大地の唄

 空は青くどこまでも続いている
 果てしなく広いこの世界で
 僕達はいったいどれだけの涙を流せば
 この大地を浄められるのだろう

 今でも、あれは全部悪い夢で、目覚めれば昔と何ひとつ変わっていない日常が待っているのだと、錯覚してしまう事がある。特にこんな、天気の良い暖かな日は。
 たまには一人きりになりたい。そう言えば、前ならばなかなか許して貰えなかった散歩も今じゃあっさりと許可が下りる。それこそ張り合いがないくらいで、物足りなささえ覚えてしまうのは、あの日常に慣れてしまった所為だろうか。
 君がいない。
 たったそれだけのことなのに、こんなにも心の中が寂しい。
 日溜まりはとても温かくて心地いいのに、心だけがどこかですきま風を招いている。
 ただ君がいないだけで。
 こんなにも苦しい。
 ふと顔を上げると、いつの間にここまで来たのか、そこは緑に覆われた森の中だった。
「いけない、ボーっとしてた」
 こんな事だから、いつもルックやサスケから天然だって言われるのだ、とセレンは舌を出して頭を小突くと、城に戻ろうと踵を返した。しかし、一歩足を踏み出そうとしたところでまた足を止める。
「……ここ、どこ……?」
 だから天然なんだ、というサスケの笑い声が聞こえてきそうで、セレンは泣きたくなった。
 この年になって、迷子。しかも城からさほど離れていないハズの近所で。これが来慣れない道や町だったらまだ分からなくもないが、普段からよく散歩に来る小さな森の中で迷子になるなんて、はずかしすぎである。いくらボーとしていたからといっても、方向感覚が見事になくなるなんて、珍しい。
「はー」
 盛大にため息をついてセレンはその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて空を見上げる。首がかくん、となって自然に体は後ろに倒れていった。
 とすん、と背中が柔らかな草の上に転がる。それでもまだ膝は抱えたままで、ごろんごろんと体を左右にしばらく揺すった後、彼は横向きに姿勢を落ち着けた。
 緑の匂いがする。
 風が通り抜けていく。
 木漏れ日がまぶしくて目を閉じても、光の残影は瞼の裏にしっかりと焼き付けられていた。
 まるであの日の記憶を消してしまおうとしているように。
 でも。
 駄目。
 忘れない、絶対に。
 彼女の流した涙と、血と。心に染み込んでいった彼女の存在の重さは、絶対に消せない。
 それがたとえ彼女の意志に反していたとしても。
 彼女を守れなかったという現実は、どこまでも彼を縛りつけるだろう。それが、彼を押しつぶしてしまっても。
 だから仲間達は彼に忘れさせようと必死になる。そんなことが出来るハズはないのに、出来ると信じて、疑わない。その押しつけがましい親切心が、さらに彼を苦しめていることにも気付かないで。
『放っておいて』
 だがその願いは聞き入れられない。
 彼はリーダーだから。
 この世界を変える、大きな力の流れの中心にいる、柱だから。
 でももう遅い。彼の世界は変わってしまった。二度と戻らない時間だけを残して、彼の世界は砕けてしまった。
 結んでいた手を放し、両足を解放する。そのまま大の字になって真上を見上げれば、揺れる木々の枝の間から真っ青な空が見えた。
「ねむ……」
 あくびが出て、セレンは瞼を軽くこする。そういえばこの頃、ゆっくりと寝た記憶がない。
 ベットに潜り込んでも、眠らなくてはいけないという強迫観念に犯されて、深い眠りにつく前に目が覚めてしまう。その繰り返しで朝がやってきて、せわしなく動き回る城の中を眺める余裕もなく会議にかり出されていたから。
 こんな風に空を見上げたのはいつが最後だっただろう。思い出せなくて彼は眼を閉じた。
「いいよね」
 誰かに断る訳ではないのに、彼はひとりごちて全身から力を抜いた。ぽてん、と地面からわずかに浮かんでいた指先も草の中に沈めて、セレンは緑の匂いをいっぱいに吸い込む。
「……ごめんね」
 それは誰に向けて言った言葉か。気付かないままセレンは静かに、眠りの世界に入っていた。

「うん?」
 声が聞こえたような気がして、キニスンは顔を上げた。
「クー?」
 足下にいるシロが不思議そうに彼を見上げる。だがキニスンはしばらく空をみあげた後、なにも見つけられなくて黙って首を振り、シロの頭を優しく撫でる。
「空耳だったみたいだ。なんでもないよ」
 敵が近付いていた訳ではないよ、と緊張を解くようにシロに告げ、彼は手にしていた弓をしまった。背負っている矢筒はほとんど空で、目立った収穫もないまま今日が終わろうとしている。
「そろそろ日が暮れる。闇に支配される前に戻ろう」
 たとえ歩き慣れた森の道でも、夜になったらそこは一変して見慣れない恐怖の場所になる。夜になってから行動する獣もいる。出来るなら相手にしたくない敵だ。だからそうなる前に安全な場所に避難しておく必要がある。無闇に突き進むことが勇気でないことを、彼はちゃんと知っている。
「ウォウ!」
 シロが吠え、嬉しそうに先立って走り出す。それを見てキニスンが微笑み、彼もまた今日の数少ない獲物である兎を持ち走り出す。
 だがしばらく行かないうちに、今度はシロが辺りを気にして立ち止まった。
「シロ?」
 ずっと一緒にいた相棒であり兄弟のようなシロの警戒に、キニスンも自然と周囲を見回す。
「なにか……いるのか?」
 しまったばかりの弓を取り出し矢筒から矢を出して構える彼だったが、何かを発見したらしいシロが突然走り出して慌てて追いかける。警戒を解くことをせずにシロが消えた木立の裏側に回り込むと──
「え?」
 思いがけないものを見つけ、キニスンは構えていた弓を下ろした。それまで体中に巡らせていた緊張を一気に解放して、あわば脱力のしすぎで膝が折れてしまいそうになるのを堪えて、彼はシロがしっぽを振って鼻をすり寄せている、地面に横たわり静かに眠っているセレンに近付いた。
「どうして、こんな所で……」
 意外性があって面白い奴、と前に誰かがセレンのことをそう評していたことを思い出し、まさしくその通りだとキニスンは思った。
 弓を置き、膝を折ってセレンのすぐ脇に屈み手を伸ばして彼の呼吸を確かめる。あまりにも静かすぎて、もしやという思いがよぎったからだ。だが、微かにキニスンの掌に届く息が一定のリズムを刻んでいることを確認してホッとする。
「セレンさん?」
 一体いつからここで寝ていたのだろうか。セレンの身体にはそれほど多くはないものの、少ないとも言い難い量の木の葉が積もっている。それらを軽く手で払って、キニスンはセレンの身体を揺すった。
「起きて下さい。こんな所で寝ていたら風邪をひきますよ?」
「うーー?」
 寝ぼけた声を出し、セレンが顔をしかめて瞼を持ち上げる。だがまたすぐに眠りの世界に戻ろうとするので、嘆息したキニスンは向こう側で静かに見ているシロに眼で合図を送った。
「クーン」
 ぺろり、とシロが舌を伸ばしてセレンの頬をひと舐め。
「うーー」
 むずがるセレンがまた少し瞼を上げる。今度はさっきよりも長めに覚醒したらしく、少々寝ぼけ眼で真上にいるシロの顔を見上げていた。やがて重たそうに右手を持ち上げ、シロの首筋を包み込んだ。
「もふもふー♪」
 そのまま、抱きしめる。
「ワウ!」
 びっくりしたシロがひと吠えし、四肢を突っ張らせる。セレンを跨ぐ形で立っていたシロは、いきなり下から引っ張られたのでかなり苦しい体勢にさせられた。キニスンもまさかそう来るとは思っていなかったので、一瞬呆気にとられてしまった。
「セレンさん、寝ぼけないで!」
 大切な相棒が苦しそうな表情で切ない声で鳴くのを放っておけず、慌ててキニスンはセレンからシロを引き剥がした。シロを奪われたセレンは、まだ呆けた顔のまま物惜しげに手を動かす。
「セレンさんってば。大丈夫ですか?」
 シロを地面に下ろし、キニスンがセレンの目の前で手を振ってみる。だがセレンはふっと体の力を抜いて、突然キニスンの方に倒れてきた。
「わっ!」
 驚き、体を後ろに退こうとするキニスンの膝に頭を載せ、セレンが体をごろんと横倒す。その体勢は、俗に言う膝枕。
「……あったかい」
 ぽそり、とセレンの口から言葉がこぼれて、聞きそびれたキニスンが視線を彼に向ける。ぺたんと地面に足をくっつけて座るキニスンの足に頭を預け、セレンは一度体を蓑虫のような動きでずらすと、しっかりとキニスンが逃げないように頭の向きを安定させた。
「あったかいや」
「セレンさん?」
 自分の太股辺りに頬ずりしてくるセレンをいぶかしみ、キニスンは困った声で彼の名を紡ぐ。しかしその手は優しく、セレンの髪を撫でていた。
「シロも暖かかった。キニスンも、あったかい。あったかいのは、生きている証拠……」
 木の葉が舞い降りてきてセレンの肩に積もる。
「落ち葉は冷たい」
 熱を持たないもの、と位置づけてセレンは体を揺すり木の葉を落とす。
 温かいもの、それは生きているもの。冷たいもの、それは命を持たないもの。
「セレンさん……」
 言葉に詰まり、キニスンは自分に身を委ねている少年を見つめる。年はそれほど離れていない。しかし育った環境が違うからか、セレンは見た目よりも考え方や行動理念が、たまにひどく幼いものに感じられることがあった。だが、今の言葉の意味はそれだけに留まらない。
 失ったばかりなのだ、セレンは。一番大切にしていた宝物を。
「守れなかった」
 目を閉じれば、今でも鮮明に甦るあの日のあの場所での、あの戦い。手を伸ばせば、あと少し手が届いていたなら、助けられたのに。守れたのに。
「出来なかった」
 一緒にいることが当たり前だった。離れる事なんて考えてもみなかった。これからも並んで年をとって、生きてゆけるのだと信じていた。いなくなってしまうことを、想像した事なんて……なかった。
「くやしいよ」
 両手で顔を覆い、セレンがくぐもった声で呟く。かける言葉がなくてキニスンはただ優しく、彼の頭をなで続けた。
「なんで……こうなっちゃったんだろ」
「セレンさん」
 あまり自分を責めないで、とキニスンはささやく。
「無理だよ」
 答えはすぐに返ってきた。泣いているのか、声は震えていたけれど、表情はキニスンからは見えない。
「今は無理でも……いつかは。ナナミさんが今のセレンさんを見たら、きっと悲しむでしょうから……」
 セレンを守るために、ナナミは盾になった。彼がいなくなってしまった時、折角ここまで苦労して、悲しみを乗り越えてやってきた意味がなくなってしまうから。だから彼女は命を顧みず、今では自分だけが大切にしているのではない義弟を守り抜いたのだ。
 ナナミはいつも笑っていた。失敗にもへこたれない、強気でたくましい、セレンにとっては自慢の義姉だったはずだ。
 死を悲しむなとは言えない。だが、いつまでも死に捕らわれていたのでは、この先生きてなどゆけない。
「分かってる。でも、ボクにはもう……戦う理由がない」
 ナナミを守って、ナナミと平和になった世界を一緒に歩いて行くために、セレンは戦ってきた。だからそのナナミがいない世界で、セレンは進む道を見失ってしまった。
「セレンさん……。少し、お話をしましょうか」
 キニスンは手を伸ばし、さっきセレンが肩から落とした木の葉を拾い上げた。
「この葉は、少し前まで生きていました。でもこの世に生まれ出たものの宿命として、生きているものはいつか滅びます。それは、人の一生も、人が作りだした国の歴史も、同じです。いつかは滅びがやってくる。それを避けることは出来ない」
 そして彼ははらり、と手から木の葉を落とし、地面の他の落ち葉の中に沈めた。
「ですが、この枯れてしまった葉も、地面に棲む小さな虫の餌になります。細かく砕かれ、または腐って新しい芽が出るための養分にもなります。その芽がやがて大きく成長して実を付けると、今度はそれを食べる鳥や獣がいます。その草食の獣を狙って、肉食の獣が現れます。でも、その凶暴な肉食獣もいつかは死んでしまいます。その肉体は他の動物の餌となったり、新しい植物の苗床になったりするんです」
 暮れかかった空。木立の間から覗く天空は濃い藍色に変わり、目を細めれば気の早い星が輝いているのが見えた。
「命は巡り行くものです。大地より生まれたものは、いつか大地に還る。そして新たな生命が生まれるのです」
 死者を想い、悲しむのは悪いことではない。けれど、死が全ての終わりではないことを、人は知らなければならない。「死んでいった人達は大地に還ったのです。新しく生まれてくる生命を支えるために。そして、今を懸命に生きている人達を見守ってくれているんです」
 セレンが頭を上げ、キニスンを見つめる。優しい笑顔をセレンに向け、彼は後ろ向きに地面に倒れ込んだ。
 両手両足を広げ、うつぶせに大地に横たわる。
「僕は今、大地を抱きしめています」
 膝を寄せてキニスンに近付くセレンに、彼は言った。
「父と母と、ナナミさんと、それに今まで別れてきた大好きな人達が眠る大地を、僕は抱きしめているんです」
 絶えるのではない。ただ還るのだ。常に廻り続けている生命の輪。決して揺るがす事の出来ない、それが自然の法則というもの。
 地面に降り積もった枯れ葉の感触が温かい。キニスンの横で同じように両手を広げて寝転がったセレンはまずそう思った。
「……生きている……」
 懐かしい気持ちがこみ上げてくる。胸の中に染み込んでくる見えない何かに、セレンは泣きたくなった。
「今……ボクはじゃあ、ナナミを抱きしめているのかな……?」
 キニスンを見つめると、彼は何も言わずただ微笑みを浮かべた。セレンも照れくさそうに笑うと、自分の顔の脇にシロの姿を見つけて目を細めた。
「くすぐったいよ、シロ」
 セレンの頬を舌で軽く舐め、顔をすり寄せた。
 温かい、優しい気持ちが満ちてくる。
「消えてしまった訳じゃないんだ。ボク達は、今も繋がっている。この大地で」
 身を起こしシロを抱きしめてセレンは言った。キニスンも起きあがって「そうですね」を相づちを打つ。
「ありがとう」
「……いえ」
 誰にだって迷うことも、悩むことも、悲しむこともあるから。
「人が持っていて当たり前の感情を忘れてしまわない限り、僕は……人は大丈夫だと思っています」
 迷ってもいい。悩んでもいい。それは当たり前すぎる事だから。
「そろそろ帰りましょう」
「うん」
 服についた木の葉を払い落とし、キニスンの提案にセレンもすぐに賛成する。そして二人と一匹は並んで歩き出した。
 途中、一度だけセレンは立ち止まって振り返る。そしてひとこと、風に流されてキニスンには届かない声で彼は何かをささやいた。
「いきましょう」
 夕闇に染まりだした森で、セレンはキニスンの促す声に黙って頷いた。

 ──ボクは君を忘れない。だから君もボクを忘れないで……覚えていて……抱きしめていて…………

大地は唄う
微笑みを絶やさぬよう
見えない未来を信じながら
苦しい今日を乗り越えたなら
きっと明日は輝けるから
昨日よりも今日が嬉しい
今日よりも見えない明日が眩しい
大地は唄う
君を抱きしめて
風は唄う
僕を抱きしめて
未来を信じているから
今日よりも明日が好き