獣の闇

 荒い息、激しく上下する肩、したたり落ちる汗。
「はあっ……はあっ……はあっ…………」
 握りしめた剣の柄に温かいものが伝い、指の間に染み込んでゆく。ねっとりとした感触が彼の頬から首筋に流れ、やがて肩に沈んだ。
「……あ…………」
 凍りついたまま閉じることの出来なくなった眼に映る、なつかしい友の笑顔。とても穏やかに彼を見つめ、…………。
「あああ…………」
 彼の肩を掴んでいた友の手が、緩やかに力を失い下方へと垂れ下がった。血にまみれた衣服はより赤く、紅く鮮やかで、美しいとさえ思ってしまって、彼は震える瞳で友の笑顔を凝視する。
 背を貫いたひと振りの剣は、この国の王の証として与えられたもの。ハイランド王国の導き手として立ち、争い、闘い……友を殺した、剣。
「……セ……レン……?」
 ゆっくりと沈んでいく友の微笑み。胸から背にかけて貫いた彼の冷たい剣により、全身から力が失われた今も、友の体は地に崩れ去ることはなかったが、前に垂れた首はもう、彼に優しく笑いかけることはない。
「う……あああっ!!!」
 流れ止まらない、他人の血。足下にはもう、彼が斬り殺した数多の人々の流した血が泉となり、彼の言葉にいちいち波立っている。
 倒れ山となる知らない顔の中に、そうでない死者がいた。
 一時は共に戦った人。ビクトール、フリック、ツァイや、砦で出会ったたくさんの人達。皆、優しかった。
「……ナナ……ミ……?」
 彼のすぐ近くで仰向けに倒れていた幼なじみの少女は、眠っているように見えた。だけれど彼女の胸は斜めに一文字に切り裂かれ、おかっぱ頭は血の池に沈んでいた。
 誰も動かない。彼の中にいる少年でさえ。もう、息をしていない。ただ少しずつ、冷たくなって行くだけ。
「セレン……ナナミ……」
 殺したのか?
「僕が……殺した、のか……?」
 ずるっと、両手の間から剣が落ちた。それはセレンを貫いたまま、どこまでも広がるこの地の海の底へと彼を連れていった。
「僕が……僕がセスを……ナナミを……僕、が…………」
 両手を見る。真っ赤だ。もうそれが誰の流したものなのか分からないくらいに、この手は赤く黒く汚れきってしまっている。
「……僕が…………僕が……殺し、た…………」
 熱にうなされたように、彼は繰り返し繰り返し呟いた。自分で自分の両腕をかき抱き、肉に爪を立てる。皮が裂け、抉れ、血が出ても、彼は全く気にも留めなかった。
 誰もいない場所。誰も生きてなどいない場所。
 彼は、ひとりぼっち。
「ぅあ…………あああああ!!!!!」
 ジョウイの悲痛な絶叫は、闇を切り裂き、天を貫いた。

「っ!」
 目が、醒めた。
 白い天井が視界にいっぱいに飛び込んできて、汗びっしょりになっていたジョウイの意識を急速に冷ましていった。
「…………あ」
 夢?
 そこはハイランド王国の首都ルルノイエ、ジョウイの寝所だった。
 独りで眠るには広すぎるとしか思えないベットの、ふかふかの布団に包まれたその場所で、しかしジョウイはたった今までいた世界こそが、真実であるかのように錯覚した。
 セレンを貫いたときの、剣の肉に食い込む感触も、頬に触れてきたセレンの手の熱さも、体中にまとわりついた血のぬめり感も。ありとあらゆるものすべてが、夢と言い切るにはリアルすぎた。
 そして、夢の中と全く同じように乱れきったこの呼吸は。
 手を見る。
 汗に濡れているだけで、剣を持つには不釣り合いにも思われる白く細い指があるだけだ。けれど。
 自分は確かにこの手に剣を握り、セレンの胸を貫いたのではなかったか──?
「……っは……」
 息が苦しい。
 胸元を抑えつけ、ジョウイは反対側の手でシーツにきつく爪を立てた。見開かれた眼は赤く血走り、全身が小刻みに震えている。
 確かめなくてはいけない。
 はじかれたようにジョウイは頭を上げ、ベットから飛び出した。素足に寝間着のまま、かまわずに寝所を飛び出す。
「誰か! 誰かいないか!」
 静まり返った王城。守衛の姿さえ扉の外に見えず、わき上がる焦燥感に狂いそうになるのをこらえ、再びジョウイは叫んだ。
「いないのか!?」
 早く来てくれ。誰でもかまわない。早くこの場に来て、言って欲しい。
「……いかがなされましたか、ジョウイ殿?」
 荒々しく足音を立てながら、衛兵を伴って現れたのは、銀髪の長身の男だった。かつては王国軍第三軍を率いていたソロン・ジーの配下で、今はジョウイに忠誠を誓ってくれているクルガンだ。
「何かあったのですか?」
 寝間着のままジョウイが外に出てくることは限りなく珍しい。それにこの慌てよう。いつになく取り乱している彼に、クルガンは近づこうとして逆につかみかかられてしまった。
 困惑の表情が、常に冷静沈着でいることをを売りとしているクルガンの顔に浮かぶ。
 紅潮した頬、血走った眼、落ち着きのない呼吸と、もしや眠っているところを敵に襲われでもしたかと、ここに入ってくるときは思ったのだが。どうも違うようで、対処の方法に苦慮していると、
「クルガン、答えてくれ」
 きつくクルガンの二の腕を握り、ジョウイが震える低い声で尋ねた。見上げてくる彼の眼はどこかおびえているようでもあり、クルガンは形の良い眉をひそめさせた。
「お聞きしましょう」
 ともかく今はジョウイを落ち着けさせる事が先決と、彼はジョウイに従った。下手に逆らって何があったかを問いつめても、冷静さに欠けた今のジョウイには意味を成さないと判断したためだ。
 そのまま腕の痛みをこらえて待っていると、
「……僕は、ずっと……ここにいたか?」
「?」
 しかし尋ねてこられたことはクルガンの予想していたことのまったくの範囲外で、殊の外びっくりしてしまったクルガンと後ろにいた衛兵は目を丸くした。
「ジョウイ殿……」
 混乱しているにしても度が過ぎているように思え、クルガンは困って、目の前にいるこの若き国王に言葉の説明を求めた。なるべく穏やかに行こうとしたのだろうが、彼の笑顔は一部引きつっていた。
「答えろ!」
 しかしジョウイはクルガンの言葉を遮って鋭い声で叫び、反射的に身をちぢこませた衛兵が持っていた槍を落としてしまった。
「僕はずっとここにいたか? ずっとこの城にいたか? 僕は……僕はセレンを殺していないな! セスはまだ生きているな!?」
 敵対しているはずのラストエデン軍リーダーの名を叫び、ジョウイはクルガンを掴む手にさらに力をこめた。
 クルガンは痛みに顔を歪めこらえながら、これ以上をこの事情を知らない衛兵に聞かせるのはまずいと判断し、槍を拾う体勢のまま不審そうに二人を見上げていた兵士に、城付きの医者を呼んでくるよう指示した。
「落ち着いて下さい、ジョウイ殿!」
 衛兵が走り去るのを確認して、クルガンは必死にジョウイに呼びかける。
 ジョウイの金茶の瞳が、大きく揺れた。
「……う、あ……」
 ジョウイはクルガンから手を放し、自分の頭を抱え込んだ。一歩、二歩後退する彼の瞳に映るクルガンの姿は、夢の中のセレンと同じように、血にまみれていた。
「ジョウイ殿……」
 よろよろと差し出された彼の手から、ズルリと骨の上を滑り、褐色の肉が地面へと落ちた。あちこちが裂けた衣服の下は、流れ出たまま固まった赤黒い血のあとが一面を覆い尽くしている。筋を失った白骨が、支えを欠いてポトリ、と形を失い、消えていく。
「あああ…………ああああああ!!!」
 痛む頭を振り、ジョウイはそこから逃げ出した。
 足を踏み出すごとに水がはね、彼の服を赤く汚す。嫌な音と感触が足の裏を刺激するが、彼は下を見ながら走る事なんて出来なかった。
「いやだ……やめろ……」
 広がる闇はどこまでも深く、果てが見えない。逃げても逃げても追ってくる。彼の心の全てを呑み込もうと、手を伸ばす。
「うわ!」
 とても大きな何かに足を取られ、彼は不意を付かれた形で前のめりに倒れた。水たまりが派手な音を立てて、彼の全身をびしょぬれにした。鼻孔に入った水で息が苦しくなり、せきこみながら身を起こした彼は、支えるためについた手の下が他にないほど柔らかいことに気が付いた。
「…………?」
 ぬめりが右手の平を包み込む。
 恐ろしいことに考えが及んで、膝をついたまま彼は今右手があった場所を、錆びついたブリキのおもちゃのようなぎこちない動きで見た。
 長く美しい黒髪の少女が、倒れていた。
 好んできていた赤いドレスには、更にきわだった紅い華がいくつもいくつも咲いている。見開かれたままの光が失われた双眸は、ジョウイに向かって優しく微笑みかけようとしない。
「ひっ……あ……ああ…………」
 腰をぬかしたままじりじりと後ずさり、彼はいやいやと、子供のするように首を横に振る。
 泣き声がした。
 はじかれたように、それまで闇く輝きの失せていたジョウイの瞳に、明るさが戻った。
「ピリカ!」
 名前を呼ぶ。あの子はまだ、生きている……!?
「どこだ、ピリカ!」
 初めはあの子を守りたくて戦った。何を犠牲にしても……自分の命が失われたとしても、彼女を守り抜けたら、それだけで戦った意味があるのだと……。
「おに……ちゃ……ジョウ……イ、おにい……ちゃん……」
 途切れ途切れに彼の名を呼び返し、ピリカの声は近づいてくる。泣いているのだから、優しく抱きしめてあげなければいけないと、ジョウイは重い膝にむち打って立ち上がり彼女が闇の中から現れるのを待った。しかし。
「いた……い、よ……お兄……ちゃ…………痛い……いたいよぉ……」
 すすり泣く彼女の声がおかしいことに、ジョウイはその瞬間まで、気付かなかった。
 両足と片腕がもげ、残ったもう片腕も胴とかろうじてつながっているだけのぬいぐるみを抱くピリカ。頭までも半分以上がとれかかり、中に詰まっていた白い綿は、赤黒くはみ出している。黒い目は片方外れて細い糸でぶら下がっている状態で、頭の中に納まっている方も、白濁して今は何もうつしだしはしなかった。
「……ピリ……カ…………?」
「いたいよ……助けて、ジョウイ……お兄ちゃ……ん……」
 見えない眼で必死にジョウイを探し、手を伸ばしたピリカだったが、求める人の手を掴むことは出来ず、そのまま静かに沈んでいった。
「ピリカ……ピリカ……・? 返事をしてくれ、ピリカ、お願いだよ。誰か……誰か返事をしてくれっ!!」
 流れ落ちる涙は、けれど彼を清めてはくれない。
 果てしなく続く闇の奥で、獣の咆吼だけがこだました。