noisome

 テレビの音量はかなり大きかった。部屋と部屋を遮っている扉を開けた瞬間、通常の人よりもはるかに優れた聴力を持っているアッシュは、うっ、と唸ってしまう。
 片手で片耳を押さえる。しかし脳髄を刺激して止まない轟音は収まらず、発生源へと目を向けた彼は案の定、という顔をしてひとつ溜息をついた。
ゆっくりと、テレビを囲むように置かれている革張りのソファセットへと向かう。音量は益々激しくなっており、顔を顰めつつ彼はふたり掛けソファの後ろから腕を伸ばした。
 背もたれの部分にもう片手を置く。身を乗り出した彼の手が掴んだものは、テレビのリモコンだった。
「んぁ?」
 今アッシュが居るソファに座っていた人物が、今頃になってようやくアッシュが近くにいることを知ったらしい。間の抜けた顔と声で彼を見上げた。ただし、振り返ったわけではなく顎を仰け反らせて――首だけで後ろを向いた感じだ。
 その口にはビスケットがくわえられている。なんの味付けも、飾り付けも成されていないただの焼き菓子だった。ソファの向こう側に鎮座しているクリスタルのテーブルの上には、そのビスケットが入っているらしい赤色の鮮やかな箱があった。取り出し口がかなりひしゃげているから、中身は残り少なそうである。
「なにぃ?」
 間延びした声は、くわえているビスケットを食べながらなので仕方がない。しかし行儀の悪い事には違いなく、余りよい顔をせずにアッシュは手に取ったリモコンを持ち直した。そしてスマイルの見ている前で、テレビの音量を五段階ほど下げる。
「あぁ!」
「っ!?」
 途端スマイルが大声をあげて叫ぶものだから、アッシュはリモコンを落としそうになり慌ててそれを両手に抱え持って何事、と彼を見返す。
 その目の前で、三分の一のサイズになったビスケットを口から零すスマイル。叫んだときに挟み持っていた歯から外れてしまったのだ。
「汚いっス」
「いいの、どうせぼくが食べるんだから」
 膝の上に欠片を散りばめているビスケットを拾い上げ、それをぱくっと口の中に放り込んだスマイルの顔は、不満に道満ちている。
「それより、どーして音量落とすのさー」
 アッシュの抱えているリモコンを指さしながら、スマイルは御立腹であった。荒っぽくビスケットを噛み砕き嚥下する。粉っぽくなってしまった唇も、乱暴に手の甲で拭う。
「今だって充分喧しいっス」
 ぴっ、とリモコンのボタンをもう一押し。
 画面の右下隅に音量を示すラインが現れ、それがひとつ分左にずれた。
「あー!!」
 テレビよりも喧しくスマイルがまた叫ぶ。画面の音量設定変更の鮮やかな緑色の表示が消えるまでそれを穴が開くかと思うほどに見つめ、消えると同時にもの凄い勢いでアッシュを振り返って。
「なんでさー!」
「煩いんス」
「聞かなきゃいいじゃないかー!」
「じゃあ自分の部屋で見てくれば良いじゃないっスか」
「こっちのテレビの方が大きいんだもん!」
「だったらヘッドホンして下さいっス!」
 つい応酬の最中でどんどんと声が大きくなっていって、アッシュもスマイルに負けないほどの大声で怒鳴ってしまう。
 その瞬間、スマイルがきょとんとした顔でアッシュを見上げるだけに終わってしまうから、アッシュも自分がなりふり構わず怒鳴っていたことに気づいてはっとなり、口元に手をやる。
 しかしスマイルがその隙を見逃すはずがない。
「もーらいっ♪」
 ぱっ、と消えた左手がアッシュからリモコンを奪い取って彼の胸元へ導く。気づいたときにはもう遅くて、アッシュが止める間もなくスマイルは八段階も音量のボリュームを上げていた。
 にぃ、と笑うスマイルの後ろでアッシュが耳を塞ぐ気にもなれないままがっくりと項垂れる。片手で顔を覆うと、泣きたくなってきた。
「鼓膜が破れそうっス……」
「破れたら縫ってあげるヨ~」
 ぽつりと呟いたアッシュの溜息を、この大音響の中でよくぞ聞き分けたと言わんばかりに聞きつけたスマイルが、テレビ画面を見つめながら笑う。屈託無く。
 果たして彼がアッシュを笑っているのか、テレビに笑っているのかは区別がつかない。確かめようにも、アッシュの現在位置からでは上か横から覗き込まない限りスマイルの表情など見えるはずがない。
「無理っスよ……どうやって縫うんスか」
「そりゃ~、当然」
 糸と、針でショ?
 また彼は無邪気に笑ってビスケットを口に放り込んだ。
 一度前歯と唇で挟み持ってしまうと、あとは手を使うことなく先端から順番に噛み砕いて食べていく。波打ちながら徐々に減っていくビスケットを斜めに見下ろし、同じように内容物を減らしていくビスケットのパッケージを見た。
 自分が買い物ついでにおやつとして買ってきたものではない。見覚えがないから、多分これはスマイルが自分で買ってきたものなのだろう。その横には飲み干された缶珈琲が転がっており、更に向こう側ではコンビニエンスストアのビニール袋が無造作に投げ捨てられていた。
「コーヒーくらい、言えば煎れるっスよ」
「ん~……ついでだったし」
 コレの、とスマイルが後ろ手にアッシュに見せたものは煙草。真っ赤なパッケージに白色のロゴだけがやたらと目立つ、ボックスタイプだ。封はされたままだった。
「最近多くないっスか?」
「そうでもないよ~」
 昔ほどは吸わなくなった方、となんでもないことのように言葉を返すスマイルだが、彼の視線は未だテレビ画面に釘付けになっている。時々身体が左右に揺れたりするのは、画面の動きに合わせての事なのだろう。
 アッシュには、さっぱりな内容だったけれど。
「面白いっスか?」
「じゃなかったら、見ないよ最初から」
「それもそうっスね……」
 また溜息。聞くだけ無駄だったかと髪を掻き回したアッシュに、スマイルがまたしても笑って見せた。
「分かってるなら聞かなきゃ良いのに」
 なんとなく聞いてしまったのだと、言ってから気づいた事はもうこの際黙っておくことにした。どうせいいようにからかわれるに決まっているし、こういう状況では口達者なのはスマイルで、アッシュには分が悪いことこの上ない。
 それでなくとも、自分のこの状況は充分彼に遊ばれている。正直言えば、面白くないのが実状だ。
「黙っちゃったね」
 ちらり、と久しぶりにスマイルはアッシュの顔を窺い見て呟く。彼の手の上では、黒色の細長いテレビリモコンがくるくると回されていた。
「要らないの?」
 あんなに煩いのを嫌がっていたくせに、今はすっかり静かになってしまったアッシュへわざと見せびらかすように彼はクツクツ、と喉を鳴らした。
 思わずカチッと来るが、ここで怒鳴るようではまたスマイルの玩具にされること一目瞭然。自分に言い聞かせてアッシュは拳を密かに背中で握り、それを震わせることで堪えようとした。
 しかし、スマイルがひょいっと持ち直したリモコンのボタンをまた、ふたつほど押した時には我慢も限界。
 いったいスマイルの耳はどうなっているのか。疑いたくなるような窓さえ震え出しそうなボリュームにアッシュは咄嗟に、両手で両耳を押さえ込む。
「スマイルー!!」
「は~い♪」
 いい加減にしろ、と怒鳴ってもスマイルは馬耳東風ばりの笑顔で返事をするだけ。その顔はとても楽しそうで、こうやって怒っている自分の方が莫迦らしく思えてアッシュは空しさを覚えてしまう。
「ウルサイいっス~!!」
「うるさいねぇ」
 向こうもどうやら分かっているらしい。そのうち、階下での騒音を聞きつけたユーリが怒鳴り込んできそうなものである。そうなったら、とばっちりはこの場にいたアッシュにも及ぶことだろう。
 機嫌の悪いときのユーリは兎に角機嫌が悪いから、いい加減この莫迦騒ぎも終わらせたい。
「スマイル……」
「なにぃ?」
 お互いの声も、かなり大きめに出さないと近くにいても聞き取りづらい。
「リモコン、貸すっス」
 出来る限りにこやかに、穏便に。務めて努力しながら右手を差し出したアッシュだったけれど、
「いや☆」
 これまた負けないほどににこやかに、爽やかに、場の雰囲気とはおおよそ相応しくない笑顔でスマイルは胸の中にリモコンを抱き込んでしまう。そして膝まで抱え込んでソファの上で小さくなり、クツクツとまた喉を鳴らす。
 なにがそんなに面白いのか。
「…………」
 嘆息が零れ落ち、差し出していた右手を軽く握るとアッシュはそれをそのまま返して、スマイルの頭を横から小突いた。さほど力を入れたわけではないはずなのに、調子に乗っているのかスマイルはころん、とソファに転がった。そしてまた笑う。
 彼のことはひとまず気にせず、更に重い息を吐き出してアッシュはソファを迂回してテレビへと近付く。ステレオのスピーカーが大音響を奏でている中、人力で聴覚を脳神経から遮断させる腹積もりで彼は画面下の小さなボタンを連打した。
 スマイルの位置からだと、スクリーンに彼の身体が被る格好だ。ソファに横になっている今の状態だと尚更に、見えにくい。
「アッシュ君~?」
 不満たらたらな声で呼ぶと、仕事を終えた彼がすくっと立ち上がった。
 テレビ本体にある音量調整ボタンを押したので、周囲はすっかり静かになっていた。嫌がらせのつもりではないが、通常人が聞くのに充分な音量にする為にはスマイルが設定していた時から十五回ほど、ボタンを押さなければならなかった。
 だので、リビングはまるで嵐が去ったあとのように静かに感じられる。
「これくらいでも充分聞こえるっス」
 むしろこれが正常値だ。テレビの角を叩いたアッシュのひとことに、スマイルは明らかに不服そうだ。一応座り直したものの、子供のようにソファの縁に手を置いて足もまた、ソファに引っかけている。
 カエルのポーズに似ていた。
「そんな顔してもダメっス」
「ちぇ~」
 親が子供を叱る図に等しい。むくれた顔でそっぽを向いたスマイルは、左手だけをテーブルに伸ばしてビスケットの箱から、一枚抜き取った。
 ぱくり、とくわえる。
 胸に大事に抱きしめていたリモコンはもう役立たずだ。ここで音量を上げても、未だテレビの真横に位置しているアッシュが速攻、本体側で操作するだろう。イタチごっこの展開も、こういう状況は楽しくない。
 さて、どうしよっか。
 無意識に胸ポケットへ手が伸びる。そこに入っているのは例の未開封の煙草だ、ライターもそこにあるし、持ち運べる灰皿も一緒に収められている。
 こんな風に意識せぬまま煙草を求めてしまうから、いつまで経っても禁煙できないのだろう。
「座れば?」
 もう音量を弄ったりしないから。
 その意味を込めて言葉と同時に彼はテーブルにリモコンを滑らせた。そして放り投げて空いた手でもう一枚、ビスケットを掴む。
「食べる?」
 座っているスマイルと、立っているアッシュ。視線は必然的に上目遣いで、質問した傍から手にしたビスケットを口に挟み持った彼にアッシュは最後の溜息を零した。
 別に空腹なわけでもないけれど、新たな会話を生み出すには受け取った方が良いのかも知れない。それにこのままテレビの横に立っているだけ、というのは無意味だろう。既にスマイルはリモコンを放棄してしまっている。
 アッシュはゆっくりとソファへ近付いた。そして座る前に、テーブル上の箱へ手を伸ばす。
 しかし。
 箱は空っぽだった。
「…………スマイル」
 彼は知っていたはずだ、ビスケットがもう残っていないことを。彼が今くわえている、一枚を最後に。
「食べる?」
 それなのに彼はにこにこと上機嫌に笑いながら、アッシュを見上げている。彼の仏頂面に構うことなく、あくまでもどこまでもマイペースだ。
 そのマイペースさに、毎回狂わされているのがアッシュなのだが。
「食べるって、もう残って無いっス……って」
 まさか。
 空箱を指さして最後まで言ったものの、話している最中に思い当たる事にぶち当たったアッシュは恐る恐る、スマイルの表情を伺ってみた。
 にっこにっこ、にっこにこ。
 笑顔は相変わらずで、変わらない。
 冷や汗が流れた。
「要らないの?」
 前歯で軽く挟み持ったまま、器用に彼は喋る。少しでも顎に力を加えれば挟まれている先端は噛み砕かれるだろう。そしてその分、ビスケットは小さくなる。
 彼ならば、やりかねない。
「貰うっス。貰うっスケド」
 それでもまだ躊躇していると、ぱりっ、と軽く浅い音がして。くわえられたビスケットが上下に波立つように揺れた。
 少し、小さくなる。
「……スマイル」
「ん~~?」
 絶対にわざとやっている事丸分かりの笑顔を向けられて、アッシュの中で何かがパキッと音を立てて割れたようだった。
「貰うっス」
「ん~」
 どうぞ、とばかりにスマイルが顎を突き出してきたのでアッシュも腰を屈め、片手をソファの背もたれに置いてバランスを保つ。
 跳ねているスマイルの髪の毛がアッシュの頬を掠めた。口がビスケットで塞がれているので、もっぱらの呼吸は鼻で成されている彼のその吐き出す空気が次いでぶつかってきた。
 カリッ、とビスケットの先端を前歯だけで囓る。
 スマイルは丹朱の隻眼を開いたまま、笑みを浮かべてそれを見つめている。逸らすことも、閉じることもしない。
 アッシュが“しない”と完全に信じ切っているからだ。その信用を守り抜くのかそれとも、散々からかわれた腹いせに裏切ってみせるのか。
 どちらであっても、スマイルにダメージはないだろう。悔しいのはアッシュひとりだけだ。
 それが癇に障る。
 クンッ、とビスケットが上に少しだけ跳ねた。
 舌先に触れる為に口の中にあるビスケット地が湿って崩れてしまったのだろう、バランスを取り直す為にスマイルが下唇を少し持ち上げたのだ。だが予想以上にその動きは大きくて、間近にあったアッシュの鼻先を掠めるようにして降りていった。
「ぁ、ゴメ……」
 ぱきん。
 口元を緩め、言葉を発しようとしたスマイルの手前で。
 アッシュが先に目を閉じた。濃い影が落ちてくる。
 目を見開いたスマイルの、吐き出す吐息がアッシュの前髪を揺らしその下の肌を擽った。薄く開いた彼の口の中へビスケットが吸い込まれる。
 けれど、でも。
 あと五ミリ、の距離でしかしそれは、噛み砕かれて二つに分かれた。
 触れあったのは、互いの吐息と前髪だけ。
「ぁ……あ」
 一瞬呆けてしまったスマイルは反応を返せない。ただ口の中に残った、ほんの僅かのビスケットを奥歯で一気に噛み砕いて呑み込む事だけは忘れなかった。
 かなり彼の取り分は少なかった。大半はアッシュに持って行かれてしまって、少々考えていたことと違う展開に彼は戸惑う。
「意外かも」
「ほっとくっス」
 親指の腹で下唇を拭ったアッシュに、もっと根性無しかと思ってた、と酷いことを口にしてスマイルは口の中にまだ残っている欠片を舌先で回収し、それも呑み込んだ。
「ついてるっスよ」
 ただ口の横の、頬に近い場所にどうしてかついていた欠片……とも言えないビスケット屑は、また身体を伸ばしてきたアッシュの舌先が攫っていったけれど。
「……イヌ」
「違うっス!」
 アッシュは力一杯否定するのだが、それがまた可笑しくてスマイルの笑いを誘う結果に終わってしまう。
「やーい、犬~」
「だから、違うって言ってるっス!」
「お手」
「だ~か~ら~!」
 違う、と口に出して叫んでいるくせに手の平を上にして目の前に出された瞬間、反射的に手を出してしまっている自分に唖然としながらアッシュはまた、項垂れるのだった。
 また当分、これをネタにして良いようにからかわれる日が続きそうである。