白い雪が舞い降りる。まだ平野部ではそれが舞うには早い季節だったが、道端にはいつ降ったのか、既に溶けかけた雪の固まりが山になっていた。恐らくこの先の村の人々が通りやすいようにと、道に積もった雪を脇に除けたのだろう。だが、この調子では明日辺り、また雪かきが必要かもしれない。
「へへっ、やったぜ!」
「僕達だけでここまで来たんだ!」
少年がふたり、そんな道を危なっかしい足取りで駆けていく。よほど嬉しいのか、ジャンプしたり、叫んだり。道行く人がいないことを良いことに、好き放題だ。
サラディという村がある。赤月帝国の領地だが、山に囲まれて訪れる人も少なく、目立った観光名所もない。特産物にも恵まれず、一年のうち半分近くが雪に閉ざされてしまう辺境の村だ。その村が、この先にある。
何故彼らがこんな何もない場所を訪れたのか。身なりもよく、家出をするにしてもそういう悲壮感や切羽詰まった表情はふたりからは伺えない。
そのうち、退屈したらしい少年のひとりが後ろを振り返った。
「ラス、競争しようぜ」
少しばかり背の低い、薄い茶色の髪の少年が緑のバンダナをした少年に持ちかける。
「いいよ。絶対に負けないから」
緩やかな登り道の先に、こぢんまりした集落が見え始めていた。暖炉に火が入っているらしく、白い煙が空へ上っていく。
「お先に!」
バンダナの少年が頷いたのを見て、もうひとりの少年はにやりと笑った。そして、スタートの合図も何も無しに、いきなり駆けだした。下り坂を、一気に。
「あ、ずるいぞ、テッド!」
少年を追いかけ、ラスと呼ばれた少年も慌てて走り出した。
吐く息が白い。足を踏み出すたびに頬を刺す冷たい空気は容赦ないけれど。それでも彼らは、それさえもが楽しかった。
ふたりはいつも一緒だった。初めてあったときから、無二の親友になれると信じて疑わず、そしてその通りになれた。周りの大人達でさえ、彼らを見てその中の良さを羨むほどに。彼らは何をするにおいても一緒だった。
赤月帝国の5将軍がひとり、テオ・マクドゥールの嫡子として生まれ、それ相応の教育を受けてきたラスティス。だが父親の権威の強さが災いしてか、彼の周りには常に大人が控えており、同年代の友人には恵まれなかった。だからと、心配したテオがちょうどその時に北で起きていた争乱の中で村を焼け出されたらしい少年を引き取ってきた。それが、テッドだった。
ラスティスは今でもはっきり覚えている。初めてテッドと会った日のことを。
釣りから帰ってきた彼の前に、予定よりも早く帰還した父親と一緒にテッドがいた。一瞬驚いた顔をして、それから紹介を受けた彼の差しだした手を、わずかの躊躇の後力強く握り返してきた。それまでずっと、友達になろうとして差しだした手はいつもその子の親やその子自身によって拒絶されてきたラスティスだったから、なおさらテッドの手の温かさが嬉しかった。
それから、もう何年が過ぎたのだろう。
いつの間にかラスティスはテッドの身長を抜き去り、体力も腕力もとっくにテッドを追い越してしまった。今もまた、先に駆けだしたはずのテッドを簡単に追い抜いて前を走っている。
きっとこのままゴールしてしまったら、テッドは怒り出すだろう。甘やかしているつもりはないが、それでも時々、自分がひどくテッドに甘いような気がした。
「くそっ!」
背中から、テッドの悔しそうな声がする。直後、迫ってきた足音の大きさに驚いているうちに。
「うわ!」
振り抜いていた右腕を思いきり引っ張られ、バランスを崩したラスティスは後ろからのテッドの力に体の右側を持って行かれてしまう。何とか倒れないように足を踏ん張ろうとしたが、そこは生憎と凍りついた地面の上。
──駄目だ!
このままでは背中から倒れてしまう。いくら多少雪が積もっているとはいえ、整備もされていない石がごろごろしているような地面。倒れたらちょっと痛いだけでは済まない。衝撃に備え、ラスティスは歯を食いしばると目をしっかりと閉じた。
しかし、予想していた衝撃はそんなに大きくなくて。
「いって~~!!」
かわりに、暖かい柔らかなクッションを背中に感じてラスティスは目を見張った。それに、この鼓膜を突き破るかというほどの悲鳴は。
「テッド、大丈夫!?」
やっぱり、とラスティスは自分の下を見て顔を覆った。急いでテッドの上から退き、地面の上で痛がっているテッドの傍らに膝をついて彼を抱き起こす。
「なんであんなことしたの」
責めるような口調の理由は、いきなり走っている自分の手を彼が引っ張ったこと。あんな事をすれば、こうなってしまうことぐらい簡単に予想できたはずなのに。テッドの背中を優しく撫でやりながら、ラスティスはため息をついた。
「いてて……一生のお願いだから、もっと優しくやってくれよ」
さすってやっていた手がぶつけたところに当たったらしい。痛がるテッドだったが、その口調はまるで悪びれていない様子でラスティスはむっとなった。
「悪かったよ、機嫌直せって」
分かりやすいラスティスの反応に、面白がっている感の拭えないテッドの言葉。しかし、そんな軽口ででも謝られてしまうと、許してしまえるところがラスティスという人だった。
だいぶ痛みも引いてきたのか、テッドからほっとした様子が見られた。
「で、なんで危ないって分かってるくせにやったのさ」
「……案外しつこいな、お前って」
悪かったね、とラスティスは心の中で悪態をつく。
ひどければ骨が折れていたかもしれないのだ。今回は打ち身程度で済んだけれど、もう一度やって同じように軽い怪我で済む確率は100%ではない。危ないと分かっていてやりたがるほど、彼らは子供ではない。それなのに。
しかしよほど言いにくいのか、テッドは視線をうろつかせなかなか口を割ってくれなかった。
「……いや、なんか……な。笑わないか?」
恐る恐る、といった様子でラスティスを見上げてくるテッドは、なんだか彼が知っている親友よりもひどく幼く見えた。
「俺さ……いつか…………もしかしたら、俺、お前を…………その、なんて言うのかな……」
言葉を選んでいるらしく、彼の口調はひどくたどたどしい。
雪ははらはらと勢いをなくしたまま降り続けている。肩や、髪に積もった雪の欠片は、ひんやりとした一瞬だけの存在感を残し、消えてなくなってしまう。儚い、夢のように。
「テッド?」
ラスティスは親友の少年を見た。定まらない視線は絶え間なく宙を漂い、落ち着きのない手がマントの端をいじっている。
「言いにくいなら……言わなくていいから」
テッドはあまり自分のことを口にしない。ラスティスは、だから自分と会う前のテッドについては「村を焼け出され、家族を失った」という事ぐらいしか知らなかった。
どこから来たのか、どこで生まれたのか。家族は何人いて、いつからひとりだったのか。そして……時折彼が見せる、あの物憂げで切なく、哀しい瞳の見つめる先に何があるのか。テッドは何一つ教えてはくれなかった。
聞かれたくない過去や、想い出があるから無闇に詮索するのは良くないし、悪いことだと分かっている。だからテッドが自分から話してくれる日が来るのを待った。話したくないことを無理に聞き出して、それでテッドの気持ちが自分から離れていってしまうのが嫌だったから。
でも……本当は聞きたかった。知りたかった。
ラスティスはテッドに自分のことは全部話した。テッドに会うまでがどんなに退屈で面白くない毎日だったか、テッドに会えてどんなに嬉しかったか。父との想い出や、母の記憶や、グレミオやパーンやクレオ、家族がどんなに大事で失いがたいものであるかを、ラスティスは飾ることなくテッドに語った。
テッドに、隠し事なんてしたくなかったから。
「……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない」
ささやきがこぼれて、ラスティスは自分の耳を疑った。
──なん、て……?
誰が、誰を殺す? いま、テッドは何と言ったのか。
テッドは何も教えてくれない。彼が何を想い、何を考えているのか。時々、ラスティスはひどくテッドを遠く感じることがあった。
「……テッド…………それは……」
冗談で言っているのではないことぐらい、声の調子から分かる。それに、テッドは冗談でそんなことが言える奴じゃない。ラスティスが親友に選んだくらいなのだ。テッドは、悪ふざけはするけれど絶対にラスティスに嘘はつかなかった。
「ラス……俺……」
でも、本気だったらそれはそれでとても困る。
「……テッド、それはとても困ったね」
だから、口について出たのはそんなどうしようもなく緊張感に欠ける台詞だった。
「ラス……?」
上を向いたテッドと視線がかち合う。戸惑った表情がそこにあって、ラスティスは咄嗟に、
「うーん」
と唸り、それから軽く首を傾げると、
「だって、僕の方が強いよ」
腕力も、体力も、技術も。戦いにおいて必要なものすべてがテッドよりもラスティスの方が優れている。
「テッド相手だったら殺される前に僕がテッドを殺してしまうかも」
「……………………」
かくん、と聞いていたテッドが首を落っことした。頭を抱えている。きっと呆れているのだろう。だがラスティスだって、今の自分には心底呆れてしまいそうだった。もっと他にいい切り返しの仕方はなかったのか、と。
でも……とラスティスは思った。
もしかしたら、これが初めて見たテッドの本心かもしれない。
「……でも、さ。テッド。僕は死なないよ、君が僕を殺そうとしても」
だから自分を慰める意味合いも込めて、ラスティスは彼にささやいた。
「お前の方が強いもんな」
「違う、テッド」
ひがんだような言い方をするテッドに即答で否定して、ラスティスは視線を外そうとするテッドの両頬を手で包んだ。まっすぐに、テッドの目を見つめる。
「僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?」
自信があった。テッドは絶対に自分を裏切らないと。テッドはラスティスを殺すぐらいなら、自分から死を選んでしまえる。
だって、彼らは親友だから。
「だから僕は死なない。そしてテッドのことも絶対に殺したりしないし、失うつもりもないから」
君を失いたくない。一緒にいよう、ずっと。この先何が起きたって。
「……お前……それ、自信過剰」
「確信犯と言って欲しいね」
笑みがこぼれる。
雪は降り続き、大地を銀色に染め変えている。
この時、彼らは子供だった。いつまでもこの時が続くことを疑おうともしない、彼らはただの子供だった。
赤月帝国皇帝バルバロッサ・ルーグナーからの勅命を受け、北へと旅だったテオの後任としてラスティスが選ばれたことは、本来喜ぶべき事なのだろう。しかし彼が帰ってくるのを待つ間、テッドは複雑な気持ちを抱えていた。
ラスティスの部屋はいつもきれいに片付けられている。育ちがよく、躾けも行き届いており申し分ないくらいのテオの後継者。その期待の大きさはテッドの想像をはるかに超えているのかもしれない。自分は彼の友人として本当に相応しいのか……たまに疑問に思った。
サラディに行こうと誘ったのだってテッドからだ。ふたりだけで行ったこともない場所に行ってみたかった。誰にも邪魔されないで、見たことのない世界を見てみたかった。結局、帰ってきたら待っていたのはグレミオのながーい説教だったけれど。
「早く帰ってこないかなー」
ごろん、とピンと張ったシーツの上に寝転がり、テッドは天井を見上げて呟いた。
ラスティスはサラディまでの小さな冒険を、楽しかったと言ってくれた。だから説教を受けている間もそんなに苦痛じゃなかったけれど。今になってそれがはたしてラスティスの本心だったのかが気になった。
寝返りを打ち、枕に抱きついたテッドはそこで、置きっぱなしにされた本を見つけた。ベッドと壁際の間に置かれたサイドテーブルの上、無造作にペンと一緒に置き忘れられた本は丁寧に革張りで作られていて、初めはなにか難しい専門書かと思ったが。顔を近づけてみるとどうやら違うようだった。
表紙に金文字で「Diary」と書かれている。しっかりと鍵付きのそれは、ラスティスの日記だった。しかも迂闊なことに鍵が外れている。
「………………」
いけないこととは知っている。しかし、こんなにも無防備に日記を放り出している方が悪いのだ。
テッドは起きあがった。そして閉まっているドアや窓をきょろきょろと見回して誰もいないことを確認し、ラスティスの日記に手を伸ばした。
さすがに良心が痛むので最初から読むような真似はしない。ただ、あの日……ふたりだけでサラディに行った日を探す。
几帳面に丁寧な字で書かれた日記を読むにつれ、テッドの表情が哀しげなものに変わっていく。あれから数日が経っているのに、日記はサラディから帰ってきた日で途切れていた。
「……あいつ、そんなこと考えて……」
そこには、テッドに対する率直な気持ちが綴られていた。テッドが何も話してくれないこと、それを知りたがっている自分。だけど、知ってしまうことでテッドが離れてしまうことを怖がって、それならば知らないままでいいと、このままで良い、と。
「馬鹿だな、ほんと。馬鹿だよお前……」
涙が自然にこぼれてきて、テッドは日記帳を抱きしめていた。そして、何かを思いつきサイドテーブルに置かれていたペンを手に取る。
だが、直後階段を登ってくる足音が聞こえテッドは心臓を跳ね上がらせた。
「うわあああ!」
日記を隠さなければ、と大慌てでどこか隠す場所がないかと探している間に、足がサイドテーブルに引っかかって派手な音を立ててテッドは床に転がった。更に、倒れたサイドテーブルが本棚にぶつかって……本の大洪水がテッドを襲う。
「テッド!?」
自分の部屋からした轟音に驚き、走ってきたラスティスが戸を開けて見た光景……それは、本に埋もれ、結果的には日記を隠すことに成功したテッドの、「おかえり」と手を振る情けない姿だった。
初仕事で訪れた魔術師の島。そこに住む占い師から星見の結果を受け取るという仕事は、予想外に手間取らされた。
「ふーん。新顔だね」
森を抜けた先の占い師が住むはずの塔の手前で、ひとりの少年が彼らを待ちかまえていた。
緑の法衣に身を包み、黙っていれば目を見張るほどの美少年なのだが。値踏みするように5人を見回した少年が次にしたことは……なんと。
「真なる風の紋章よ……」
短い呪文を詠唱した彼の前に風が吹き抜け、大地から一体のモンスターが現れたのだ。表面は固い岩のようで、これまで誰も目にしたことのない種類の化け物だった。
「なんだ、こいつは!」
「気を付けて!」
突然のモンスターの襲撃に、一同はパニック寸前にまでなる。しかし襲ってくる敵からラスティスを守るのが彼らに与えられた役目、と体が反応してかグレミオは咄嗟にラスティスの前に出て斧を構えていた。
「お前!」
その中で、テッドだけが離れた場所で怒鳴っていた。そして何を思ったかそのままクレイドールの元へ駆け出そうとする。
「テッド、危ない!」
クレイドールが人の頭ほどの大きさのある岩を取り出し、それをテッドに向けて投げつける。反射的に叫んでいたラスティスの声に反応し、岩と正面衝突する寸前でテッドはかろうじてそれを避けたが、バランスを崩して倒れてしまった。
「テッド!」
「大丈夫だ」
不安を隠さないラスティスの悲鳴に、テッドは顔を上げて平気だ、と合図を送る。それを見てほっとするラスティスの向こうでは、パーンとクレオがふたりがかりで必死にクレイドールの相手を務めていた。
「大丈夫でしたか?」
飛んでくる岩に注意を払いながらラスティス達の元に戻ってきたテッドに、グレミオがおくすりを手渡しながら尋ねる。
「平気平気」
もらった薬を、転んだときに作った擦り傷に大量に塗りつけ、染みる痛さに耐えながら彼は言い返した。
クレイドールは防御力が高く、パーンの自慢の拳もほとんど受け付けない。クレオの飛刀もことごとく跳ね返され、グレミオの斧はなんとかクレイドールの表面を削り取っているに過ぎない。隙を狙うラスティスの攻撃も、あっけなく跳ね返され反撃を喰らいそうになり、慌てて距離をおくしかなかった。
「無理するな、テッド」
そう言ってくれる気持ちはありがたかったが、だからといってその好意に甘えてばかりでは気分が悪い。分が悪いことは分かり切っているのに、それでも諦めようとせず何度でも果敢に挑んでいく彼らの姿を見て、何もしないでは男が廃る。
「俺だって!」
矢筒から矢を取り出し、弓を持って弦を引く。その彼の周りに、黒っぽい霧のようなものが集まりだしていた。
「テッド……」
不吉な気配を感じ、ラスティスが振り返った先にいたのはテッド。歯を食いしばり、大地に足を踏ん張らせている彼の周囲を、まるで死に神が舞い踊っているような黒く濁った気配が漂う。
「ソウルイーター……お前の力を、この一撃に!」
その声はラスティスには届いていない。だが、テッドが隠しているものがなにか、ラスティスはなんとなく、その瞬間に理解した。
それはとてもとても重く苦しいもの。
テッドから放たれた矢は、黒い霧を裂いてクレイドールに襲いかかる。それまで獣を一撃でうち砕くパーンの拳や、グレミオの斧をまるで受け付けなかったクレイドールの胸に、たった一本の矢が突き刺さった。
ぼろり、と土塊がこぼれ落ちる。
「今だ!」
ラスティスは叫んだ。
どうしてテッドの矢がクレイドールに届いたのか、その理由を詮索するのはいつだって出来る。だが、まだ動こうとする奴を完全に沈黙させられるのは今を置いて他にない。
ラスティスの渾身の力を込めた一撃がテッドの矢の上を直撃する。矢羽が折れ、残された部分がさらにクレイドールの奥へと押し込まれ、それに合わせて表面を覆う岩に亀裂が走った。ラスティスが離れる。彼が着地した瞬間を逃さず、グレミオとパーンの協力攻撃が既に動きを停止していたクレイドールを襲う。ひびの入った岩はあっけなくうち砕かれ、ただの土塊に戻っていった。
「ふーん。まあまあかな」
少年がようやく終わったか、と呟きながら前に出てきた。ずっと彼らの戦いを傍観していた彼は、自分が召還したモンスターがやられてしまったのをたいして気にしていないようだった。
「ま、認めてあげなくもないかな。レックナート様がお待ちだよ。早く行くんだね」
塔を指さし、少年はいけしゃあしゃあと言い放つ。パーンが怒り出しそうだったが、クレオがそれを先に牽制していさめた。ラスティスも、かなり戦いに時間が取られたことを気にして、グレミオを連れて塔へと向かった。
吹き出た汗を拭い、ひとり遅れているテッドを昇りかけた階段の上から見下ろすと、彼は少年と何かを話しているようだった。
「喧嘩でなければいいんですが」
フッチともあれだった。そんなことを気にするグレミオに、ラスティスは複雑な顔をする。
「大丈夫だよ、きっと」
テッドは戦っている間、ひどくあの少年を気にしていた。
自分にはないテッドとあの少年の共通点。何かは分からないけれど、きっと彼らには同じ何かがあるに違いない。そう思えて、ラスティスは苦しくなった。
レックナートの言葉は、ラスティスにとって忘れがたいものだった。
自分を信じて、自分の思うままに進むこと。誰にも出来るようで決して簡単ではない生き方を選ぶように、彼女はラスティスに告げた。
白いローブから覗く優しげな微笑み。どことなく、遠い記憶の中にいる母の面影を感じ、ラスティスは頷いた。
「あなたの運命は常にあなたの手中にあります。忘れないで下さい。あなたが正しいと思えることを選び取るのです」
それは厳しく辛い道となるだろう。だがそれでも人は進まねばならない。たとえ何を犠牲にしても、自分を偽ったままで生きることだけはしてはならない。そこに……どれほどの悲しみが待っているのか。それは、レックナートであってものぞき見ることのかなわない未来。
誰かが決めるのではない。自分が決める未来。
運命なんてものはそこにはない。すべてが、偶然の導き出した奇跡。
君に出会ったこと、自分がここにいること。あらゆるものが、自分で見つけた世界。自分たちで作ってきた歴史。
レックナートに命じられ、少年──ルックはラスティス達を森のスタート地点までテレポートさせた。途中、若干一名にいたずらを加えたのだが、それは黙っておく。
「レックナート様」
これまで紡がれてきた永い人間の歴史の中で、常に27の真の紋章は争いの中心にあった。だから門の紋章を受け継いでいるレックナートはこうして結界の張り巡らされた小さな島に引きこもり、ルックもここにいる。北のハルモニア神聖国のようにはいかない。政治の中心に真の紋章を掲げることは、一時は強大な力を恐れた民衆をまとめ上げるのに役立つだろう。
だが、ハルモニアのような半ば盲目的な紋章に対する信仰心でも無い限り、民衆は力に抑圧された生き方を拒否するようになる。
真の紋章は両刃の剣。使いようによっては善にもなり、悪にもなる。力を利用するだけで済まそうとして、気がつかないうちに紋章に逆に取り込まれることだって起こりうるのだ。そして、歴史は如実に語る。
真の紋章が集うとき、それは新たなる争いが起こる前触れであることを。
「嵐が来ます。とても大きな、嵐が……」
ラスティスがその中心にいることはレックナートの表情からもすぐに分かった。そして争いの火種を蒔くのは、赤月帝国にいるウェンディとそして……彼であることも。
「時が動き始めます。ルック、仕度を」
「はい」
遠くを見つめるレックナートに言われ、ルックは静かに頷いた。
『あいつらに……ラスには言わないでくれ』
苦しそうに呟いたテッド。彼が持つ紋章が何であるのか、見なくてもルックには分かった。あれほどの禍々しい気配を内に抱く紋章はひとつしかない。呪いの紋章──ソウルイーターに間違いなかった。
『俺はこれでも300年生きてるんだぞ!』
テッドの言っていた時の永さを思う。真の紋章を持つものはその身に流れる時を止める。全く成長しなくなる。置いて行かれるのだ、何もかもから。
「嵐か……」
その嵐の中にいる自分の姿を想像し、やるせない想いを抱いてルックは小さくため息をついた。
雨が降っている。遠くでは雷が鳴り響き、まぶしい光に窓際に立つ僕は目を閉じた。
「遅いですね、テッド君」
清風山から戻ってきてすぐ。テッドは報告のために城に出向くカナンに連れられていった。一体何故か、その理由を問うことを奴は許さず、すぐに帰してやると言った奴の言葉も裏切られた。
雨は止まない。
グレミオが用意してくれた料理はすでに冷め切ってしまって、空腹に耐えかねたパーンの為にも、僕達は先に夕食を済ませてしまった。ただ、テッドが戻ってきたときにみんなが満腹だったら怒るからと、僕だけがいつもの半分の量だけを食べるに留めた。テッドがひとりぼっちで食事をしなくて済むように。
けれど、そのテッドは帰ってこない。
窓を見つめ、その向こうに今は見えないグレックミンスターの町並みを思い浮かべていると、僕の胸がなぜかちくりと痛んだ。
哀しい、寂しい。
君が、遠い。
クイーンアントを倒した君の、黒い力。それが何かを聞くことは君自身によって拒まれてしまった。帰ったら話すからと、先に用事を済ませてしまおうと誤魔化したテッドの顔が消えない。
それが君の隠してきたものなのか。それが、君がずっと隠さなければいけないことだったのか。
僕じゃ駄目だったのか?君の秘密を共有できるほどの親友にはなれなかったのか?
僕は君の……重荷だった?
雨の匂いがする。風が吹いてきて、窓がカタカタと鳴った。
『……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない』
僕を殺してでも守らなければいけない秘密なのか。それとも、君の秘密が僕を殺してしまいかねないから?君は……ずっとひとりで苦しんでいたのかな。
僕じゃ、駄目だったのかな。
僕達、本当の親友にはなれなかったのかな。
君の苦しみに気付いてあげられなかった……僕は悪い友達だったね。
知りたい。知りたくない。
君が遠い。
物音がして、僕は振り返った。
「なんでしょうね」
グレミオがテーブルの上を片付ける手を休め、僕を見る。
扉を開け、階段を下りる。冷たい雨の香りと、むせ返るような熱い血の臭い。
世界が闇くなる。
君が遠い。
君が、見えない。
それはいつか君に還る願い
時代は動き始める
大きな悲しみの歯車は
軋んだ音を立て今
ゆっくりと回り始める
それは切ない想い
願い
叶えられることのない
儚い夢
それでも彼は祈り続ける
……ずっと一緒にいようね……