罪人の生

 あの光に包まれて、空へ還ることが出来るなら………………
 蛍が舞っていた。
 淡い淡い光が、闇空を静かに昇っていく。まるで死者の魂が空へ還っていくようで、厳粛な儀式のようで、セレンは何故か胸が締め付けられる思いでこの光景を見つめていた。
 血生臭い光景が目の前に広がっている。大地に染み込む真っ赤な血は、彼の仲間が放った矢で命を落とした、敵だった人達の命のあかし。たった一人の、狂皇とさえ呼ばれた男を守るために、無駄とも思える使命によって死んだ男達。
「何故……」
 勝負はもう決していた。戦うことは無意味で、それは彼らだって分かっているはずなのに。それでも戦い、死んでいく。その意味が読みとれず、セレンは呆然とその場に立ちつくしていた。
 一時はこの都市同盟の大地を争乱の渦に放り込み、数多の罪無き人々を葬り去ってきた男が、彼の前にいる。
 奇襲をかけたものの、仲間であるはずの男によって裏切られ、逆に包囲網を敷かれ逃げ場を失った、哀れな悲しき狂皇。戦い、血に濡れることでしか自分の存在を確かめられない、不器用で寂しい人。
 これまで彼がやってきたことが、全く逆の形でこの場に再現された。狂皇ルカ・ブライトは追われる獣で、セレンは狩人だ。多くの悲しい出来事をこの世に呼び起こした男の、最期の瞬間がせまっていた。
 繰りだされる矢。最後まで君主たる彼をかばっていった兵士の屍の上で、天に向かい蛍が舞い上がる。
「おれは! おれが思うまま! おれが望むまま! 邪悪であったぞ!!」
 天を仰ぐように、口元をわずかに歪めて彼は嗤った。
 ──え……?
 その姿にセレンは目を見開き、声を無くした。
 とても大切なことを思い出した気がした。ずっと、長い間忘れていた何かを、思い出せそうな気がした。
 ……ボクは、この人を知ったいた…………?
 何故かそう思った。いや、違う。この人がボクを知っていたんだ。
「…………さらばだ、セス………………」
 くぐもった声が風に乗って、セレンの耳にだけ届いた。直後、ルカ・ブライトは前のめりに倒れ、地に伏し、動かなくなった。
 蛍が舞う。空へと昇っていく。魂が天へ還るときのように。
「…………ルカ……お兄ちゃん………………?」
 かすれた声がセレンの口からこぼれ落ちる。よろよろと前に運んだ足は、仲間達の制止を無視して、目を閉じたルカの許でがくりと崩れ落ちた。震える両手で血塗れの彼を上向かせると、セレンはそっと血で張り付いた彼の前髪を払った。
 あれから十年以上が経っている。セレンはまだ四歳で、あの後ジョウイとも友達になって、毎日がにぎやかで楽しくて、すぐにルカとの思いでも忘れてしまったけれど。いま、ようやく思い出した。セレンの手の中にいる人は、間違いなくあの時、セレンと一緒に蛍を見た、ルカお兄さん。
「なん……で…………?」
 戦わなくても良かったかもしれないのに。もしもっと早く思い出していたなら……!
 自分が汚れることにもかまわず、ぎゅっとルカを抱きしめたセレンは、ふっとあることに気がついてルカから顔を離した。確かめるように、力無く垂れているルカの右手首を軽く持ち上げる。
「セレン……」
 後ろからルックが心配そうに声をかけてきたが、セレンはすぐに気付かなかった。
 共に戦った仲間達は、不安げにセレンとルカを遠巻きに見守っていたが、しばらくして戦いは終わったという筆頭軍師の言葉に頷き、それぞれ歓びの声をかけあわせながら、湖畔の居城へと帰っていく。朝になれば、別の一団が今日の戦いで死んだ王国軍の兵士を葬ってやるためにやってくるだろう。
「セレン、戻るよ……?」
 いつまでもルカを抱いたまま動かない、ラストエデン軍の若きリーダーにルックは再び声をかけた。今度はぴくりと反応を返し、セレンがゆっくりと振り返った。
「ルック、…………お願いが、あるんだ…………」
 真っ直ぐに見つめられた若い魔法使いは、こういう目をしたときのリーダーは何かを企んでいるときだと知っていて、ちらりと後ろを盗み見ると諦めたようにため息をつく。盗み見られた方の筆頭軍師は、まるで聞こえてこない二人の内緒話に、形の良い眉をひそめたのだった。

 夢を見ていた気がした。
 夢なんて、もう何年も見ていなかったはずなのに。見たとしても、それは過去の悪夢でしかなく、目覚めたときには気分の悪さと共に、この世の全てを恨む程の憎悪が全身に満ちあふれてばかりだった。
 しかし今し方見た夢は、のどかで、心に安らぎを感じるような暖かい夢だった。
 ──蛍…………
 夏のひとときにしか現れない、綿雪のような光を放つ、小さな命。
 重い瞼を持ち上げて、左側の窓から差し込む太陽光に顔をしかめる。
 ここはいったい、何処だろう?
 真正面に見えるのは木組みの天井で、自分が寝かされているのも、藁を詰めたクッションを敷いた粗末なベットだ。窓は壁に穴が作られているだけで、雨よけの板が外側に向かってつっかえ棒で支えられている。流れ込む風は涼しく、緑の匂いの中に水の香りが混じっていた。
「う……っ」
 身を起こそうとすれば全身が大声で悲鳴を上げ、背を数センチ持ち上げただけで力つきてしまった。
 かろうじて動く範囲で顔を上げ、薄いシーツの下に見え隠れする自分の体を観察する。肌の色が見えないくらいに、全身は真白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。左腕には添え木がされているし、頭部も、感覚で包帯に包まれていることが分かった。
 外から鳥の声がする。しかし人の気配はない。
 自分は確か、ラストエデン軍への奇襲に失敗し、追いつめられ、セレンとかいう小僧との一騎打ちにも敗れたはずだ。あの時に自分は死んだのではなかったのか?
 だがこの光景は、地獄だとしたらあまりにも滑稽だ。
「なにが、どうなっている…………」
 さっぱり分からなくて、ルカは動く右腕で髪を掻き上げた。そんな些細な動きにさえ、体はぎしぎしと軋んでくる。どれほど意識が無かったのか、太くたくましかった腕はわずかだが細くなってしまっていた。
 途端、空腹感が襲ってきた。腹はさすがに鳴らなかったが、言いようのない飢餓感にルカは自分がいたたまれなくなってしまう。死に面したはずなのに、それでも体は栄養を欲するのかと。
 いつ死んでもいいはずだった。死ぬことが怖いことだと思ったこともない。人はいずれ死ぬのだし、ならば少しでも自分の理想を現実にしてから死のうと決めていた。その為には何だってするつもりでいた。そこに後悔の思いはない。
「俺は、生きているのか…………?」
 空気の匂いを感じ、光をまぶしいと思う。体の節々を襲う痛みは本物で、吐き出す息はわずかに熱を含んでいる。少しずつ現実が見えるようになってきて、ルカはもう一度上半身を起こそうと右腕に力を込めた。左腕は添え木をされているために肘が曲がらない。片腕と腰に残っているだけの力を使い果たし、長い時間をかけて彼はようやく、ベットの上に身を起こすことに成功した。
「いッ……」
 腹部がぎすぎす痛む。背中も、受けた傷が今になって存在を誇示し始め、せっかく起きあがったというのにすぐにまた後ろ向きに倒れてしまいたくなるのを、彼は必死の思いでこらえた。今頃になって、自分があの戦いの中でいかに満身創痍であったかを思い出した。
 本来は死んでいたはずだ。数度の襲撃にあい、しつこいくらいに追いつめられて、あの大きな木の前でセレンと戦った。放たれた矢の多くは、連れていた部下達が身を挺して引き受けてくれたが、それも全部とはいかなかった。
 あの時蛍をつぶしていたら、こんな事にはならなかったかもしれない。奴らは蛍の光を目印に、自分を狙ったのだから。
「………………」
 何故出来なかったのか。思いだし、ルカは苦笑した。まさかと自分を疑いたくなるが、あの時彼は、蛍の中に懐かしい少年の姿を見ていたのだ。
 少年、というにはまだ幾分幼すぎるかもしれない。元気にあふれているようで、実はかなりの寂しがりや。別れるときにした約束は、ルカがそれ以後キャロの町に行くことがなくなったために果たすことが出来ず、長い年月の間に自分も、そしてあの子供も忘れてしまっていた。
 少年は気付いていただろうか。……考え、ルカは首を振った。そんなはずがないと。自分でさえ思い出したのは直前で、だから、戦いをやめることは不可能だった。
 風がながれ、外の木々が静かにそよぎ揺れる。緑の気配がいっそう濃くなったと思った瞬間、突然人の話し声が聞こえてきた。
「……僕は知らないからね」
「分かってる。様子、見るだけだから……」
 ひそひそ喋っているようだが、神経をとぎすましたルカにはちゃんと聞こえていた。青年と呼ぶにはまだ幼さの残る、少年の声だった。
 しばらく待っていると、ベッドの置かれている壁側とは反対の壁にある、外へ出るための唯一の扉がきしみを伴って内側に開かれた。
「………………!?」
 中に入ろうとした少年の足が止まる。大きく見開かれた目は真っ正面にルカを捉えているが、動揺しているのはすぐに分かった。黒曜石の瞳はあの時のままで、十年以上の年月を忘れさせるには十分すぎた。
「……どうし……ああ、なんだ」
 入口で硬直している少年を不審に思い、もう一人の少年が脇から中をのぞき込んだ。しかしこちらの反応は至ってシンプルで、ルカが意識を取り戻していることに驚くどころか、そこにルカがいないような態度だった。そしていつまでもじっとしている少年──セレンを、中にはいるよう促す。
 セレンの手には、籐で編まれた籠がぶら下がっている。もう一人の少年、ルックに背中を押され、前方に蹴躓いて倒れそうになると、慌てて大事そうに籠を抱きしめた。そのまま弾みでルカのいるベッドの前まで進む。
 どこかの狩人の使う山小屋らしきこの建物は、雨風をしのぐ程度には申し分ないが、三人も押し込められるとさすがに少し狭い気がした。
「セス、包帯の替え、ここに置いておくよ」
 同じ様な手籠を扉のすぐ側に置き、ルックは小屋を出ていこうとする。びっくりして止めようかとしたセレンだったが、睨むような目で見返され、出しかけた声を引っ込めた。
 ルックは怒っているのだろう。後でちゃんと謝っておこうと心に決め、彼が去った扉をしばらく見つめていたセレンだったが、
「おい」
 こちらも凄むような声で呼ばれ、びくっとなってセレンはベット側に向き直った。
 すぐ近くにルカがいる。包帯で全身は真っ白だが、目つきはあの夜、蛍舞う木の下で戦ったときと変わっていない。一見痛々しい姿であるのに、そう感じさせない気迫にセレンは息を呑む。
「貴様……どういうつもりだ?」
「どう……って…………?」
 ただ長く意識を回復せず、栄養もろくにとれていなかったせいで、全体的にやせてしまったのは仕方がない。片腕は折れているから動かせないようにしてあるし、体中傷だらけでよく生きていたと感心するぐらいだったがどれもまだ完治には至っていないはず。強がっていても今の彼はセレンに襲いかかる事なんて出来ない。ルカにはそれが屈辱だった。
「何故俺を生かしている。貴様らの目的は、俺を殺すことにあったのだろう!?」
 大声で叫べば、肺が上手く息を吐き出しきれなくてせき込む。そのたびに全身が悲鳴を上げるのだが、それを表情に出すのは彼のプライドが許さなかった。
「ボクは……」
 戦いを本当は望んでなどいなかった、そう言ってもルカは納得しないだろう。自分たちは確かに戦って、セレンが勝ってルカは負けたのだ。その現実を変えることは出来ない。セレンがどうしてルカを生かす気になったのか。その理由はルックにも問われていて、セレンは正直にあの夜の思い出を告げたのだが。本当にこのルカがあの時のルカかどうかなんて、セレンには確かめようがなかったのだ。そして今、本人に確認して否定されるのは怖かった。
「ボクは……あの時、キャロに帰れると思っていました」
 天山の峠、ユニコーン隊のキャンプ地。本当ならば夜が明けて朝が来れば、懐かしい我が家に帰れると信じていた。平和になるのだと思っていた。
「戦いが……終わったのだと、ボクは正直に喜びました。おじいちゃんが死んで、ボクの家族はナナミだけになってしまって、ジョウイと三人で、静かに暮らして行けたら、それで良かったんです」
 淡々と語るセレンの瞳は、悲しみの色に染まっている。無邪気だった少年の面影を見たのは気のせいだったのだろうかと、ルカは唇を噛んだ。
 誰がこの少年をこんな目にしたのかと問えば、返ってくる答えは決まっている。
「明日になれば帰れるのだと……誰も、疑問に思っていませんでした。どうして休戦協定が結ばれたのか、考えたこともありませんでした。ただ、純粋に、戦いが終わり事はいいことで、みんな喜んでいるとばかり思って…………だから、初めは、信じられなかった」
 敵襲だと叫ぶ声にたたき起こされて、慌てて飛び出したテントの外で繰り広げられる光景は、一瞬まだ自分は夢の中にいるのだと錯覚させた。だけれど、燃える木々やテントのくすぶる臭いや、襲い来る兵士達から逃げまどう友達の叫び声や、流れ出す血のむせ返るような熱さが、これが現実に起きている事だとセレンに教えた。
「ボクは逃げた。死ぬのは嫌だったから。やっと帰れると思ったんだ。ジョウイと一緒に、ナナミの待つ家に帰れるって」
 ラウド隊長に言われ、東に伸びる道を走った。途中でジョウイが、待ち伏せの危険性に気付いて引き戻そうと言ったのに素直に頷いたのも、全部、生きて帰ることを優先させたからだった。
「でも…………」
 セレンの言葉が詰まる。
「…………戦いが終わらないのは、憎しみがこの世界に残っているから…………」
 ふと呟いた言葉に、セレンは皮肉気に口元を歪めさせた。
 ──ボクはまだ、ルカを許していないのかな……?
「あなたは、ぼくからたくさんのものを奪った」
 心休まる場所、平和だった世界、大切だった友達、守れなかった笑顔。
「誰かを傷つけるために、ボクは強くなったわけじゃない。ナナミやジョウイや、ボクを大切に思ってくれる人達を守りたいから、ボクは強くなったのに……! どうして、放っておいてくれなかったんですか!」
『……誰かをやっつけるために強くなるのは、……ぼくは、やだな』
 幼かった少年が言った言葉がよみがえる。あの時自分は何と言った? 
「ボクは……あなたを許さない。許せない。ボクから多くのものを奪っていった、あなたを許すことが出来ない」
 ルカは気付かない。セレンが自分で言っている言葉で、自身を傷つけていることに。
「ならば、さっさと殺せばいいだろう。わざわざ俺を生かしておいて、貴様に一体、何の特があるというのだ?」
 まさかこんな事を言い聞かせるためだけに生かしておいた訳ではあるまい。そう言って悪態をつくルカに、セレンはふっと、表情を和らげた。
「?」
 何を思い出しているのか、彼の目はすぐ前にいるルカではない別の場所を見ている。ここではない、ずっと遠くにいる誰か。思い当たる節があって、ルカはそっと瞳を伏せた。
 セレンと、ルカが拾い上げた鬼才の持ち主であるジョウイが幼なじみであることは、ルカでなくとも皆知っていることだった。思えば奴は、色々と策を編みだす所はかなり使えたが、ジルを望んだ当たりからは油断できない奴へと変わっていた。奇襲失敗の一因も、もしかしたら奴にあるのかもしれない。
 ルカが死ねば、王位はジルに移る。だがジルではハイランドを治めることが出来ない。自然に王位はジョウイの許に転がり込む。奴の狙いは、そこだったのだろう。
「ボクは、あなたを……殺しません」
 自嘲気味に過去を思い起こしていたルカは、セレンの言葉で現実に引き戻された。
「なぜだ?」
 そればかりが口について出る。行動の全てが分かりやすいジョウイに比べ、感覚的に幼いセレンのやることを、ルカはどうも読み切れなかった。
「あなたがいなければ……ボクは今頃、静かに暮らせていた。ナナミが悲しむことは無かった。ジョウイが苦しむことも無かった。たくさんの人が傷ついて、殺されて、家を無くして家族を失って……。こんなに泣くことなんてなかったはずなのに!」
 どうして、こうなってしまったのだろうか。平和になるはずだったのに。
「……俺は後悔も謝罪もする気はない。俺は俺が思うままに生きた。なにも知らずにぬくぬくと肥え太る人間どもが何をしてきたか。この俺に何をしたのか。忘れることは許さない。俺は、この世の全てが憎い」
「だから……巻き込んだ? 勝手すぎるよ、そんなの!」 
「貴様らに生きる価値は無い。それを教えてやったに過ぎん!」
「じゃあどうして、殺さなかったのさ!」
 両手を広げ、セレンは怒鳴った。うっすらと目尻には涙が浮かんでいる。唇をきつくかみしめ、黒曜石の瞳を揺らしながら。
「どうして、蛍を殺してしまわなかったの!? ちっぽけな命じゃないか。人間の命は、ちっぽけな蛍よりも意味がないものなの!?」
 今度はルカが言葉に詰まる番だった。
「ねえ、答えて。どうして?」
 ベットの上に手をつき、下からのぞき込むようにルカを見上げてくるセレン。彼はそっと、ルカの左手を握った。
「……!」
 強烈な痛みがルカを襲い、息が詰まってルカは前屈みに左腕を抱き寄せた。
「痛いでしょ? 痛いんだよ、みんな。斬られて、奪われて、とっても痛いんだよ!」
 過去にルカに何があったか、セレンは知らない。知らないからこそ言えることだってある。ルカの抱く憎しみに同情してやれるほど、セレンは大人ではなかった。
「その痛みを、忘れないで下さい。ボクはあなたを許さない。あなたが死ぬことも許さない!」
 死ぬことは逃げることだ。この世の苦しみの一切から解き放たれ、初めて魂が自由になる。それが死ぬことだとセレンは思っていた。だから、死ぬことは全ての責任から逃げ出すことなのだと、無責任なことなんだと、考えた。
 死んでしまったら、全部がそこで終わる。ルカの悪行も、いつかは忘れ去られる。
 傷ついた大地を耕すのも、血を流した体を慰めるのも、全て遺されたもの達の仕事になる。痛めつけるだけ痛めつけ、勝手に死ぬのは許し難い。自分のしたことには最後まで責任を持って欲しい。
 ルカは表向きは死んだことになっていて、戦いは終わったのだと皆信じている。これから先、どうなるかまだ分からないけれど、少しでも長くこの平和なときが続けばいいと、セレンも思っている。自分はラストエデン軍のリーダーとして。ジョウイは、ハイランド国の若き将校として。広い世界をどう変えていくか、それを見届けることこそ、ルカの責任だと、思う。
「あなたには生きてもらいます。勝手に死ぬことはこのぼくが認めない」
 分かたれたひとつの紋章。その意味が未だつかめないままだが、このまま終わるはずがないことは、セレンも何となく感じていた。
 荒れ狂う歴史の中で、自分の成すべき事を見定めるのは難しい。だが、望まれる限りは自分がここにいる意味がある。その結果がどんな悲しみを産むのかは、尋ねても答えは返ってこないけれど、漠然と知っている。
 ひとつがふたつに別れていることは、自然な事ではない。同じ27の真の紋章を持つ人はそう言っていた。
 おそらく、戦いはまだ終わっていない…………。
「生きて下さい。生き続けて、ボクと……ジョウイが成そうとしていることを、あなたの目で見届けて下さい」
 勝手なことを、と呟いたルカを、セレンはいっそう寂しげな表情で見つめた。
「これは……罰です。ボクがあなたに科す…………罰です」
 生きること。それはとても難しいこと。
「これ、食べるもの……少ないですけれど、今日はこれで我慢して下さい。明日になったら、また何か持ってきます。そっちにあるのは薬と包帯で……飲み水は壁際の瓶に入れてあります。足りなくなったら、少し行ったところに小さな泉がありますから」
 セレンはベット脇の簡素なテーブルに籠を置き、中身の説明を始めだした。包帯を新しいものに替えたがったが、ルカが触られることを拒否したため、薬の使い方を簡単に説明して、おとなしく引き下がった。
 ずっと外で待っていたのだろうか。話が一段落着いた頃、ルックが戸を開けて中の様子をうかがってきた。
「そろそろ戻らないと、後でうるさくなるよ」
 ここでルカが生きていることを知る者は、この場にいる人間しか知らないことで、出かけるときも誰にも目的地を言っていない。いくら戦争が小康状態に陥り、新たな展開も当分見えない一時の平和が訪れているとはいえ、終戦宣言もまだの状態。ラストエデン軍のリーダーが、たとえ半日とはいえ行方不明なのは問題がある。とくに筆頭軍師のシュウは、最近は落ち着いてきているものの、あの口うるささはルックでもうんざりする。
「分かった。……明日、また来ます」
 ルックに返事し、振り返ったセレンはまだベットの上で警戒心丸出しのルカにそう言った。本当は他に話したいことが沢山あったはずなのに、いつの間にか自分が、一人の少年でなくなってしまっていることに気がついただけで終わってしまった。
 でも、まだ時間はあると思い直す。これからまた変わっていけばいい。いつかルカを許せる日が来るかもしれない。そう祈ることにした。
「…………セレン………………」
 扉口前に来たところで、かすれたような声でルカが名前を呼んだ。
 立ち止まる。ドアに触れた手は微かに震えていて、セレンは反対側の手で強く手を握りしめた。
「……生きて下さい。生きて…………償って下さい……」
 扉を開け、外に向かって駆け出す。涙がこみ上げてきて、嗚咽が漏れてセレンは近くの木の根本にうずくまった。
「……助けて……助けてよ、おじいちゃん…………」
 何処に行くこともできない少年の悲痛な声は、風に乗り、静かに消えていった。