Snow White

 どこからか、遠く鐘の音が鳴り響いている。
 重厚で荘厳な鐘の音色は凛と冷えた空気を震わせ、視線を巡らせてもどこにも音を発しているはずの鐘楼が見当たらないというのに、彼の耳にまでしっかりと届けられていた。
 もう一度上空を見上げ、真っ暗な闇の中を響き渡る鐘の音に耳を傾ける。
 吐き出した息が白く濁り、闇夜であるためにそれが尚更目立って白く見えた。つい面白くて、何度も無駄に息を吐くことを繰り返す。
「……っしゅ!」
 しかしやりすぎたのか、喉と鼻が冷えてしまったのか、小さなくしゃみが飛び出してしまった。
 空は一面の闇。太陽が沈んでしまっている時間帯であることもあるが、厚い雲に覆われてしまって月や星の光が地上にいる彼の手元にまで降り注いでくれていない事もある。冬場の大気は澄んでいるから星々が綺麗に見えるのに、と残念そうに吐息を零して彼は冷えてしまった己の身体を両手で擦った。
 両腕で反対側の腕をさする。そうすることで手の平と、薄い布一枚しか羽織っていない身体を温めようとするのだがなかなか上手くいかなかった。指先が痺れかけているのか、感覚が遠い。
 鐘の音が反響を残して次第に薄れていく。あれは時刻を告げるための鐘ではないのだろう、おそらく。
 それは今日のこの夜が聖なる日だから響いた鐘の音だ。大昔、聖なる人がこの地上に誕生した事を祝う神聖な一夜を告げる為の。
 皮肉げに微笑んで彼は腕を抱く指先に力を込めた。薄い布に阻まれた肉を握り、爪を立てる。ギリッと噛みしめた歯が軋み、音が奏でられた。
 ここは寒い、とても。けれど離れる事が出来ない、まるであの鐘の音に心が縛られてしまったかのように足が動かなくなっていた。
「……降れ」
 睨むように見上げた空に向けて呟く。
 ここは寒い。けれどもっともっと冷えて、何もかもを凍えさせてしまえばいい。そうすればきっと、きっと。
「ユーリ」
 きつく噛みしめた唇を小刻みに震わせている彼の背後から、窺うような声色が投げかけられた。彼はしかし振り返らず、ただ視線を足許へ落とし首を小さく振るだけに止まる。
「お前に用はない」
「ユーリになくても、ぼくにはあるんだよ」
 ほら、と言葉と一緒に差し出されたものはユーリが外出するときによくまとっている、黒のコートだった。柔らかな素材が使用されていて、薄手なのに意外と暖かくデザインも要所が凝っているので彼はお気に入りだったはずだ。
「風邪引くよ?」
 早く受け取れ、とコートを持っている腕を振ってスマイルはユーリの顔を覗き込む。しかし彼はふいっ、と顔を逸らしてしまって視線が被ることはなかった。そしてコートを差し出す手も押し返して拒んでしまう。
 怪訝な顔をしながら、スマイルは大人しく腕を引っ込めた。しかしその場から立ち去ろうとはしない。
 ゴーン……と、遠くなった鐘が最後の一音を響かせて風に流されていく。冷たく肌に突き刺さる風に顔を顰め、シャツ一枚でこの寒空の下に立っているユーリにスマイルは溜息をはっきりと分かる格好でついた。
「あぁ、日付変わったみたいだねぇ」
 薄れていく音色に大した感慨も抱かないらしく、スマイルが何の気無しに呟いた。風に巻き上げられる前髪を押さえつけ、落ちかけたユーリのコートを持ち直す。その部分だけ余計に布地を抱き込んでいる為、変に暖かいのが奇妙な感じだった。
 ユーリがゆっくりと、スマイルを見る。
「……さっさと戻ったらどうだ」
 不機嫌だという事が一発で分かる声で言われ、スマイルは苦笑する。
「ユーリがこれ、着てくれたら戻るよ」
 そう言って彼はまだ腕に抱きしめている黒のコートをユーリに向けて差し出した。しかし一瞥するだけでまた視線を逸らしてしまったユーリに、困ったものだと肩を竦める。
「そんなに聖夜が嫌い?」
「別に……」
 ただなんとなく苦手なだけだ、騒がしいばかりの夜が。明るく照らされる夜は、闇の中に在るべき存在には疎ましいだけであり、苦手でない方がどうかしている。
 だから平気な顔をして其処に立っている男も今夜ばかりは苦手で、なるべく近付きたいとは思わなかったのに。
「イイじゃない、お祭り。にぎやかなの好きだよ、ぼく」
「お前の事を聞いているわけではない」
「じゃ、ユーリはどうなのさ。嫌い?」
「嫌い……ではない、が」
 ただこんな夜は自分の存在がひどく疎ましいものに思えてならない。聖者の生誕を祝う夜に、自分がこうして在る事が。奴らにとっての彼は消すべき、厭うべきものであるはずだから。
 そしてもしかしたら、向こうの方が正しく自分の存在が誤りであるのかもしれないと、考えてしまうから。
 だから。
「消えてしまえ、とは……思う」
「なに、を?」
 やや含みを持たせたような、何かを企んでいそうな顔でスマイルは短く言葉を切って言った。ユーリが表情を窺い見ると、楽しそうに単眼を細めて笑っている。そして不意に上空を仰ぎ見た。
 真っ黒い空。分厚い雲は重そうに天頂を覆い尽くしている。
 もう鐘の音は聞こえない。
「降りそうだね」
「――――え?」
「雪」
 空を指さし、彼はユーリの視線に戻って微笑んだ。
「……そうだな」
「ダメだよ?」
 言葉を濁しながらも同意して視線を落としたユーリに、畳みかけるようにスマイルが告げる。やはり微笑んだまま、彼のコートを抱きしめて。
「スマイル?」
「ユーリは、消えちゃ、ダメ」
 一歩、距離を詰めて彼が言う。思わず退きそうになったユーリだったが、ここで逃げたところでどうせどこまでも追いかけてくるだろう相手の性格を考え、やめた。しかし息を呑んでしまい、無意識に身体が強張ってしまうのは。
 彼に心を見透かされていると錯覚してしまいそうだから、か。
 冬の夜という寒さでない寒気が走って背が震える。スマイルがゆっくりと手を広げ、抱いていたコートを広げてそれをユーリの肩にそっと引っかけた。
 そしてそのまま、真後ろから抱きしめる。
「ダメだからね」
 念を押すようにまた耳元で囁かれ、聞きたくないユーリは固く目を閉じて首を振る。だのに、抱きしめてくる二本の腕をどうしても拒みきる事が出来なかった。
 白く冷え切ってしまった指先が弱々しく、前に回されて結ばれたスマイルの手首を掴んでいる。それも少しする間にスマイルに解かれ、焦げ茶色のグローブを嵌めている彼の手の中に包み込まれてしまう。
 温めるようにして揉み解され、大切に抱かれて。
 それでもまだ、消えない不安と孤独感と、それから。
 それから。
「ユーリ、雪が降る」
 はらり、と彼らの目の前をスマイルの言葉通りにひとひらの雪が舞い降りた。
 それはとても積もりそうにない儚いばかりの雪だったが、次第にその数が増して淡いスノーパウダーが彼らと世界を包み込む。
 音もなく、静かに。
「積もればいい……」
 真っ暗闇の中に浮かび上がる白い雪を見上げ、ぽつりと彼は呟く。差し出した手の平で降り続く雪のひとかけらを受け止めるけれど、それは少しだけ暖かさを取り戻した手の平の上ですぐに溶けて、消えて無くなった。
「積もらない、この雪は」
 夜半には雨に変わってしまうだろう雪空を見上げてスマイルが返す。無機質な声に感情は込められていない、ただ抱きしめている腕に力が込められただけ。
 熱が伝わってくる、息苦しい。
「スマイル」
「ダメ、ユーリ」
 行かせない、と彼は呟く。右の肩口に預けられた彼の額が微かに震えている事に、ユーリは今頃気づいた。それは決して寒さからくる震えではなく、ましてや言葉を発するために身体が揺れたからでもなく。
 ただ、不安で。
「積もる、この雪は」
 ひんやりとした感触が残る手の平をぎゅっと握りしめ、ユーリは微かな希望をもって告げた。幾らか自嘲気味な笑みを浮かべた後、右腕を回してスマイルの頭を抱く。
「行かせたくないのならば、しっかりと捕まえていろ」
 二、三度撫でてからユーリは自分の肩に引っかけられているだけの、今にもずり落ちてしまいそうなコートを引っ張った。抱きついたままだと彼がコートを着ることが出来ないと気づき、慌ててスマイルが退く。
 しんしんと降り続く雪の、その降り続く音だけがその空間を覆い尽くしていた。
 黒の中の、白。まるで闇の中に佇むユーリのようだとスマイルは思ったが、口に出すと殴られそうなので自分の心に思いはしまっておくことにする。
 コートに袖を通し、前もしっかりと留めて髪に積もってしまっていた雪を軽く払いのけたユーリが、黙り込んでしまっているスマイルに不思議そうな顔を向けた。取り繕うように笑顔を返すものの、どことなくぎこちなくなってしまった彼にユーリはいぶかしんだが、最終的には放置する方向に決めたらしい。
 白い息を吐いて、次々に落ちてくる雪の欠片を見上げる。
 その背中に、またスマイルが無言のままに抱きついた。
「スマイル?」
「捕まえてるから」
 ずっと、いつまでも、なにがあっても。
「こうやってたら、ユーリが雪に隠されちゃっても見失わないから」
「積もらない雪なのだろう?」
「さっき、ユーリが雪に魔法をかけた」
 ユーリが断言した通り、雪は徐々に粒を大きくして足許の枯れかけた芝を覆い尽くそうとしていた。この調子で降り続けば、明日の朝には一面銀世界が広がっていることだろう。
 スマイルの勘は外れた、見事に。
「魔法か?」
「そう」
 なんだか可笑しくて、笑いながら問い返すとやけに自信満々にスマイルは頷いてきた。その表情は真剣そのもので、尚更可笑しくてユーリは口元を覆い更に笑った。
「あんまり笑わないでよね~」
 不満そうに言いながらスマイルはユーリの肩に置いた顎をグリグリと回した。痛いよりもくすぐったくて、ユーリは今度こそ声を立てながら笑ってしまった。
「だから笑わないでってば~~」
 抱きしめる両腕で力一杯ユーリを押さえ込んでスマイルが拗ねた顔をする。腹を押さえられて苦しげに一度藻掻いたユーリは、最後の一息を笑いと共に吐き出してようやく落ちついたらしく荒く肩を上下させた。
「お前が笑わせるからだろう」
「笑わせようとしたわけじゃないんだけどねぇ……」
 不満そうに頬を膨らませながらスマイルがぼそぼそと言葉を繰り返し、耳元で囁かれているために吐息が当たってまだくすぐったいのを我慢しながら、ユーリは彼の手を握り返した。
 この手を掴んでいる限り、迷うことはあっても、見失う事はないだろう。何故かそう思えた。
「暖かいな……」
 まだぶつぶつ文句を零しているスマイルに小さく笑み、独り言を呟く。
 聞きそびれたけれども、彼が何かを口にした事には気づいたらしいスマイルが顔を上げ、肩越しに様子を窺ってきた。しかしユーリは首を黙って横に振り、なんでもないと誤魔化してしまう。
 そして、吸い込んだ冷たい空気をゆっくりと吐き出した。
 胸に回されているスマイルの両手を抱きしめて、静かに目を閉じる。
「ユーリ……?」

「Merry Christmas , Smile」

 しんしんと、静かに降り続く雪の音の中を凛とした声が通り抜けて行く。
 一瞬ぽかんとしてしまったスマイルだったが、すぐに表情を綻ばせて口元に笑みを浮かべ、同じように目を閉じた。

「Merry Christmas , Yuli」

 お互いに今更言い合って、向き合って笑いあう。自然と零れ出た笑みは収まることを知らず、声を立てていつまでも笑っていた。