Amaze

 朝。
 そこに、見覚えのない箱があった。
 昨日の夜には確かになかったはずなのに、目覚めてこの部屋にやって来たときにはもうそこにあった。
 手の平サイズだ、両手を使えば手の中にすっぽりと収まって隠れてしまえるくらいの大きさしかない。カラフルな色が六方を飾っているが、どこから開けるのか、開き口は見当たらなかった。
「?」
 小首を傾げながら、ユーリはガラスのテーブルにぽつんと置き去りにされていた箱を手に取ってみた。
 軽い。
 中身が入っていないのか、と勘ぐりたくなるくらいに軽かった。試しに耳の横に箱を持っていって前後に振ってみるけれど、音さえしなかった。
 やはり空っぽらしい。
 ころころと手の平上で箱を転がしてみる。六つのそれぞれ色の異なる平方が隙間無く組み合わされ、接着面が見付からない。中身がなんであるかを疑問に思うより先に、この箱がどうやって組み立てられたのかが気になった。
 左手の上に箱を置き、右手で蓋ではなさそうだが最初に上を向いていた平方の端を爪で抉ってみる。もしここが接着面であれば、少しは剥がれて来そうなものだ。
 しかし反応は芳しくなく。
 誰がリビングの真ん中にこんなものを置いたのかは分からないが、開かない箱などに意味はない。
 自分では開けられなかった悔しさもあって、負けず嫌いなユーリはもういい、とそれをテーブルの上に放り出した。さいころのようにコロコロコロ、とテーブルの滑らかなガラス面を箱は転がって行き、雑誌の角にぶつかって止まった。
 今度は赤色が上を向く。さっきまでは茶色が上を向いていた。
 残りの色は、水色、青、緑、黄色の四色。その配置に意味があるとも思えず、箱がテーブルの向こう側に落ちなかったことだけを確認して、ユーリは踵を返した。
 そもそも、彼はこの場所へ来たのはリビングを抜けて食堂へ向かうためだったはずだ。其処にはアッシュが居て、朝食の準備を整えているはず。
 こんがりときつね色に焼き上げられたトーストにはジャムをたっぷりと。
 苦めのコーヒーは眠気覚ましには丁度良い。そうでないときは少しクリームを多めに入れて味を滑らかにすると良い。目玉焼きは双子だと、何か良いことが起きそうでわくわくさせてくれる。
 毎日そう代わり映えはしないけれど、一日の始まりを告げる朝食を楽しみに想像しながらユーリは一瞬にして、苦心させられた小箱のことをすっかり忘れ去った。
 彼の姿がリビングから食堂の方へ消えたあと、赤色が上を向いた箱がひとりでに動き出した。
 コロコロ、コロン。
 滑りの良いガラステーブルの上を、雑誌とは反対方向へ三度回転。見事に茶色が上を向いて、箱は止まった。位置と方向に満足したのか、それっきり箱はひとりでに動く事はなくなる。
 そして、自分を開けてくれる人をひたすら待つ時間が始まった。

 
 朝食を終えて、食後のコーヒーを楽しんだ後ユーリはふと、気が向いてリビングへ足を運んだ。
 テーブルの上に置かれてあった雑誌、あれは彼が自分で置き忘れていたものだ。それを回収してから部屋に戻ることにする。
 雑誌には最近の音楽情勢が掲載されており、ランキングからゴシップに至るまで幅広いジャンルを扱っている。そのうちユーリが目を通すものは半分ほどしかない。ゴシップ記事など読んでも面白くないから読み飛ばすのが、彼の信条だった。
 クリスタルガラスのテーブルに無造作に裏表紙を上にして置かれていた雑誌を見つけ、手に取る。軽く表面を叩くのは、別に埃が積み上げられていたわけではない。ただの単なる癖のひとつだ。
 けれどそれを小脇に抱えて部屋へ戻ろうとしたところで、何処かしら違和感を覚えたユーリは出した足をそのままに、首から上だけで振り返った。
 なんだろ、何かが違っている気がする。
 違和感の正体が掴めぬまま、ユーリは歩き出すために前に出していた片足を引っ込めて両足を揃えて立った。テーブルに、今度こそちゃんと向き直る。
「…………」
 しばし沈黙。
 テーブルの上にあるのは、正体不明な謎の小箱と一輪挿しの花瓶がひとつ。それから壁際の大型スクリーンを操作するための黒いリモコン、ビデオ用のリモコンが各々ひとつずつ。さっきまでその一角にお邪魔していた雑誌は、今ではユーリの右脇に挟まれているから別格として。
 まるで間違い探しをしているようだった。
 眉根を寄せ、ユーリは食事前の光景を懸命に思い出す。
「……………………」
 なんだっただろう、確かこの小箱は転がっていって雑誌の角に当たって止まったはずだ。
 しかし、ユーリが今雑誌を取ったときその直ぐ傍に小箱は無かった。それに、停止したときに天井を向いていたのは確かに、赤色の面だったはず。
 だけれど、今天井を向いているのは茶色だ。
 それが違和感の正体だった。
「誰かが動かしたのか?」
 自問しながら、ユーリは手を伸ばし小箱を持ち上げた。もう一度手の平の上に載せてマジマジと六方を見つめる。
 相変わらず箱に継ぎ目は見当たらず、開けようにも入り口が何処にもない。重さも変わっておらず、先程よりも強めに振ったところで音は発生しなかった。
 いったい誰が、何の目的でこんな箱をこんな場所に置いたのか。
 思い当たる節のある人物はひとりきりしかいない。そういえばその思い当たる人物に今日はまだ一度も会っていなかった事を、ユーリは今更に思い出した。
 大体に置いてユーリの方が目覚める時間が遅いので、スマイルは先に食事を済ませてしまっていることが多い。アッシュも、食事の支度が一通り終われば自分の食事に取りかかる。だから毎朝、ユーリはひとりでパンを囓ることになっていた。
 あまりにそれが日常化してしまっていたから、スマイルの行方を聞くのをすっかり忘れていた。ユーリよりも先に起きだしているのなら、夕べには無かったこの箱がリビングにある事にも説明がつく。
 けれどやはり気になるのが、この箱の正体だ。
 開かないとなると余計に開けたくなる。何も入っていないと思いつつも、何かが入っていそうな予感に駆られる。
 ある意味、スマイルからの挑戦状だ。開けられて困るものが入っていたとしても、だったらこんなところに置いておく奴が悪い。
 いかにも、開けてくださいと待ちかまえていた箱を開けてなんの罪があろうか。すっかり開き直り、思い直してその上、負けず嫌いな性格に火がついてユーリは雑誌を脇に挟んだまま、どっかりとソファに腰を落ち着けてしまった。
 両手を使って箱を隅々まで調べる。その課程で、既に存在を忘れられた雑誌がソファの上に落ちて跳ね、床にまで沈んでしまったのだがユーリはまったく気にしなかった。
 赤、青、水、黄、茶、緑。
 六色に彩られた、小箱。材質は紙のようだが、叩いても凹むどころか押しているユーリの指を逆に押し返してくるくらいで、結構頑丈に出来ている。プラスチックかと思ったが、表面は少しざらついていて冷たさも感じない。
「むぅ……」
 低く唸ってユーリは片手を顎にやった。
 さて、此処からどうしよう?
 金槌で叩いてみようか。いやいやしかし、それでは中身まで砕いてしまいかねない。
 では釘抜きを使って一枚引き剥がしてみようか。いやいや、釘抜きの端を引っかけるための出っ張りが箱にはないからそれは無理。
 錐で穴を開けてみようか。……工具箱、どこにしまってあったっけ?
 高いところから落としてみようか。それじゃ、金槌で叩くのと結局は同じ事でしょうに。
 お湯で温めてみる? くっついちゃったガラスコップ同士じゃないんだから。
 ……じゃあ結局、どうするの。
 あれこれ考えてみるものの、どれも上手くいきそうで行かなさそうで、ユーリは悩む。眉間のしわは増える一方で、いつの間にか真剣な顔をして彼は小箱と睨めっこをしていた。
 人差し指と親指で小箱を挟み持って、角度を変えながら表面を穴が開くかと思うくらいにじっと見つめる。睨み付ける、と言った方が正しいか。いっそこれで本当に穴が開いてくれれば良いのだが。
 と、思っていたら。
 茶色の裏側……つまり、茶色が天井を向いているとき底になる色、緑。そのはじっこの方に小さな、本当に爪の先程もない出っ張りがあることに気づいた。
 表面をいちいち撫でていかないと見過ごしてしまうような、本当にちっぽけな出っ張り。丸い形をしていて、油断しているとさっきユーリが自分で抉った箇所がめくれ上がってしまったものと誤解してしまいそうだった。
 ひょっとして。
 ごくり、とユーリは唾を飲んだ。コレを押したら、あれだろうか。蓋が……開く?
 怖々と、ユーリは指先に触れた出っ張りを見つめた。本当に今でも見失ってしまいそうなくらいに小さい突起。それを、伸ばした人差し指の爪で、押す。
 …………んが。
 なにも、起こらなかった。
 別段、箱が開いたときに背後から誰が発したのかもまったく謎な効果音が出現する、とかを期待していたわけではないのだが。こうも無反応だとがっくり来てしまう。
 小箱ひとつに気落ちするつもりはなかったが、正直ユーリは少し哀しくなっていた。今まで悩んだ時間はなんだったのだろう、と過去を振り返って黄昏そうになる。
 しかし。しかし、である。
 最後に目を向けた箱の、ユーリに向いているのとはちょうど反対側――赤色の面に新たな突起が生まれていた。しかもさっき押した緑色の面の出っ張りよりも少しだけ、大きい。
 ひょっとして、ひょっとするのか?
 二段構えとはやるな、あいつめ。心の中でユーリがそう舌を巻いたかどうかは分からないが、一気にやる気を取り戻したユーリは早々に、赤面の出っ張りを押した。
 …………しーん…………
 そして、なにも起こらなかった。
「…………」
 ユーリのこめかみにぴくぴくと、青筋が走って痙攣を起こす。今にも爆発しそうなこの怒りを、さてどこにぶつけようか。
「なんなのだいったい!!」
 悔し紛れに、ユーリは思い切り箱を握って床に叩き落とした。力任せに振り落とされたそれは、くるくると回転しながら床にぶつかった。
 赤と、茶色と黄色とが面を接している角を下にして。
 その瞬間。

 ぼはんっ!!

 

 リビングに軽い爆発音が響いて真っ白な煙が一面を覆い尽くした。視界が見事に白一色に染まり、さしものユーリもこれには動転。
「なんなのだー!?」
 思い切り悲鳴のような叫びをあげたユーリは両手を振って、懸命に視界を確保しようと煙を追い払う。
 そしてようやく薄くだが見えてきた視界の、彼の足許あたりで。
 びよんびにょ~ん、と。
 スプリングを揺らしながら楽しげに揺れている、黄色くて丸い、物体。
 マジックペンで顔が書かれている。そして唇の間から伸びる舌をイメージしたらしい紙に、でかでかと赤文字で。

『ざんねんでした』

と、ただそれだけが。
 ヒッヒッヒ、という笑い声がどこからか聞こえてきて。
 キッと、ユーリはかなり怒髪天の表情のままに声の方向を睨んだ。
 リビングと廊下とを繋ぐ扉の向こう側で、身体を半分隠した透明人間が実に愉快そうに笑っている。ああ、笑っているとも人の痴態を見て!
「スマイル!!」
「あ、見付かっちゃった」
 怒り心頭の声で叫ぶが、スマイルはまったく気にした様子もなく普通に反応を返した。そして怒りで顔を真っ赤にしているユーリを見て、また笑う。
 とても楽しそうだ。
 そうだろう、そうだろうとも。こんなにも向こうの企んだとおりに罠に引っ掛かったのだから。
 カラフルな外装、いかにも開けてくださいと言っているような置き方、人の興味を引く絡繰り。そのどれもが、周到に用意されたびっくり箱の罠だったのだ。
 今更だが、引っ掛かってしまった自分が恥ずかしくてユーリは自分に腹が立ってきていた。そしてそれ以上に、こんな子供じみた事を平気でしでかし、自分を笑っているあのスマイルが。
 憎たらしいことこの上ない。
「貴様ぁ!!」
「ひゃー、恐い恐い」
 本気で怒っているユーリを察し、スマイルはひとしきり笑った後大急ぎで扉の向こう側へ走って逃げた。
 いったいどうやって詰め込んだのか分からない、びっくり箱の煙はすっかり消えている。床の上ではまだ、箱から飛び出したバネ仕掛けの顔だけの人形が踊っていたけれど。
 ユーリは、ひとつ深呼吸をした。
 そして胸の高さまで左足を持ち上げて。
 勢いのままに箱を、踏みつぶした。踵でぐりぐりとやって、徹底的に箱を踏みにじってバラバラに解体処分。しかしゴミは拾わない。
「今日という今日こそ、許さないからな!」
 スマイルが逃げていった扉を睨みながら、拳を握りしめて決意を新たにし、ユーリは当初この部屋を通りがかった目的も今日の予定もなにもかも、頭から吹き飛ばして。
 部屋を駆け出していった。
「スマイル、何処に行ったー!!」
 廊下で一旦立ち止まって城中に響き渡る大声で怒鳴り、適当に方向を検討付けて走っていく。
 今日も一日、騒がしそうである。