風の訪れ

 時代は変革を望み、嵐は平穏を望む人々を容赦なく呑み込んでゆく
 争いある火種はすでに高くまで昇り、あとは全てを捧げる哀れなる羊を待つばかり
 選ばれし事を幸運とは言わぬ それは限りなく不幸である
 汝はその魂の欠片までもを、時の求めし未来のために奪われるのだ
 これが最後の賭だった。
 もしこれが失敗すれば、ハイランドに抵抗する人々の想いは潰える。都市同盟の大地は血に染め上げられ、残るものは絶望の涙だけになるだろう。
「頑張ろうね、セス」
 隣で義姉が明るい声で言い、背中をばしばしと叩いてきた。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。お姉ちゃんがついてるんだから、ね? なんとかなるよ、きっと」
 かつてノースウィンドゥと言われ、デュナン湖の畔に建つ城から船に乗り、攻め込もうとしている敵軍の背後を突く。それがこの戦いでセレンが求められた行動だった。
 船で移動する事から、連れていける仲間の数は必然的に少なくなる。もし反撃にでもあえば、たちどころに包囲されて殲滅されてしまうだろう。後方からの援助もない、独立した一軍を任されたことは、危険もそれだけ大きく、また成功したときの効果も莫大なものとなる。
 圧倒的な数の不利をはねのけるには、これくらいの奇策をもってしか対応できないのだと、シュウは言った。そしてこの役目はセレンにしか任せられないのだとも。
「…………」
 ラダトで、シュウはセレンの右手の紋章を見て驚いていた。輝く盾の紋章と言い、今は行方不明の親友の持つ黒き刃の紋章とは対の存在である、27の真の紋章のひとつ。
「……セレン……」
 ナナミの声に反応せず、黙ったままグローブをはめた右腕を見つめる義弟に、ナナミは不安の色を隠せなくなる。
 キャロを逃げ出してから、ずっとただ逃げ回るばかりだった。トトの町を焼かれ、ピリカひとりを助け出すことしか出来ず、ミューズではアナベルを失い、ジョウイさえも見失った。ただ逃げることしかできなかった。事態の深刻さや、緊急性に全く気を止めることがなく、その結果戦いは避けられないものとなった。
「……逃げる?」
「え?」
 今セレンが何を考えているか、ナナミには分からない。ジョウイが遠くへ行ってしまったときのように、セレンもいつかナナミの手の届かないところに行ってしまうのではないか。それだけが気がかりで、彼女はつい、そんなことを口にしてしまった。
「ナナミ?」
「……あ、うそうそ。ちがうの、ごめん。何でもないよ」
 よく聞こえなかったと、もう一度言ってくれるように頼んでくるセレンに慌てて首を振り、だが言葉とは裏腹に彼女の表情は暗く沈んでいく。
「どうして……セレンなのかな」
 独白だったが、今度はちゃんとセレンにも聞こえた。湖の風が穏やかに、二人の心をかき鳴らす。陸地が近づいてきていた。
 遠くから戦いの怒号が聞こえてくる。湖の上までは流される血の臭いは届かないが、もうじき自分たちもあの中に放り込まれるのだと二人に自覚させるには十分すぎるものだった。
「ビクトールさんや、フリックさんの方がずっと強くて、頼りになるのに。……あ、別にセレンが頼りないとか弱っちいとかって訳じゃないからね」
「知ってるよ」
 大急ぎで否定したナナミに、セレンは苦笑する。言うことに悪気がないことは、つきあいが長いからよく分かっている。
「ナナミはボクが守るから。心配しないで」
「それ、私の台詞だよ」
 セレンはすぐにへたばっちゃうから、お姉ちゃんの後ろに隠れてなさい、とナナミは偉そうに胸を張って言い切り、周囲の兵士達からも和やかな笑顔が生まれる。二人はこれから戦いの場に赴くことの意味の深さを、知らなかった。
 ビクトールの砦では、かばってくれる人達がいた。彼らは後方で援護するだけでよく、その時はまだジョウイもいてくれた。大丈夫だと、心強かった。
 しかし今は違う。共に戦う兵士の数は、砦での負け戦の時の比ではなくなったが、セレンは先頭に立って戦うことを強いられた。彼が兵を導かねばならない。セレンが敵に背を向けることは許されない。たとえどれほどに危険で、命が危うくても。
 危なくなったらすぐに逃げてこいなどと、ビクトールは言っていたが、そんなことが出来る立場にない事は、彼だって本当は分かっていたはずだ。まだ16歳の少年に全てを託さなければいけないことに、彼は彼なりに罪悪感を感じていたのかもしれない。時々ビクトールやフリック、そしてアップルまでもが、セレンを見ながら別の誰かを思い浮かべているような気がしていた。問いただしても三人は口を濁すだけで、時間もなかったし聞き出すことが出来なかったけれど。
 船が陸に接岸し、あわただしく兵士達は下船していく。かなり送れて、セレンが漁船を下りようとしたとき。ナナミが止まったままなのに気がついた。
「ナナミ?」
 振り返り、いつも元気印の義姉の名前を呼ぶ。
「……セレン……」
 顔を上げた彼女は、思い詰めた表情で義弟を見つめる。
「ね。やっぱり……止めにしない? セレンが戦う事なんて、ないよ」
 他の船はすでに全員下船し、役目を終えて港へ帰っていく。兵士達はあらかじめ決まられていた隊に別れ、陣を組み、セレンの合図を待っている。
「ナナミ……」
「だって、関係ないじゃない。確かにハイランドは悪いことをしていて、それは許せないって思う。でも、だからってセスが苦しい思いまでして戦わなくちゃいけない理由になんか、ならないよ」
「…………」
 戦争の声はすぐ近くに響いている。油断したソロン・ジーを倒せば、頭を失った敵は烏合の衆と化すだろう。ここで王国軍をくい止めることには大きな意味がある。時間が稼げる。ミューズ陥落で覇気の薄れた都市同盟内にも、再び剣を取り、戦おうとする勢いが戻ってくるに違いない。でもそれは、たったひとりの小さな存在であるセレンや、ナナミには何にも関係のないことなのだ。
「セレンさん……」
 隊長を任せられている三十代後半の兵士が、いつまでも船を下りてこないセレンを呼びに戻ってきた。
「ナナミの気持ち……凄く、嬉しい。でも、ボクは……」
 今戦わなければ生き残れない。そう思って船に乗った。でも実際にここについてしまったとき思ったのは、王国軍が背を向けているこの場所からなら、上手く逃げられるかもしれない。そんな弱気な考えだった。
 逃げたところで、危険が全部去るわけではない。いつ、どこでだって人は命の危機を感じている。終わらないのだ、戦いは。
「……もう、逃げたくない」
 信じてくれたみんなを守りたい。ここで逃げたら、もう誰にも顔を向けられない、ただの弱虫で終わってしまう。
 ナナミを、守りたい。ずっと一緒にいてくれる、心の底から心配してくれる、優しくて温かいナナミを。そしてジョウイに、会いたい。逃げ出した弱虫としてではなくて、ちゃんと前を向いて、どんな辛いことにだって乗り越えられる、強い人間になって。君を……探したい。
「ピリカちゃんのためにも、ここまで僕たちを守ってくれたたくさんの人のためにも。逃げたくないよ、ボクは。怖いけど……不安だけどでも、ボクは闘う。ナナミを守りたいから」
「……だから、それはお姉ちゃんの台詞なんだってば」
 セレンを守るのは私なの、とずずいっと身を乗り出してきて、船に上がってきた隊長さんに変な顔をされてしまった。
「……あの、よろしいでしょうか?」
 二人が義姉弟だということは知っているだろうが、ここだけを切り取ってみたら、ずいぶんと仲がいいように見えただろう。
「あ、……はい。すいません」
 なんだか照れているみたいな顔で尋ねられ、顔を見合わせたセレンとナナミはようやく妙な誤解を受けてしまったのだと気付く。
「よーっし、頑張るわよー!」
 照れ隠しで大声を上げ、セレンを突き飛ばしたナナミは勢いよく駆けだした。着地の際に勢い余って下にいた兵士を何人か巻き込んだようだが、湿地だったこともあって誰も怪我をしなかった。
「よし、行こう!」
 セレンが高らかに宣言し、少年に奇跡を求めた戦いはようやく今始まった。

「後方を取られただと!?」
 ソロン・ジーの隊に衝撃が走り、軍団長は己の策の甘さを思い知らされることとなった。
「ええい、何をしている! 前衛に出している隊を引き戻させろ。早くするんだ!」
 将の動揺はすぐに軍全体に感染する。まとまりを欠き始めた王国軍は、すぐにまた、新たな衝撃に大きく揺れた。すなわち、サウスウィンドゥで徴集した旧都市同盟軍が寝返ったのだ。これにより軍の総数はいまだ王国軍が優位であったものの、勢いは完全に都市同盟軍が勝った。しかもソロン・ジーは挟み撃ちにあって逃げ道をふさがれたに等しく、また前衛の隊を戻そうにも、反旗を翻したサウスウィンドゥ軍が進路を遮っているため、上手くいかない。
 かろうじてソロンの側に隊を置いていたクルガンだけが、彼を守ろうと戻ってきた。
 セレンの部隊に、クルガンの隊が空へ向けて放った矢が降り注ぐ。遠距離攻撃は、歩兵で組まれたセレン達には脅威でしかなかった。反撃が出来ないからだ。
「いったん、後退して下さい!」
 盾を頭上に掲げても、勢いのある矢は簡単に木製の盾を貫通する。防ぎきれないと判断したセレンは、声を振り絞って全軍に後退を指示した。
 ──あとちょっとだったのに……。
 ソロン・ジーの部隊を倒さない限り、奴らは撤退しないだろう。それでは駄目なのだ。しかしこのまま無闇に突っ込んでいって、隊を全滅させるわけにもいかない。なんとかしてソロン・ジー本隊に接近する手だてはないものか。必死になって敵を駆逐しながら考えるが、兵法を学んだわけでないセレンに、すぐに妙案が浮かぶはずがなかった。
「風向きが変わってくれれば……」
 湖から吹く風は、今はセレン達には向かい風だ。風はクルガンの放つ矢を後押しし、勢いを与えている。これが逆になれば矢の届く距離は一気に短くなり、セレンはソロン・ジーに接近できる。
 しかし風は自然の産物。いかに輝く盾の紋章といえども、風向きまでを変えることは出来ない。
 打つ手なし。圧倒的に兵量で勝っているハイランド軍は、戦いが長引けば現在の混乱も収まり、反撃に移るだろう。そうなったらもう同盟軍に勝ち目はない。じりじりと体力を削られてつぶされるのを待つだけ。
「どうすれば……」
 勝たなくてはいけない、この戦いだけは。
 負けるわけにはいかない、もう逃げ出さないためにも。
 自分に胸を張れるように、自分を誇れるように。強くなったのは大切な人を守るためのはずなのに!
「セス!」
 ナナミの声が、はじけた。
 悔しくて、つい戦いから意識を飛ばしていたセレンの頭上に、風を受けた矢がうねりをあげて迫っていた。
「危ない!」
 セレンの体にナナミの体が覆い被さる。強くセレンを抱きしめて、ナナミは祈るように固く眼を閉じた。
「ナナミ!?」
『セレンはすぐにへたばっちゃうから、お姉ちゃんの後ろに隠れてなさい』
 船の上で言っていた言葉が、鮮やかにセレンの脳裏によみがえった。
 ちがう。こんな事をされたかったわけじゃない。一緒に生きるんだ。一緒に生き残るために、セレンは戦場に立つ道を選んだのに……!
 ナナミの心音が聞こえる。暖かい。その暖かさが失われるのは、セレンにとって地獄にも等しかった。
 風が……変わったのはそんなときだった。
 頬に受けていた風の感覚が変化したことに、セレンは閉ざしていた眼を開く。いつまでも訪れない衝撃は、追い風が向かい風に突然変化したことで矢が空中で失速し、彼らまで届かなかったためだった。
「なぜ……」
 湖の風がこんなにも狙ったように変わるはずがない。何か作為的なものを感じたのはセレンだけではなかったが、クルガンも原因を掴むことは出来なかった。
「兵を密集させろ! 来るぞ!」
 風向きが変わり、兵の覇気も都市同盟軍に追い風となった。前衛部隊からの連絡も途絶えがちになり、戦いの行方は見え始めていた。
「ここまでですね」
 すぐ近くにまで同盟軍が迫っているのが見えて、クルガンは嘆息した。彼の部隊は弓隊で、接近戦になると弱さが露呈する。ソロン・ジーがこの状況で冷静さを取り戻すとは思えず、なるべく被害を少なくできるように隊を組み直し、撤退経路の確保に向かわせた。
「風を味方につけたか……」
 クルガンが頭上を見上げ、忌々しげに呟いた。

「珍しいですね。あなたが自分から戦いに介入するなんて……」
 レックナートの静かな声に、傍らに立つ緑色をまとう少年は「違いますよ」と肩をすくめてみせた。
「ここであいつに死なれたら、困るのでしょう? せっかく時代が選んだ人間をむざむざ死なせては、レックナート様に申し訳ありませんから」
「……またそのようなことを言って……」
 口元に手をやった女性は、しかし言葉とは裏腹に微笑みを浮かべている。
「行くのでしょう? 天に魅入られた哀れな子羊の許に」
「ルック」
 少しだけ険しい声でレックナートは咎めたが、それを否定することは彼女には出来なかった。彼女もまた、分かってしまっている。ルックよりもずっと。この戦いがいかに苦しく悲しいものになるかということを。
「彼を助けてあげるのですよ」
「もう助けましたよ」
 皮肉気に言い、ルックは真下を見下ろした。そこに大地はなく、レックナートが広げた次元の界が扉を開けて、ノースウィンドゥの城と広がる湖と、戦いに勝利し喜び勇む人々の姿が映し出されている。
 ひとりの少年が大きく現れる。彼は空を見上げていた。
「セーッス! 早くしないと置いてっちゃうわよ!」
 城へ戻る兵の列からはみ出し、白い雲の漂う空を不思議そうに見上げていたセレンは、ナナミに大きく手を振られて慌てて走り出した。
 ──あの風……。
 セレンを守るように上空を消えることなく駆けめぐっていた風。
 ──いったい誰が……?
 セレンは右手をグローブの上から握りしめて、もう一度だけ空を見上げた。もうそこに風はなかった。