どこまでも続いているらしい、深い闇。
らしい、という表現にはそこ闇が何処まで、本当に果てなく続いているのか或いはそれとも、一瞬先に唐突に途切れてしまっているのかさえも分からない、という意味が込められている。
どんなに目を凝らしても先を見ることが出来ない。だからそれを「闇」と言うのだ。
最終的に彼は視覚で闇の果てを捜すことを諦め、瞼を下ろした。目を閉じる。ひとつの感覚が閉ざされたなら、別の感覚を鋭利にして捜せばいい。セオリー通りの行動に移った彼だったが、しかしそんな彼を嘲笑うかのように闇は果てを彼の前に示さない。
入ることが出来たのだから、出口だって何処かにあるはずだ。
その根拠など、実際にはないのに。
気が付けば彼は其処に居た。今閉ざしている瞼を最初に開いたとき、もうすでに其処は闇一色に染められた世界だったのだから。
自分の意志で訪れた場所ではない。だから自分の意志云々で出られるという保証もない。
そして彼には、この闇しかあり得ない場所に心覚えがあった。
知っている、この場所を。この闇を、この世界を、この感覚を。
あの時のこんな風に目で捕らえることが出来ないものを捜そうと、瞼を閉じて残る感覚に頼ろうとした。けれど出来なかった。
どう捜しても、何をやってもこの闇から抜け出すことが出来なくて、最後は諦めてしまったはずだった。
そして、それから。
どうなったっけ?
彼は重い瞼を開けた。相変わらずその向こう側は闇ばかりで何も見えない。いや、見えたところでそこに何かがあるわけではないから、何もない虚無の空間を見ずに済むだけまだこの闇は優しいのかも知れない。
暖かくはない、けれど寒いわけでもない。冷たくはない、熱くもないけれど。
しかし肌は冷えている、それは神経が冷えていく感覚に似ている。指先から徐々に、自分の身体が闇に同化して消えて行くような錯覚を覚えてしまいそうになるくらいに。
否。
彼は試しに肘を曲げて自分の指先を凝視してみた。
ものを目に写し取る為には光が必要だ。しかしここにあるのはその逆の性質、闇ばかりである。故に例え目を見開いたところで、どんなに手を間近に迫らせたところで、其処にあるものを見出すことは出来ないのに。
指先を折り曲げてみた。
感覚が遠い。繋がっているはずなのに、まるで他人の指を折り曲げようとしているかのような痛みが脳に届けられる。
侵蝕される――――
思わず唇を噛んだ。
手足の感覚が鈍くなっていく。次第に遠くなっていく神経を留めることが出来なくて、それが悔しい。
二度と来るまいと誓った場所のはずなのに、気が付けば自分はまたこの場所に戻ってきてしまっている。今度も戻ることが出来るという保証などありはしない。一度目、あの時は一体どうやって自分はこの闇を抜け出したのだっただろう。
何故、ここへ来てしまったのだろう。
闇の手が伸びる、彼の身体を呑み込む。
包み込まれる。
すべてがもう、どうでも良い気分になっていく。
彼は再び目を閉じた、重く長い息を吐き出す。そして全身を闇に預け、四肢を投げ出した。
どうでも良かった。
喰らいたいのであれば喰らえばいい、この身体がはたして美味かどうかは分からないけれど。喰らいたいと思う存在があるのだとするならば、その存在にとって自分は美味なのだろう。
感覚が遠退く。
どうせ最初から、あって無いに等しい存在だったのだ、自分は。
それが跡形もなく消え失せるだけの話し。何も哀しい事、苦しいこと、辛いことはないはずだ。誰も哀しまない、そういう生き方をしてきたじゃないか。
いつ消えても良いように、いつ誰の目にも見えなくなっても良いように。
最初から、自分は誰の目にも留まらない卑小な生き物だったではないか。悔やむことはない、寂しいと思うこともない。
誰も、自分の事を必要としていないのだから。
ああ、そうだった。
あの時の自分は確かにそんな風に思って、闇に身を委ねていた。殆ど消えかかっていた。
引き戻したのは、君の声。
消えていく、なにもかもが記憶と共に。
積み重ねてきた歴史、それはとても長いもので君と過ごした時間などそこから計算したらほんの一瞬の、瞬きする間に等しい時間だったはずなのに。
君が、呼んだから。
ぼく、を、呼んだから。
ひとりじゃないと、もうひとりは嫌だと、思ってしまったんじゃなかったのか。もうひとりにならなくて済むと、思ったんじゃなかったのか。
それなのにどうしてまた自分は、ここにいる?
彼は眉根を寄せた。思案顔で目を見開く。
闇、闇、闇。
しつこいくらいに彼の身体をむしばもうとしているそれらを、軽く全身を振ることで追い払う。その程度で諦めるような淡泊さを持ち合わせていない闇は、また触手を伸ばして彼を捕らえようとする。
うごめくものがある、それは闇という触媒を得た禍の意志か。
帰らなくては。
今はしっかりとそう思った。帰るべき場所があるから、自分はいつまでもこんなところでうかうかと遊んでいる余裕はない。けれど肝心の帰るべき場所がどの方向にあるのかが、分からない。
あの時のように君が呼んでくれたなら。
すぐにでも飛んでいけるだろうに。
浅く唇を噛んだ、痛みが甦ってくる。
右手がすっぽりと消え失せるような感覚が伝わってきた。目を向ける、闇の中に己の腕さえ見出すことは出来なかった。
食われた。
咄嗟にそう思った。だけれど、帰ることが出来るのであれば右腕一本など、惜しくない。君は困るかも知れない、片腕ではベースも弾けない。
それでも、そうだとしても。
これは我が侭だろうか。
ぼくは君の傍に居たい。
「ユーリ……」
今度は左足、が。
消え失せていく。
闇の侵蝕は止まることを知らない。ここは闇の世界、ここは奴らの領域であって、彼の力でどうにか出来る場所でもない。
「ユーリ」
駄目なのだろうか。帰ることが出来ず、このまま闇に食われて終わるのだろうか、自分は。
それがお似合いだと、嗤うのか?
自嘲気味に彼は口元を歪めた。
誰が決めた、そんなこと。何処で生きるか、どこで死ぬかを決めるのは自分だ、他の誰でもない自分にしか、その決定権は与えられていないはずだ。
譲らない、渡さない。
この命は、ただひとり。
貴方のためだけに。
「ユーリ!」
名前を呼んで。
道を照らして。
君の声を聞かせて。
この腕で抱きしめさせて。
君の傍に居させて。
君のために生きることを許して。
君だけの為に。
この我が侭を、どうか許して。
左腕が落ちる、右足が食いちぎられた。
闇が押し寄せてくる、呑み込もうと鎌首を擡げて醜く涎を垂らしている。最後の抵抗のつもりで、睨み付けてやった。
こころ、で。
君の名前を呼び続けた。
そして。
こころの欠片さえも消え失せようとしていた一瞬に、強く抱きしめられた気がした。
目を開いた先は、やはり闇だった。
けれど微妙に違っている。何故だろう、とぼんやりする頭の片隅で考えながら彼は身体の位置を僅かにずらした。
「ん……」
その途端、自分のものではない小さな呻きのような、寝息のような声が間近で聞こえて心臓が飛び跳ねる程に驚いてしまう。まだ身体ごと飛び退かなかったのは、細く残っていたプライドの為だろうか。
どちらにせよ、この場所に自分以外の誰かが居ることにまず驚いてしまう。
少しずつ感覚が戻ってきて、意識も靄掛かっていたものがすっきりと晴れ始めた。同時に、自分が今居る場所と此処にいる理由となった記憶も戻ってきた。
そう、ここはリビングの片隅にあるソファの上だ。夕べ遅くまでこの場所で部屋から持ち出してきた仕事をやりながら、眠気覚ましにコーヒーを飲んでいた記憶がある。けれどそれも途中でぷっつりと途切れていた。
いつ、眠ってしまったのだろう。
そして彼はいったいいつから、自分の横で眠っていたのだろう。
今目覚めるまでまったく気づかなかった事に不覚を覚え、彼は頬を指先で引っ掻いた。
彼の右肩に頭を預ける格好で、ユーリが眠っている。それも、やはりいつの間に持ち込まれたのか良く解らない、しかもどこから持ってきたのかも少々謎なタオルケットでしっかりと全身をくるんで暖を取ることを忘れていない辺り、ちゃっかりしている。
申し訳程度に、タオルケットの端の方が彼の腰辺りを覆うように掛けられていた。だったらその抱きしめている部分を分けて欲しかった、と今頃に覚えた寒気に身を震わせる。
暖房を忘れられたリビングは、カーテンが引かれた窓から差し込む僅かな月明かりが仄かに灯るだけで、薄暗く寒い。もう一度身を震わせ、自分に与えられたケットをもっと余分に求めようとユーリが抱きしめているケットを引っ張った。
ここで彼が目を覚ますかも知れない、と考えなかったのは不覚中の不覚だったろう。だが覚醒したばかりの彼に、そこまで心配りをしろと言う方が無理な話だ。
「ぅん…………?」
もぞり、と動いたユーリが薄く目を開く。まだ半分意識が眠ったままなのだろう、トロンとした目は焦点が定まっていない。
「さむ……」
そう呟き、彼は引っ張られて奪われた分のケットを取り戻そうと逆方向へ引っ張り始めた。全身を簀巻きのようにグルグル巻きにしないと、薄手のケット一枚ではリビングと雖も寒い。しかしひとりで暖かさを独占するのは狡いと、彼は思ってしまったから。
更に強く、ケットを自分の方へと引っ張った。当然、半分眠ったままのユーリよりも殆ど覚醒しきっている彼の方が発揮できる力の分量は大きい。
ずるっ、と簡単にユーリからケットは引き剥がされてしまう。だが最後までしっかりケットを握りしめていたユーリまで一緒になってコロン、と彼の方へ転がってきた。
ちょうど膝の間に彼の身体が納まりきる格好になる。
「ん~~」
眉間に皺を寄せ、寒いのが嫌々という風情でユーリが首を振り、もぞもぞと手を動かす。虚空を僅かに彷徨ったそれは、最終的に自分を抱き込む格好になった彼の肩に辿り着いた。
抱きしめる。
胸元に寄せられた頬は熱を求めるかのように、心臓の上辺りで止まった。
「ユーリ……」
引き剥がしてしまったケットを持ち直し、膝の上にユーリを抱えて彼は彼の身体ごと、自分の肩にかけてケットを掛けた。端を身体とソファの革張りの間に挟み込み、ずれ落ちないように固定してから今度は、乗っかっているユーリの背に手を回して彼が落ちていかないように支えてやった。
そしてユーリの耳元に顔を寄せる。
「起きてるでショ」
動きに淀みがないところで、ピンと来た。
もともとユーリはかなり敏感な方だ、ケットを引き抜かるような事があっては目覚めないはずがない。寝ぼける、という可愛い段階ではなく本当にちゃんと、目覚めているはずだ。
「…………」
「惚けるつもりなら、こうするまで~~!」
しかし呼びかけても返事が無くて、白を押し通すつもりらしいユーリに彼は一声夜であることも憚らずに叫んで、膝の上に小さくなっている存在を思い切り抱きしめた。肩口に顔を埋め、軽く歯を立ててやる。
「こらっ!」
咄嗟にそんな制止の声が飛んできて、直後にしまった、と言わんばかりの舌打ちが続く。にぃ、と楽しげに笑った彼に不機嫌そうに、ユーリが視線をあげて軽く睨み付けた。
「やっぱり起きてるじゃない」
「うるさい」
あのまままた眠るつもりだったのだと、随分と可愛らしい言い訳をしてくれて彼はまた顔の筋肉を緩ませた。どうしても口元が笑ってしまう。
「このまま?」
そう言って彼は背に回している両腕に力を込め、ユーリを自分の胸に押し込める。密着する部分が多くなって、同時にケットの中を循環するぬくもりが増した。
触れあう箇所から熱が駆けめぐっていく感じがする。
「うるさい……」
些か先程よりも声の調子が弱くなり、ユーリは顔を伏せる。彼の鎖骨の下辺りに額を押し当てるので、表情は陰に入り見えなくなってしまった。肩に回したままのユーリの手が、微弱に震えている。
宥めるように――彼には何を彼が怯えているのか分からなかったけれど――背を撫でてやる。寒がっても無理ない薄着のユーリに顔を顰めてしまいたくなり、代わりに吐息を零す。
それをなにか別のものと誤解したらしいユーリが、押し当てていた額を離し、代わりにやはり薄着の彼の胸元に頬を寄せた。
擦りあげられると、一緒になってシャツの布地が彼の頬に引きずられる形で皺を刻む。
「呼んだ、だろう」
ぽつりと零れ落ちたユーリの呟きに、彼の手が止まった。
「ずっと、呼んでいただろう?」
お前が、私を、と。
挑むような視線を感じて下を向く。逸らしたかった視線は紅玉の瞳に捕まってしまい、外せなくなってしまう。魅入られたように見つめていると、ユーリは薄い笑みを浮かべて背を伸ばした。
「今夜だけだ」
回していた腕を解き、目の前でそう囁いて。
ユーリが首を傾げた。
一瞬だけ触れあった、重なり合った唇からの熱が痛いほどに。
「許してやる」
「ぁ……」
不意に。
溢れ出したものが止まらなくなって、茫然と彼は自分の唯一になってしまっている右目を押さえ込んだ。けれど、止まらない。
その右手の上にも、ユーリは優しいキスを落としてくれた。
「今夜だけ、だ」
間近で囁かれることばは、どこまでも優しい。
「言わないでよ」
縋りたくなってしまうではないか。続けられず、呑み込んだ言葉を察したのか、ユーリはまた幾らか自嘲気味に微笑んだ。そして右目を隠している彼の右手をゆっくりとした動きで取り払う。
「構わない」
そう告げて、今は濁ってしまっている丹朱の瞳にもくちづけて。
そのかいなで彼を抱きしめる。
「今夜だけ、許してやる」
ここに居ることを。
傍にあることを。
縋ることを。
泣く、ことを。
すべては今夜一晩だけの儚い夢の事のように。朝日が昇れば泡のように消え失せてしまう、うたかたの夢のように。
今夜、だけ。
「ユーリ……っ」
嗚咽が漏れる。隠すことなく、なにひとつとして誤魔化し嘘にしてしまう事なく。全部、吐き出して。
吐き出してしまえ、と。
優しい声が囁いている。
「大丈夫だ」
強く見えるものは案外弱く、脆い。それを隠し通すこともまた強さかも知れない、けれど隠し続ける事で生じる弊害を、彼らはどこで昇華するのだろう。胸の内に溜め込んでしまった暗い部分は、いつか捌け口を求めるに違いない。
いつか、必ず、そのものを食い尽くすだろう。
己の中にある闇が、己を喰らうのだ。
「大丈夫だ、スマイル」
再び首に回した腕で強く抱き寄せて、その溢れ出して止まらない彼のすべてを受け止める。その痛み、哀しみのすべてを引き受けてやる。
ひとりではないのだと、分からせる為に。そして自分自身が分かる為に、も。
「お前は此処にいて、これからもずっと此処に居るんだ」
隣に。
傍らに。
ずっと。
永遠に。
君と。
一緒に。
ここで――――――
……ユーリ……
……なんだ……
……ゴメンね……
……………………
……あと、それから……
……それから?……
…………アリガトウ…………