその手を頭の脇に落とした。
「 」
無音の空気が肌を掠める。
なにかの冗談だろう、と笑い飛ばせたならどんなに良かっただろう。
一過性に過ぎない、ただの体調不良で済む問題であればどんなに楽だっただろう。
原因と理由がはっきりとした上で、治療方法が明確に見出せるものであったなら、どんなに救いがあっただろう。
だけれど、この時はただ、本当に戸惑いと恐怖と。言いしれぬ不安だけが胸の中でせめぎ合って、彼は巧くことばを紡ぐことも出来なければその場の誤魔化しも通せぬまま、ただ茫然とユーリを見返す事しか出来なかった。
ユーリが重ねて、小首を傾げながら彼を――スマイルを見つめ、手を伸ばしやはり何かを呟いて指先で額に触れた。どうやら熱を計っているらしい。彼のこの奇妙な反応を、熱でもあるのではないかと予測したようだ。
但し、彼の熱は平常通り。生死の境を彷徨わねばならない高熱にも縁遠く、吐息を吐いて手を離すユーリの横顔を眺めながら彼は、果たして自分の声が彼に届いているのかさえも、疑った。
試しに、声をかけてみる。
名前を、呼んだ。軽く……己の耳は聞き取らずとも、情報を発信している脳は声を発したのだとちゃんと、彼に教えてくれる、声、で。
すぐさまユーリは反応を見せ、彼を見返した。そして恐らくその唇は「なんだ?」と返したに違いない。
その耳は音を掴むどころか、空気の流れさえ捕らえてくれなかったけれど。
返答を待ち、ベッド前に佇むユーリを見上げ、彼は身体を起こして膝の上に左の肘を置いた。その腕を支えにして額を左手の平で押さえ、俯く。
ユーリは益々訳が分からないようで、困惑の表情を浮かべたまま彼を見下ろしていた。
状況がまったく把握できていないのは、なにもユーリだけではないのだけれど。
スマイルは首を上げて、ユーリを見上げた。
問いかけるような視線が自分に向いていて、果たして本当のところを言うべきかどうか一瞬だけ悩んでしまう。けれど言わずとも、いつかは知られてしまうだろう事だから、彼は二度ほど深呼吸を繰り返して咳払いをした。
その音も、やはり彼の耳には聞こえなかった。
ただユーリだけが、いったいさっきからなんなのか、とでも言いたげな目を向けている。
ユーリ、と彼は膝の上に置いた手を結んだ。唐突に改まった彼の態度に、ユーリはいよいよ怪訝な顔をして眉目を顰めさせた。
こうしている間にも時間はどんどん過ぎ去っていく。今日は確か新曲の音合わせが正午前から予定されていたはずで、普段は使用しない目覚まし時計をセットしていたのもその時間に絶対に遅れてはならないと自戒していたからに他ならない。
だけれど、まさかその音自体が聞こえなくなるとは予想だにしなかったこと。それは彼だけでなく、ユーリもバンドの仲間も誰も、考えもしなかった事に違いない。
それでなくとも、彼はここ数日続いていた頭痛の事を誰にも話していなかったのだから。
気にするような痛みでも、倒れてしまいたくなるような痛みでもなかった。ただズキズキと、思い出したときに痛み出すようなそんな、厄介ではないけれど鬱陶しい痛みだっただけだ。耳鳴りも気にしなければまったく問題ない程度であり、特に身体機能に影響を及ぼしかねないほどの酷いものではなかったのに。
なにが悪かったのだろう?
彼はゴメン、と小さく呟いた。けれど本人は“小さく”呟いたつもりでも果たしてその音量がどれ程で、真向かいに立っているユーリに聞こえたのかそうでなかったのか、判断しかねるものだった。
現にユーリは、彼の呟きに反応して顔を更に顰める。唇が微かに開閉し、何かを呟いたらしい。
しかしどう耳を澄ましたところで、己の呼吸音さえも聞こえない状況に変化は訪れなかった。
もう一度、彼はユーリの名前を呼んだ。
ユーリが顔を寄せ、「さっきからどうしたのだ?」と普段と違っている彼の様子を訝む。
かろうじて唇の動きだけでそれらの発言を読みとり、理解して、彼は自分が酷く疲れてしまっている事に気づいた。
額に置いていた左手はそのままに、緩く首を振る。冷たい汗が、布一枚も羽織っていない背中を流れ落ちていった。
気分が悪い、吐き気は思い出したら途端に甦ってきてしまった。
ユーリが見つめている、彼の返事を待っている。
だけれど彼は応えられなかった、なにも答える事が出来なかった。
いったいなにを言えばいいのだろう、何をどう伝えれば良いというのだろう。自分がどうなってしまったのか、自分でさえ分からないと言うのに。この状況を、どうやって他人に説明できると……?
助けて欲しい、誰か自分を助けられる人が居るのであれば。
教えて欲しい、何故こうなってしまったのか、を。
ユーリ、ともう一度その名前を口ずさんだ。
やはり自分の耳には、脳裏に直接響く音以外になにも聞こえやしなかった。
表情を険しくさせるユーリの顔を見ていられなくて、彼は視線を逸らした。けれどユーリの手がそれを許さなくて、頬に添えられた彼の指先が冷たく、スマイルの態度を硬直させた。
視界の隅で顔を捕らえれば、ユーリの唇が「どうした?」と彼に問いかけていた。
俯いてしまう。どうしても真正面から顔を見返すことが出来ない。
無音の世界、寂しいくらいに孤独だった。
誰も居ないと錯覚してしまう、目の前にあるもの一切が虚空に描かれた虚像であると。
今自分に触れているユーリという存在でさえ、自分が好きなように想像して生み出された勝手な想いではないかと、疑いたくなるほどに――。
「っ!」
反射的に、彼は右手を振り上げて触れているユーリの手を払ってしまった。
スマイル!? と、彼が驚きつつ声を張り上げるのが、想像として、錯覚として、彼の耳に聞こえた気がした。
実際にユーリはスマイルの名を叫んでいただろう。だけれどその声ですら、彼の耳に届きはしなかった。そしてユーリはその事をまだ、知らなかった。
スマイルは自身の唇を噛み、払われた手を握りしめているユーリをその隻眼でねめつけてから吐き捨てるように――彼自身にそのトーンは聞こえないものだから、押さえどころもなくていつも以上に、厳しくそして冷たい口振りになってしまっていた――ユーリに言った。
ぴしり、と音を立てて彼らの間に出来ていた空間がひび割れていく音を、音を聴く術を失ったスマイルは聞いた。
聞こえないんだ、と。
ただひとこと、正直な想いを告げる勇気ではなくむしろ、自棄になった心で告げてスマイルはもう一度、吸い込んだ息をすべて外へ押し出すつもりでユーリに、怒鳴っていた。
なにも聞こえないんだよ!!
だのに、自分でも分かって大声を張り上げているのに、彼の耳には大気を震わせているはずの自身の声は届かなくて。
泣きたくなって、彼は更に強く唇を噛んだ。
ユーリが茫然としているのが見える。だけれど今の彼に、自分自身の状況にショックを覚え、それを制御する力さえ失っている彼には、他人に気をかける心の余裕も失われていた。
よろりと後ろに身体を傾がせたユーリに、彼はベッドに張り巡らされたシーツを強く握りしめながら、出て行け、と呟いた。
直後その声は荒立てられ、同じ単語が繰り返される。
ユーリは再び、押し出されたようにフラフラと二歩ほど後退して弱々しく首を振った。
微かに開かれた唇がなにかのことばを紡いだようだった。けれど、聞こえないのだ。彼には自身の吐き出す呼気の音でさえ、聞こえないのだ。
ユーリがまたなにかを呟く。弱々しく首を振る。
嘘だ、と言っている。冗談だろう、と無理に笑おうとしている。笑い飛ばしてしまおうとしている、いつものような、お前の悪い冗談だろう、と。
スマイルは返事をしなかった、出来なかった。
ユーリの声は聞こえない、そして、聞きたくもなかった。
出て行け。
再度呟く。
ユーリは両手を広げ、更に強くなにかを叫んだ。それにスマイルの絶叫が被さる。
どちらが大きかったのか、スマイルには判断がつかなかった。ただ直後に、ユーリもまた泣きそうな顔をして強く下唇を噛みしめるのが見えて、自分が今、何をしたのかを思い出した事くらいで。
大きくかぶりを振ったユーリが、その宝石のように輝いていた瞳を曇らせて最後にもう一度だけなにかを叫んだ。
顔を上げた彼の紅玉の双眸が、鈍く光る。
冗談だろう、と。
唇の動きがかろうじてスマイルに、彼の呟きを教えた。
少しだけ冷静さを取り戻した彼は、けれどユーリの期待に応えることなく、真横に二度、首を振った。
それから、ゴメン、と。
一番最初に彼が呟いたことばを繰り返して、終わった。
それ以上ことばは続かなかった。
なにを告げればいい? なにを語ればいい? なにを……どうやって説明すればいい?
どうしてこうなったのか、なにが原因でなにが要因で、なにが引き金でこうなったのか、当人ですら分からないというのに。
ゴメン、と。
誰に対してかも分からない謝罪のことばを述べる以外に、スマイルは言えることばが思いつかなかった。
当たり散らしてゴメン。怒鳴ったりしてゴメン。寝坊してゴメン? 君の声が聞こえなくて……?
分からない。
なにも、分からない。
スマイルは頭を垂れた。かろうじて膝の上に建てた手で頭を支え、全身が崩れてしまうのだけは防ぎながらも、次にどう行動すればいいのかさえも分からなくて動けなかった。
噛みしめた唇が、ただ痛い。
「 」
ユーリが呟く。聞こえていない音声に気配だけで顔を上げると、ユーリも今の彼と同じような何も言えぬ、哀しげで悔しげで、状況に当惑している顔をしていた。
伸ばされた彼の両手がスマイルを包み込む。
耳元で囁かれたことばでさえ、吹きかけられる息を感じるだけで他に聞こえる音はなにひとつとしてなかった。
こんなにも近くにいるのに、その吐息さえも感じ取ることが出来ないなんて。
スマイルは縋るように両手を持ち上げ、ユーリの服を掴んだ。
その途端に押さえが利かず、堪えていたすべてが堰を切ったように溢れ出して彼は聞こえない声で嗚咽を漏らし、ユーリを力任せに抱きしめると縋り付き、自分には聞こえない声を上げて泣き叫んだ。
優しい手がその背を優しく、撫でてくれる。
とまらなくて、どうしようもなくて、スマイルはただ感情に任せるままに声を上げ、ユーリを傷つけた。汚いことばも吐いたし、あらゆるものを呪う呪詛も吐いた。
それでもユーリは、ずっと彼を放さず離れず、傍にいてくれた。
彼を抱きしめていてくれた。
我が子をあやす母親のように彼の背をさすりながら、繰り返し同じことばを彼に囁きかけ、抱きしめる。
そのうちにただ咽び泣くだけになったスマイルをよりいっそう、強く己の腕に納めて彼は目を閉じた。
スマイルはそんなユーリの腕を痣が出来るほどの力で握りながら、己の卑小さと弱さを悔やんでいた。
どうしようもなく、悔しい。
哀しい。
辛い。
恐い。
……どうして、自分ばかりが。
問うても答えは出てこない。
その日は入っていた予定をすべてキャンセルして、彼らはあらゆる医者を渡り歩き彼の身に起こった変調の原因を探ろうとした。
自分は大丈夫だからとスマイルがいくら言っても、頑固なまでにユーリと、そしてあとから事情を説明されたアッシュが引っ張るようにして彼を連れ歩き付き添ったけれど、尋ねる先のどの医者も――その中にはメルヘンランドに暮らす者たちを専門とする医者も含まれていたに関わらず――誰ひとりとして、スマイルの異常の理由を解き明かす事が出来なかった。
ある者は精神的なものだろうと言い、別の者は脳に異常があるのではないかと検査入院を勧め、ある者はただの難聴だろうと笑い飛ばした。
真剣に診察を受けに来た相手を笑い飛ばした医者は、もれなくアッシュの鉄槌という裁きを受けたものの、結果的にこれといった原因を解明する事には至らなかった。検査入院に関しては、スマイルが嫌がった事で遠慮させてもらい、夕方近くになって三人は住処としているユーリに城へ帰り着いた。
一様に、暗い顔をして。
夕暮れの西の空が赤く染まっている。城を出た時には日はまだ東に近い方角にあったはずなのに、時間の経過の早さを思い知る想いで西日を見上げ、スマイルは小さく息を吐いた。
自分以上に、仲間達の方が沈んだ顔をしている。
耳が聞こえない事以外に、スマイルの身体にはなんら異常は見られなかった。最初は混乱して気が動転してしまったけれど、彼は天性の明るさから今はさほど、……少なくとも朝よりは悲観的な想いを抱かなくなっていた。
誰かを、目に見えない運命や神を呪ったりすることはなくなっていた。
大丈夫だよ、と城に入った直後に彼は務めて明るい笑顔を作りだし、俯き加減に先を歩いているユーリとアッシュに告げた。
彼の名が示すとおりの、笑顔で。
ユーリがまず振り返り、アッシュが苦い顔を浮かべるのも見上げてから彼は更に笑おうとして、失敗した。
だのに無理をして、また「大丈夫だから」と言おうとする。
笑えなかった笑顔が歪んでいく。
明日になれば、きっといつも通りに戻っているから、と。
当てのない予測を告げて彼は両手を大きく横に振り回す。
なによりも自分の所為で周囲が沈んでしまうことが嫌で、懸命になって彼は仲間を方向違いに励まし明るく振る舞おうとした。
けれどユーリもアッシュも笑ってくれなくて、居たたまれなくなって彼は聞こえない声を途切れさせ俯いた。
噛んだ唇が浅く切れ、鉄の味が広がる。
ユーリ、そしてアッシュがほぼ同時に口を開いてなにかを――恐らく同じことばを――呟いたけれど、それも彼に届くことは決してなく。
一度強く足を踏みならしたスマイルは、深く息を吸って長い時間をかけてそれを吐き出した。
ゴメン。
他にこの場で言えることが見当たらず、彼は自分へか仲間達へかも分からぬまま呟き、歩き出した。
止めることも出来ないでいるユーリとアッシュの間を抜けて、階段へ向かう。
見上げた先に見えた柱時計の、定刻を指し示したときに鳴り響く重厚な鐘の音も遠い。
あらゆるものが空虚であり、偽りであり、それを信じている自分自身さえもが愚かしく思えてならない。
タスケテ
そのことばは声にならずに消えた。
誰かが叫んだように思う。けれど声など聞こえず、だから彼は振り返らなかった。
そして、次の日も。
やはり彼の耳はなにものの音も拾いはせず。
彼は、少しずつ、喋らなくなっていった。