蛍火

 綿雪のように降る光。あの中で君は何を願い、祈るのか………………

 昼時を過ぎたキャロの町を、一台の馬車がゆっくりと走っていた。
 控えめながらも荘厳な飾りをあちこちにちりばめ、窓にはカーテンが掛けられているため中にいる人物は見えないが、それ相応の位の高い人物が乗っているのだと、容易に想像が出来た。車を牽く馬は二頭とも、数の少ないと言われる純白の毛並みをしており、御者の姿も、どこか威圧感があった。
 キャロの町は、かつては都市同盟と所有権を争った血なまぐさい過去がある町だが、山に囲まれ、夏でも涼しいことから、皇都に住む貴族達や王族でさえも、こぞってこの町に別荘を建てていた。その為、こんな山間の町だというのに人口も多く、十分すぎるほどに栄えていた。
 町の大通りは馬車でもすれ違うことが出来るようにと幅を広く取っており、石も敷かれてならされている。峠越えの時のような揺れに悩まされなくなり、馬車の中の人物は長旅で疲れた体をそっと動かした。気まぐれに窓おおいを上げてみる。長く訪れることの無かった町並みは、しかし以前とそう変わった様子もなく、彼の心をささやかに安らげてくれた。
「ん……?」
 手に持った布を下ろし、再び羊の毛を詰め込んだクッションに身を沈めようかと思っていた時。彼の目に一人の少年の姿が映った。
 ちょうど馬車は四つ角にさしかかっており、少年は交差する道の手前にいた。必死に何かを追いかけているようで、視線は宙をさまよっている。ふらふらと頼りない足取りは、まったくこの馬車の存在に気付いていない。このままでは……。
「!?」
 ガクン、と強い前後の揺れが馬車内を襲い、窓に寄りかかっていた彼は案の定、前方につんのめり膝をついた。馬の騒ぐ声がやかましく響き、予想が現実になったことを如実に彼に教えた。
「貴様!」
 御者の怒号が聞こえ、彼は普段はしない扉の開け閉めを自分でやらざるを得なくなってしまった。この馬車には彼と、外にいる御者の二人しかいないのだ。
 昼の日差しはまぶしく、外に出た彼は片手で額に手をやり逆行を遮った。数歩歩けば馬車の前方に出る。御者はまだ落ち着かないでいる馬をなだめもせず、路上に転がった少年に頭ごなしに暴言を吐いていた。
「この馬車に乗っておられる方がどなたか知っての狼藉か!?」
 御者の言葉を聞き、彼は嘆息した。この町への訪問は正式なものではない。いわゆるお忍びというもので、彼は静かに頭を振ると、鼻息荒いままの白馬の頭をそっとなでた。
「いい加減にしろ。人目がある」
 このまま御者を放っておけば、自分の身分まで暴露されかねない。それは望まざる事であり、今はこんなところで目立つわけにはいかなかった。
 御者はようやくその声を聞いて彼の存在に気付いたようで、振り返った御者の顔は焦りに染まっていた。
「でん……」
 言いかけ、彼に睨まれて慌てて口を押さえる。目で馬を落ち着かせるように命じられ、はじかれたように二頭の馬のもとに駆けていく。本人にしてみれば、彼の機嫌を損ねさせないために必死だったのだろうが、それが裏目に出てしまった形だ。
 まだいくらか若い御者の背中を見送って、彼は膝を折ってまだうずくまったままの少年を見た。
「怪我……か」
 左足を押さえている。手をどかせると膝が赤く染まっていた。他にも腕にもいくつか傷があった。
「ルカ様」
 御者が戻ってきて彼に声を掛ける。振り返った彼は出発できる事を確認してから、うずくまっている少年を両手で抱え上げた。
「ルカ様、何を……」
 少年も御者も、これには驚いたようだ。
「屋敷に連れていく。貴様の不注意から市民に怪我を負わせたのだ。貴様の不手際は雇い主である私の過失になる。もしここでこいつを放っていったことが知られては、我が王家の名に傷も付こう」
「は、はい…………」
 遠回しに「お前はクビだ」と言われたも同じで、御者はがっくりと肩を落とし、ルカのために馬車の扉を開けた。
 二人を乗せた馬車はすぐに発車し、先ほどよりかいくらか速いスピードで通りを抜け、やがて角を曲がりキャロの町でも最も大きく、豪奢で知られる屋敷へと入っていった。

 待ちかまえていた侍女の一人に少年を預け、ルカは自室に向かった。長旅ではなかったが、山越えもあり、体は疲れていた。
 クローゼットを開くと、かつてここを訪れたときに身につけた衣服はなく、今の自分のサイズに合わせて作られた服が何着も並べられていた。いずれも華美でなく、だが質は最高級の物が使われている。白を基調とした服に着替えると、そのなめらかなさわり心地が気持ちよかった。
 長く使っていなかった部屋は、きれいに片づけられている。彼の訪問は知らされていたから、先に窓は開け放たれていて、風通りも良く、まだ太陽は高い位置にあったが充分涼しかった。窓から覗く景色は緑に包まれ、ここがあの煩わしいばかりの皇都とは違うことを青年に教えてくれる。
 しばらく、時間が過ぎるのも忘れて窓辺から外を眺めていると、遠慮がちに部屋がノックされた。
「入れ」
 視線を動かしてドアの方を見ていると、おずおずと扉が内側に開き、初めて見る顔の侍女が姿を見せた。まだ幼さが残り、年頃の少女といったところの彼女は扉を開けきると、自分の後ろに隠れるように立っていた少年を促した。
「何か御用は……」
「ない。下がっていろ」
 彼女は命じられて少年をこの部屋に連れてきただけだったが、滅多に合うことのないルカをもっと近くで見ていたかったのだろう。なかなか去ろうとせず、仕事がないか尋ねてきたのを、彼は素っ気なく一蹴した。少女は物惜しそうに頭を下げると、連れてきた少年を置いて部屋を出ていった。
「傷は痛むか?」
 少年をここに連れてきたのは、ほんの気まぐれだった。御者にも言ったとおり、世間体の問題もあったが、あの時少年が何を追いかけていたのかに興味があったのだ。
「…………」
 しかし少年はルカの問いかけには答えず、物珍しそうに室内を見回している。恐らく5,6歳。着ている物はどこか粗末で、こういう所には慣れていないのだろう。落ち着きのない態度に、ルカは少しだけ、形の良い眉をひそめた。
「おい」
 声が自然ときつくなり、少年はびっくっ、と肩をふるわせた。話しかけられていたことにようやく気付いたらしい。小さな体を更に小さくして、ルカを見る。
 茶色がかった黒い髪、同じ色の瞳。額に金環をはめているのが特徴的だった。柔らかそうな頬はぷっくりとしていて、大きな目は今は怯えを含んでいた。
「あ、あの……ごまんなさい。ぼく……その、知らなくて…………」
 泣き出しそうな目をして言われ、そんなつもりはないのに、ルカはいじめている気分になった。
「ぼく、蝶々を追いかけてて……とっても大きくて、きれいだったから。でも、捕まえられなくて……それで…………」
 ズボンの裾を握りしめ、少年はついに大粒の涙をぼろぼろとこぼし始めた。
 なるほど、蝶か。そういえば馬車の周りをふよふよと飛んでいた気もする。と、さっきのことを思い出しながらルカは少年に近づき、彼の小さい頭をポン、と叩いた。
「気にしていない。それよりも傷は痛むのか?」
 半ズボンの少年の左足には、真新しい包帯が巻かれている。右腕にも巻かれていて、他にも数カ所、手当をした跡が見受けられた。だが、その大半が治りかけの……今ついたものではなかった。
「…………?」
 急に黙り込んでしまったルカの見ている物が何か分かったらしい。少年は照れたように頬を赤く染めて、
「ぼく、もらわれっ子で……弱いから」
「いじめられているのか?」
「……でも、お姉ちゃんがいつもやっつけてくれるの。ぼくも……強くなりたいけど……でも…………」
 かさぶたの出来た傷をなぞり、少年はうつむいた。ルカは黙って彼がその先を言うのを待っていると、少年は悲しそうな顔をして、
「……誰かをやっつけるために強くなるのは、……ぼくは、やだな」
 その声はささやきだったが、ルカの耳には届いていた。
「だが弱ければ、自分すら守れないぞ」
 反射的に答えていて、ルカは言ってからはっとなった。少年が驚いたように顔を上げて彼を見ている。しかし、少年はルカの言葉をそのままの意味に取ったのか、
「うん。だからぼくは、お姉ちゃんを守れるぐらいに強くなりたいんだ」
 幼子にはルカの境遇は分からない。あの程度の言葉で、ルカの心の底を見定めろというのは、余りに酷なことだろう。
「名は、なんという?」
「セレンだよ」
 すっかりルカに心を許したらしい。そしてまず間違いなく、彼はルカがこの国の皇太子であることに気付いていない。
「お兄さんは?」
 無邪気に聞いてくるセレンの表情は、近所の年上のお兄さんと喋っているそれと同じだった。
「俺は、ルカだ」
 正直に答えても、セレンはルカの正体に気付く気配はない。町の子供にいじめられているような子だ。皇族の顔や名前を知らなくても、何ら不思議はない。それにこの年で国王の名前ならまだしも、王子の名前まで知っている方がおかしいような気もする。
「ルカお兄さんは、きぞくさんなの?」
「どうしてそう思う?」
 正式には少し違うのだが、あえてルカは訂正しないことにした。
「だって、ぼく、こんなにきれいなおうちに入ったことないから。ぼくのうち、みんながおんぼろっていうの。……でもね、ぼく、ぼくの家すっごく好きだよ。だってね、おじいちゃんとお姉ちゃんがいるんだもん」
 両手を広げて、楽しそうにセレンは言った。
「ぼくね、おじいちゃん大好き。とっても優しいの。怒ると怖いけど、でもおじいちゃんがおこる時って、いつもぼくかお姉ちゃんが悪いことをしたときだけなの。それでね、おじいちゃんはぼくに拳法を教えてくれるんだよ。お姉ちゃんと一緒にね、ぼく、頑張ってるよ」
 感情が高ぶって、喋るときに足まで動きぴょんぴょん飛び跳ねる。コロコロ変わる表情に、ルカは新鮮さを覚えないわけがなかった。
 ルカにはちょうどセレンと同じくらいの妹がいるが、彼女はあまりルカになついていない。いや、ルカが彼女を避けていると行った方が、もしかしたら正しいのかもしれなかった。ジルは大事な存在に変わりない。しかし……。
「お兄さん?」
 物思いに耽ってしまっていたらしい。顔をのぞき込んできたセレンの顔が意外なほど近くにあって、ルカは驚いてしまった。
「すまん……どうした?」
 内心の焦りを隠し、ルカは尋ねた。セレンは窓の外、夕暮れに染まり始めた空を見上げていた。
「ぼく、そろそろ帰らなきゃ」
 遅くなるとおじいちゃんが心配する、と幼い声はつぶやく。セレンがここにいることは誰も知らないのだ。もしかしたら町中で見物していた野次馬が知らせに行っているかもしれないが、セレンの言っていたことを思うと、その可能性は低い気がする。
「そうか」
 息と共に吐き出した言葉に、何故か残念そうな気配があって、ルカをどきっとさせた。
「家まで送らせよう」
「ううん。一人で帰れるよ」
 馬車で送ってもらったら、それこそ祖父をびっくりさせてしまう。負けず嫌いの姉は今日のことを根ほり葉ほり聞きだして、自分もここに来ると言い出しかねない。ルカはかまわないと言ってくれたが、そこまで迷惑は掛けられないと幼心にセレンは知っていた。ここはセレンにはあまりにも不釣り合いだということを。
 だが、せっかく仲良くなれたのに、このまま別れてしまうのはセレンも嫌だった。
「……ルカお兄さん……」
 少し考え込んで、セレンは真っ直ぐにルカを見上げた。
「あのね、今夜、会える? ぼくの秘密の場所、教えてあげる。おじいちゃんにもお姉ちゃんにも教えてないんだけど、ルカお兄さんには特別、教えたげるから」
 ルカの袖を引っ張って尋ねてくる。
「特に予定はないが……」
 もとよりお忍びの休暇だ。予定などあってなきが如しもの。そう答えると、セレンはとたんに嬉しそうに顔をぱあっと明るく輝かせ、
「じゃあ、じゃあね! 今夜、町の外の林に来て!」
「林と言っても……この辺りは森で囲まれているだろう?」
「南の入口の所! そこで待ってるから。絶対に来てね。約束だからね!」
 小指を強引に絡め合わせ指切りをすると、セレンは駆けだした。扉口のところで背伸びをしてドアノブを回すと、自分が通れるだけ開けて、それから思い出したように振り返る。きれいな黒曜石の瞳をルカに向けて、
「絶対だよ!」
「あ、ああ」
 勢いに押されて頷いてしまった。
 セレンの消えた扉をしばらく見つめたあと、ルカは自分に呆れて息を吐き、髪を掻き上げた。

 夜。
 星明かりに照らされ、外は思ったよりも明るかった。屋敷の人間に見付かるとあれこれうるさく言われることは分かっていたので、ルカはなるべく目立たない色の服に着替え、息を潜めながら裏口から庭に出た。そのまま通用門を通り抜け、昼間セレンの言っていた南の門を目指して歩き出す。
 夕食を食べないのは不審がられるので、手短に済ませたものの、かなり遅い時間になってしまっていた。セレンは今夜、としか言っていなかったので、具体的な時間は分からない。もしかしたらもう来ているのかもしれない。そう思うと、自然と足が速くなる。
 夕闇の中、道の両脇は一家団欒の明るい炎で揺らめいている。もう外を出歩く人の姿はない。町中とはいえ、夜は危険なことに変わりないのだ。そしてセレンは町の外、林の入口で待っているという。
「ここ、か?」
 警備兵もいない、田舎の町の出口。町の灯りも届かないこの場所で、だが、
「ルカお兄さん!」
 セレンはすぐにルカが来たことが分かったらしい。門の辺りに姿を見せた彼に、小さな少年が飛びついてきた。
「よかった。あんまり遅いから心配しちゃった」
 ルカの胸元に顔を埋め、とても嬉しそうに笑う。一体いつから待っていたのだろう。握ったセレンの手は冷たかった。
「悪かったな。屋敷の連中に見付からないように出てくるのに時間がかかった」
 そっとセレンの両手を握ってやると、照れたようにセレンは舌を出しはにかむ。それからくるりと踵を返して方向転換、ルカの手を引くとおもむろに走り出した。
「何処ヘ!?」
 闇で足下さえ見えない林の中にはいることは、ルカにとっては恐怖以外の何物でもない。だがセレンは慣れた足取りで小走りに獣道を駆けていく。置いて行かれてはたまらんと、ルカも必死でセレンを追いかけるが、何度も足を木の根に取られて転びそうになった。
 やがて闇に目が慣れ始めた頃。突然、彼らの視界が開け、闇が消えた。
 セレンの足が止まり、ルカも数秒遅れで立ち止まる。そこは今まで走ってきた林の中とは、まるで別世界のようだった。
 視界が開けたのは、そこに生える木々がなかったから。闇が消えたと思ったのは、辺り一面を覆い尽くさんばかりの蛍だった。
 そこは森の獣たちが使う、小さな泉のようだった。しかし眠りの時間に入っているのか、森の住民の姿は見えず、代わりに淡い光を放つ蛍が、綿雪のように空を漂っている。
 ルカは蛍を見るのは勿論始めてではなかったが、これほどに大量に、しかもすばらしく美しいこのような光景は初めてで、思わず一歩前に出て目の前の幻想的な景色に見入ってしまった。
「……ここが、ぼくの秘密の場所」
 気に入ってくれた? と聞いてくるセレンに頷き返し、ルカは右手を前に伸ばした。一匹の蛍が彼の指先にとまり、光を明滅させる。真似をしてセレンも両手を伸ばしたが、蛍は彼の思うところにはとまってくれず、癖のない髪にとまった。
「気に入られたようだな」
 ルカが笑って言うと、セレンはすねたように唇をとがらせ、ぷいと横を向いてしまった。
「よく来るのか?」
「うん。危ないって知ってるけど、凄く好きなんだ。ここに来るの。蛍……きれいだね」
 泉の水面に浮かぶ月と、蛍達の一夜の淡い光。夢の中でまどろんでいる時のようで、ルカとセレンはしばらく、無言のまま蛍火を眺めていた。
 どれくらいの時間が経っただろう。先に口を開いたのは、セレンの方だった。
「……もう帰らなきゃ」
「叱られる、か?」
 なんなら一緒に言って事情を説明してやってもいいが、とルカが言うと、セレンは首を振る。
「おじいちゃんは知ってるの。ぼくが蛍、見に行ってること。この場所は知らないみたいだけど。ぼく……蛍の中で拾われたんだって」
 だからこんなに蛍が好きなのかな、とセレンは呟いた。
「この光を見てたら、安心するの。ぼくは一人じゃないんだって、思える。ぼくはここにいてもいいんだって」
 胸元に引き寄せた右手を抱きしめ、ひどく弱々しい声で彼は言う。
 セレンにしてみれば、蛍を眺めることは自分自身の存在を確認する事でもあったようだ。そんな風に思いながら、ルカは何故自分がここに来ることを許されたのかを考えてみた。自分は今日、たまたま偶然に知り合っただけの仲でしかない。それなのにセレンは、誰にも秘密だったこの場所を、ルカに教えてくれた。一体、セレンはルカに何を期待していたのか……?
「ありがとう。嬉しかった、来てくれて」
 にこりと微笑む彼の表情はどこか寂しげで、背伸びをしようとしている子供を思いだして、ルカは苦しくなる。
「なぜ、そんなことを言う?」
 疑問は自然に口からこぼれていた。
「分からない。でも嬉しかったの。ルカお兄ちゃんはぼくを見つけてくれたでしょ?」
 見つけたのはお前の方だっただろう、といいかけて、ルカはやめた。多分セレンが言いたいのはそんなことではないと気付いたから。
 もっと、もっと深いところでセレンはルカの何かを気付いていたのかもしれない。胸の奥に秘めた獣の感情以外の、ずっと忘れていた何かに。
「……帰るか?」
「うん…………」
 小さく頷き、セレンはルカの手を取った。軽く力を込めると、ぎゅっと握り返してくる。その力強さに、セレンはほっとする。
 帰り道はゆっくりだった。闇に慣れた目で道を探し出し、ルカの先導で林を抜ける。街道に出て北に上がり、キャロの町の門まで戻ってきたところで、セレンが何かに気付き、出した足を引っ込めた。
 何事かとルカも前方を見上げる。南門の前に、一人の老人が立っていた。
 いや、老人と言うには少し若いかもしれない。身にまとう雰囲気は隠居者のものに似ているが、ルカを見るその目つきは、未だ充分現役でつとまるものに違いなかった。ふと、皇都にいる、ハーン・カニンガムの姿が思い浮かんだ。
「おじいちゃん……」
 ぽつり、とセレンがこぼす。
 ルカの背中に隠れるように立つ彼と、門の前に立つ老人とを見比べる。どうすべきかとルカが悩んでいると、
「セスが迷惑をおかけしたようですな」
 落ち着いた声を響かせ、セレンの祖父は言った。
「いや、迷惑など……」
 セス、という響きに戸惑いながら、ルカは答えかけた。彼の言葉を途切れたのは、セレンがルカの服から手を離し、俯いたままながらも彼の横に並んだからだった。
「帰ろう、セス。ナナミも待っているぞ」
「うん…………」
 初めてあったときのように、きゅっとズボンを握りしめて、彼は祖父の声に頷いた。ルカは、それを止めることは出来なかった。
 ルカの手を握っていた小さな手は、彼の祖父の手に包まれた。
「それでは、失礼いたします」
 深々と頭を下げ、セレンの祖父は彼を連れ、町の方へと向き直る。だがセレンがすぐに動こうとせず、真っ直ぐに黒曜石の瞳をルカに向け、
「また、一緒に…………蛍、見ようね」
 約束だよ、と右の小指をルカに向ける。
「ああ、約束だ」
 ルカも自分の小指をセレンに向け、恐らく数年ぶりの笑顔を彼に送った。

 そして時は流れ、流れて。
 ひと夏のささやかな思いでは記憶の片隅に消えて久しくなり、あの日の夜の約束は、とても皮肉な形で、二人が望まなかった形で、実現したのだった。