sleepy

 耳に嵌めていたヘッドホンを外し、ん~、と思い切り腕を頭上に伸ばして背を仰け反らせる。
 身体の動きに相まって座っている椅子の前脚が二本とも浮き上がり、上半身の体重を一心に受け止めている椅子の背もたれが悲鳴を上げた。
 しかしスマイルは構うことなく、ちょうど背中に食い込んでくる木組みの椅子が気持ち良いのか、左右に大きく体を揺らしてみた。リズミカルに、全身が傾ぎその度にそう頑丈に作られていない椅子が絶叫しながら撓る。
 机の上に無造作に放り出されたヘッドホンからは、同じようにリズミカルな音楽が控えめな音量で流れ出している。そのコードが続く先には、床に直置きされたラジカセが机の蔭に隠れるように鎮座していた。
 漏れ出てくる音を思い出し、スマイルは椅子の角度を変えて足の指で無機質に動き続けているラジカセのスイッチを切った。そしてようやく、悲鳴を上げっぱなしの椅子を大人しくさせる。
 頭上にやったままだった両腕を机の上に投げ出し、右腕の肘あたりに顎を置く。ごりごりと顎を動かせば程良い刺激が腕の内側を走り抜けていくが、やりすぎると今度は痒くなってきたのでやめた。
 とりあえず、疲れた。
 その一言に尽きる今の自分の体調を苦笑し、垂れ落ちてきた前髪を鬱陶しげに掻き上げる。それからヘッドホンから流れてきていた音楽と同じく、ずっとかけっぱなしで存在すら忘れそうになっていた眼鏡を、外す。
 座りっぱなしだったので疲れている腰以上に、眼鏡を支えていた部分が疲れている。指先でそこを揉みほぐし、もう一度片腕だけで伸び。肘から上を後ろ向きに倒すと、ポキポキと骨の鳴る音がした。回してみると、なおのことよく音がする。
「ん~~~……」
 折り曲げた肘を伸ばして、もうひとのび。つい口から出た呻き声にはっ、と小さく笑う。
 また椅子が鳴いている。そのまま後ろに倒れ込んでしまおうかと一瞬考えたけれど、受け身を取ることが出来そうになく自分が痛いだけに終わりそうなので、止めておくことにする。それではただ、自分から転びに行くようなもので、間抜けな構図だ。
「今、何時~……?」
 窓の外は真っ暗で時間を計る材料にはなり得ない。壁時計を見上げようにも、室内の照明も極力絞っている状態なので、すぐに目的のものを見つけて文字盤が刻む時刻を読みとることが出来なかった。
 今現在、彼を照らしているのは机の上に置かれている電気スタンドの淡い蛍光灯の光だけだ。それも幅を限っているので、明るいのは机の上ばかり。
 その机上にはさっきまで書いては破棄、の繰り返しだった新曲の歌詞を書いた紙が雑多に積み上げられている。同じサンプル曲を何度も何度も聞き回していたものだから、音を切った今も、耳の中に残響が残ってしまっている。油断をすれば鼻歌でも口ずさんでしまいそうだ。
 その曲に合う歌詞を、作れ。しかも二日以内に。
 リーダーの出した期日はもう残っていない。恐らく日付がもう変わってしまっているはずなので、今日の昼までに提出しなければなるまい。だが切羽詰まれば詰まるほど、良いものが頭の中にまったく浮かんでこない。
「ギャンブラーにしたら、ユーリ、怒るよねぇ……」
 当たり前だ。
 息抜き程度に書いた歌詞を手に取り、苦笑いをしてそれをくしゃくしゃに丸めて後ろに放り捨てる。カサッ、という紙が床にぶつかって跳ねる軽い音が一度だけ微かに聞こえて、それっきりまた周囲は闇と沈黙に閉ざされた。
 その中を、重い溜息が流れていく。
 一応形になるものは出来上がったものの、恐らくあのリーダーはこれで満足しないだろう。変に妥協を許さない人であるし、妥協案を提示しても怒られるだけだ。それに、自分だって納得できない。
 朝になってから、もう少し納期を延ばしてくれるように頼むしかなさそうだ。その前に、この仮の完成品を見せてどこが良くないかの指示も受けたいところだが。
 向こうも曲作りで大変だろうしストレスが溜まっているだろう。あまり刺激するような事はしたくなかったが、やむを得まい。こんな調子のものを提出する方がよほど、向こうを怒らせかねない。
 溜息が、もうひとつ。
 半分寝入りかけている頭を振って、頬を二度ほど叩いた。寝るのは、ベッドに入ってからだ。そう自分に言い聞かせて椅子を引いて立ち上がる。その姿勢で電気スタンドのスイッチを押すと、途端に室内が真っ暗闇に染まった。
 けれど慌てることなくそのまま十秒ほど待つ。そうすれば眼は闇に慣れ、昼間ほどとはいかないけれど視界を確保する事が出来た。もともと闇の世界に住んでいたわけだし、夜目が利かなくては笑い話にしかならないだろう。
 いきなりの停電に驚いて犬化した挙げ句、階段から転げ落っこちたバカなら、知っているが。
 椅子を机の下に戻し、念のためとメモ帳とペンだけを机の上から回収。それを持ってスマイルは自分用のベッドに歩み寄った。そして枕許にメモ帳その他を放り出し、着ているシャツの裾を引き上げる。
 ゴトン、と遠くから音が聞こえたのはちょうどその時だ。
 半端に脱ぎかけのシャツを持ったままスマイルは、音がした方向を向く。発生源は遠い、まず間違いなくこの部屋の中からしたものではない。
 彼は眉根を寄せた。そして脱ごうとしていたシャツを今一度着直して、闇の中を歩き出した。迷うことなく達した扉のドアノブを回し、三十センチほど外側に開く。
 廊下も、闇色一色。点々と壁に灯された燭台の光が、かろうじて足許を照らしているのだけれどそれだけでは視界を確保するのに不十分過ぎるだろう。
 顔だけを外に出してスマイルは右を見てから左を向く。音は、弱かったのでどちらから聞こえてきたものかそれだけで判別はつかなかったけれど、恐らくは左から。
 けれど物音を立てたものは見当たらず、戻ろうかと思ったけれど念のための確認でスマイルは部屋を出て、扉の真向かいにある吹き抜けに対している手摺りへ寄った。そして、下を覗き込む。
「……ユーリ……?」
 眼をしばたかせ、スマイルは眉間を寄せて眼を細めた。
 薄暗い廊下に動く影があった。それはどことなくおぼつかない足取りではあるものの、淀みないペースで進んでいく。その先にあるのは、階下へ続く階段だ。
 スマイルは上から覗き込んでいる状態で、しかもユーリの背中しか見えないので彼がどんな表情をしているのかは見えなかった。だが恐らく、先程の音はユーリが動いたときに――多分部屋を出たときの――発生したものだろうとスマイルは判断する。
 こんな夜半にどこへ、とも思うがユーリの服装が寝間着であったことからして、台所に水でも飲みに行くつもりなのだろう。まさかあの格好のまま外へ散歩、という事はあるまい。いくら散歩が趣味とはいえ。
 人騒がせな、と心の中で嘆息してスマイルは手摺りから身体を離した。踵を返し、開いたままの扉を潜って閉める。
 その先の世界は変わらず、闇。自分の部屋ながら、こうやって改めてみると不気味だ。
 ふぁぁぁ、と小さくあくびを噛み殺す。広げた右手で軽く口元を叩き、頬を引っ掻く間に足は扉口からベッドサイドに到達していた。
 履いている靴を、手を使わずに脱ぎ捨てる。左足のブーツがどこかとんでもない方向へ飛んでいったけれど、拾いに行く気にもならなかった。明日の朝、目が覚めたときにでも取りに行けばいい。そう考えつつ、足許の右足分も蹴り飛ばす。だがさして力を入れていたわけでもないので、それほど遠くへは飛んでいってくれなかった。
 あくびが、また。
 乱暴に頭を掻きむしり、着ているシャツを今度こそ脱ぎ捨てる。それも、ブーツと同じく闇の中に放り投げた。
 枕許に手を伸ばすと、指先が固く冷たいものに当たる。なんだろう、と怪訝な顔をして握ってみると、それは先程自分で持ってきたペンだった。傍にはミニサイズのノートも置かれている。
「…………」
 いいや、と彼は呟いた。そしてペンとノートもベッドから下に落とした。両方とも、弾みもせず床に沈んでそれっきり。椅子のような文句の声も上げなかった。
 どすん、と床の上に散乱したものに目もくれずスマイルはベッドに寝転がった。しばらく床の上からベッドに倒れ込む、その体勢のまま気持ちよさそうに柔らかなクッションに頬ずり。
「ねむーい……」
 そういえば、三日前からろくすっぽ眠っていなかった気がする。次から次へと無理難題な注文を受けては、それをこなしていくうちに睡眠時間が削り取られてしまっていたのだ。
 普段から時計を持ち歩かないスマイルは、時間の感覚に疎いから眠くならないと眠らない。けれど流石に、そろそろ充電が切れてきた。
「さむ~い……」
 自分から上半身裸になっておいて、それはないだろう。
 ごそごそと綺麗にベッドメイクされたシーツを剥ぎ取り、蒲団の中に潜り込む。その間彼は一度たりとも身体を持ち上げなかった。イモムシ状態でベッドに貼り付いたまま、一連の行動を成し遂げたわけである。
 その方が、暖かかったし。
 そして蒲団の中は彼の希望通り、とても暖かかった。自分の体温が加味されると尚暖かい。
 至福。
 蒲団の端を抱きかかえるようにして目を閉じるのだけれど、あまりに気持ちが良くてついつい表情が緩んでしまう。なにも眠るときまでスマイルしていなくとも良いのだが、自分が幸せなのだから仕方がない。
 もう彼の頭の中には作詞のことも、締め切りが迫っていることも、それが今日の昼間であることも残っていなかった。この調子では目が覚めるのは明日の夕方を過ぎてからになりそうな感じだったが、彼はまったく気にしなかった。
 この蒲団の中の心地よさには、なにものも勝てない。
「しゃーわせぇ……」
 けれど。
 がちゃり、と。
 鍵を掛けていない彼の部屋の入り口が外側から開かれて。
 寝入りばなをくじかれたスマイルは不機嫌な顔をして目を開いた。
 けれど顔を半分近く蒲団に潜り込ませているから、目を開けたとしても視界は蒲団の中の闇、侵入者の姿など目に入らない。
 いったいこんな遅くに誰だろう。
 幸福な眠りを邪魔する不届き者に怒鳴ってやりたい気持ちは、スマイルの中にあった。しかし、である。
 眠気がそれを邪魔している。
 もうどうだっていい、誰だっていい。兎に角眠い、眠いったら眠い。だから寝る。
 蒲団が視界を邪魔していたのが悪かったのかも知れないが、スマイルは侵入者を無視することに決めた。泥棒だったとしても、この部屋に盗むほどの価値あるものはなにひとつとして存在しない。放っておけばそのうち出ていくだろう。そう勝手に決めつけてスマイルはまた目を閉じた。
 しかし、侵入者は出ていく気配がない。それどころかどんどん彼の横になっているベッドに近付いてくる。
 そして。
 ぼすんっ、と。
「どわぁ!?」
 何事!? とスマイルは飛び起きた。
 いきなり、予告もなく、唐突に。
 気持ちよく眠ろうとしていた彼の上に巨大な物体が落ちてきたのである。それもちょうどしっかり、腹の上に。内臓圧迫で危うく死ぬところだった。
「なっ、なっ、なに!?」
 心臓がばくばく言っている。眠気が一気に吹っ飛んだ、気がする。
 視界は闇、部屋の中は暗すぎて自分の手元さえはっきりとしない。それなのに妙に明るくくっきりと目に映る、銀の髪。
「ユーリぃ……?」
 思いっきり怪訝な声でスマイルは、今自分の膝の上に倒れ込んでいるその物体の名前を呼んだ。されど返事はなく。
「ん~~~……」
 ただ呼ばれた事だけは分かったらしいユーリが、ずりずりとシーツに皺を刻みながらスマイルの方へすり寄ってきた。
 ぺと、と彼の腕がスマイルの身体を捕らえる。
 当然だが、それなりに暖かい。
「んんぅ……」
 ずりずり、ずり。
 ぴと。
「…………」
 人肌のぬくもりが気に入ったのか、スマイルの身体を両腕で抱き込んで、ユーリは頬ずり。かなり髪の毛がくすぐったい。
「ユーリさん……?」
「ん~~~」
 引き離そうとしたら、いやいやとされて余計しっかりと抱きつかれてしまった。
 寝ぼけている、完全に。いや、そもそも戻るべき部屋を階ひとつ分間違えている事自体が寝ぼけている事にならないか。
 はぁ、と溜息。どうしようか、と前髪を掻き上げるけれどすぐにまた落ちてきて、イタチごっこ。
 まぁ、ユーリもそこそこ温かいし。
 別にいっか、と思い直して。
 スマイルはユーリにも蒲団が被るように腕を伸ばして、そのまま自分もベッドに横になった。枕に頭を沈めると、どこかに飛んでいったはずの睡魔が一気に呼び戻されてあくびが零れる。
 目を閉じると、胸の中に溜まっていた空気を一気に吐き出して。
「オヤスミ、ユーリ」
 返事はなかったけれど。
「ん……」
 今はスマイルの肩に両手を回して胸元に顔を埋めているユーリが、笑った気がした。

 そして、朝が来て。

「何故貴様が私のベッドに居るー!?」
 目を覚ましたユーリが、まず初めに叫んだ言葉がそれで。
 自分を取り巻く環境を理解しないままに、目の前にある現実だけを把握した彼に思いっきり殴られて目を覚ましたスマイルは、訳が分からないと目の前に星を飛ばしながらベッドから、堕ちた。