水影

 ただ立っているだけでも、疲れるというもの。他にすることがないとはいえ、城の中央ホールに突っ立っているだけに自分を冷静に考えてみると、かなり、間抜けではなかろうかと思ってしまう。
「いいけどね……」
 頬にかかる髪を手で梳き上げ、気晴らしにその辺を歩き回っていたルックはぼそり、と言った。
 特に行きたい場所があったわけではないが、涼しい場所を求めて自然と彼の足は船着き場へと向かっていた。木組みの桟橋が歩くたびにきしきしと音を立てているが、絶え間なく吹き付ける風は心地よく気にならなかった。
 風の恩恵を受けているルックは、この場所と、あと屋上が好きだった。風を感じているときほど、自分の存在を強く感じる事が出来るからだ。
 右に視線を向ければ、のんきに釣りをしているヤム・クーの後ろ姿が見えた。横には興味深そうに水面を見つめるタイ・ホーがいる。
「いいけどね」
 静かにしていてくれるのなら、それで良い。耳元でやかましく騒ぎ立てられない限り、ルックは他人に干渉しないことにしている。どこかのお節介とは根本的な所から考え方が異なっているのだ。とにかく、彼は騒がしいのが一番嫌いだった。
 斜め前に小屋の建つ小島を望み、桟橋の端に立ってルックは静かに目を閉じた。
 風を感じる。遠く海を渡り、世界中を旅してきた風に交わることで、彼は様々な知識を得ることが可能だった。ただしそれには相当の集中力が必要で、少しでも集中が途切れてしまったら上手く行きかけていてもすべておシャカ。
 だが。
 ──…………。
 精神世界に浮かぶ穏やかな水面に、水紋が広がり始める。

 ぼちゃんっ!!

「!?」
 ぎょっとなり、ルックは閉じていた瞼を押し開け周囲を見回した。
 今ので、折角高めていた集中も途切れてしまった。
「誰だよ、今のは……」
 いらいらした声で呟き、髪を掻き上げる。あの音は、まず間違いなく誰かが大きなものを水に投げ込んだ類のものだ。しかし彼の周りにはそれらしき水紋が見られず、ただ少しばかり高くなった波が2,3度桟橋に叩きつけられただけ。どうやら彼の邪魔を(そんなつもりは無かったのかもしれないが)した人物は、彼の視角に当たる小島の小屋の裏にいるらしかった。
 これは一言で済ます訳にはいかない。あと少しで風と交わることが出来たのだ。二度と自分の邪魔をしないように、しっかりと釘をさしておかないと。
 見た目はそう変わらないのだが、意気込んで小島に渡ったルックはしかし、小屋の陰に誰の姿も見つけることが出来ず形の良い眉をひそめた。
「あ、ルック」
 けれど声をかけてくる者はいて、前を向いたルックは更に眉をひそめて眉間にしわを作る。
「……なに、やってるの……」
 問いかけというよりも、呆れ声しか出なかった。
 例の赤い服を着たままのセレンが、湖にぷかぷかと浮かんでいたのだ。
「気持ちいいよ」
 夏はとっくに過ぎ去ったあとで、水温は低くはないが高くもない。この時期に好きこのんで水泳に興じる人間を、ルックは知らない。……いや、知らなかったが、今知った。
「ルックも来れば?」
「服を着たままで?」
 小島からそう離れていない水面から手を振るセレンに、ルックは飾らない皮肉を言って返す。
「あうう……」
 ぶくぶくと鼻までを水に潜り、泡を立てるセレンは、一応これでもラストエデン軍のリーダーだ。
 バラバラだったかつての都市同盟を再結成させ、以前にも増した強固な団結を約束し、ハイランドの狂皇子ルカ・ブライトさえも倒した。目下の目標はハイランドを完全に沈黙させ、デュナン湖を中心としたこの地に統一国家を樹立すること。そうすれば長く争いの絶えなかったデュナン湖の畔は平和になるだろう、というのが軍の筆頭軍師やその周囲が鼻息荒く主張する、輝ける未来である。
 しかしこのリーダーを見ている限り、どうも統一国家を望んでいるのはリーダー本人ではなく、彼を取り巻く大人達だけのような気がしてくる。……否、実際にそうなのだろう。リーダー……セレンは、平和とかそういうもののために今まで戦ってきたわけではないのだから。
「…………」
 深々とため息をつき、腰に手を当てたルックはやれやれ、と頭を振って小島の端に立った。右手を伸ばし、セレンへと差し出す。
「いい加減、上がってくれば?」
 セレンが自分から水に飛び込んだのではないことは、彼の表情からすぐに分かる。多分足下の注意を怠って、落ちただけだ。
「心配してくれてるの?」
 嬉しそうに足をぱしゃぱしゃさせ、小島のすぐ側まで泳いできたセレンの言葉に、
「……君が風邪でもひいて倒れられたら、軍全体の動きに響くんだよ」
 ルックの返事は素っ気ない。
「あう……」
 また頭半分まで沈没して、セレンが恨みがましげにルックを上目遣いに見上げてくる。
「そんな顔しても駄目だよ」
 早くしろ、と言外に告げて、ルックはセレンに促す。腕を伸ばしているだけでも疲れるのだ。
 頭の先までしっかりと水を吸い込んだセレンは、まだいくらか頬を膨らませていたが確かにルックの言葉は正しくて、それに彼には口では絶対に勝てないことも自覚しているので、ついに諦めて水面から左腕を伸ばした。
 だが、ルックがその手をしっかりと掴む瞬間、小悪魔がセレンの耳元でささやいた。
「……」
 それは、少しばっかりのセレンからの仕返し。
 ルックは元々非力な方で、身長こそセレンより上を行くが腕力は断然セレンの方が上。つながった手を互いに自分の方へと引き合った場合、どちら側に軍配が上がるかといえば……無論、セレン。

 ばっしゃんっ!!

 湖は、いくら陸に近い部分とはいえ急に深くなっている。昔からやんちゃで、泳ぎにも慣れていたセレンは何ともなかったが、そうではないルックにとって突然足下のない場所に放り出されるのは恐怖以外の何物でもなかった。
「ルック!」
 自分でやったこととはいえ、まさかこんなにもルックが泳げないとは知らなかったセレンは、慌てて水面でばしゃばしゃやっているルックを助けにいった。
「げほっ、げほっ!」
 思い切り水を飲み込んでしまったらしく、セレンにしがみついたルックは激しくせき込む。
「……ごめん……」
 それどころではなくて聞こえていないかもしれないが、セレンは蚊の泣くような声でまずルックに謝った。
 彼の服はセレンのものとは違い、使われている布の量が多い。布は水を吸えば当然重くなる。その重みも手伝って、ルックは溺れかけたのだ。
「大丈夫?」
 おそるおそる訪ねるセレンに、
「……な、わけ……ないだろ……」
 鼻に水が入ったらしい。呼吸するのもまだ苦しげなルックが、こんな時でも嫌味な口調を忘れずに言い返してくる。
「ごめん……」
 しょぼん、とセレンは小さくなり横顔しか見えないルックを伺う。
「おいおい。なトコで、なにやってんだぁ?」
 呑気で豪快な声に顔を上げる。小屋の脇で、タイ・ホーが膝を折って二人に視線の高さを合わせる形でしゃがんでいた。すぐ後ろには、ヤム・クーもいる。
「……見て分からない?」
「おう。二人仲良く水遊びか?」
「……ヤム・クー、助けてくれない?」
 話にならないと、セレンはルックの背中をさすりながら、タイ・ホーの後ろにいるヤム・クーの方に助けを求めた。
「なんだ、引っ張り上げて欲しかったのか」
 手の中でサイコロを遊ばせながら、タイ・ホーが薄ら笑いを浮かべて言う。……セレンは彼に言ったのではないのに。
 ようやくいくらか落ち着きを取り戻してきたルックは、セレンにしがみついたままという自分の姿を想像して頭が痛くなった。早くここから脱出したい。
「助けてやろうか?」
 嬉しげなタイ・ホーの言葉に、嫌な予感が背中を走り抜けていく。
「俺様にちんちろりんで勝てたら、助けてやってもいいぜ?」
「この状態でどうやって……」
 やっぱり、と思うと同時にセレンは悲しくなった。どうしてこんな時に側にいたのがこの人達だったのだろう……?
「アニキ……」
 ヤム・クーも呆れている。相変わらずといえばそうなのだが、なにもこんな時に勝負を求められても、水の中にいるセレンがどうやったらサイコロを振れるというのか、少しは考えてもらいたかった。
「風よ……」
 そんなとき、セレンの傍らで風が吹いた。
「……あ」
 重力からの解放。まとわりつくように体を包んでいた水の質量が消え、代わりに優しい風がセレンを包み込んだ。程なく、足下にしっかりとした感触がよみがえってくる。
「……まったく」
 耳元でルックの声を聞き、セレンは顔を上げた。前にいたはずのタイ・ホー達が今度は後ろにいる。ルックが空中浮遊で湖からセレンごと脱出したのだ。
「びしょぬれだよ」
 顔に張り付いてくる髪を後ろに流し、いくらか棘のある台詞を彼はセレンの方を見ずに呟いた。二人の足下にはすでに巨大な水たまりが出来上がっており、どちらも揃って、つま先から頭の先まですっかり濡れ鼠だった。
「早く風呂に入った方がよくねぇか?」
 立ち上がったタイ・ホーがそんな彼らを見て言う。
「うん、そうだね」
 セレンの返事を聞き、服の裾を持ち上げて水を絞り出していたルックが、面倒そうに振り返る。
「……いいけどね」
 手を振ってタイ・ホー達と別れたセレンは、ルックを伴って桟橋を歩き出す。その歩調は少し小走りで、ゆっくり歩いているルックを置いていきそうになり、彼は立ち止まって待たねばならなかった。
「風邪ひくよ?」
「いいよ」
「どうして」
 風邪をひかれては困ると言っていたのはルックなのに。セレンの言葉にそんな意味を感じたルックは、
「……濡れていた方が、気付かれないだろう……」
 そっと右手を伸ばし、指でセレンの目元をなぞった。
「…………」
 ロックアックスの戦いから、まだほんのわずかな時しか経過していない。セレンは泣いても良いはずなのに、誰の前でも泣こうとしなかったから。
「……ありがとう……」
 そうして二人、ゆっくりとまた歩き出した。

 …………後日談。
 ルックとセレン、仲良く風邪をひいてしまい、シュウに説教を延々とされたあげく、ルルノイエ攻略の第一陣に置いて行かれたのでした。