いつか君に届く想い

 はらはらと空を雪が舞っている。この季節、平野に降るにはまだ早い雪もこの山間部では関係ないらしい。道端には溶けかけの先日降り積もった雪の名残が白く輝いており、見知らぬ世界に初めて訪れた冒険者達は、わくわくした気持ちを抑えきれずついに駆けだした。
「へへっ、やったぜ!」
「僕達だけでここまで来たんだ!」
  ジャンプしながら叫んだのは、まだいくらか幼さの残る顔立ちの少年ふたり。道をすれ違う人の姿もないから、彼らの大声を聞き咎める人もいない。口やかましいお付きの青年もいないものだから、ついハメを外してしまいがちだった。
 サラディという村がある。赤月帝国の領地だが、山に囲まれて訪れる人も少なく、目立った観光名所もない。特産物にも恵まれず、一年のうち半分近くが雪に閉ざされてしまう辺境の村だ。
「ラス、競争しようぜ」
「いいよ。絶対に負けないから」
「それはこっちの台詞だね」
 峠の先に村が見え始め、先を歩いていた茶色の髪の少年が言い、後ろに続く緑のバンダナをした少年が頷いた。
「お先に!」
「あ、ずるいぞ、テッド!」
 駆けだした少年を追いかけ、彼も急いで速度を上げた。吐く息が白く曇り、吹き抜けていく風は肌に痛いけれど。彼らはそれすらも楽しんでいた。
 無二の親友だと、彼らは思っていた。周りの大人達もそう思っているだろう。この数年間、彼らは何をするにも一緒だった。
 戦災孤児としてラスティスの父であるテオ・マクドゥール将軍に拾われたテッドは、ラスティスと同年代であったことから、友人の少ない息子のために彼の家に引き取られた。それは本当に偶然でしかない出会いだったが、テッドはそこに運命的なものを感じずにはいられなかった。
 ──運命ねぇ……。
 言葉にしてしまうとひどく陳腐な響きしかしない、絶対的な人生行路。けれどもしそれを決めているものが神だなんて言うのであれば、テッドは運命なんて信じない。見たこともいるかどうかも分からないような奴に、自分の生き方のすべてを先に決められるなんてそんな生き方は最低だと、彼は思っていたから。
「くそっ!」
 上向こうとする顎を力任せに下に戻し、テッドは乱れた息の合間に吐き捨てるように言った。
 先にスタートして先行したはずなのに、もうラスティスに追い越されて置いて行かれた。体力には自信があったのに、いつの間にか身長も、腕力も何もかもがラスティスに抜かれてしまった。
 確実に時は流れている。今は良くても、いつか必ず、この体の異常を彼らは気付くだろう。
 その時、ラスティスは今と変わらないまま、自分のことを“親友”と呼んでくれるだろうか。
 前を見る。霧が出て霞み始めた地上に、ラスティスの背中がうっすらと浮かんでいる。
「……!」
 息を切らし、テッドはスピードを上げた。必死になってラスティスに追いつき、その手を思い切り掴んで引っ張った。
「うわ!」
 進もうとする自分と後ろに引こうとするテッドの力がぶつかり合い、わずかに勢いに乗せたテッドが勝利。見事、ラスティスはテッドを下敷きにしてその場に転がった。
「いって~~!!」
「テッド、大丈夫!?」
 石がごろごろしている道の真ん中での出来事で、しっかりと石に背中を打ち付けてしまったテッドがラスティスの下でうめき声を上げた。慌ててラスティスはそこから退いたが、地面とラスティスのサンドイッチの具にされてしまったテッドはすぐに復活出来そうになかった。
「なんであんな事したの」
 責めるような口調でラスティスは身を起こしたテッドの背中を撫でやり、尋ねる。
「いてて……一生のお願いだから、もっと優しくやってくれよ」
 ぶつけたところに手が当たったらしい。顔を歪めつつも軽口を叩くことを忘れない彼に、ラスティスは少しだけむっとなった。
「悪かったよ、機嫌直せって」
 分かりやすい性格をしている、とまた笑うテッドは本気とはとうてい思えない謝罪の言葉を口にする。だが、それだけでもラスティスの機嫌は上方修正されてしまうのだから、現金といえば現金。
「で、なんで危ないって分かってるくせにやったのさ」
「……案外しつこいな、お前って」
「テッドがはぐらかすからだろう。一歩間違ってたら大けがしてたかもしれないのに」
 今回はたまたま打ち身だけで済んだが、もしかしたら骨の一本や二本、折れていたかもしれないのだ。当たり所が悪ければもっとひどい状態になっていた可能性だって否定できない。
「……いや、なんか……な。笑わないか?」
 一瞬ぶれた世界。霧と雪に閉ざされ、何も見えなくなってしまう──いや、何もなくなってしまう世界。その中でたったひとりで生きる自分がいる。
 見えなくなると思った。いなくなってしまうと感じて、焦った。そんなはずはないのに。ラスティスは絶対にテッドを置いていったりしないと言い切れる、それだけの強さと信頼をこの数年間で勝ち取ったはずだったのに。
 まだ、駄目なのか。それとも、どう足掻いても無駄なのか?
「俺さ……いつか…………もしかしたら、俺、お前を…………その、なんて言うのかな……」
 雪は舞い散る。彼らの肩に、髪に、頬にひんやりとした一瞬だけの存在を残して。
「テッド?」
 言いにくそうな親友の姿に、ラスティスは「言いたくないのならいい」と小声でささやいた。
 彼は優しい。テッドが話さないことを無理に聞き出そうとしない。テッドがどこから来たのか、家族はどうなったのか、そして……時折テッドが見せる物憂げで哀しげな眼の見つめる先に何があるのかさえも。
 過去なんて関係ない。大切なのは今この時なのだと彼は教えてくれた。だからこそ、彼になにも教えずにここまで来たことに罪悪感がまったくないとは言い切れなかった。
「……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない」
 俯くテッドの見つめる先は、白く霞んだ大地のかけら。
 こんな事いきなり言ってもラスティスを困らせるだけだと分かっているのに。大事だから、失いたくないけどテッドの右手を支配する呪いの紋章はそんなこと全くお構いなく数多の命を奪ってきたから。ラスティスだって、危険なんだ。
「……テッド…………それは……」
 下を向いたままのテッドにはラスティスの表情が見えない。だが声の様子から、当惑していることは伺えた。
「ラス……俺……」
「テッド、それはとても困ったね」
 至極真剣に、おもいきり真面目に言ったつもりで、顔だって切羽詰まって悲壮感漂わせていたテッドだったのだが。顔を上げて見たラスティスは腕を組んで、本気に受け止めているのかどうかも怪しい態度だった。
「ラス……?」
 もしもし、と声をかければ、ラスティスは「うーん」と軽く唸って首を微かに傾げ、
「だって、僕の方が強いよ。テッド相手だったら殺される前に僕がテッドを殺してしまうかも」
「……………………」
 かくん、とテッドは首を落とした。駄目だ、これでは。
 伝わらないのだろうか、やはり。300年も生きてきてようやく出会えた大切な友にも、この苦しさは伝わらないのか。
「……でも、さ。テッド。僕は死なないよ、君が僕を殺そうとしても」
「お前の方が強いもんな」
「違う、テッド」
 すさんだ気持ちで顔を背けて言えば、即座にラスティスが否定の言葉を口にして無理にテッドの顔を自分の方に向かせた。まっすぐに見つめてくる双眸の輝きは、誰にも負けない強さを秘めている。
「僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?」
 だから死なない。そしてテッドのことも絶対に殺したりしないし、失うつもりはないと彼は眼を逸らすことなく言い切った。
「……お前……それ、自信過剰」
「確信犯と言って欲しいね」
 そうしてふたり、道の真ん中で声を上げて笑いあう。雪は途絶えることなく降り続き、世界を一面の銀世界に変えていく。
 この時、彼らは子供だった。いつまでもこの時が続くことを疑おうともしない、彼らはただの子供だった。

 赤月帝国の北に存在するジョウストン都市同盟が不穏な動きを見せている、その対処に当たるためにテオ・マクドゥールが王都を離れている間、そのかわりを務める事になったラスティスに与えられた最初の仕事が、星見の結果を受け取りに行くという内容だった。
「なんか簡単すぎてつまんねーよな」
 無理矢理にラスティスにくっついてきたテッドが、星見役がいるという塔へ続く森の中であくびをする。
「なにを言うの。星見の結果は赤月帝国の政治に欠かすことの出来ない大切なものなのよ。届けるのが遅れたら、それだけで問題になるんだからね」
 迂闊なことは言わないの、とクレオに説教されてしまい、テッドはこっそりと舌を出した。しかもラスティスにその瞬間をばっちり見られてしまった。
「テッド」
「……あ、なに?」
「フッチと一緒に待っててくれても良かったんだけど」
 生意気な竜騎士見習いの少年は、愛竜ブラックと共に島の入口で待っている。
「冗談。あんな奴と一緒にいるくらいなら、退屈でもラスたちと一緒の方が俺はいい」
「そんなに嫌わなくてもいいのに」
 グレミオがフッチを思い出して呆れ顔で言う。彼にしてみれば、テッドがどうしてあそこまでフッチを毛嫌いするのか、その理由が分からなかった。
「子供の喧嘩だ、放っておけ」
 パーンが笑いながら言うのを聞き、テッドはふん、とひとつ鼻を鳴らした。
「あんなガキと一緒にしないで欲しいな。俺はこれでも……っと。」
 何かを言いかけ、慌てて彼は自分の口を手でふさいだ。どうしたのか、と皆がテッドを振り返って見るが、彼は「もういいよ」と諦め顔で首を振った。
 森の小道には時々モンスターが出てきたが、どれも大した強さではなく、パーンやグレミオ、それにラスティスの敵ではなかった。もちろんテッドやクレオも後方から援護攻撃を欠かさず、5人は大きな傷を負うことなく森を抜けることに成功した。
 しかし。
「ふーん。新顔だね」
 森が途切れ、塔への入口が見えたまでは良かったのだが。塔の手前にある土の露出した広場に、ひとりの少年が立って彼らを眺めていた。
「誰でしょう」
「まさかこいつが星見役の?」
 とてもそうは思えない、ラスティスよりも年下らしい少年は、まるで品定めをするように彼ら5人を順に見やる。そして最後にテッドを見て──彼はわずかに形の良い眉をひそめた。胸の前で組んだ右手の人差し指を唇に当てて、なにやら考えている様子。
「……まあ、いいか。ちょっと試させてもらうよ」
 だが答えが見付からなかったようで、少し不本意そうに言うと両腕を解いて右手を頭上高くに掲げた。
「真なる風の紋章よ……」
「……!」
 少年の紡いだ言葉の意味を察したのは、彼らの中でテッドただひとり。
 ──まさか、こいつ!
 グローブの上から右手の甲を抑えつけ、そこに感じるチリチリとした痛みに顔をしかめた。
 少年の要望に応え、風がわき起こり大地が隆起し中から一体のモンスターが現れた。岩で全身を固めた、今まで見たこともないモンスターだ。
「なんだ、こいつは!」
「気を付けて!」
 パーンとクレオが叫び、グレミオは咄嗟にラスティスの前に立って彼をかばった。
 土色のモンスターの向こうで、少年が満足そうにこの様を眺めている。テッドと視線がぶつかると、最初は意外そうな顔をしたがすぐに嫌味な笑いを浮かべるようになった。
「お前!」
 まさか、試すというのは……
「テッド、危ない!」
 だが前に出て少年の許に駆け寄ろうとしたテッドを邪魔するように、クレイドールが岩を投げつけてきた。
「うわ!」
 あと少しラスティスの声が遅ければ、テッドは岩の下敷きになっていただろう。転がっていく岩をすれすれのところでかわしたテッドは、ほっと息を吐くと急いでラスティス達の許へ向かった。
「大丈夫でしたか?」
 グレミオにおくすりをもらい、テッドは転んだ時に擦った傷に乱暴に塗りたくった。かなりしみて涙が出てきたが、おもいきり息を吸い込む瞬間に涙ごと押し戻して彼は弓を持つと背中の矢筒からまとめて3本、矢を取り出した。前を見れば、パーンが得意の拳法でクレイドールに果敢に挑んでいるが、表面が岩で出来ているクレイドールに思ったほどダメージを与えられていないようだった。クレオの飛刀も跳ね返されて地面に突き刺さっていた。
「無理するな、テッド」
 グレミオの斧が、かろうじてクレイドールの表面を削っている程度で、ラスティスの攻撃もさして通用しているように見えない。だが諦めずに何度でも挑戦していく彼に、テッドだけが戦わないわけにはいかない。
「俺だって!」
 弓に矢をつがえ、彼は歯を食いしばり弦をギリギリまで引き絞る。
 ──あれは紋章で……27の真の紋章で召還されたモンスターだ。いくら程度の低いモンスターだからといっても、油断できない。だったら……!
 ここで紋章の力を使うのは危険だ。テッドの持つ呪いの紋章は効果は絶大だが、その分範囲も広い。この状態で紋章の力を解放したら、ラスティス達にまで被害が及んでしまう。それだけはさけたい。
 だったら、こうするしか方法がない。
「ソウルイーター……お前の力を、この一撃に!」
 弦が切れてしまうその一歩手前で、テッドは想いのすべてを打ち込んで矢を放った。
 風を切り、空を裂き、矢はそれまで堅固な守りを誇っていたクレイドールの胸部に深々と突き刺さった。
 ぼろり、とクレイドールの中心部分が崩れる。その瞬間を見逃さず、すかさずラスティスがテッドの矢の上に棍を打ち込んだ。
 もろくなっていた部分に追い打ちをかける。それは戦闘の常套手段であり、もっとも効果的な攻め方のひとつだった。もちろんラスティスはそんなところまで頭が回っていた訳ではなかったが、ラスティスの一撃はクレイドールにとって致命傷となり、パーンとグレミオの協力攻撃を受けて完全に沈黙した。
 土塊の山となったクレイドールの残骸を囲み、5人はそれぞれ深く息をついた。まさかこんなところでこんなに苦戦を強いられるとは思っておらず、まだまだ自分たちが未熟者であることを各自思い知ったことだろう。テッドを除いて。
「ふーん。まあまあかな」
 やっと終わったか、と小声で呟いて少年は前に進み出てきた。自分が召還したクレイドールがやられてしまったことを悔しがる気配すらない。
 よく見れば美少年なのだが、どうも表情に乏しい感じがする。それに、この態度。生意気以外のなにものでもなく、初対面の相手にいきなりモンスターをけしかけてくるところからして、フッチには友好的だったグレミオも少しばかり怒っているようだった。
「ま、認めてあげなくもないかな。レックナート様がお待ちだよ。早く行くんだね」
 塔の方を指さし、少年がいけしゃあしゃあと言い放つ。これにはパーンも怒りマークが頭上に浮かんだが、
「時間がないんだ。行くぞ」
 クレオにたしなめられ、不満げに少年を睨み付けると先に塔へ向かって歩き出していたラスティスを追いかけて走り出す。グレミオとクレオは先頭にいるラスティスと並んで歩いているから、そこに残ったのは必然的にテッドだけとなった。
「行かなくていいのか?」
 階段を登り、塔の中に入っていってしまったラスティス達を示し、少年が動こうとしないテッドに尋ねる。
「お前……あれは俺を試したのか?」
 右手を左手で包み、そこにある疼くような痛みに耐えてテッドは逆に聞き返す。少年は「なんだ」と言わんばかりに退屈そうな顔をして、
「だったらどうするのさ」
「……言うな」
 27の真の紋章を持つ者は、互いが近くにいれば紋章同士が共鳴を起こすために存在が分かり合うようになっている。もっとも、300年間も各地を放浪していたテッドであっても真の紋章を持つ者に会ったのはこれが初めてだったので、今さっき知ったことなのだが。
「言うな……って?」
「あいつらに……ラスには言わないでくれ」
「ふーん。あいつらは知らないんだ」
 もう姿が見えない4人の入っていった、塔の入口を見上げて少年は呆れたように呟く。それから、やれやれと首を軽く振り、
「生憎僕は無駄口が嫌いでね」
 誰かに話すつもりはないと、少年はため息混じりの声で語った。
「嘘じゃないだろうな」
「……うるさいなあ。さっさと行けよ」
 疑り深いテッドの顔に指を突きつけ、少年──ルックは面倒くさそうに言う。
「分かったよ。けどな、これだけは言っとく。俺はこれでも300年生きてるんだぞ!」
 お前なんかよりもはるかに年上なんだからな、と大声で怒鳴ってテッドは走り出した。耳のすぐ近くで叫ばれたルックは思い切り顔をしかめ、むすっとしたまま右手で風を呼ぶとテッドに向かって、何も警告しないまま解き放った。
「おわわっ!」
 足下を風にすくわれ、テッドは階段の手前ですっころび鼻を石段に打ち付けてしまった。
「こらー!!」
 また怒鳴って後ろを向くが、反撃を恐れた(ソウルイーター相手ではルックでも分が悪い)ルックはさっさとテレポートで逃げ出していて、どこにもいなかった。
「くそ、やられた!!」
 心底悔しそうにテッドは空に向かって吠え、打った鼻の痛みにしばらくもだえなければいけなかった。

 雨が降り続ける。路上の石畳は水たまりをあちこちに作り、足を地面につける度に泥が跳ねる。
「……逃げ、なきゃ……早く、逃げないと…………」
 腕から流れる血は雨と混じり合い身に纏う服を重く湿らせていく。腕だけでなく体中が傷だらけで、一歩進むごとに激しい痛みが俺を苦しめる。それでも、立ち止まらなかった。
「逃げないと…………遠くへ、とお……く、へ…………」
 傷から生じた熱は冷たい雨にさらされ、奪われていく。凄く熱いのにひどく寒い。
 隠されし紋章の村を襲った女、ウェンディとの予期しなかった再会。それは、今まで忘れかけていた忌々しい記憶をあざやかによみがえらせてくれた。
 己の復讐のためにソウルイーターの持つ絶大な力を欲したウェンディ。彼女に紋章を渡さないために、俺は祖父を、生まれ育った村を失ったのだ。平和だった生活が過ぎ去り、放浪というひとりぼっちの日々を行くしかなくなったのも、すべてこのウェンディの所為だった。
 渡せない、この紋章は。祖父が、村の人々が命を賭してまで俺に託した想いを無駄にしたくない。これをウェンディに渡すことだけは、何としてでも阻止しなくてはいけなかった。たとえ、それが自身の命を失うことになっても。ソウルイーターがウェンディの手に落ちれば、もっとずっとたくさんの人が苦しみ悲しむことになるって分かっているから。
「……にげ、なきゃ……」
 バランスを崩し、俺は石畳に倒れ込んだ。雨を吸い重くなった髪が頬に張り付く。涙が一粒、こぼれ落ちた。
「駄目、なのに……」
 ここから先に行ってはいけない。頼ってはいけないのだ。これ以上迷惑はかけられないってよく知っているのに!
「ラス……」
 数年前お前にあったときお前はまだ小さくて、人のズボンで涙を拭いたり、迷子になっているくせに図々しくて親を捜してやっている人の背中で呑気に眠ったり、どうしようもない奴だと思った。
 テオ様に連れられて再会したとき、お前は俺のことが分からなくて(当たり前だけど)一緒に住めるって分かったときは凄く嬉しそうに笑ったよな。握手したときに掌の暖かさが変わっていなくて、俺はずいぶんと安心したんだ。
 友達になれて、良かった。お前に出会えて、本当に良かった。もう俺にはお前しかいないんだ。迷惑だって分かってる。お前を苦しめるだけだって分かってる。でも。
『……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない』
 サラディの村で言ったよな、俺。違うんだ、本当は俺、お前を失うのが怖かった。ずっと黙ってたこと、お前が知ったとき俺のことを嫌いやしないかって怖かった。今のままでいたかったから、今の関係が壊れてしまうのが怖かったんだ。俺、お前のことを信じ切ってなかった。それを認めるのが嫌だった。
 でも、お前は言ってくれた。
『僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?』
 俺はお前を守りたい。お前を失いたくない。
 だから逃げなくちゃいけない。ここではないどこかへ、ウェンディも追いかけてこられない程に遠い世界へ。お前を、守りたいから。
 でも駄目なんだ。見付からないんだ、どこにもそんな場所が。
 気付いてしまっている、あの女から逃げ切る事なんてできっこないって。諦めてしまっている、こんなに弱かったのか?俺って。
「ラス……ごめん、ラス。ごめんな……」
 涙が止まらない。顔を上げればそこにはマクドゥール家の門が見える。
 俺は立ち上がる。行ってはいけないと分かっているのに、もう俺にはそこしかなかった。
 そこしか、還る場所が思いつかなかった。
 ごめんな、ラス。俺の所為だね、お前が苦しむのは。でも……もう俺にはお前しか残っていないから。
 お前を悲しませることになるってよく分かってる。俺、悪い友達だったな、きっと。
 でもな、俺……300年も生きてきたけど、お前と一緒にいられたこの数年間が一番幸せだった。本当だぜ?
 俺、お前に会えて良かった。楽しかった。
 だから、ごめん。

 それはいつか君に届く想い

 時代は巡り始める
 大きな哀しみと苦しみを紡いで
 今また歴史は繰り返される
 
 それは切ない想い
 願い
 叶えられることのない
 儚い夢

 それでも彼は祈り続ける

…………ずっと一緒にいたかった…………