Prepare

 ぼんやりと見上げた先には、無表情な天井。
 無機質な部屋は、少しだけ熱が籠もっている。窓を閉め切っているから、換気も悪い。けれどきっと、今窓を開けて外気を取り込もうものなら大目玉を喰らうことは明らかであり、彼は諦めざるを得なかった。
 けほっ、と咳き込む。肩までしっかりと被っている毛布から左手だけを取りだし、彼は軽く自分の喉を押さえた。
 ざりざりした感覚が皮膚の内側に溜まっている、外から触れたくらいでは取り除けそうにない。
 退屈だな、と呟く。しかし声は掠れ、きちんとした発音にならずただひゅーひゅーと空気がホースから漏れる音になっただけに終わる。
 まさか自分が風邪を引いてダウンするとは思っても見なかったことで、その意外すぎる結果に一番驚いたのは、仲間達ではなくこの自分自身だろう。幸い熱は無かったが、喉が荒れて声が出にくい。非常に。
 喋ろうとしたら喉が詰まって、声が出ない。吸い込む空気が冷たく、痛い。
 一応安静にしておけば大丈夫だろう、と自己判断でこうして大人しくベッドに横になっているのだけれども。
 する事がない事がここまで苦痛だったとは、予想外。
 つい、手持ち無沙汰ならぬ足持ち無沙汰で、毛布の下の両足をぱたぱたと上下させてしまう。柔らかな肌触りの毛布が波立ち、そして埃が舞い上がる。
 けほっ。
 また咳き込んだ。
 自業自得、といえばそこまでだがかなり、辛い。結果が見えていた事のはずなのに、結局やってしまうこの退屈さは、充分彼を殺せそうだった。
「ひまー」
 なるべく喉にダメージが行かないように工夫させ、呟く。喉にやっていた左手は、上方へ投げ出され枕の端っこを引っ張っていた。
 目を開いていても、見えるのは単調な天井ばかり。テレビを見ようにも、寝ころんだままでは変な姿勢で身体に負担をかけてしまう。それに、一度やろうとして雷を喰らった時に、お仕置きだ、と言ってリモコンは取り上げられてしまっている。
 だったらせめて、ラジオでも流していってくれれば良かったのに、と今はこの部屋にいないリモコンを持ち去った人物の顔を思い浮かべて頬を膨らませた。
 安静にしておくことが一番だと言うことは解っている。しかし、こうも暇を持て余すのも、どうかと思う。腐ってしまいそうだ、と彼は天井をぼんやりと眺めた。
 しかしそれにもじきに飽きてしまう。
 せめて作詞か作曲活動でも出来れば、まだ救いはあったのだろうけれども。現在押して迫るような仕事は何もない状態。ただ唯一、ソロ活動も行っているバンドメンバーのうちの、ドラムス担当のはずの約一匹だけは、大忙し状態であるが。
 あぁ、確か今日の夜放送の生番組に出演なんだったっけ。熱のためかどうも朧になってしまいそうになる意識の片隅でそんなことを思う。彼の出番までに、果たして自分はテレビのリモコンを奪回できるだろうか?
 毛布にもそもそと潜り込みながら彼は素早く、とも言えぬスピードで計算してみた。
 ……無理かもしれない。
 ビデオの予約でもしておくか。幸か不幸か、ビデオのリモコンまでは取り上げられていないので、タイマー予約くらいは出来るだろう。
 毛布の切れ目から壁に引っかけられている丸時計を見上げた。昼は過ぎているが、夕方にはまだ早い時間だ。昼食は結局、取り損ねた。
 朝食の席で具合の悪いことが指摘され、ベッドに押し込まれたのが午前十時過ぎ。その後、彼がベッドで大人しくなるのを待ってアッシュは仕事に出かけていった。
 つまり、今現在、この城に居るのはベッドに貼り付け状態の彼と、城の本来の持ち主であるユーリだけだ。
「お腹空いた……」
 ぽつりと、本音が漏れた。
 時計を見上げてしまった所為もあるだろう、時間を認識した途端に腹の虫が急激に機嫌を損ね始めてしまった。忘れたままで居れば良かったのに、変に思い出してしまったものだから中途半端な時間帯であるのに、ぐぅ、と腹が鳴った。
 苛々する。
 退屈は嫌い、何もしない生活なんて想像さえしたこともない。
 有り余る時間、今日のような日があっても可笑しくないはずの、ただ無益なまでに長い永い命。それなのに、たった一日――否、半日でしかない余暇が許せない。
 眠ってしまえばまた話は変わるのだろうけれど、空腹を思い出してしまった為にそう易々と意識を眠りの床に横たえられそうにもなかった。
 あぁ、どうしよう。
 このままだと本当に退屈で灰色になってしまいそうだ。あり得ないはずの事にまで頭が回り、余計なことをどんどん考えついてしまう彼は、いい加減うんざりしてきて、
「もう、いい」
 投げやり的に言葉を吐き出し、頭の先まで毛布を被った。
 視界を強制的に闇に閉ざしてしまう。放っておけば、そのうち空腹も消えて眠れるだろう。そう判断したためだ。
 しかし。
「…………」
 自分が静かになれば、その分周囲の音が嫌なくらいに目立ち始めてしまう。
 時計の秒針。天井で淡く輝く照明の、フィラメントが焼けこげていく音。窓を叩く外で荒れ狂う風の音色。その他、諸々。
 世の中には音が満ちあふれている、普段は意識していないから忘れてしまっているだけだが、自然界だけでも充分騒々しいのだ。
 溜息しか出ない。

 ……ぱりーん……

 ふと、どこかで何かが割れる音がした。それは、彼の記憶が正しければ、食器が床にでも落ちて割れる音に似ていた。
 ぱりーん、ばりばりっ、どんがらがっしゃん。
「…………」
 最初は、無視できた。どこかで風でも吹いて、飾ってある花瓶でも落ちたのかと思えば(それでも滅多にあることではないのだろうが)それで済んだ。
 しかし、音は断続的に途絶えることなく、続く。
 しかも徐々に、音が不気味なくらいに巨大になっていっている気がする。
 冷や汗が、ベッドの上で横になっている彼の背中を流れていった。
 握りしめている毛布の端が、しわくちゃになってしまっている。彼の眉間の皺もまた、随分と深い。
 頭が痛くなりそうだった。
 思わず寝返りを打ち、左の耳を枕に押しつけた。しかし右の耳が上を向いてしまうので、音は消えることなく彼に吸収されて脳裏に響く。
 もはや、気のせい、というレベルでは収まりそうにない。現実にこの音は何処かから響いてきているのだ。
 彼は怠い体にむち打って、がばっと身を起こした。膝を蹴り上げ、毛布を弾き飛ばす。夜着代わりのシャツとズボン姿のまま、靴ではなくスリッパに素足を突っ込みベッドから飛び降りた。
 しかし、すっかり乱れてしまったベッドに手を戻して自分で蹴り飛ばし落ちそうになっている毛布を引っ張り、次に戻ってきたとき直ぐに眠れるように整えるという、妙に義理堅く律儀なところは、忘れておらず。
 急に立ち上がったものだから貧血を起こしかけたのも、無理に遠くへ押しやって。
 彼はこめかみに指を置き、音の発生源を探った。
 この部屋の中では当然ない。自分以外の誰も居ない部屋で騒音がしたら、それはポルターガイストに他ならない。だがそんな超常現象が起きた様子はないし、起こる気配も感じられない。そもそも人外の存在である彼が、幽霊などというものを怖れるはずがないだろう。
 耳を澄ませば、静かだと感じていても実に雑多な音が世界に満ちていることが思い起こされた。その中でも、特別異彩を放つ不協和音、陶器が砕ける音と、あとはなにか良く解らないけれどもどことなく不気味な音の不連続。
 階下、からだ。
 彼はスリッパの底を床に擦らせながら歩き出した。ともかく音の発生源を探らなければならない、そして音を遮断させなければ。
 おちおちゆっくり眠ることも難しい。
 重厚な扉を押し開け部屋を出て、廊下に姿を晒す。音は、断続的に今も聞こえてくる。扉一枚を抜けただけでも随分と、音ははっきり耳に届くようになっていた。
 だから音は、城内から響いていることになる。吹き抜けになっている回廊の手摺りに手をやって身を乗り出し下を伺うが、そこに人の気配はなかった。そのかわり、音がどこから響いてきているのかは大体、目測がついた。
 玄関ホールを抜けた真正面、リビングへの扉。開け放たれたそこの奧には食堂と、台所がある。
 騒々しいばかりの正体不明な音は、どうもその辺りから聞こえてくるらしかった。反対側の入り口方面からは、何も聞こえてこないから。
「……アッシュ、じゃないよねぇ」
 彼は今仕事の打ち合わせとリハーサル中のはずだ。では、いったい誰が。
 答えは、ひとつきりしか思い浮かばなかった。けれど、まさか、という思いの方が先に立つ。
 何故なら彼が今想像した人物は、料理どころか包丁さえまともに握れないはずだから。
 彼はゆっくりと慎重に階段を下り始めた。手摺りに右手を置き、一段一段確実に降りていく。そして天井も高いホールに到達したとき、一際巨大な音が彼の鼓膜を激しく波立たせた。
 どがらがっしゃーん!!
 ……いったい、何を落として砕いたのか。
 想像するのも恐ろしい音に反射的に肩を窄めて首を引っ込め、膝まで折り曲げて姿勢を低くしてしまった彼だったが、幸いな事に轟音は城内にまで影響をもたらさなかったらしい。ただ、見上げた先にあった豪奢なシャンデリアが左右に大きく揺れていたのだけが、妙に印象的。
 音が通り過ぎ、反響も収まってから彼は膝を伸ばしまた歩き出した。階段の手すりから離れ、リビングへ通じる扉を潜る。そこをスルーパス、食堂をも素通りして、ただ向かう先は。
 台所。
 普段なら、アッシュの城。
 けれど、今は。
「……………………」
 お見事、と拍手でももらえそうなくらいに、台所は悲惨な状態に陥っていた。
 さっきの轟音は、電子レンジが破壊された音だったらしい。黒い煙を薄く吐き出して、扉が半開きのまま放置されていた。
 よくぞ火を噴かなかったものだ、と扉口に立った彼は思った。
「ユーリ……」
 しかも、その電子レンジ前では少し黒く煤けている頬をまったく気にした様子なく、忙しそうになにやら手鍋と格闘している人が。
 あぁ、やっぱり。
 危惧は当たっていたらしい、ユーリの姿をそこに認めた途端彼にはどっと疲れが押し寄せて来た。
「スマイル? 貴様、あれほどベッドで大人しくしていろと!」
 名前を呼ばれて初めて気づいたらしい、扉口の存在にユーリは慌てて胸に抱き込んでいた手鍋を自身の背後に隠した。そして誤魔化すようにいつもより大きめの声で怒鳴る。
「……五月蠅かったから、なにしてるのかな、って」
 実際天井を揺らすほどの轟音が連続していたのだ、気にしない方が変と言うもの。もっとも、音の発生源にずっといたユーリがその事実に気づいていたかどうかは、激しく不明。この様子では、どうやら気づいていなかったようだ。
 喋る度に喉がひりひりとした痛みと熱を訴えてくる。その上に四半日近くベッドに寝転がっていた事で怠さを覚えてしまっている身体に、声の調子も今ひとつ。彼のトレードマークであった笑顔でさえ、今の彼からは消えてしまっていた。
 むっ、としてユーリは手鍋をテーブルに置き、ツカツカと戸口に立っているスマイルに歩み寄った。この角度と距離では手鍋の中が何であるのか、まるで見えない。内側の縁近くにこびり付いている物体は、失敗作なのか、焦げたように真っ黒だったが。
 まさかアレは食べ物ではあるまいな。一抹の不安を覚えているところに、ユーリの両手が伸びてきた。
 そのまま、台所から押し出される。
「……ユーリ?」
「病人は大人しく、寝ていろ!」
 普段ならば絶対に力負けしないだろうに、今は抵抗力も失せてしまっているのか、スマイルは存外に呆気なくユーリによって部屋を追い出されてしまった。バランスを崩して斜めに崩れそうになったのを、戸口の直ぐ外にあった電話台を掴むことで堪えたスマイルの怪訝な表情に、彼はひとこと、そう怒鳴る。
 耳の中でいつになく、ユーリの声は反響した。
 思った以上に体調は宜しくないらしい。こんな事で自覚して、スマイルは電話台から離した手で眉間を押さえ込んだ。
 確かにユーリの言うとおり、自分は病人でベッドで安静にしているべきかもしれない。
 だが。
 だが、しかし、だ。
 ユーリが現在仁王立ちしている台所の扉から覗く、あの惨状を見て大人しく寝ていられると、本当にユーリは思っているのだろうか。
「ひとつ、聞いて良い?」
 コホン、とひとつ咳払いをしてスマイルはわざとらしくかぶりを振った。
 なんだ、とユーリが怪訝な目で彼を見上げる。その紅玉の双眸うを見つめ、スマイルは彼の背後に広がる台所だった場所を指さした。
「あのさぁ……」
 シンクが見える、冷蔵庫も見える。中央に置かれているテーブルも、場所は多少ずれ動いているようだがちゃんとそこに収まっている。
 しかし。
 綺麗に整理整頓が行き届いていたはずの台所は、もう見る影もなかった。アッシュが帰ってきたときにこの惨劇を見て、正気を保っていられるだろうか。
 そこまでは流石にスマイルは言わなかったが、やや声の調子を落とし(もともと風邪の為、かなり掠れた声になってしまっていたものの)ユーリに問いかける。
 スマイルの指さす方角に目を向けたユーリが、背中でその問いを聞く。
「なにしてた、わけ?」
 聞かずとも、答えは分かり切っている。台所ですることと言ったら、数は限られてくる。その上今料理番のアッシュは留守で、もうひとりのまともな料理を作れる存在は風邪でダウン中……そこに居るが。
 残ったユーリが台所でなにをするのかくらい、見なくても想像はつく。
 だのに聞かずにはいられない、聞かなければ良かったと思ったとしても。
「……寝ていろ」
「お腹空いたんだったら、ぼくが何か作るから」
「病人は大人しく寝ていればいい!」
 とりあえず、精神面で優しくなるようにスマイルはユーリが自分で食するために何かを作ろうとしている、と考えることにした。しかし彼は明確な回答を導き出さず、益々顔を怒らせて今度こそスマイルを台所から追い出した。
 突き飛ばされて、スマイルは後ろに数歩よろめく。その瞬間を見計ったわけではないだろうが、ナイスなタイミングでユーリは台所の扉を思い切り力一杯、閉ざした。
 バタン! と戸は大きな音を立て、吐き出された空気がスマイルの前髪を浮き上がらせる。直後、扉一枚を隔てただけの台所からまたもの凄い音が響いていた。
「おのれ!!」
 いったい何に向かって怒鳴っているのか、ユーリの怒号がそれに続く。
 けれどその声は怒りと苛立ちの向こう側に、どことなく焦りと必死さが込められている気がした。
「…………もぅ」
 あとでどうなっても知らないから、とその場で呟きを零し、スマイルはしばらくじっと、閉められたまま開かれない扉を見つめた。
 悪戦苦闘しているらしいユーリに、苦笑が漏れる。
「自惚れちゃうよ?」
 持ち上げた右手で扉の木目をなぞる。額を預けると、少し冷たさを感じて心地よかった。
 相変わらず、扉の向こう側からはユーリの悲鳴のような叫びと、同じように悲鳴を上げる食器や調理器具だろう、の音が絶え間なく聞こえてくる。
 少しだけ扉を開き、中を覗き見てみた。
 ユーリは覗いているスマイルにも気づかず、テーブルに向かって量りと鍋、そして牛乳と睨めっこをしていた。その向こう側では、別の鍋がコンロの上で煙を巻き上げている。
 気づいた彼が慌ててガスを止めに手を伸ばしたが、なにをどう間違えたのか、ガスの勢いは弱まるどころか逆に強まって上にかけられていた鍋が火を噴いた。
「!!?」
 驚き、腰を抜かしそうになったスマイルは咄嗟に飛び出そうとしたが、珍しく正しい判断で近くにあった濡れ雑巾を広げて鍋に被せたユーリは、消火に成功。ほっと安堵の息をもらすが、心臓が止まるかと思ったのはむしろ見守っていたスマイルだけだったろう。
 ……なるほど、台所が滅茶苦茶になるわけだ。まだガス爆発や城炎上、にまで至っていないだけマシだと思うべきかも知れない。
 一秒でも早く、この風邪を退治しないと本当に、そのうち城が爆発して木っ端微塵になってしまいそうな気がする。髪を掻き上げながら、スマイルは静かに扉を閉めた。
 瞑目し、必死に頑張っているユーリに心の中でだけ応援してそのまま踵を返す。
 騒音は消えず、続いている。仕事で疲れて帰ってくるアッシュには気の毒だが、彼には後始末を頑張ってもらおう。どうせユーリがするはずがないのだから。
 不慣れな事をそれでも懸命にやろうとしているユーリに、笑みがこぼれる。それが自分のためであるかもしれないと考えれば、なおのこと表情は緩んだ。
 リビングを抜ける手前で時計を見上げて時刻を確認した。ソファの上に置き棄てられていた新聞を拾って広げ、テレビ欄だけを確認してアッシュが出演する番組のコードをビデオに覚えさせてから出ていく。
 今更、欠伸が出てきた。
「けほっ」
 けれど喉を突いて出てきたのはいがらっぽい咳だけで、思わず苦笑して肩を竦め、スマイルは少しペースをあげて階段を登っていった。開けっ放しにしていたらしい扉を開けて、スリッパを勢い良く弾き飛ばす。
 壁にぶつかり、それは床の上に落ちた。
 モノトーンの、飾り気もなにもない質素とも言えばその概念に当てはまらなくもない、必要なもの以外にあるのはギャンブラー関係の品々、というちぐはぐな部屋に潜り込む。ベッドに寝転がると、もうひとつ大きな欠伸が出た。
 先にベッドメイクをしておいて良かったと、心から思った。
 よくよく見れば皺だらけだったが、眠る分にはまったく問題ないベッドのスプリングに身を沈め、スマイルは片方だけの目を閉じた。一気に闇が押し寄せてくる、退屈を覚える前にどうやら眠りに入れそうだ。
 耳を澄ませば階下からの騒音は微かに響いて聞こえてくる。けれどそれさえも安眠を与えてくれる母の心音に似て捕らえられ、やがて彼の耳には何も届かなくなった。
 時間だけが、今は過ぎていく。

 夢と、現とを、行ったり、来たり。
 風の音が聞こえたかと思うと直ぐに消え、人の騒ぎ声が聞こえたような気がしたけれど、瞼を開いて確かめる前にまた消え失せて。
 そうやって、どれだけの時間が経過したのだろう。
 たかだが十分ほどの時だったように思えた、けれど久しぶりにベッドから見上げた時計の針は夕方を回り、夕食に近い時間帯を彼に教えてくれた。
 そんなにも眠っていたのか、と身体を起こしながら彼はぼんやりとしている視界をこらそうと瞬きを繰り返した。右目を擦りながら、もう片方の腕を頭上に上げて背筋を伸ばす。
 背骨がぼきぼき、と音を立てた。肩を回すと、やはり同じように骨の音がする。運動不足だろうか、今度は首を回しながら思った。
 最後に喉仏の上に指をやり、わざと咳き込んでみる。
 良くはなっていない、だが悪化もしていないようだった。何度か発声練習の小型版で声を控えめに出してみるものの、第三音で喉が詰まった。
 無理は禁物、と自身に言い聞かせてもうひとつ咳き込み、姿勢を正す。寝癖がついてしまっていた髪の毛を手櫛で直し、カーテンの向こうに見える夕暮れに染まった空を見やった。
 ひと眠りしたからだろうか、少し気分も軽くなった気がする。もう一度、今度は両腕を伸ばして身体を軽く逸らせた。
 そのタイミングで、控えめにドアがノックされた。
「スマイル、起きているか?」
 ユーリである。待ちかまえていたかのようなタイミングの良さに苦笑し、スマイルはベッドの上から「どうぞ」とだけ返した。
 ゆっくりとドアノブが回され、扉が開かれる。
 瞬間。
 ……言い表しようのない、微妙で絶妙で、非常に曖昧かつ形容詞が見当たらない奇妙な匂いが室内に流れ込んできた。
「腹が空いただろう?」
 片手に茶色の盆を持ち、入ってきたユーリが随分と上機嫌でにこやかな笑顔を振りまきながらベッドに近付いてきた。同時にあの香りも強くなる。
 むわ~~ん、と。
 どことなく風呂場に漂う湯気のような煙がユーリの頭上に立ち上っていた。しかも、色がまた、珍妙。
 黒い。
「ユーリ……?」
 ひくっ、とスマイルは喉を鳴らした。
 ユーリの持つ盆の上に置かれている土鍋、だったと思われるなにやら怪しげな焦げを一面にこびり付かせている食器から、もわわ~~、と怪しげな湯気が漂っていたからだ。しかも、土鍋にはしっかりとスプーンらしき銀食器が差し込まれている。
 あれは、食べ物なのだろうか……?
「力作だ!」
 自信満々に彼は盆ごと、それをスマイルの居るベッドに置いた。途端、鼻を刺激する酸っぱいようでしょっぱいような匂いが彼に襲いかかった。
 思わず咽せそうになる。
「あ、あの……ユーリさん」
 ひとつお聞きしたいことが。
 背を丸めて口元を抑え込んだスマイルが、ベッドサイドで意気揚々と立っているユーリに問いかけた。これは、いったい、何という料理?
「ミルク粥だ」
 問われ、ユーリは即答した。腰にやった手は彼の自信の現れだろう。
「以前私がダウンしたとき、アッシュが作ってくれたものがあっただろう。あれを真似てみた」
 言われてみればそんなことがあったような気も、する。だがミルク粥は、色が白くないだろうか。これは、この物体はどう考えても、……真っ黒い。
「少し煮込みすぎたようだが、栄養のあるものも一緒に詰め込んであるしな」
 人差し指を立てながらユーリは懇意に説明してくれた。色々と放り込んだから色が少々不気味になってしまっているが、栄養価は保証する、とこれまた断言。自慢げな彼から視線を落とし、スマイルは試しに、土鍋に突き刺さっているスプーンを持ち上げてみた。
 ……例えるとするならば。
 汚れきった河の底に溜まりに溜まっているヘドロ、か。どれが米で、どれが具なのかも解らず、それ以前に本当にこれは食えるのか、食べたあと本当に自分は生き残れるのだろうか。
 冷や汗を背中に流しながら、疑問は尽きない。
「あのぉ、ユーリさん……」
「食え?」
 にっこり、にこにこ。
 悪気はないのだろう、悪気は。一所懸命作ってくれたのである、慣れない台所に立ち包丁を握り、レンジを壊し鍋を炎上させたりもしていたが。
 彼なりに努力して、必死になって、作ってくれたのである。
 見上げ直せばユーリの手は傷だらけだ。折角の綺麗な指先が赤くなり、前髪の一部も焦げたのか、チリチリに縮れてしまっている。頬には墨で擦ったような黒い線が三本、斜めに走っていた。
 これは、ユーリの汗と涙の結晶なのだ(違う、それは絶対)。
 ごくり、とスマイルは生唾を呑み込んだ。怖々とスプーンを握り直し、ヘドロ……もとい。ユーリ曰くミルク粥、を掬い上げる。
 そのまま、非常にゆっくりゆっくりとスプーンを口に運んでゆく。
 心臓の音が徐々に高鳴り、拍動が早くなっていくのが解る。耳鳴りが酷い、嗅覚はもう完全に麻痺してしまっていた。
 いや、見た目はこれだが案外口に入れてしまえば平気かもしれない、と自分に暗示をかけながら。
 スマイルは、スプーンを口の中に押し込んだ。
 そのまま、咀嚼もせずに呑み込む。
「…………どうだ?」
 緊張気味に、けれど期待に満ちた眼差しでユーリは身を乗り出しスマイルの様子を窺う。
「…………」
 涙目になっていた。スプーンをくわえたまま、スマイルは何も言えずユーリをただただ見返すのみ。
 しかし、彼はどうやら思い切り誤解したらしい。
 涙ぐむくらい、感激してくれたのだ、と。
 スマイルは何も言わなかった、否、言えなかった。
 ユーリの瞳は問答無用で、全部平らげることを期待して輝いている。ひとくち目の感想を素直に吐き出せなかったスマイルは、文句も言えず涙を呑み、スプーンを吐き出して土鍋に突き刺した。
 もうひとくち、掬う。口へ運ぶ。……呑み込む。
 ベルトコンベアで運ばれる家電製品のように、あくまでも無機質で単調な動きの連続が数十分間、続いた。
 不味いとは、とても言えなかった。いいや、不味いどころの味ではなかった。
 甘く、辛く、酸っぱくて。正直表現に困る味が口の中いっぱいに広がり、喋ろうにも不用意に口を開けば吐き出してしまいそうでそれも出来ない。
 空になった土鍋にスプーンを放り投げ、最後にグラスいっぱいの水を一気飲み。スマイルの目は完全に潤み、ボロボロになっていた。
「ご馳走様……」
 しかし礼儀正しく、食後の挨拶忘れずに。
 本当に綺麗に食べ尽くしたスマイルに、ユーリは感心したのか嬉しげに盆を引き取った。
「どうだった?」
「……おいしかったよ……」
 天国が見えそうなくらいにね、と視線を逸らし黄昏ながらスマイルは呟く。無論、その正しい意味をユーリは知らない。
「じゃあ、片付けてくる。大人しく寝ていろよ?」
「はいはい……」
「夕飯も楽しみにしていろ?」
 今、夕方なのでは……? というスマイルの素朴な疑問は質問として形作られるより先にユーリの笑顔で却下された。
「期待してます……」
 ぽそぽそと返事をし、スマイルはユーリが立ち去ると同時にベッドに倒れ込んだ。口と腹を押さえ、通常を遙かに凌ぐ真っ青な顔を枕に押しつける。
「…………天国、見れそうかも…………」
 そう呟き、彼は途端に意識を失った。
 そして一週間、彼は高熱に魘されて生死を彷徨い。
 仕事を終えて帰宅したアッシュは、ものの見事に破壊の限りを尽くされた台所を見て絶叫、胃痛を再発させ。
 その後、ユーリの単独での台所立ち入りは禁止された、という。