我が儘な魂

 夕暮れ時のミューズ市庁舎。
 たくさんの資料を挟んだファイルを両手に抱え、クラウスは扉を苦労して押し開けた。かつてミューズ市長として都市同盟を率いていた女傑が働いていたその部屋は、今は数年前に新しく成立したラストエデン国のリーダーの執務室に役割を変えていた。
 と言っても部屋の内装も何も変わっておらず、ただ部屋の主が変わっただけ、の気もするが。
 それほど広くなく、過度な装飾も何もない質素に見える執務室に入ったクラウスは、しかしそこにいるはずの人物が見当たらないことに首を傾げた。
「また、ですか……」
 呆れとも諦めとも取れるため息をつき、彼は主のいない幅広の机に持ってきた資料を積み上げた。几帳面なリーダーによって綺麗に片付けられた机は、一瞬にして書類に埋め尽くされる。この膨大な書面のすべてに目を通し、間違いがあれば訂正させ可能な限り意見を取り入れる。慣れた政務官でさえも音を上げたくなるような大変な仕事を、この国のリーダーは文句のひとつもこぼすことなく黙々とこなしていた。
 ただ少し、難をいうならば……今日のように夕暮れ時、誰にも断らず行方をくらます癖がある、というぐらいか。
「あそこでしょうね」
 重い資料から解放され、疲れた肩をほぐしながらクラウスは呟く。
 こんな風なあざやかすぎるくらいの夕暮れの度、ラストエデン国のリーダーはミューズの城門前にたったひとり佇むのだ。戻ってくるはずのない、かけがえのない友の帰りを待つために……。
 本人もよく分かっているはずだ。彼が待つその友は、彼自身の手でこの世からいなくなってしまったのだから。
 それでも、彼は待ち続けている。あれからもう何年も経ち、戦争の記憶さえ人々の中ではあやふやになり始めている今も。
「セレン殿」
 長い影を引きずり、家路に急ぐ子供達の間を抜け、クラウスは開かれた城門を出て案の定そこにいた幼い顔立ちのままのリーダーの名前を呼んだ。
「クラウス、か」
 後ろで手を組み、壁にもたれていたセレンはすぐに彼に気付き、顔を上げた。短い階段を下りてくるクラウスを待ち、壁から離れる。泣いているようにも見えた表情は実際は穏やかで、クラウスをほっとさせた。
「背、伸びたね」
 横に並ぶと、その差はよく分かる。
「ええ、まあ……そうですね」
 時間は確実にクラウスの中で流れている。それがごく一般のたまに会う友人やらに言われたのならばクラウスも素直に認められただろう。しかし、彼にそう呟いたのは成長、そして死という概念から解放された、セレンだった。
 あの頃から何も変わっていないセレン。幼い顔立ちが立派な青年の表情になることはもう無い。トウタにも身長を抜かれてしまった時にはさすがに彼も苦笑していたが、その胸の内はどれほど複雑な思いでいっぱいだっただろう。
「戻りましょう。シュウ殿も心配していますよ、きっと」
「……どうだろうね」
 促し、セレンを伴ってクラウスは歩き出した。
「迎えに来てくれなくても、日が暮れたら戻るつもりだったんだけど」
「城門前で眠りこけていたのは誰でしたか?」
「うっ……」
 だいぶ前、まだこの国のリーダーになってから日が浅かった頃。セレンがいなくなったと大騒ぎになったことがある。やはり彼は城門前にいたのだが、その時は誰もそのことを知らなくて
 てんで方向違いな場所を皆探し回っていた。そして夜、日もとっぷり暮れた頃、城門前でのんきに寝ているセレンが発見されたのだ。
「だって、あれは……」
 天候もよく、静かで気持ちが良くてついうとうとしていたらかなり時間が経っていたと、それがセレンの言い訳だった。勿論シュウにこっぴどく叱られ、市庁舎からしばらく出して貰えなくなってしまった。
「……ねえ、クラウス」
 市庁舎前まで来て、セレンが急に立ち止まった。数歩先を歩いていたクラウスが、呼ばれて振り返り、戻ってくる。
「手、見せて」
「手ですか?」
 突然何を言い出すかと思えば……と訝しりつつも、言われた通りにクラウスは手を差し出した。
「何をするんですか?」
 差し出された彼の右手の平をまじまじと見つめるセレン。だが一通り眺め終わると、「ごめんね」とだけ言い残し、訳が分からないクラウスを置いてひとりさっさと市庁舎に入っていってしまった。
「セレン殿……?」
 本当に見るだけだった。この手に何かあったのか?と自分の右手とセレンの去っていった市庁舎の入口を交互に見つめ、クラウスは首をひねることしきりだった。
 だが考えていても分からない。セレンは何も言わなかったのだし、問題とすべきことが無かったのだろうと勝手に判断して、クラウスは市庁舎に入った。
 役所の仕事は終了している時間で、申請に訪れる市民の姿ももう見かけられない。明かりも落とされた薄暗い廊下を歩いていると、シュウに会った。
「クラウス」
 呼び止められ、彼はシュウのそばまで進む。
「セレン殿は何か新しい遊びでも考案されたのか?」
「はい?」
 突然何を言い出すのか、とクラウスは怪訝な顔をする。しかしシュウは至って真剣な顔をしていて、笑い飛ばせるような雰囲気ではなかった。
「シュウ殿、いったい……」
「実はな、つい今さっきそこでセレン殿に会ったのだが……」
 彼曰く、クラウスと同じ事をされたのだという。つまり、突然理由を言わず「手を見せてくれ」とだけ頼んで、出された右手の平をじっくり眺めた後「ありがとう」とだけ言い残して去っていったらしい。
「遊び……ですか」
「でなければ、なんだ?」
「私に聞かれても……」
 薄暗い資料室の前で首を傾げる二人の姿は、かなり奇妙だった。
 次の日も、セレンの奇行は続いた。
 市庁舎に勤めている人間に片っ端から「手をみせてくれ」と頼んでいるらしく、あれは一体何なのかとシュウに訪ねてくる者が後を絶たなかった。しかしシュウだって分からないし、出来るなら教えてもらいたかった。が、セレンに訪ねても笑って誤魔化されてしまい、彼が何をしたいのかは分からないままだった。
「何やってるの」
 その答えを教えてくれたのは、意外な人物だった。
「ルック、来ていたんですか」
 クラウスが驚いた顔で言う。
「来ちゃいけない?」
「いえ、そんなわけでは……」
 嫌味は相変わらずで、セレンと同じく昔と大して変化のないルックにクラウスは複雑な笑みを浮かべた。
「ところで、なんだか市庁舎が騒がしいけど……何かあった?」
 仕事をせずに互いの手を比べあい、ああでもないこうでもないと繰り返している市庁舎の職員を指さしてルックが訪ねる。
「それですか。実は……」
 クラウスに説明を一通り受け、しばらく考え込んだ素振りを見せたルックは、ややして彼に手を見せるように言った。黙って差し出されたクラウスの手のひらをゆっくりと眺め、そして一本の皺を指さした。
「これじゃない?」
 ルックが示したのは俗に”生命線”と呼ばれるものだった。
「クラウスって、意外に短いね。早死にするんじゃない?」
「…………」
 ひどいことをさらりと言われ、しかも笑われてしまい、クラウスは撃沈された。

 夕方。
 今日はちゃんと執務室で仕事をさぼっていなっかたセレンの元に、やや顔色の優れないクラウスが訪ねてきた。
 あれから散々ルックに手相占いをされ、彼がいかに受難の相にあふれているかを嬉々と説明されたためだ。おかげでクラウスはその日だけで体重が3キロも減ったとか減らなかったとか。
「大丈夫?クラウス……顔色悪いよ」
 資料の山に悪戦苦闘していたセレンが、その山から顔を出して言った。
「いえ、平気です。それより……」
 ふらふらとした足取りでセレンに近づく。そしてばん、と机の端に両手をつくと、一呼吸置き、
「セレン殿!」
「はい!」
 間近で大声で名前を呼ばれ、怒られるのかと反射的にセレンは背筋を伸ばしてこれまたクラウスに負けない位の音量で返事をした。しかし、セレンに突きつけられたのはミスのあった書類でも怒鳴り声でもなく……クラウスの右手だった。
「あの、クラウス……?」
 なんだろう、とぽかんとするセレンに、顔を上げたクラウスが
「これで良いですか?」
「え?」
「ですから、これで良いのですね!?」
 一体何が……と言いかけて、セレンはようやく気がついた。
 クラウスの手に、太く濃いマジックの線が引かれていたのだ。
「生命線……」
 ぽつり、セレンが呟いた。
「もしかして、自分で書いたの?」
こみ上げてくる笑いをこらえ、セレンが尋ねる。クラウスは耳まで真っ赤になり、小さく頷いた。
 「……馬鹿だなあ、クラウス」
 ついにこらえきれず、セレンが笑い出す。腹を押さえ、目尻に浮かんだ涙を指ですくい上げる。クラウスが必死に、「笑わないで下さいよ」と訴えかけてくるのがまたおかしくて、書類の山が散らばるのも気にせず、机の上で抱腹絶倒。
「セレン殿!」
 セレンのためにやったのに、こんなに笑われては割に合わないとクラウスが怒鳴る。
「あははっ。ごめん、でもやっぱり…………おかし、い……」
 顔を片手で覆い、椅子に戻ったセレンはまだ肩をふるわせている。
「……ありがとう……」
 だから、その言葉がクラウスに聞こえたかどうかは、分からなかった。
 もっともそれは、執務室の扉を開けたシュウが不思議そうな顔をしたため、またセレンが笑い声を立てたせいだったのだが。