旅立ち

 風がざわめく
 それは新たな時代の前触れ

 良くも悪くも、時代は人を選ぶ。
 時の流れは、それこそまるでひとつの意志でも持っているかの如く不具合の生じた大地に狂者を生み出し、それを打ち破る英雄を創り出す。
 見えない意志に踊らされていることを知らぬまま狂者は倒れ、操られていることを知りながら英雄はその運命にただ流されていく。
 狂者と英雄の違いとはなんだ?
「行くのか」
 階段を下りるセレンへ、ビクトールは少し複雑な表情を浮かべて問いかける。
「この国はまだ生まれたての赤ん坊と同じだ。誰かが守ってやらなければ、すぐに力尽きてしまう。それでもお前は行くのか?」
 責めるような眼差しで問いかけてきたのは、フリックだ。
「そこ……どいて」
 レイクウィンドゥ城一階、中央ホールで彼らはラストエデン軍のリーダーをつとめたセレンを待っていた。去りゆこうとする彼を、止めるために。
 彼らだけが気付いていた。かつてトラン共和国建国の英雄が、建国宣言の前夜に誰に告げることもなくグレックミンスターを去ったように。セレンもまたこの地を捨て、旅立つであろう事を。
「ボクは……ビクトール。英雄でも勇者でもないんだ」
 石版から消えてしまった二人分の名前。すぐ側にいたたったひとりの生命さえ守れなかった人間が、英雄だなんて笑わせる。
 目の前で消えていこうとする生命を引き戻すことさえ出来ず、泣くことすらかなわなかった自分が、それでも今まで戦いを放棄しなかったのは。
「待ってるんだ、彼が」
 守りたいものがあったから、戦うことをやめなかった。
 失いたくないものがあったから、最後まで諦めなかった。
 そして答えを知りたくて、今、この城から去ろうとしている。
「ボクはずっと流されてきた。時代という大きな力の波に、もがきながら。逆らっているつもりでもそれさえも時代のひとつの波にすぎなかった。……もしこのまま城に残ったとしたら、ボクは……時代が創り出したただの張りぼての人形になってしまう」
 流されるままではいたくない。たとえ狂者に堕ちたとしても。セレンは自分で作りだした流れにのって、誰にも惑わされない自分だけの生き方を選び取ってみたかった。
 定められた未来ではなく、常に不安定に揺れる明日の中から、最も自分らしい生き方をつかみ取りたい。だから旅立つ。英雄としてではなく、ただのひとりの少年としての自分を取り戻すために。
「セレン……」
 フリックがのばしかけた手を、一瞬の逡巡ののち引き戻した。
「後悔しないな」
 ビクトールが言う。間を置くことなく、セレンは頷いた。
「どんな道でも、自分がそう望む限り人は生きていける。いつか……お前が本当に安らげる場所が見付かるさ」
 セレンの頭にごつごつした大きな手を置き、ビクトールはわしゃわしゃと掻き回した。
「もし……二人にまた会えるようなことがあったらその時は、胸を張っていられるように頑張るよ」
 あの戦いで自分の何が変わったのか、それすらもよく分からないけれど。変わってしまうことの全部が全部、悪いわけではないのだと気付いた。強くなることの本当の意味と、大切さが分かっただけでもこの長く短かった戦いは、セレンの中では決して無駄にはならない。
『奇跡は信じ、信じ続けて絶対に諦めようとしなかった人にだけ起こるものだから』
 かつて、セレンと同じように英雄と呼ばれ、しかしそう呼ばれることを拒んだ人が言った言葉を思い出す。
『忘れないで。願いは願い続ければいつか……必ず叶うから』
 ナナミが死んだ夜、彼女の部屋でひとり佇んでいたセレンに、彼は優しく教えてくれた。
 彼の願いは叶ったのだろうか。彼は答えを見出せたのだろうか。
「しけた顔するな。これから希望あふれる世界に旅立とうとしてる奴が、そんな顔しててどうする」
 ペシッ、とビクトールに鼻先を指ではじかれて、セレンは彼を睨み上げた。
「お前は間違えない。狂ったりもしない。お前は戦う辛さと失う悲しさを知っている。だから、行ってこい!」
 悩んだり迷ったりする事もあるだろう。そんなときは思い出せばいい、自分には返る場所がちゃんとあるのだと。
 ベシッ!と背中を思い切り強く叩かれて、セレンは今度こそビクトールの脛を蹴りつけてやった。
「うおおっ!?」
 いわゆる弁慶の泣き所というものを力一杯蹴られてしまい、ビクトールは足を抱えて片足でぴょんぴょんその場所で跳ね上がった。フリックが呆れ顔でそんな彼を眺めている。
「行ってくる!」
 セレンは右腕を上げた。今はもう、彼の後ろに付き従う者はいないけれど。見えない手で彼の背中を押す人は大勢いる。
「ああ、行ってこい!」
 痛みをこらえるのに必死なビクトールの代わりに、フリックが走り出した彼を見送る。
 セレンは、振り返らなかった。