Solitude

 シィン……と静まりかえった城内。
 床の大半は柔らかな絨毯が敷き詰められているはずなのに、それでも嫌というくらいに響き渡る自分自身の足音。冷え切った空気が肌に突き刺さる感覚が嫌で、追い払えるはずもないのに無駄に手を振ってしまう。
 誰も居ない、城。
 驚くほどに、そして恐ろしいほどに静かな。
 彼の、城。
 自覚のないままにため息を零し、彼は高い天井の末に聳えている豪奢なシャンデリアを見上げた。今は外も明るく、炎を灯す必要もない為それはただ無駄なガラスの固まりとなり天井からぶら下がっているだけだ。
 あのシャンデリアも、この城が建造された当時からあるもののはずだが歴史を感じさせない優美さが、ガラスひとつひとつの曲線から滲み出ているようで彼はよく好んで、首が痛くなるのも構わず真下から見上げていたものだ。
 けれど今は、その行為さえも空しく思えてならない。
 またため息を零す。今度は気づいて、しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら頬を片手で叩いた。乾いた音が短く、音響効果の非常に宜しいホール内を響き渡っていくがじきに、消えて失せた。
 すべての窓は閉じられ、風さえも流れてこない。
 まるで時間から置き忘れられ、世界からも切り落とされてしまったような空間にひとり佇み、彼は苛ついた調子で己の髪を掻き上げた。
 指の隙間から癖のない銀の髪が滑り落ちていく。それをまた掻き上げて鬱陶しそうに後ろへ流すが、結局留めるものなどなにもない彼の髪は、どんどん指の間から零れて行くばかりだった。
 舌打ちし、一度苛立たしげに足をその場で踏みならす。ホールの角、目立たなくだが存在感はしっかりと誇示している古ぼけた巨大な柱時計がボーン、と、彼の足に調子を合わせたかのように低音の長閑な音を数回鳴り響かせた。
 思わず驚いてしまい、ガラにもなく肩を竦ませて警戒してしまった彼だったが、二秒後に音の発生源が柱時計にあることを思い出し、指し示されている時刻を改めて確認する。
午後、三時。
 いつもならば、台所から芳しいおやつの良い香りが漂ってくる時間帯。
 いつもならば、リビングの大型テレビから喧しいと眉を顰めたくなる大音響が響いている時間帯。
 だのに今日に限って、その両方が欠けていた。
 泣きたくなるくらいに、静かすぎる城。
 再び虹色を輝かせているシャンデリアを見上げて、彼は首を振った。
 なにを考えているのだろう、自分は。そんな自嘲気味な想いが心を過ぎる。踵を返し、一旦は自室へ戻ろうと階段へ足を掛けたが三歩と進まぬうちに気が変わった。
 手摺りを押して身体の方向を変える。そして彼は、今戻って来たばかりのホールへと進み出た。
 だがシャンデリアの真下も、古時計の前をも素通りしてしまう。彼が目指したのは、更にその向こう側にある今はリビングとして使用されている大きな、間仕切りのない一室だった。
 そこはかつて、晩餐会などが開かれていた部屋。けれど今は、城主の社交性と協調性の乏しさから大勢が集まる機会も必然的に減り、本来の目的で使用される事は滅多になくなった。
 かわりに、一角に巨大スクリーンを中心としたソファセットを擁するリビングとして使用されている。
 常に誰かがそこに居られるように。誰かがそこに居れば、みんなが集まることの出来る空間があればいいと。いつの間にか、誰が言い出したのか一角を占領している映像、及び音響機器はかなりの質と量に達していた。
 何故かアンプがふたつもあり、スピーカーが六つもあったりする。御陰で音はかなり臨場感を持って聞き取る事が出来るが、反面騒々しいというマイナス面も生じてしまったのだが。
 壁が厚く扉もしっかりとしているので、きちんと閉めてさえいれば案外外に音は漏れない事を発見して以来、城主は口やかましく言わなくなった。彼自身、次々に買い足され取り替えられる最新機種に興味を抱き、その音響効果の良さを気に入っている事も手伝っている。
 ただし、あまり浪費してくれるなと釘を刺したりはするが。
 扉を、開ける。
 がらんとした空間が目の前に広がるのは、正面玄関前のホールと同じだった。
 なにか期待したものがあったらしいが、呆気なく裏切られて彼は吐息を零す。けれど開いてしまった扉をそのまま閉めて立ち去るのも気が引けて、彼はリビングへ足を踏み入れた。
 壁際に並ぶチェストの半分は、レコードが占領している。残りはCDとDVD、各種雑誌等々。ジャンルもレベルもてんでバラバラで、買い込んでくる当人のアバウトな性格が偲ばれる。二流でもたまに、当たりがあったりするのだと毎回弁解する顔が目に浮かんだ。
 その言葉を否定する気はないが、当たりはずれが大きいのもまた事実。結果的に無駄な出費になってしまう事が多く仲間を苦笑させるだけだった。
 今日もまた、電気街へ買い物だろうか。それとも、中古CDショップを荒らし回っているのか?
 いや、案外どこかの道端でバイクを停めて昼寝を楽しんでいるのかも知れない。そちらの方が多いにあり得そうで、想像して彼は口元にやった指を咬んだ。
 もうひとりの方も、ソロ活動が目立ち始めており今日も彼だけがオフを返上で仕事に出ている。なんでも最近デビューしたばかりの歌手とセッションだそうで、悔しいがその辺の仕事は彼の方が巧い事は認めざるを得ない。
 人付き合いはもともと好きではないし、騒々しいのも道理と礼儀を弁えない人間は更に嫌いだし。
 手近なひとり掛けのソファにどかっと腰を落とし、彼は目に付いた雑誌を手に取ってみた。
 誰かが置き忘れていったらしい、それはここ数日間のテレビ番組を一覧化したものだった。クリスタルのテーブルに一際異彩を放つ色調の表紙を広げ、適当にパラパラと紙を捲ってみる。
 さして興味も抱かなかったものの、手を伸ばせば届く範囲にテレビのリモコンがあったものだから、今日の日付を探し出しテレビの電源を入れてみた。すぐさま真っ暗だった画面に光が宿り、見慣れない人物が数人現れた。
 壁際の時計と雑誌の時刻表を交互に見つめ、それからリモコンを操作してチャンネルを確かめ今放送されている番組を調べる。だが見事に、知らぬ人間ばかりが現れてテーブルを囲み、なにやら訳の分からないトークを繰り返すばかりだった。時々差し込まれる映像も、彼に好奇心を抱かせる内容ではなかった。
「…………」
 重い溜息と同時に、彼はリモコンのスイッチを押した。
 プツッ、と短い音を立てテレビは再び沈黙する。そうすれば、尚更今まで以上に城内の静かさが際立って感じられて彼の神経を逆撫でした。
 思わず手にしていたリモコンを壁目掛けて放り投げてしまい、気づいた時にはもう、それは硬質の音を立てて壁の一角を僅かに凹ませ、床に沈没したあとだった。落下地点がまだ絨毯の上だった分、衝撃が吸収されて壊れては居ないようだったが、へこんでしまった壁は元に戻りそうにない。
 自分が嫌になりそうで、彼は額を左手で押さえ込み俯いた。膝の上に肘を置き、靴の先を見つめる。それで気分が晴れたり落ち着きを取り戻せるわけではないのだろうが、他に見るものもないので仕方がない。
 それでも、ものの五分もしないうちに飽きてしまう。
 ゆっくりと曲げていた背を伸ばし、そのまま後ろに体の重心を傾けてソファの柔らかいクッションに身体を沈める。頭までぶくぶくと沈み込ませれば、自然と腰がずり落ちていく格好になり天井を仰ぐ事になる。
 ここにも、シャンデリアがある。ホールを飾っているものとはまた違い、低めの天井に合わせて平たい格好で作られている。それを端から端まで目で追って、また戻っていく。仰け反っている頸が次第に痛み出す頃になってようやく彼は姿勢を正し、脚を組んだ。
 腕も組み、無言のまま沈黙を続けているテレビの黒いばかりの画面を凝視。恐らく見つめられているテレビの方が困惑してしまいそうな雰囲気で、彼はまた暫くそのポーズを保った後、足を組み替える時についでに広げたままだった雑誌をもう一度手に取った。
 テレビ欄ではなく、番組の特集ページを開いてみる。目が行くのは、やはり音楽番組のコーナー。よく見れば隅の方に、今日アッシュが仕事に行かねばならなくなった原因である新人アーティストが写真入りで紹介されていた。
 見目は良いが、唄を聴いた感じではあまり巧いと、世辞でも言えない小娘としか感想を覚えなかった彼に、アッシュは苦笑を返すだけだった。スマイルは、もとから興味さえ抱かずにいたからもしかしたら、その娘の名前すら知らないかもしれない。
 物知りなくせに、情報の範囲が恐ろしく偏っている奴だから。
 どうでも良くなり、今度は雑誌をソファの真後ろへ放り投げた。紙が擦れ合う音がしたが、それも一瞬だけで終わる。
 沈黙は、茨のように痛い。
「…………」
 本日何度目か、すでに計ることも忘れてしまった溜息を落として彼はゆっくりと立ち上がった。一度ソファの上で座り直してから、両足に同時に力を入れて膝を伸ばす。急に遠くなった足許に心細さを覚えて頭を振り、落ちてきた銀糸を掬い上げてそのまま、持ち上げた手で凝りもしていない肩を数回叩く。
 今日は本当にどうでも良い行動が多い。無駄に時間を潰しているだけで、だのに時間の経過は非常に遅く時計を見れば、まだ三時半を少し回った程度だった。
 その時に零したため息にもし色を付けることが出来たとしたらそれは、どんよりとして重そうな、雨雲に似た薄暗さを秘めていただろう。
 背を伸ばして真っ直ぐになり、彼は時計から視線を外してまた床を見た。
「今まで……ずっとひとりだっただろう……」
 自分に向けて、呟く。
 声はカラカラと転がり落ちてどこまでも床を滑り、拾う者もない。やがて壁にぶつかって砕け散り、欠片さえ残らなかった。
 ひとりきり。
 その環境には慣れていたはずだ。眠りに就く前もひとりだったし、眠りから目覚めてもしばらくはひとりだったではないか。
 そうしているうちに退屈に飽き、なにかをしようと思い至って唄うことを始めたはずだ。唄も、仲間集めも、退屈しのぎの一環でしかなかった。
 だから自分が唄に飽きてしまえばそれで終わる。仲間も去り、城から音は消え去って彼はまたひとりに戻る。
 今のように。
 今のように?
 広いリビングを見回す。誰も居ない空間、音を発するのは自分自身と、変わることなく時を刻み続ける時計の秒針くらいだろう。
 緩く首を振り、彼はまた歩き出した。今度はリビングを通り抜け、食堂として利用している一角も素通りし一枚扉に隔てられている台所へと、入り込む。
 主に使用しているアッシュの性格が解るような、几帳面に片付けられたキッチンを一通り見回して彼はまず、シンクへ向かった。
 傍らの調理台に置かれているケトルを取り、蓋を外す。水道の蛇口を捻って水を出し、ケトルに適当に……半分近くまで水を溜めて蛇口を締めて蓋も閉める。弾みで揺れた時、中でちゃぽちゃぽと水が跳ねる音が嫌に大きく響いた。しかも少し重い。
 滅多にしない事なので水の重さに驚きつつ、彼はそれを今度はコンロの上に置いた。スイッチを捻り、強火のまま調整もせずにその場を離れる。次に彼が目指したのは、コンロの右側角を経て壁に寄り添って並ぶ棚だった。
 視線を泳がせ、上から順に下を見ていく。目当てのものは片方だけなら直ぐに見付かったのだが、もうひとつがなかなか見当たらなくて、やむを得ず彼は適当に棚を開け、引き出しを引っ張り始めた。
 テーブルの上には、先に取りだしたコーヒーカップがワンセット。銀のスプーンも三つ目の引き出しで発見してそれもソーサーの上に置き、最後に肝心なものを探し求めて右往左往。
 本当ならミルから挽いてちゃんと煎れたものを飲みたいのだが、自分で出来ないことは承知しているので諦めるしかない。だから自分で飲めるコーヒーを、彼は捜している。
 要するに、インスタントを。
 がさごそと台所を家捜しすること、十数分。気が付けばケトルは湯気を撒き散らし喧しく泣き喚いていた。ようやく目当てのインスタントコーヒーの粉を発見した彼は、意気揚々としてその瓶を開け銀スプーンで粉をカップに放り込んだ。
「……多いか……?」
 あまりしたことがないということは、インスタントコーヒーをいれるのも同じ。目方が解らず、少ないよりは良いだろうと考え二杯と半分、スプーン大さじを、熱されていたケトルを熱がりながらも持って湯を注ぎ入れ、溶かす。
 見る間に黒い渦が白いカップの中に生まれた。
 縁ギリギリ下にまで湯を注ぎ、スプーンでもって掻き混ぜる。普段彼が飲んでいるものよりも格段に色の濃いそれに怪訝な面もちをしながらも、きっとこういう種類なのだろうと勝手に自分で納得して、白く細かい泡が消えて無くなるのを待ちスプーンを置いた。
 カチャリ、と透き通った音が小さく響く。
 そっと両手を使って持ち上げ、指先に伝わる熱さに顔を顰めつつ彼はそっと、息を吹きかけた。
 立ち上る湯気が棚引き、彼とは反対方向へ伸びていく。一瞬だけ目の前が白く濁り、また透明に戻るその動作を数回連続で繰り返したのち、恐る恐るだが唇をカップにつけた。
「あつっ!」
 しかし舌先をちろり、とカップの縁、なみなみと注がれているコーヒーの表面に微かに触れただけに関わらずその熱さに驚いてしまった彼は、慌ててカップから顔を引き剥がした。咄嗟にカップまで手から離し、落としてしまうところだったのは寸でのところで思い出した事により回避されたものの、ひりひりと舌に残る感覚は火傷をしたときと同じものだった。
 不安定に片手で持っているカップを一旦テーブルに戻し、彼は今まさに火傷をしてしまった舌を伸ばして空気に晒した。そうしたところで、室内の空気もさほど体内と温度差があるわけではなく、されど冷やすことも易々と行かない場所である為他に方法も思いつかなくて、彼は暫くテーブルの前で犬のように舌を伸ばしたまま立ち続けなければならなかった。
 その間にも、室温に冷やされてカップに満ちているコーヒーから昇る湯気は次第に少なくなっていく。恨めしげに自分で煎れたコーヒーを見下ろし、痛みが若干和らいだところで彼はもう一度、カップを両手に挟み持ちひとくち啜ってみた。
 ぬるい。
 それから、苦い。
 コーヒーという飲み物独特のあの苦みではなく、ただ単に本当に、濃すぎて苦い。しかも温い為に味が微妙だった。思わずカップに口を付けたまま眉間に皺を寄せ、硬直してしまった彼だったがややして思い直し、そのまま残りの液体を胃に押し流した。
 口いっぱいに気持ちの悪い苦さが残り、喉にもコーヒー滓がこびり付いているような感じがして、喉仏の辺りを軽く指で押さえ込み、咳を数回。簡単には去ってくれない感覚にまた顔を顰め、額に皺寄せて彼はやや剣呑とした面もちで乱暴に空になったコーヒーカップをテーブルに叩き置いた。
 どすん、とテーブルが一度大きく揺れる。
「はぁ」
 零れるのはどうあっても溜息に限定されてしまうらしい。難しい顔のまま、カップの縁に残っていた自分の唇の後を指で拭い取って一緒に浮かんだ汗も返した手の甲で拭う。ちらっと視線の端で見上げた時計は間もなく四時を指し示そうとしていたが、玄関が押し開かれた様子も、帰宅を告げるベルの音が鳴り響く気配も全くない。
 そのまま下に視線を落とせば、自分で使うのは諦めざるを得なかったミルがある。思わず蹴り飛ばしてしまいたくなる衝動に駆られたが、これを壊してしまうと明日からまたコーヒーが今日のようないがらっぽい、滓だらけのコーヒーを飲まされる事を思い出して止めた。代わりに、収まりきらない衝動は別の、何が入っているのかも解らない紙箱を蹴りつける事でなんとか解消する。
 されど彼が蹴り飛ばした箱は数回床の上で不吉な音を立てた後、完全に陶器が砕ける音をがなり立てて沈黙した。
 冷や汗が、垂れる。
「………………」
 衝撃で僅かに開いてしまったらしい蓋の隙間から、白い陶器の破片が見えた気がした。
 しかし彼は、それを気のせいとして見なかったことにした。どうせ台所の主が帰ってきたときにはばれてしまうのに、その事にまで頭が回らない。大体こんな蹴りやすい所に転がっているのが悪いんだ、と無生物の箱に責任転嫁をして自分の心を落ち着けさせるのだが、元々ちゃんと棚に片付けられていたものを引っ張り出したのは彼自身で、どう転んだと手彼に責任があるのは間違いない。
 それは分かっているはずなのに、最終的に彼の思考が行き着く先は、自分をひとりにした奴らが悪い、という非常に他力本願な答えだった。
 もう一度、今度は何もない空間で足を蹴り上げて彼はその場にしゃがみ込んだ。
 膝を抱え、テーブルの下、影になっている空間に転がっている箱をただじっと眺める。喉はまだガラガラしていてコーヒーが絡みついている感覚が残っており、舌先も火傷とコーヒーの苦さで諸々の感覚が遠くなってしまっているようだった。
「……くそっ……」
 ひとりには慣れていたはずなのに、今はこんなにも独りで在ることが辛い。
 取り残される命だと分かっているはずなのに、置いて行かれてしまうことが恐い。
 なにもない空虚な、音さえもない空間に忘れ去られる事が、哀しい。
 ……寂しい。
 否定したくて、彼は抱きしめた己の膝に額を押し当てたその状態のまま首を振った。背中の羽根が抵抗するようにぱさぱさと羽ばたく。だけれど、それは虚しく空を切るばかりで彼の願うままに、この場所から彼を連れ出す事はなかった。
 失われた力は大きい。
 手に入れた多くのものと引き替えにした代償に彼が失ったのは、永い孤独に耐え忍ぶ心の強さか。
 認めたくなくて唇を浅く噛みしめる。そこに残る苦さに思い切り顔を歪ませ、ますます背を丸め込ませて彼は床の上に本格的に座り込んでしまった。
 出来るものならばヒステリックに、回りのものすべてに当たり散らして壊してしまいたい。今ある環境を壊して、すべてを、今までの事何もかもを否定して拒否して、ゼロにすれば昔のような、強かった自分に戻れるのだとしたら。
 そんなことが出来ないことは、分かっているのに。
 名前を呼んでもらえないという孤独。誰の目にも留まらないという恐怖。そのまま忘れ去られてしまうかもしれないという懼れ。
 独りで居る時は感じなかったもの、知らなかったものを大勢と交わり、仲間を得ることで覚えてしまった。そしてそれらの感情はきっと、この先永遠に消え去ることはないのだろう。
 目覚めなければ良かったと、ふと、思った。
 顔を上げる。視界の中心に、あの箱から飛び出した陶器の欠片が転がっていた。
 右腕を伸ばす。肩が抜けるかというギリギリまで伸ばせば、今の位置から動かずともかろうじて掴むことが出来た。指先で伸び上がっている一角を手前に弾き、そうやって数回自分の方へと引き寄せてから、二本指で摘み上げる。
 さほど大きくはない破片、だが落下の衝撃で木っ端微塵に砕けたそれは角という角がすべて、鋭く尖っている。掴んだ時にその一角が刺さったのか、鈍い指先の痛みに目を向ければ人差し指の爪の直ぐ下、腹側に小さな赤い粒が生まれていた。
「ぁ……」
 零れた息は淡い。
 表面張力により出血はそこで止まる、溢れ出すことはない。たった一点、切れただけの傷は彼の回復力を持ってすれば数分後には綺麗に消えて無くなっていることだろう。
 しかし彼はその赤い一点を凝視したまま右手に持った欠片をくるり、と持ち替えた。一瞬だけ息を止め、そして深く吸い込み、また止めて。
 強く破片を握りつぶそうと全身に力を込めて――――
「はい、そこまでね」
 ぽすっ、と込められようとしていた力は呆気なく上から降ってきて包み込んだ手の平に回収され、分散されて消えていった。
「…………ぁ……」
 首だけを上げ、己の真上を見上げる。そこには、彼に影を落とす格好で背後にそびえ立つ白と青の存在があった。
 表情は厳しく右だけの隻眼はスッと細められており、丹朱の瞳は彼を見下ろしたまま睨んでいるようでもあった。なんてタイミングの悪いときに、と今自分がしようとしていたこととを思い出し、ユーリは気まずそうに視線を逸らし疲れてしまう首も一緒に下向けた。
「いつから、居た……」
「さっき」
 沈みきっているユーリのことばに短く返し、彼は掴んだユーリの手の平を解いて中に籠められたままの破片を指先で取りだした。朱の痕が僅かに残るその白光りする鋭利なものに変わらず目を細めたままの視線を向け、溜息とも落胆の呼気とも取り得る息を数回吐き出した後、それをシンク脇に蓋もなく置かれている巨大なゴミ箱に投げ入れた。
 縁にぶつかり、空中に一度小さく跳ねたものの、それは感嘆に他のゴミに紛れて分からなくなってしまった。
「怪我は?」
「……いつから見ていた……」
 ぱんぱん、と片づけが終わったばかりに両手を叩く仕草を見せた彼に、ユーリは床の上に腰を落としたまま尋ねる。
「君が机の下から破片を拾い上げる辺りから」
 だとしたら、随分前になる。彼はその間、ユーリの背中に声もかけずに気配を断ってことの顛末を見守っていたということか。
「悪趣味な」
「ちゃんと止めてあげたじゃない」
 致命的な傷を負う前に制止の声と手を出した彼は、咎められる理由などなにもないといわんばかりに肩を竦めて首を振った。しかしユ-リにしてみれば、それ以前に人の背後でそうと知られぬように立っている事自体が、既に悪趣味極まりないということになる。
「あぁ、それとも」
 止めて欲しくなかったの? そう問い返す視線に気づきユーリは返事もせず、また視線だけを逸らした。特に目的もなく向けた先には、棚の手前で乱雑に山積みされた箱と食器類が散らかっていた。
「アッシュに怒られるね」
「それはっ」
 ユーリが何を見ているのか、同じように壁際に目をやった彼がカラカラと喉を鳴らしながら笑って言う。即座に誰の所為だ、と言いかけてしまったユーリは気づいて慌てて中途半端に息と言葉を途切れさせた。出かけた言葉は咄嗟に持ち上げた手で口を塞ぐ事で呑み込む。
 怪訝な目を向けてユーリを見る彼に、反射的に首を振ってから一呼吸置き、今度は縦に首を振った。
「ふぅん……」
 まぁ良いんだけど、とひとりごちて彼は頭を掻いた。それから改めて、台所の惨状を見回して盛大に肩を竦める。
「ところでさ、ユーリ。君はいったい台所で何をしようとしていたわけ?」
 テーブルの上には飲み終えたコーヒーカップがひとつ。コンロの上には残り湯も大量のケトル、シンクの横にはインスタントコーヒーの瓶。見ただけで答えは出てきそうなものだが、彼は敢えて直接本人から答えを聞こうとした。
 床の上のユーリが、ジト目で彼を睨み上げている。
「だから、だな」
「うん」
 ユーリは「見て分かれ」と言いたげな顔をしながら言葉を濁した。どうしても視線が泳いでしまうのは、やはり台所をこんな風に荒らしてしまった事に対する引け目がどこかにあるからだろう。
「それで?」
「アッシュも、お前も居ないから……」
「ぅん?」
 モゴモゴと言葉を喉に詰まらせつつ、ユーリは床にぺったりと貼り付ける格好で置いてある自分の膝辺りをしきりに指で弄る。さっき出来た傷はもう癒えて、痕すら残っていない。
「だから、だっ」
「はい?」
 会話の途中だったはずなのに、いきなり経過がすっ飛んで結論とも言えない完結を見せたユーリの怒鳴り声に、彼は素っ頓狂な声で返すしかなかった。いったいなにが「だから」なのか、さっぱり見当がつかない。
 台所で何をしていたのかを聞いていたはずなのに、返ってきたのは「自分やアッシュが居ないから」では、まったく答えになっていない。彼は困ったように顔を顰め、頭をしきりに掻き乱しながらもう一度、ゆっくり台所内を見回した。
 吐息が、ひとつ。それから、
「えぇと……ぼくの勝手な推測を言わせてもらうとね、ユーリ。つまり君は、ぼくもアッシュも誰もいないから自分でコーヒーを煎れようとしたらこうなった、と。しかも自分で作ったコーヒーはあんまり美味しくなかったものだから、ものに当たり散らしてたって、そういう事だと思って構わない?」
 構わないもなにも、ユーリにとって今言われた事はものの見事に図星である。否定しようにも、今否定したら余計に肯定してしまいかねなくて彼は何も言わず、また床の上に視線を這わせた。その言葉以上に雄弁にものを語る彼の仕草を一部始終見守って、彼はまた大仰に息を吐き出した。
「言いたくないのなら別に良いんだけどさ」
 軽く左手を振り、彼は腰を屈めて床の上に置きっぱなしにされていたコーヒーミルを片手で持ち上げた。途中バランスが悪くなり、落とす手前で両手に持ち替えたそれをシンク台に乗せた。
「コーヒーで良いの?」
 ユーリに背を向ける格好になった彼が言い、その言葉が含む意味を理解しかねたユーリは少し茫然としながら彼の背中を見上げた。返事がないことを焦れったく感じたのか、首を右に振りながら振り返り、そのまま軽く曲げて問いかける動作を見せた彼に、ユーリはようやく彼が、コーヒーを煎れようとしている事に気づいた。
 唾を飲み込むと、さっき飲んだインスタントコーヒーの苦さがまだ残っていたらしくつい眉根が寄ってしまう。
「……あぁ、うん」
 小さく頷くと、確認のためにもう一度目を見つめられたのでユーリは改めて今度は大きく、はっきりと伝わるように頷いた。
「じゃぁ、ちょっと待っててね。部屋も片付けなきゃいけないし……豆どこにしまってあったっけ……」
 返事だけを聞いてしまうとあとは自分の世界に戻ってしまったらしい。独り言をぶつぶつと呟きながら彼は頭上の戸棚を開けて、左右を見回しつつ何かを捜している。
「あっ」
 けれど唐突に、ユーリが何かを言おうとしてその勢いだけで顔を上げてしまい、彼は自分でも「あ?」という顔をして振り返った。 
 必然的にすれ違った視線。けれどユーリは自分から呼び込んだはずなのに自分から外してしまって、言おうとしていた言葉も呑み込んだ。
 不自然な沈黙。彼は何も言わず、黙ったままユーリの次の言葉を待っていた。
 おずおずと、ユーリは顔を上げ上目遣いに彼を見る。
「悪い、なんでもない」
 しかし口をついて出た言葉はそんな台詞で、自分でもがっくり来てしまったユーリに反して彼は「ふぅん」と相槌にも似つかない相槌を返すに留める。そしてまたすぐに視線を前方に戻し、棚を探り始めてしまう。
 視線と注意から外されたことにユーリは舌打ちしたくなるような思いを抱えつつ、何故か安堵さえも覚えていた。
 居住まいを正しつつも未だ床の上に直接座り込むという格好のままで居る彼に、ようやく目当てのものを発掘したらしい人物は隻眼を細めながら再び振り返って現在のユーリの状態を軽く笑った。
「向こうで待ってて良いよ。時間掛かると思うし」
 ミルで豆を挽いてからネルを使って煎れるつもりらしい彼の調子に、ユーリはまともな言葉のひとつも返すことが出来ぬまま頷いた。
 立ち上がろうとして、前のめりに身体が一瞬傾ぐ。ずっと座ったままで居たことと、緊張が解けてしまった事が原因らしい。軽い眩暈に似たものを覚え、浮かせた腰がまた床のお世話になってしまう。
「…………」
 重い重いため息を零し、ユーリは前髪が被る額を片手で押さえた。いっそこのまま身体ごと地底の底に沈んでしまえばいいとさえ、頭の中を思考が過ぎる。
「ユーリ」
 中断させたのは、相変わらず背を向けたまま手だけを動かしている男の声。
「明日はずっと、城にいるから」
「出て行け……」
「一緒に出かける?」
「うるさい」
「分かった」
 じゃあ黙るから、リビングで休んでおいで? 愛想を振りまこうともせず、淡々と告げて彼はコーヒー豆を挽き始めた。香ばしい香りが僅かに登り始め、だけれど匂いに思わず眉を顰めてしまったユーリはもう一度膝に力を込めて立ち上がり、フラフラする身体を支えるためにテーブルに手を置いた。
 最後に彼の背中を思い切り睨み付けて、台所からリビングへ繋がる唯一の扉を潜って出ていく。
 ちらりと浮かせた視界の片隅で様子を伺い、ユーリがちゃんとリビングへ向かった事を確かめてから彼は、深く長い息をゆっくりと吐き出した。天井を仰ぎ、ミルのハンドルを回す手に力を込める。
「ここも片付けなきゃね……」
 別の意味の溜息も一緒に零して、彼は黙々と作業を続けた。
 一方のユーリは、言われたとおりに半ば台所を追い出される格好で訪れたリビングのソファにどかっ、と身体を沈めた。
 座る、というよりは倒れ込んだ、という格好だった。肘置きに膝裏を置き、仰向けって丁度手を伸ばした先にあったクッションを抱き上げ、腹に据える。両手を回して抱きしめると、軽い圧迫感が腹部に生まれた。けれど構わず、更に強く力を込めてクッションを抱きしめる。
 同時に固く目も閉じた。
 寝返りを打てば、幅が狭いソファの上から当然足が先にはみ出す。投げ出したままの足を結局はフローリングとソファとの間に出来た空間に浮かせ、彼は瞼の裏に出来上がった闇をただ睨み付ける事に終始した。
 考えても、考えるべき事が思い浮かばない。不必要な事ばかりがまとまり無く次々と浮かんでは消えて行くばかりで、真面目にひとつずつに対応していたら飽きる前に疲れてしまいそうだった。
 ちらっと見上げた時計は間もなく午後四時を通り過ぎてから半刻を過ぎようとしている。いつの間にこんなに時間が経過したのだろうと、さっき台所で見上げたはずの時計の時刻から逆算して考えてしまって、途中でやめた。
 惨めになりそうだったから。
 どれくらいそうしていただろう。動くものの気配を感じ取って薄目を開けると、先程とまったく同じように、目の前に自分を覗き込んでいる隻眼の丹朱があって、驚いてしまう。
「なっ、なんだ!?」
 反射的に怒鳴り、身体を持ち上げて狼狽を隠そうとしたユーリに、最初からそんな反応は予測済みなのか簡単にぶつかりそうだった身体をずらして避け、彼は左手に持っていたマグカップをユーリに差し出した。仄かに湯気を立てているそれを受け取ってしまい、ユーリはソファに斜め座りという体勢のままカップの中を覗き込んだ。
 コーヒーにしては、色がかなり薄い。それに香りも微妙に違っている気がする。
 ひとくち、試しに少しだけ息を吹きかけて表面を冷まし飲んでみる。
「……ぁ」
 疑問は即座に解消した。
「これ、カフェオレ……」
 よくよく色を見ながら考えてみれば、飲まずとも分かったかも知れない答えに自分で苦笑を禁じ得ず、ユーリはカップを持たない方の手で口元を隠した。また、ユーリにカップを渡した彼もまた、自分のカップを持ち直して向かい側のソファに腰を落ち着けさせた。
 ちらっと見えた限りでは、向こうのカップに入っているのはブラックコーヒーのようだった。
「カフェオレが良かったんじゃないの?」
「それは……そうだが」
 まだインスタントの苦さが口の中に残っているユーリは、次も同じように濃いブラックコーヒーを飲む気になれなかった。しかし言えば自分が失敗したことを認めるようだし、第一ミルクがたっぷりと入ったカフェオレはどこか子供じみているような気がして、言えなかった。
 何故分かったのだろう、と両手に持ったマグカップでカフェオレを飲みながらユーリは上目遣いに真向かいの彼を見た。彼は床に落ちていた雑誌を拾い上げ、適当に広げて眺めている最中だった。それから、やはり床の上に落ちていたものを回収したテレビリモコンでもってテレビにスイッチを入れる。
 数回チャンネルを切り替えて、結局ネイチャー番組に落ちついた。静かな音楽が背景に流れている、無駄な音声を省いた画面はどこかの草原を映していた。
「アッシュ、さ」
 唐突に話を振られ、ユーリは呑み込もうとしていたカフェオレを気管に流してしまい咳き込んだ。幸い量も少なく咽せていた時間もさほど長いものではなかったが、心配げな瞳に気づいて大丈夫だ、と無理矢理に作り出した笑顔を相手に向けた。
 安堵はしていなかったが、大丈夫かと追求しても無駄だと悟ったらしい彼は雑誌とカップを一緒にクリスタルのテーブルに揃えて並べた。それから、中途半端に途切れさせた言葉を続ける。
「今日遅くなるから、夕食勝手にしてくれって言われてるんだけど」
 どうする?
 問いかける視線にユーリは眉間に皺を寄せた。
「食べたいものがあるのなら、作るけど」
 もっともアッシュみたいに上手じゃないけどね、と先に断って彼は笑った。調理師免許まで持っているアッシュと並べられるのは、彼としても本意ではないだろうしまさか料理の腕で勝てるとも思っていないのだろう。それに、自分の下手の横好き程度の料理できちんと学んだアッシュよりも美味い、等といわれでもしたら、それこそアッシュに立場がないというもの。
 彼の自嘲気味な笑みを一通り眺め終え、ユーリはカフェオレをひとくち飲んだ。
 コーヒーの香りと、ミルクの円やかさが舌先に踊る。
「カレー……」
「ん?」
 聞き取れなかったらしい彼は、少しだけユーリの方に身を乗り出した。コーヒーカップから立ち上る湯気が揺れる。
「お前だから、どうせ……カレーなんだろう……?」
「嫌だったら違うのにするけど」
「それでいい」
 控えめな彼の提案を一蹴するようなユーリのひとことに、彼は瞠目してしばらく言葉を途切れさせた。
「……なんだ」
 その態度を不機嫌そうに睨み、ユーリはまたカフェオレを啜る。少しだけ冷め掛かっていたそれは、案外喉の通りも良く滑るように彼の心ごと身体を温めてくれた。
 ほぅっ、と吐き出した息は柔らかい。
「いや……なんかユーリがそんなこと言うなんて」
「変だとでも言いたいのか?」
「そういう事じゃないけど」
 悪態をつけば、それに応じた言葉が返される。それは独りで居るとき決して楽しむことが出来ない、時間と空気だ。
 ユーリの睨みに肩を竦めて小さくなり、居心地悪そうに彼はカップからコーヒーを啜った。
「本当にソレで良いの?」
「くどい」
 確認を求めてくる彼の問いかけを一蹴し、ユーリは一気に飲み干したカフェオレのカップをテーブルに置いた。コツっ、とテーブルのガラス面に底が擦れて音がする。
 前を向くと、彼はまだコーヒーを飲んでいた。けれどユーリの視線に気づいて「なに?」という顔をする。
「いや……」
 言おうかどうか、彼は一瞬悩んだ。けれど不思議そうな目を向けられたままで居るのも気にくわないので、コホンとひとつ、わざとらしく咳払いなどをしてしまった。益々彼が怪訝な表情を作る前で、カップに残っていた自分の唇の痕を指でなぞりながら小さく呟く。
「スマイル」
「はい」
 名前を呼ばれて返事をするのは当然のこと。だが今回は、それが妙に滑稽に思えた。
「あ、そうだ」
 呼ばれて、思い出したことがあったらしいスマイルが片手で膝を打ってカップを置いた。やはりテーブルのカップの底が刷れる音が響く。
「タダイマ」
 にっこりと微笑んで、彼は言った。
 なんの躊躇も迷いもなく、実にあっさりと簡単に、当たり前の言葉として彼はユーリに笑いかけた。
 唖然としてしまって、ユーリは言葉を失う。
「ユーリ?」
 ぽかんと間抜けなくらいに口を開けて、だのに黙っているユーリを訝み、彼――スマイルは首を傾げた。はっと我に返ったユーリが、慌てて取り繕うようになにかを言おうと口を開閉させた。
 けれど咄嗟には言葉がでてこない。
 そんな彼を正面から眺めながら、スマイルは肘をついて頬杖を付き、微笑みかける。
「まだ言ってなかったよね。ただいま、ユーリ」
「あ、あぁ……」
 聞こえなかったのかも知れないと誤解したスマイルが言い直し、ユーリはようやく冷静さを取り戻した顔になって頷く。
「おかえり」
 言葉はするっと、さっきまで散々躊躇させていたはずの言葉にも関わらず、簡単に飛び出していた。
 またコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしていたスマイルが、驚きつつも嬉しそうな顔をして笑みを浮かべた。
「おかえり、スマイル」
 今度こそちゃんと顔を向き合わせながら、ユーリもまた、微笑んだ。