Barefoot

 吹き付ける風が、少し冷たくなった。寒さを覚え、彼は肩を振るわせる。
 一瞬出そうになって身構えたくしゃみは、実際ただのポーズだけで苦笑してしまう。鼻の頭を擦りながら、彼はなるべく下半身を動かさぬように心がけながら腕を頭上に伸ばしてのびをした。
「ん~~~」
 気分としては、よく寝た、というのがまず第一歩。
 それから、とても恐ろしく微妙な間が空いて、困ったな、という感想が二番目に。
 ゆっくりと視線と仰いだ夕暮れの空から、己の足許へと落としていく。
 膝の上で交差された彼の二本の脚の横に、小さな白い足が、ふたつ。
 綺麗な、真っ白い、素足。
 果たして寒いからなのか、それはこちらが困惑する程に密着している。こちらは一応、こんなでも“雄”なのだから、もう少し警戒心を抱いてくれた方がむしろこっちが助かるのに、と思いつつ。
 彼は小さな足からまた別の方向へ、視線を動かした。
 彼の脇に、寄りかかるようにすやすやと眠っている、少女。
 真っ黒なワンピース、真っ黒な髪の毛。あと、今は閉じられてしまっているけれど、その瞳も本当に綺麗な漆黒色の黒真珠。
 だのに、その心はどこまでも白く、透明だと彼に感じさせた、ひとりの少女が。
 眠っている、心地よさげに。
「……夕焼け小焼け、の」
 西日が赤い空を見上げ、歌いかけたが残念ながら赤とんぼはこの空には舞っていない。ただ遠く、棚引いた雲が鮮やかな朱色に染めあげられ、流れていくのが見えるだけだ。
 今何時だろう、ぼんやりと思った。
 そこそこ遅い時間だろう、夕暮れはあっという間に終わり直にここは闇に包まれる。
 時計を持ち歩かない事が仇となった感じだ。思わず舌打ちしかかり、けれど眉を顰めるだけに動きを留める。
 右脇に寄りかかる存在が、微かな振動を感知したのか、僅かに身じろいだ。
「ん……」
 そういえば、名前を訊いていない。
 覚醒に向かおうとしている少女の肩を軽く揺すってやりながら、今更にそんな現実を思い出す。
 随分とのんびりしたものだ。最初の会話の中で聞いていても良かった事だろうに、名前を知ろうとは一度も思わなかったとは。
 案外、名前など結構どうでも良いことなのだな、と改めて思い直す。
 知らなくても困らない事は、多い。けれど、知っていればより深い場所へ行くことが出来る事もまた、多い。
「おはよう?」
 彼に肩を揺らされ、まだどこか遠い近くを見ている少女に語りかける。
 少女は少し眠そうに瞼を擦り、瞬きを幾度か繰り返す。そして目の前に自分以外の彼の姿を認め、不思議そうに小首を傾げた。
「…………?」
 本当に、不思議そうに。
 瞳が、貴方は誰? と問いかけている気がした。
「……おはよう」
「…………おはよう……」
 まるで鸚鵡に言葉を教えている時の気分だ、とやったこともないくせにそんな風に考えつつ、彼は返事があったことを嬉しそうに笑った。
 また少女が不思議そうに彼を見上げる。
 空が赤い、西の空は真っ赤で燃えているように見えた。逆に、東の空は薄暗く紫と紺を混ぜたような色が空一面を覆い尽くそうと触手を伸ばしている。
 もうじき、星が瞬き月も天頂を巡るだろう。
 そんなじかんに、“おはよう”という挨拶もどこか妙な話だ。
「日が暮れるよ」
 いや、もう暮れている。
 自分で言いながら心の中で突っ込みを入れ、彼は綻んだ口元で告げた。それは理解できたようで、少女はコクン、とひとつ頷く。
 そして彼女は、西の地平を向いた。
「まっか」
「夕暮れだからね」
「おなじだね」
「…………?」
 すっ、と少女の視線が空から彼へ戻ってくる。見上げる瞳は、綺麗な綺麗な黒水晶か、黒ダイヤか。どこまでも澄み、深い。
「あか」
 鳥の次は赤か、と彼は心の中で呟く。
「赤?」
 夕暮れのことでは、どうやらなさそうな雰囲気に彼は自分の中で赤いものを想起させた。並べてみる、だがその数はそう多くない。
 赤。彼が身に纏うその色は専ら。
 人では無いことを証明する如く輝く、この隻眼くらいだ。
 そして案の定、彼女が伸ばした細い腕からまっすぐ向けられた人差し指が示した先にあったのは、彼の右目。
 驚きはしない。だが意外ではあった。
「おんなじ、いろ」
 夕暮れと同じ色をしていると、彼女は言う。
 そう言われたのは、実は初めてだった。大抵の存在は、彼のやや濁った感じのする彼の赤を“血”の色だと評する。それも大動脈を流れる真っ赤な血の色だ。
 夕暮れを表現するには少し、毒味が強すぎる。
「違うよ?」
 これは、違う。
 自分の瞳を指さして彼は首を振った。力無く。
 益々、彼女は不思議そうな顔をして彼を見つめた。
 どうして、と問いかけられる。
 クリスタルのように何処までも澄み、染みこんでくる声は心地よい。流されてしまいそうなくらいに。
 どうしてもだよ、とだけ答えた。
 どうして、とまた問いかけられる。本当に鸚鵡を相手にしている時みたいだ、と思う。
 納得してもらうには、なんと答えるべきなのだろうか。どう説明すれば、彼女は違うことを、認めてくれるのだろう。
 ……否。
 認めたくないのは、自分の方ではないのか。
 この赤が、丹朱が夕焼けほど綺麗ではない事が。自分自身を映し出す鏡である瞳が、醜く濁っている事を認めることで、綺麗なものから目を逸らしている事を。綺麗でないと、自覚しているから。
 崩されそうで、恐くなる。
「ゆうやけ」
 太陽の熱をまだ少しだけ残している、柔らかな草の上に両手を置いて彼女は彼を、真下から覗き込んだ。澄み渡る黒真珠の双眸に、隻眼の彼が映る。
「あんまり見ると……移るよ」
 世界から見捨てられ、忘れ去られ。今は懸命に、人々の記憶に住みつこうと藻掻いているばかりの自分の、過去が。
 見透かされているようで、恐くなる。
「なに、が?」
「ぼくはね……見えないんだよ?」
 ほら、と彼が指し示したのは自身の足許、柔らかく暖かな大地の上。
 西日が眩しい、太陽は今にも地平線へ沈もうとしている。背を預けている木立の影は、彼らの後ろにどこまでの長く伸びている。
 けれど、彼の足許には。
 彼の影が、なかった。
 傍に座る少女はしっかりと、緑の草に陰影を落としている。けれどそこに並ぶはずの彼の影は、どこにもない。
 彼女はまるで捜すかのように、掌を草の上に滑らせた。しかし、触れる事が出来るのに草の上に転がる影は伸ばされた彼女の手だけ。
 答えを求めるように、少女は彼を見た。
「ね?」
 ぼくは、此処に居るけれど居ないのと同じなんだよ、と。
 どこか寂しげに彼は笑った。
 少女が難しい顔をする。そして背中に置いていた鳥籠を抱きかかえ、自分の膝の上に置いた。
 なにもいない鳥籠の空間を、ただ見つめる。
 とり、と呟いた。
 居るけれど、居ない、もの。
「みえないの……」
「世界がぼくを、忘れている限りはね」
 そして恐らく、世界が彼を思い出す日は永遠にやって来ない。
 世界が忘れてしまった彼だから、太陽の陽射しも彼に気づかないまま彼を通り過ぎていく。
 だから、影は生まれない。彼の足許には、影がない。
「でも」
 鳥籠から目を上げ、少女はまたしても小首を傾げた。しかも今度は反対方向に。
「いる、よ?」
「うん」
 存在している、それは確か。だから触れられる、見ることが出来る、声も聞こえる。
 けれど、実在しない。
 見えている、けれど見えない。
 居る、けれど居ない。
 ここにいるのに、居ないことと同じ。
 いるはずなのに、居ない。少女の鳥籠の鳥と、同じ。
 赤の時間が終わる、世界は闇に覆われる。
 鳥の声など、もうとうに聞こえない。彼らは巣へと戻り、浅い眠りを愉しむために羽を休めている事だろう。
 影が、薄くなる。
「いる、よ……」
「うん、そうだね」
 今度こそ少女は彼の手を握った。グラブ越しに伝わる感触は、確かにそこに彼が居ることを彼女に知らせる。
 夜が、来る。
「もう、お帰り」
 そして二度と来てはいけない。
 彼はゆっくりと、優しい動きで少女の手を解きながら言った。けれど膝の上で鳥籠を抱いた、黒いけれど真っ白な少女は静かに二度、首を横に振った。
 とり、と。
 彼女は呟く。
 捜さなければ、だめ、と。
 彼は困った顔をして少女を見下ろす。重なっている視線の先にある黒真珠は、本当に底が見えないまでに透き通っていた。
 吸い込まれそうだ、と感じた。
「闇が来る前に、今日はもうお帰り」
 鳥は明日、明るくなってから捜した方が良い。夜になってから飛ぶ鳥は希だ、彼らは闇の中でものを見ることが出来ない。
 そう言っても、彼女は首を横にしか振らなかった。
 とり。
 素足のまま、彼女は立ち上がった。両手で大事そうに鳥籠を抱きかかえている。
 真っ白な、鍵のない鳥籠。
 彼女はあの鳥籠に、いったいどんな鳥を入れるつもりなのだろう。
 そう考えて、彼はふと思った。
 もしかしたら、同じなのだろうか。
 居る、けれど、見えない、もの。
「鳥……」
 彼は呟いた。
 見付かればいい、そう願った。
 彼も立ち上がった。やはり影は伸びなかった。
「行こうか」
 何故、そう彼女に言葉を投げかけたのかは解らない。ただの社交辞令か、気紛れか、それとも、本心か。
 きっとそんなことでさえ、どうだって良いのだろう。
「……うん」
 少女は頷いた。
 カサリ、と素足の少女が踏んだ草が揺れた。
 闇が空を覆い隠し、日の光は消え失せた。
 いつしか、少女の足許からも影は消えていた。
 今は月明かりさえ、遠い。