業であるが如く

 暗い闇の中で、君はいつも、そうやってひとりぼっちで泣いていたのかい……?
 泣いている。
 泣いているんだ、子供が。
 声を殺しながら、自分が泣いていることを誰にも悟られないように、泣いている。
 暗いくらい闇の中で、たった一人で、泣いている……
「誰?」
 誰が泣いているの?
 闇の中で問いかければ、目の前がぼんやりと明るくなった。
 うずくまっている子供。
「テッド?」
 口に出して呟いて、しかしすぐに違うと首を振る。
 彼は泣いてなんかいない。分かる。かの親友の魂は、今も僕の右腕の……呪われた忌まわしき紋章の中で静かに眠っている。だから彼は、泣いてなんかいない。
 僕は少しだけ足を前に踏み出した。もっと近くで、泣いている子供を見るために。
 赤い服……黄色のスカーフ。
「帰りたい……」
 泣きじゃくる少年。顔はまだ、見えない。
「帰りたい…………還りたい。もう誰も、傷つけたくなんかない……」
 声が聞こえた。足が止まる。
「……あの頃に帰りたい……みんなと一緒にいられた……何も知らないままでいたかった…………」
 薄く日に焼けた黒の髪。少年がしゃくりを上げるたびにゆらゆらとゆれる。
「キャロに……三人でいられた、あの日に……返して……ボクの心を返して…………」
 軽い痛みを右手に覚え、僕は眠るとき以外は外したことのないグローブを、そっと外した。
 淡い輝きを放つ、27の真の紋章。争いを呼び起こし、死者の魂を奪い去る、呪われた紋章。そして、足下でうずくまったままの少年の右手にも、緑色に優しく、そして切なく輝く……この世でたったひとつきりしか存在しない紋章の姿があった。
 共鳴するように輝き光る、二つの紋章。その意味を理解し、僕は重い息を吐き出した。
「助けて。誰か……誰でもいい。ボクを助けて」
 胸をえぐる少年の声。
 言えなかった言葉だ。三年前、僕が言えなかった言葉を少年は泣きながら口にする。
「ボクを帰して。ボクを還して……」
 あの場所に、あの時間に、あの友の元へ。
 なくしてしまったたくさんのもの。もう戻らない、たくさんのもの。解っているのに、願わずにはいられない。そしてその願いは、決して誰の中にも明かしてはならない……禁断の、想い。
「……だれか…………たすけ…………て…………」
 苦しくて、悲しくて、僕は痛みをあいかわらず訴えてくる右手を抱きしめた。左手で包み込み胸元に引き寄せ、指の上から紋章に語りかける。
「また……同じ事が繰り返されようとしているのか…………?」
 哀しいだけの戦いが。争い合うだけでは誰の心も救えないことに、どうして人は気付けないのか? 
 少年の姿が薄くなっていく。消えていく名も知らぬ少年を見送りながら、僕はただ、答えのない問いかけを続けるだけだった。

「……ああ、すいません」
 身じろぎをし、まぶしい朝の日差しを片手で遮ると、枕元から声がした。
「起こしてしまいましたね?」
 聞き慣れた、そしてどうあっても聞き飽きることのない声にほっとし、僕は軽く首を振った。
「着替え、ここに置いておきます。朝ご飯の支度ももうじき出来るそうですし、早く着替えてしまって下さいね」
 黄金色の長い髪を背中に揺らし、一度は失った人が去ろうとするのを、僕はベットの中か手を伸ばして捕まえた。
「グレミオ」
 名前をよぶ。確かに、彼が今ここにいることを証明したかった。
「どうかしましたか、坊ちゃん?」
 不思議そうな顔で見返されたが、グレミオは向きを変えてこちらに戻ってきてくれた。まだベットで横になったままの僕に会わせ、膝を折って傅き、僕の目にかかりそうだった髪を横にすくい流す。
 微笑みを絶やさない彼の手を握ったまま、僕はようやく身を起こした。僕よりずっと背の高い彼の頭が、今は僕よりも低い位置にある。
「坊ちゃん?」
 じっとグレミオを見ていたら、無性に昔のことを思い出してしまった。あの夢を見たせいだろうか。
「グレミオ……」
 そっと抱きしめる。彼の肩口に顔を埋め、泣きたい気持ちを押し殺しながら。
「坊ちゃん、どうかしましたか? 怖い夢でも見たんですか?」
 突然のことに驚いたグレミオが、慌てて僕を抱き返しながら尋ねてくる。あやすように背中をなでて、寝癖のついた髪を優しく梳いてくれる。
 グレミオは還ってきてくれた。そのことが嬉しくて、だからこそ、夢の内容がとても哀しかった。
「……ありがとう……」
「坊ちゃん?」
 泣き声で呟いた言葉は、彼に届いていなかったかもしれない。それでも言いたかったことが解ったのか、グレミオは少しだけ腕に力を入れて僕を抱きしめた。
 下の階から、朝食の用意が出来た事を知らせる声がした。
「グレミオ、今日は釣りをしよう」
 何もない山奥の村だけれど、静かでここは好きだった。でもそろそろ、長く居すぎたかもしれない。
 ──ソウルイーター……
 戦いの臭いはこの村にも届いている。北の国で起こった戦争は一段落着いたと聞くが、それで終わるような戦いではないと、他の何よりも人の生き死にに敏感な右手の紋章は教えてくる。
 ──ただの国盗り戦争ではない、ということ……?
 夢で見た緑の紋章。ソウルイーターと反応しあった事を考えれば、あの紋章が北の戦争にどこかで関係しているのだろう。
 星が騒ぎ、地上は荒れる。いつまでもどこまでも、愚かでしかない。犠牲の上に立った平和など……。
 それでも、戦うことに意味があるのだとしたら、僕はまた、そこに立たねばならないのかもしれない。二度と泣かないために。
 浮きが水面に揺れる。グレミオが後ろの方で誰かが来るのを阻んでいて、僕はボーっとそんなことを考えながら釣り竿を握っていた。
 と。
「たすけてーーーー! とくにそこのおにいさーんっ!!」
 村の裏、鬱蒼と木の茂る森の中から幼い少年の、甲高い悲鳴が響き、名指しで呼ばれたグレミオが驚き、慌てて走っていった。
「なにごと……?」
 置いて行かれた僕は、首をひねって後ろを向いた。
 桟橋を軋ませ、数人の集団が僕に近づいてくる。それぞれにとまどいにも似た表情を浮かべているが、一人だけ、つまらなそうにしている顔があって、僕はすぐにその意味を知った。
 赤い服。村の男の子が僕を見て誰かと誤解していたことを思い出し、そういうことかと納得する。
「あなたは……」
 先頭を歩いて来た少年が立ち止まった。
 夢の中では解らなかった顔。思っていたよりもずっと幼く見えて、またひとつ僕の胸は苦しくなった。
 ゆっくりと膝に力を入れて立ち上がり、ほんの少しだけ僕よりも背の低いその少年に微笑みかける。
「こんにちは」
 言葉と一緒に差し出したのは、グローブをはめたままの右手だった。