冬が、来る。
あらゆる生物が眠りに就き、あるいは朽ち果てて固いからに覆われた種だけを地上に残し、命尽かせるものばかりの。
殺風景で物寂しい灰色の光景が繰り広げられる、あの季節がまた今年も巡ってきた。
今自分が踏みしめている大地も生気が薄れ、表面部分を覆い囲んでいた緑鮮やかだった芝も今は薄茶色に霞み、枯れ落ちる一歩手前だ。右足を一歩、裏側を擦り合わせるように前に出せばカサカサと、軽いばかりの音が通り過ぎて行く。
風が吹く、強い。
流される前髪を片手で押さえ込み、視線を上向ければやはり風に押し流されていく白い雲が群れを成し、西から東へと漂うのが見えた。速度は目に見えて解るほどに速く、上空では地上よりも遙かに強い風が吹き荒れているのだと教えてくれている。
雨雲ではないようだが、どちらにせよ地上に暖かさをもたらしてくれる太陽を隠す存在である。雲の大群から視線を外し、己の爪先に視線を落として彼は幾らか自嘲気味に表情を変えた。
抑え込むだけだった髪を握りしめる。少し力を込めて引っ張ると、頭皮が嫌がって痛みを訴えかけてくる。それで力を緩め、指先から細い銀糸を放ってやったのだがまだ恨みがましく、しばらく痛みは退かなかった。
「冬、か」
ぽつりと痛みを誤魔化すように呟くと同時に、また冷たい風が吹き抜けていく。
気紛れな風は庭木を揺らし、残り少なくなっていた枝に絡みつく葉を地上に落として去っていった。
一緒に、庭の片隅に小さな山を為していた枯葉を崩し、撒き散らして片付けもしない。まったくもって無邪気で迷惑な風のいたずらに目を細め、自分の方へ流れてきた黄土色に近い茶色をしたすでに死んでしまっている葉を一枚、彼は爪先で踏みつけてみた。
音はしなかった。手応えも空しいくらいに、なにもなかった。
足をずらしてみる。枯れた芝生の上に踏まれ、抵抗もせずにありのままを受け入れて砕かれた枯葉が一枚、パーツを散らかしているだけだった。
それも、じきにまた吹き荒れる風に攫われて何処かへ消える。恨み言のひとつも残すことなく、いっそ潔いと笑いたくなるほどに、呆気なく。
彼はまだ少しひりひりとした痛みを残している、己の頭部に手をやった。指先でその箇所をなぞると、若干痛みが増したような気がした。
そのあまりの差違に、苦々しい想いが胸を過ぎる。
冬は、嫌いだった。
生き物が力尽きる季節だ。何もかもが灰色に染まり、何もかもが同じに見えてしまう季節。色が失せ、味気なく、ただ寂しいばかりの寒いだけの季節に一体どんな意味があるというのか。
眠りに就いた彼らは、いずれ巡る春という季節だけを求めている。しかしその「春」が本当にやってくるかという保証は、実のところどこにもないことを彼らは分かっていない。
その眠りが一時的な休眠ではなく、一生目覚めることのない永眠である可能性を、彼らは忘れている。
その行為が酷く愚かしいものに見えてしまうのだ。
そして命を尽き果てさせたものたちも。
彼らの命にどんな意味があったのか、何を残せたというのだろう。ただ次の世代に繋ぐためのひとつの門としてだけの存在だったなら、その意味は未来永劫種を存続させるための道具でしかないではないか。
そこに、「個」としての存在意義は確立されていない。
けれど、だからこそ。
次代に繋ぐために命を張れるそのいじらしさと健気さが羨ましいと、時に思ってしまうのか。
一世代しか存在しない、子を成すことも種を繁栄させる事も必要なく求めない、ただ己の存在だけを追い求め固執する、輪廻の輪からはみ出してしまっている自分のような存在には。
野に咲く一輪の花でさえ、時に眩しすぎる。
色味を失ってしまった己の庭を見回す。地表を埋め尽くすのは薄い灰色、茶色の陰ばかりだ。
だのにその片隅で、ひとつだけ異彩を放つものを見つめて彼は無意識に眉を顰めた。
色合いを崩すそれに足を向ける。たった数歩で目の前に届いてしまった彼は厳しい視線を足許に向け、やがて膝を折りその場にかがみ込んだ。
目に映る灰色の光景に溶け込もうとせず、この寒空の下でなにかを勘違いしているのか健気に咲き誇る、季節外れの蒲公英が一輪。向日葵には到底劣るはずのない、しかし太陽の花とさえ称されるあの大輪の花にも負けることなく、真っ直ぐに上を向いて咲いている小さな花が、そこに。
あった。
雑草である。踏まれても踏まれても逞しく首を伸ばし日の光を貪欲なまでに求め、繁殖する。無数の種子を風に乗せて運ばせるのは、それらが生き残るために身につけた知恵だろう。空の一角を白い綿帽子が舞う光景は壮観だが、同時にそうまでして種を散らし生き残る事に固執する種に嫌悪もする。
だから、か。
白く細い指先は自然にその、あまりに季節外れで孤独すぎる小さな花へ伸ばされていた。
無意識に、唇を噛みしめていた。親指と人差し指の腹が、蒲公英の薄毛を蔓延らせている茎を挟み込む。あと少し、本当に少し、力を入れるだけでこの灰色の景観には不釣り合いな存在は消えて無くなるだろう。
「折るの?」
はっ、と。
真後ろから聞こえた声に、白昼夢から目覚めた彼は我に返り慌てて右手を退いた。反動で蒲公英は、地面を覆い隠すように広げている葉と深く大地を穿つ根以外の部分を大きく揺らしたが、幸いなことに彼の爪はその茎を傷つけてはいなかった。
そして彼は、今自分がしようとしていたことを改めて思い知り、愕然と声無くその場から動けなかった。陰を縫いつけられたかのように後ろを振り返ることも出来ず、茫然と揺らめいている蒲公英と己の掌ばかりを見つめている。
「折らないんだ」
どこか残念そうに声が続ける。近付いてくる気配も、その逆も感じなかった。数歩分の、少なくとも一秒そこそこでは近づけないだろう距離を保ったまま、そこに立って言いようのないプレッシャーを彼に与え続けている。
「どうして?」
彼は追求を止めない呼気を震わせ、右手を胸元に抱き寄せた。左手で包み込み、庇うように抱き込む。視線が蒲公英から外れ、見当違いの方向を彷徨っていた。
「折りたいんじゃなかったの」
だから手を伸ばして、茎を摘んで、力を込めるつもりだったはずなのに。後ろから邪魔が入った程度で止めてしまうような事だったら、最初からしなくても良かったはずだろう、と。
声は無慈悲に続いて、彼は黙ったまま首を振り耳を塞いだ。
気配が近付く、枯れ芝を踏みしめて一歩、また一歩進んできて。
背後。
立った。
「ユーリ」
名前を呼ばれ、背が震えた。大袈裟すぎる彼の反応に、声の主がカラカラと笑うのが聞こえた。
そのまま手が伸ばされ、片方が傅いているユーリの左肩に置かれる。まだ薄く笑っているのが空気で伝わってきて、その何をしでかすか分からない雰囲気に背筋が震える。乾いてしまった喉を潤すわけでもなく唾が口腔に満ち、飲み下すと喉が大きく上下して音が響いてしまった、そんな錯覚さえ覚えた。
右手が、降りてくる。
「冬の蒲公英、ね……」
彼が何を見ていたのかを改めて確認した声が、楽しげに笑う。
「でも……これは、ダメだね。種にはならないよ」
すでに寒さでいくらも弱っている様子があった、葉に生気は足りていなかったし花びらにも鮮やかさと輝きが満ちていない。それでも懸命に茎を伸ばして生きようとしているのに。
残酷な終焉を声は予言する。
「明日明後日には多分、萎れてるね。だったら」
どのみち近いうちに絶えてしまう命ならば、今此処で絶望を知らぬまま逝かせてやるのが優しさというものではあるまいか。
声の調子はあくまでも優しく、穏やかだ。微笑みを含ませ、ただ聞いているだけならそれが絶対の真実で正しい道であると思いこませるに足る、それだけの力を持っている声だ。
けれど。
降りて、それでもなお、分かっているはずなのに咲くことを止めない、諦めないでいる蒲公英へ、包帯を巻き付けた白い手が触れた瞬間に。
ユーリは。
「止めろ!」
短く叫んで、抱き込めていた己の両手でその右手を阻止していた。
冷え冷えとした風が吹き抜けていく。上空の雲は高速で東へと流れ、時折申し訳程度に漏れ落ちてくる木漏れ日もすぐに消え失せて見えなくなる。その一瞬の光に照らし出された姿を見上げ、唖然としてユーリは彼の腕に抱きついたまま手放すことを忘れてしまっていた。
微笑みは何処までも深く優しく、自分を見つめる隻眼の瞳は柔らかで穏やかだった。
膝立ちになっていたユーリの両手を、彼はゆっくりと解いていく。そして力無くその場にへたり込んだ彼の頭を二度、宥めるように、そして謝罪するようにポンポン、と叩いた。
「……ばかもの……」
「ゴメン」
初めから彼に蒲公英を手折る意志はなかったのだ。けれど自分のやろうとしていた事に動揺していたユーリは、それに気づく余裕がなかった。
両膝を抱き寄せて顔を埋め、ぽつりと愚痴をこぼしたユーリに彼は素直に謝罪の言葉を口にした。その彼はまだ立ったままで、今は座しているユーリの左隣にいる。気配は動かない、後ろにも前にも。
「嘘だよ」
やがて沈黙をうち破り、彼が言う。
「なにが」
「蒲公英。種は跳ぶよ、意外にしぶとい花だし」
少し条件が厳しいかもしれないが、綿帽子が空を舞う可能性はゼロではない。厳しい条件下であっても種族を残すために、子孫を繁栄させるための手段を色々な形で手に入れてきた花だから、この冬にもきっと、負けない。
「お前が言うと嘘臭い」
「失敬な」
顔を上げ、ユーリが言う。彼は即座に唇を尖らせて不満を口にしたが、怒っているわけではなくその証拠に瞳は微笑んでいた。
「春には……」
「?」
「咲く、かな」
「……きっとね」
視線を蒲公英へ戻し呟いたユーリに変わらぬ笑みを向け、彼は小さく頷いた。
根拠などない。それはただの楽観的希望的願いでしかない、自分よがりの身勝手な想いだ。それはふたりとも良く解っている。分かっているからこそ、だからこそその身勝手な願いが成就されるように祈りたくなるのだ。
「ユーリは、さ」
冷え込む空を見つめ、彼は言葉の矛先を変える。さっきよりは幾分動きが弱まった雲が、密集を始めていた。分厚い灰色の雲に覆われて空は見えない。濁った鉛色の風が吹き荒れ出しているのが遠目に、分かる。
「冬、嫌い?」
ユーリは答えなかった。彼と同じものを座ったまま見上げ、眉目を顰めているだけだ。
返事がないことを肯定と受け止めたのか、彼は言葉を続ける。しかし視線はやはりまだ、重苦しい環境を作り出そうとしている頭上遙かを向いたまま。
ユーリの表情の変化にも、気づかない。
「嫌いだったら、さ……」
雪深くただ寒いばかりの、色の失せた殺風景で寂しいばかりの光景が通り過ぎたあとの。
色に満ちあふれ、穏やかで暖かく鮮やかにすべてが輝いて見える季節まで眠る事も出来るのだと、彼は言った。
それは冬を越すためのひとつの手段だ。獣が巣に籠もり身を寄せ合って寒さに耐えながら春を待つように、固い殻に覆われた種が地面の下で寒さに震えながら暖かくなる日をひたすらに待つように。
嫌なものから目を逸らし、見ないでいるように。
クスッ、とユーリは笑った。
「お前は分かっていないな」
ゆっくりと膝に力を込め、立ち上がる。
視線が並んだ。魅惑的で挑戦的な紅玉の双眸が、鈍色の丹朱を真っ直ぐに射抜く。
「私は確かに冬は嫌いだが、同じくらいに愛おしいとも思っているぞ」
冬を越せないものたちは、春に生き残ることなど出来ない。ただ眠るだけではなく、堪え忍び春に伸びるための力を蓄える期間が、それが冬だ。ひとつの試練であると言っても良い、それを乗り越えられないものがどうして春を謳歌することが出来ようか。
冬を知っているからこそ、春の幸せが理解できる。冬を越したからこそ、春の訪れを歓びと感じることが出来る。
「……そ、か」
「ああ、そうだ」
告げ、ユーリは彼の胸板を軽く握った拳でトン、と押した。そして緩やかなペースで蒲公英とは反対側の、庭の奧へと向かって歩き出す。
「何処行くのさ」
「ひと雨来そうだ」
彼の質問に答えず、ユーリは背を向けて歩き続けながら頭上の鉛色が濃くなった空を指さした。促されて空を見上げ、これは雨よりも雪ではなかろうかと一瞬逡巡してしまった彼は、ユーリが向かう先になにがあるのかを思い出して手を打った。
庭の手入れをするための道具を入れてある小さな小屋が、確か庭の奧に控えめに建っている。例え雨であれ雪であれ、冷たい空からの贈り物は蒲公英にとって恵みになるはずがない。
「何処にあるか知ってるわけ?」
「捜せば見付かるだろう」
「そうやって小屋の中全部ひっくり返して、アッシュが泣くんだね~」
片付けるのは彼の役目である。瞼の裏にまるで目の前の光景のように楽に想像できる、あの哀れな狼男の泣き顔を思い浮かべ、ユーリは暫く瞑目し、
「なら、お前は知っているのか」
「勿論」
振り返った先に思いがけず彼が居たことに驚き、半歩退いてしまったユーリが同様を隠しつつ尋ねる。
返ってきたのは、自信満々に。
「知ってるわけ、ないじゃない」
一瞬茫然となってしまったユーリも、三秒後には我に返る。この時にはもう彼に追い抜かれていて、慌てて小走りに駆け寄ると何故か向こうの走り出して、いつの間にか競走になっていた。
「スマイル、貴様!」
「なに~?」
「知らないくせに、何故私より先に行こうとする!」
「だってさ~、宝探しみたいで楽しそうじゃない」
「貴様ぁ!」
叫び返してダッシュを決めたスマイルに大声で怒鳴りつけ、ユーリも負けじと風を切って走る。
大格闘の末に雪よけを蒲公英の上に完成させた時にはもう、かなり粉雪が舞い散っている時間帯で、二人して何故かズタボロになっておりそれだけでまずアッシュを驚愕させた。
が。
翌日、庭が真っ白に染まった中、物置小屋の惨状を発見したアッシュの悲鳴は遠く数キロ先まで遠吠えのように響いたという。
「冬の空気は澄んでるからねぇ」
「そういう問題か?」
暖かい格好をして、無事に雪の夜を越えることが出来た蒲公英を並んで見つめながらの暢気なスマイルの感想に、ユーリは呆れた顔を向けつつも否定まではしなかった。