見事なまでに降り積もった雪は、窓の外を一面の銀色に染めていた。キラキラと太陽の光を反射して、葉を落とした木々の枝にも積もった雪が輝いている。
「寒いよ」
窓を開けて庭先の光景を眺めていたユーリの背後から、震えながら両手で身体をさすりつつスマイルが近付き、振り返ったユーリの文句を聞く前にさっさと15センチほど開いていた窓を閉めてしまった。
「おい」
気づいた時にはもう鍵までかけられてしまった後で、不平を言おうとした彼からスマイルはさっさと逃げていく。そしてリビングの片隅を占拠している、巨大なクリスマスツリーの傍で立ち止まった。
今は外が明るいので電飾も消されているけれど、頂点に飾られている大きな星型も、緑濃い枝々につり下げられた装飾品も、天井から降り注ぐシャンデリアの明かりと窓から差し込む雪に反射された光で眩しいくらいだった。
昨夜は一晩中、このツリーはにぎやかな明かりを灯していた。
赤、黄色、緑、青、紫、オレンジ、白。どぎつい原色の明かりも、あの時間帯だけはとても暖かく柔らかな気分にさせてくれた。
でも、それも今日で終わりだ。
今日が終われば、このツリーは片付けられて来年のこの季節が近付くまで人目に触れることもなく、スイッチを入れてられて輝く事もなく薄暗い、埃臭い物置の一角に押し込められる事になる。それはなんだか少し物悲しくて、同じように遠くからツリーを見上げたユーリは表情を曇らせた。
「スイッチ、入れてもいいかな」
「今からか?」
ツリーの根本に膝をついて、壁際にまで伸びている緑色の電源コードを手に取ったスマイルがユーリを見上げて尋ねる。思わず怪訝な顔をし、壁に掛けられている時計で現在時刻を確認してしまった彼に、スマイルは「うん」とひとつ頷いた。
そして電源コードを持ったまま、本物と見紛うばかりに良くできているツリーの、けれど触れれば偽物と分かってしまう幹に手をやった。
表面を軽くなぞり、手の平で優しく撫でてやる。
「だって、このツリーが輝けるのって、さ」
ゆっくりと手を上下させて気の表面を愛撫しながら彼は小さく肩を竦め、どことなく皮肉げに笑んだ。
ユーリが眉を寄せる。彼が次ぎに言おうとしている言葉は予想がついた、しかし口には出さず、表情を曇らせるだけに留める。
「クリスマスの今だけじゃない」
良いながら、彼は結局ユーリの了承の声を待たずにコードを壁のコンセントに差し込んだ。
途端、目映いばかりの照明がツリーを明るく輝かせ始めた。
間近で光を浴びてしまったスマイルが、片方しかない目を何度もしばたかせて手の甲で擦る。直視してしまったのだろうか、瞼をしきりに擦って口元を面白く無さそうに歪めている。
「どうした?」
「ん~……」
無視しても良かったのだが、つい気になってユーリは尋ねてしまった。しかし直ぐに言葉は返されず、右目の直ぐ下を人差し指の第一関節で何度も押す動作を繰り返しているスマイルは、小さく呻いただけだった。
片方だけしか視界が確保されないというのは、こういうときに不便だ。
「残照になっちゃったや……」
気になるのか、手を離した後も瞬きを繰り返して彼が零す。その間も、光を灯された電飾は明滅を繰り返して喧しいばかりの色のマーチを奏でている。室内の照明を落とせばもっと目立つのだろうが、生憎とそこまで気が回る存在はこの場に居合わせて居なかった。
ただ空虚なばかりに、明るい中で更に明るい光が色を発しているだけだ。
「大丈夫か」
ユーリが近付き、スマイルの傍に膝を折って腰を落とす。並んだ視線に見つめられ、もう一度強く掌で右目を押さえた彼はかぶりを振って平気、とだけ返す。
「油断した」
「そうか」
なんとなくだが、そこで会話が途切れた。
お互いにツリーを前にしてふたり黙り込んでしまう。向き合って座っているはずなのに、視線さえ噛み合わない。
外を埋め尽くしている一面の銀世界は、誰が最初に踏みしめて足跡を残すのだろう。ガガーリンのように人類で初めて宇宙を旅し、人類最初に月面に降り立ったアームストロング船長のように。
あの真っ白に降り積もった雪を最初に汚すのは、誰?
視線を上げる。そんな気がしていたら、相手もまた同じように目線を持ち上げて向き合っている存在を見つめていた。
言葉など生まれてこなかった。
ただ、そう、本当に。
なんとなく。
お互いの吐息が触れあうような距離に居たから、それでだと思う。
キスを、した。
触れあうだけの、存在を確かめるだけのキス。
それだけなのに。
重なり合った唇から漏れる吐息が、無性に熱いのは何故?
足跡が
刻まれる
「ユーリ」
「なんだ?」
「あとで、一緒に外に行かない?」
「寒いのは嫌なのではなかったのか」
「根に持たないでよね……」
「持ってなどいないぞ。そうだな、散歩に行くのも悪くない」
「外、真っ白だね」
「思ったよりも積もったようだ」
「滑るかもよ?」
「貴様の方こそ、足許不如意にならぬよう心がけることだ」
「気を付けます」
「ああ、だがその前に」
「なに?」
「大したことじゃない」
「……そう?」
「そうだ。不満か?」
「内容聞いてから判断するよ、それは」
「それもそうだな」
「で。なに?」
「……黙っていろ」
「そう言われてもさー、気になる」
「…………」
「ユーリ?」
「うるさい、黙れ」
「はい」
「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………」
「…………スマイル」
「…………」
「返事くらい、しろ」
「ユーリが黙ってろって言ったんじゃないか」
「呼ばれた時は返事をしても構わん」
「我が侭」
「何か言ったか?」
「いいえ、とんでも御座いません?」
「…………欲しいか?」
「なにを?」
「鈍男」
「だからなにをー」
「今日は何の日だか言ってみろ」
「あ、クリスマス」
「…………」
「え、なにかあるの?」
「欲しくないのなら、やらん」
「誰もそんなこと言ってないでショ~!?」
「そう聞こえたぞ?」
「言ってないよ」
「そうか、残念だ」
「そんなこと言わないでよ~。で、なに?」
「なにが」
「クリスマスプレゼント。くれるんでショ?」
「欲しいのか?」
「拳骨とかは遠慮するけどね」
「……なら」
「?」
「目を、閉じていろ」
言われたとおり、スマイルはゆっくりと静かに右側しか露見していない瞼を下ろして目を閉ざした。丹朱の鮮やかな色が隠され、彼の顔の左半分を覆っている真っ白い包帯にツリーの電飾の明かりが、影を落とす。
先程の約束も律儀に守っているのか、彼はそれ以後一言も言葉を発しなかった。ただ黙ってユーリの次の動きを待っている。
胸を締め付けられるような、苦しいけれども暖かなものをユーリは感じていた。
吐息が零れる、軽く握った拳を地震の胸元に押しつけて、彼もまた、目を閉じた。
手を広げる、それを床に置いた。
指先を前方へと這わせる、細くしなやかな指が同じように床に添えられていたスマイルの掌を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。
体温が重なった瞬間にだけ、ぴくり、と彼は反応した。けれど約束を破るつもりはないらしく瞼を開こうとも、言葉を発しようともしない。その律儀とも頑固とも取れるスマイルに微笑んで、ユーリは手探りで彼の手を握りしめた。
触れあう体温は、昨夜のものとなにも変わっていない、暖かい。
どんなに冷えてしまった心も、この熱に触れた瞬間にきっと氷が溶けてしまうように温められてしまうだろうから。
「スマイル」
だから、これは約束。
吐息が掠め合う距離にまで近付いて、秘やかにユーリはその名前を紡いだ。
そして彼が返事をしようと唇を開くより前に、その唇に触れた。
一瞬だけ、スマイルの右目が驚愕に彩られ、見開かれる。けれどすぐに瞳の彩は柔らかく染まり、再び静かに伏されていった。
静かに受け止めて、握られた手を握り返す。それ以上は求めず、ただ触れあえる事に胸が詰まりそうな歓びを感じるだけの時間。
たった五秒にも満たない時だったはずなのに、随分と長い時間に思えて離れた瞬間にぶつかった視線はどちらから先でもなく、笑っていた。
「これがプレゼント?」
「不満か?」
「いえいえ、とんでもございません」
茶化したように言いながら首を振り、スマイルが先に立ち上がってユーリに手を差し出した。掴むと、真上に引っ張られる。
少し痺れてしまっていた膝を軽く屈伸して、照れ隠しなのか今頃赤くなってしまっている顔を隠しユーリは自分の髪を掻き上げた。目の前で笑っている男の目を直視できなくて、今更恥ずかしいことをしてしまったと後悔してしまいそうになる。
「散歩、どうする?」
「……行く」
「火照っちゃったの冷ますのにも、ちょうど良いもんね~」
「言うな!」
ごちん、と怒鳴り声と一緒に頭を殴られてしまってスマイルは痛そうに一声鳴いた。しかしユーリが手を出しながら怒るときは大抵図星をさされたときである。あまりに分かりやすい彼に微笑んでから、スマイルは片手を上着のポケットに突っ込んだ。
ごそり、と動かして中に納められていた小さな箱を抜き取る。
掌に収まってしまいそうな大きさである、丁寧にラッピングされていて中身は分からない。
「ユーリ」
そっぽを向いてしまった彼の背後に近付き、その頭上に箱を持った手をやってそっと、箱を支えている三本の指を解く。支えるものを失った箱は、ユーリの目の前をゆっくりと降下していった。
「っ!」
咄嗟のことに、思わず反応して落ちてくるものを両手を差し出して受け取ってしまったユーリは、直後「しまった」という顔を作ったがスマイルは気にしなかった。
手の中に収まった小箱に、形の良い眉を顰める。真っ白い包装紙にくるまれ、飾り気は皆無と言っていいほどない。ただ唯一、上部に当たることを示すかのように、こぢんまりとした赤いリボンの形をしたシールが貼られているだけで。
「これ……は?」
「さっきユーリがくれたものへの、お返し」
ツン、と人差し指でユーリが持ったままの箱の表面を小突いたスマイルが隻眼を細めて彼を見た。どきり、と心臓が鳴りそうになってユーリは慌てて視線を外し箱を改めて見つめる。
それほど重くはない、が箱の外見からだけで判断するとそこそこ重い感じもする。試しに軽く振ってみたが音はしなかった。
「イイよ、開けても」
「……ぁ、ああ」
好奇心が刺激されていることを口に出せなかったユーリの横顔にスマイルが囁き、ドウゾ、と続ける。しかし彼は立ち去ろうとはせず、未だユーリの背後にべったりと貼り付くようにして立っていた。
恐る恐るユーリは包装紙の継ぎ目に指を這わせ、爪の先でシールを剥がす。ピッ、と簡単にそれは外れ、箱をくるんでいた真っ白い紙は見る間にユーリの掌に広げられていく。
中心に残るのは、やはり同じように真っ白いジュエリーケースだ。
「まさか指輪だとか言わないだろうな」
「違うよ」
見た瞬間嫌な予感を覚えたユーリの危惧を一蹴し、スマイルはまた手を伸ばしてユーリの脇から彼の手に載るケースの蓋を開いた。
現れたのは、銀色の輝きをしたブレスレットだった。だがシルバーではない輝きをしていて首を捻っているうちに、七つのプレートをつなぎ合わせた格好になっているそのブレスレットはスマイルの指先によって持ち上げられていた。
箱を持ったまま立っているユーリの左手首に回し、留め金を重ね合わせる。
ひんやりとした感触は、だが思った以上に柔らかい。
「ホワイトゴールド、だよ」
奮発しちゃった、と彼は何でもないことのように笑って言った。
ユーリは左手首を軽く揺らした。金属と肌とがぶつかり合う不快感は無い。
細いプレートにはふたつずつ、ビスのように微かな虹色の光を放つものが填め込まれていた。ラインはシャープで、流れるような流線型をしている。腕に嵌めると余計にその形が際立って滑らかだった。
右手を持ち上げ、ブレスレットの上から左手首を包み込む。
「こんなものを今から持ち出したところで、もう私からは何も出ないぞ」
「あ、しまった。先にあげておけば良かったのか」
そうすればもう少し強請れたかも知れないのに、と指を鳴らして心底悔しそうに呟くスマイルに、ユーリは柔らかな微笑みを向けた。
「気に入った?」
微笑みに気づいたスマイルが、表情をいつもの笑顔に戻して問いかける。しかし変に格好付けたポーズを取ったために尚更ユーリに笑われ、そんなに変だっただろうかと彼はむくれた。
「仕方がない、受け取っておいてやる」
「それだけー?」
「仕方がないから、使ってやる。有り難く思え」
「……はいはい、ドーモ」
御礼の言葉など返ってくる事は無いと踏んでの、投げやりの返事しかしてこないスマイルに目をやって。軽く持ち上げた左手首を左右に振ったユーリはその場で背伸びをした。
唇にではなく、包帯に隠れていない方の頬に、キス。
ちゃんとしたキスよりも照れくさいと思ったのは何故だろう?
「ユー……」
感激に目が潤み、両腕を広げて目の前のユーリを抱きしめようとしたスマイル。しかし一歩早く後方へユーリが退いたために彼の腕はスカッ、と空を切ってしまっていた。
何もない空気を空しく抱きしめた彼に、高らかに笑ってユーリは踵を返した。
「コート、取ってくる」
散歩、行くんだろう?
機嫌良さそうに叫んで彼は小走りにリビングを出ていってしまった。残されたスマイルは、存在を忘れ去られながらも健気に輝き続けているツリーを思い出して見上げ肩を竦めた。
「ま、いっか」
渡すものは渡したし、貰うものももらったし。
呟きながら人差し指で唇と、右の頬をなぞる。まだあの柔らかい感触が残っているような気がして途端に恥ずかしくなった。
「おい、行くぞ?」
だから戸口からかけられたユーリの呼び声にもすぐに反応を返すことが出来ず、名残惜しむように頬を一度だけ撫でてから肩に無意識に込めていた力を抜いた。
チカチカと輝くツリーの電飾に目をやり、ぽん、と手近な場所に吊されていた可愛らしいサンタの飾りを叩く。衝撃を受けて揺れ動いたサンタが、文句を言っているようにツリーの枝を揺らす。カサカサという乾いた音はしかし、耳に残らなかった。
「行こっか」
「コートは?」
「取ってきてくれたんじゃないの……?」
「甘えるな。待っていてやるからさっさと取ってこい」
「はーい」
叱られて、けたたましく足音を立てながらスマイルも自分の部屋へと走っていく。
ひとり残されたユーリはダッフルのフードが型くずれしているのを直しながら、何気なく扉の向こうに見えたツリーを窺った。
誰に見られることが無くても、輝き続けるクリスマスツリー。誰にも振り向かれなくなっても、一年に一度だけ誰からも必要とされる、どうでも良いはずなのに大切な、存在。
そこに居ないと、何かが足りないと感じてしまうもの。
外はまだ雪が残っているのだろうか。穏やかな日の陽射しは徐々に大地の雪を溶かしてしまうから、早く行かないとぬかるんでしまうだけ。
まだだろうか、と視線だけを上向かせてフードを直し終えた手を下ろす。冷たいはずなのに何故か暖かさのある金属が、袖の下で揺らめいた。
傍にあるときは気づかないのに、傍から居なくなると物足りないもの。
ユーリはクスッ、と笑う。
「早く来ないと、置いていくぞ?」
囁いて彼はそっと、左手首に口付けた。