緑陽の杜

 夜。
 ──?
 何かに呼ばれたような気がして、キニスンは目を覚ました。
 身を起こせば、すぐ傍らで同じように浅い眠りについていたシロがうっすらと瞼を持ち上げ、キニスンを見上げてくる。しかしどこか遠くから微かに響いてきた声のような音に気を取られていた彼は、シロの動きに全く気付いていなかった。
「……誰……?」
 ささやくような、かすれた声でキニスンは呟き、体にかけていた薄い毛布をどけた。
 今夜は少し遠出をしすぎたため、森の中での野宿となった。もっとも、ずっと山の中で育ち、狩りをして生活してきた彼とシロにとっては野宿もすでに慣れっこで、いつそうなっても良いように、最低限必要な荷物は常に持ち歩くようにしていた。この毛布もそのひとつで、他にも数日分の保存食や飲み水も持ってきている。足りなければその辺りで自生しているものを食べればいい。狩りをした獲物をその場でさばくことだって、別に珍しいことでもなかった。
「シロ、聞こえる……?」
 体をすり寄せてきた、狼と犬の混血犬の背を撫でやって、キニスンは尋ねた。この場合、獣の方が感覚は鋭い。
 低い声で鳴き、シロは耳を立てる。鼻をひくつかせ、しばらくして一方に首を向けた。
「向こう?」
「クーン……」
 頷くことで肯定し、シロはキニスンから離れた。立ち上がった彼が荷物をまとめ始めるのを眺めながら、やがて自分も、すでに火が半分消えかけたたき火に砂をかけて完全に火種を消してしまう。
「ありがとう」
 兄弟のように育ったシロに礼を言い、キニスンは雑多にまとめた荷物を麻袋に詰め込んだ。片掛けの袋に腕を通し、肩に担いで足下の弓を取る。矢筒を背負うと、準備は完了した。
 もう一度たき火が消えているかを確認して、彼らはその場所から歩き出した。朝日はまだ昇っておらず、森の中は薄暗い。月は出ているが生い茂った木々の葉が光を遮って彼らの足下を照らし出すことはない。それなのに、慣れた足取りでキニスンは森の中を進んでいく。
 シロが何かを感じ取った方向は、キニスンの記憶が正しければ小さな村があるはずだった。地図にも載らないような、本当にちっぽけな数世帯しか住まない村。細々と肩を寄せあって生きていくだけの、狩猟と採取を主として生活を送る人々の集落だ。キニスンも、以前何度か訪ねたことがあった。
「焦げ臭い……」
 やがて、空が明るくなってきてキニスンは首を傾げる。月はまだ高い。夜が明けるにはあといくらも時間が残っているはずだった。それにこの、何かが焦げる臭いは……。
「ウゥー……」
 シロが歩を止め、うなり声を上げた。反射的にキニスンも矢筒から矢を取りだし、弓につがえる。
「誰……ですか」
 返事を期待したわけでないが、どうしても信じがたい疑いが頭をよぎって、誰何の声を出さずにはいられなかった。
「……たす、け…………」
 そして、返事はあった。しかし声はうわずり、きちんとした言葉にならないただの音の羅列にしか聞こえなかった。さらに、どさり、といった重いものが崩れ落ちる音が続く。
「……!」
 弓を下ろし、キニスンは慌てて走った。シロが警戒を解かないまま彼を追いかける。巧みに薄明かりの中で生い茂る木の根や鋭い切り口を持つ葉を避け、キニスンは音がした場所にたどり着いた。
「大丈夫ですか!?」
 木の根本にもたれかかるようにして倒れている、40代後半の男性。苦しげな息をしていて、抱き起こそうとしたキニスンだったが背に回した自分の手がなま暖かい液体に濡れて滑ってしまう。
 何とも言い表しがたいぬめり感。ぞっとするしかない感触に、キニスンは一瞬言葉を詰まらせた。
 よく見れば、男の全身は赤く染まっていた。根本にはすでに血溜まりが出来上がっていて、傷が背中だけでないことを無言のうちにキニスンに教える。
「……村、が……ハイラ…………ドに…………」
 そこで男は事切れた。
 男の顔に、キニスンは覚えがあった。この先の村で、妻と子供4人と一緒に慎ましく暮らす猟師だった。
「どうして……」
 もう動かない男を静かに横たわらせ、キニスンはやりきれない思いで唇をかみしめた。シロが不安そうに体をすり寄せてくる。
「クーン……」
「大丈夫だよ、シロ……」
 そっと頭を撫でてやり、キニスンはこみ上げてくる涙をグッとこらえて立ち上がった。血の付いた手で弓を取り、周囲に気を配る。
 出来るだけ息を殺し、こぼれてくる月明かりからも身を隠して彼らは待った。男の時とは明らかに違う、一定のリズムを持った安定した足取りが近づいてきていたのだ。
 すぐに松明と思える明かりがぽつぽつと見え始める。浮かび上がる姿は、見慣れない鎧に身を包んだ集団だった。
「ハイランド……」
 男が言い残した言葉を思い出し、キニスンは独白する。それはこの山を越えた先にある国の名前だった。
 それがどうして、と彼は訝しみの表情を浮かべた。たしかにここ都市同盟とハイランドとは長年戦争状態にあったが、つい先日休戦協定が互いの代表者の手によって結ばれたばかりだったはずだ。ハイランドの軍人が、確かに国境のすぐ側とはいえ、あんな小さな村を襲う理由は見当たらない。
「何故……?」
 松明の火は近づいてきて、もうじきここも照らし出されてしまう。ばらついた火は、何かを探しているようにあちこちを漂っている。恐らく村から逃げ出した……すでに息絶えたこの男性を捜しているのだろう。もしかしたら他にも森に逃げ込んだ人がいるのかもしれない。
 自然と、握る弓に力が入る。シロも警戒心を顕わにし、いつでも戦えるように構えていた。近づいてきたらその首をかみ切ってやろうと、牙を覗かせている。
 心臓がばくばくと波打つ。汗がじっとりと浮かび上がり、つばを飲み込む音でさえやけに生々しく、大きく響いて聞こえた。
 果たして、勝てるだろうか。
 相手は王国軍で、鎧で武装していて、しかも集団だ。彼らが何をやったかは分からないが、この男性を見る限り穏やかな事ではないはず。夜の森にこうして入ってくる辺り、キニスンを見逃してくれるとも思えなかった。
「…………」
 ひどく長い時間、そうしていた気がした。息を殺し、気配を消し、しかし何があっても絶対に殺されてなるものかという気持ちだけは忘れずに。
 やがて松明の火が遠離り、朝日が昇る頃にはもう、王国軍の姿は森から完全に消え去っていた。
 空が明るくなりだして、ようやくキニスンは長く息を吐き出した。ドサッとその場に腰を落とし、全身に残った疲れを地面に放り出す。だがひとつふたつ深呼吸を繰り返してから、彼は一気に立ち上がった。
「行こう、シロ」
 物言わぬ男に短く黙祷し、彼は振りきるように歩き出した。目的地は、この先。あの男が暮らしていた村。
 だが村は何処にもなかった。ただ一面の焼け野原が森にぽっかりと口を開けて広がっているだけ。
 黒く焦げた地表。かつて畑だった場所は踏み荒らされ、二度と作物が育たないようにされてしまっていた。家だったものは消し炭になって無造作に転がっている。くすぶった煙がまだあちこちから上っていたが、生存者はいなかった。
 逃げまどう子供達を、背中から斬りつけたらしい。村の入口に近い場所に、いくつもの死体が折り重なるように残されていた。
「クー……」
 シロの敏感の鼻も、この臭いに完全に麻痺してしまっていた。
 泣きたい気持ちのまま、しかし拳を握りしめたキニスンはその場に立ちつくす。
 何もできなかった。何もしてあげられなかった。戦うこともできたはずなのに、もしかしたら救える命があったかもしれないのに。彼は息を殺して夜明けを待つことしか出来なかった。
「ごめんなさい……」
 絞り出した声はそれ以外の言葉を拒絶した。ほかに言える言葉が思いつかなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 謝っても一夜に失われた命は戻ってこない。過去は戻らない、やり直せない。しかしキニスンは謝らずにはいられなかった。彼が悪いわけではないのに。
「クーン……」
 頭を垂れてシロも小声で鳴く。一緒に謝ろうとしていた。彼もまた、戦わなかったから。
 もしここに誰かがいたら、こう言ったかもしれない。彼らが戦うことを選ばなかったのは正しい、と。真正面から戦っても彼らに勝ち目はなく、無駄に命を散らすだけで終わっていただろう、と。しかしそれは彼らだって十分分かっている、分かり切った事だ。
 だからこそ、悔しい。
「どうして、……どうしてハイランドが……」
 自問しても答えが見付かるはずはなく、教えてくれる人もいない。握りしめた弓が軋みをあげ、彼の手に痣を残す。男の血は、もう乾いていた。
 彼らは墓を作った。焼けこげた土を掘り返し、村の、かつて笑顔で狩りの帰りに立ち寄ったキニスンを暖かく迎えてくれた人々を埋めていく。墓標に出来るものは何もなくて、手向ける花さえも見当たらなかったが。何もしてやらないよりはずっと良いだろうと、自分自身に語りかけながら。彼らは、黙々と墓を掘り続けた。
 昼が過ぎ、夕暮れに西の空が染まりだした頃、ようやく彼らはその村を立ち去った。キニスンの両手の爪は割れ、血がにじんで痛んだが彼は化膿止めの薬を付けただけでそれ以上のことをしようとしなかった。まるでそれが、自分に課せられた罪であるかのように。

 あれからどれくらいの日が過ぎただろう。
 今も傷は痛むことがある。跡も残らない程に完治しているのに、それでも傷が痛むことがある。
 リューベの村近くの森に来て数日。まだここの村は安全のようだとほっとしながら、キニスンはシロと共に山道を歩いていた。
「……クー……」
 ふと、シロが道端の木を見上げて立ち止まった。
「シロ?」
 どうしたの、と行きかけていたキニスンが戻ってきてシロの見上げる先を同じように見る。木の枝に、少し形の崩れた鳥の巣が引っかかっていた。今度は足下に目をやる。細い木の枝が散らばっていた。あの鳥の巣と同じ枝だ。
「落ちいてた巣を、誰かが戻してくれた……?」
 地面と木の枝とを交互に眺めながら、キニスンは呟いた。シロが、その通りだと言わんばかりに小さく吠える。
 しばらくそのまま、誰ともしれない好意に感謝をしていると、複数の足音が聞こえてきて彼はつい、いつも通りの警戒を抱いてしまった。反射的に身構えた彼の前に、ゆっくりとした歩調で見知らぬ若者達が近づいてくる。先頭を行くのは、赤い服の少年だった。
「クーン」
 シロが、キニスンの袖を引き鳴いた。少年が立ち止まる。不思議そうな顔をして。
「……君が、巣を戻してくれたんですか?」
「え? そう……ですけど」
 驚いたように少年は答えた。
 明るい色の瞳がキニスンを見上げている。彼の後ろにはおかっぱ頭の元気そうな少女と、金髪の利発そうな少年が、何事かとキニスンとシロを見つめていた。
 ──ああ、そうか。
 なぜか、妙に納得してしまった。
 彼らは言う。自分たちが都市同盟の傭兵部隊に厄介になっていて、協力してくれる仲間を捜しているのだと。近いうちに攻めて来るであろうハイランドを、ここでくい止めておかないといずれ大変なことになってしまうと。そして……故郷であるハイランドに、そんな罪を犯して欲しくない。だからどうか、力を貸して欲しいと。
 キニスンは空を見上げた。たくましく空を目指して、まっすぐに大地に根を下ろして生きる巨木に、彼らは似ていると思った。
 緑葉が風になびき、揺れる柔らかな光が彼らの頬にこぼれる。
「……僕で力になれるのなら……このままハイランドの人達に森が荒らされるのは嫌だから……森を守りたいから、僕も、力になります」
 いいよね、シロ、と傍らに付き添う白い犬に尋ねれば、もとよりそのつもりだとシロは笑った。
「これから、よろしく」
 差しだされた手を握り返せば、もう傷は痛まなかった。