宕冥

 リドリーが死んだ。
 その現実の重さがセレンの肩にずっしりとのしかかっている事は誰の目にも明かで、暗く沈んだ空気を感じラスティスは今日何度目か知れないため息をついた。
 彼が逃げ出した理由がよく分かるから、あえて止めようとしなかった。いや、実際に自分が出来なかったことをやろうとした彼の背中を押してやったのだ。だから彼を行かせた自分にも罪の一端はある。けれどそれを口にしたら、セレンは余計に落ち込むし傷つくだろう。
 3年前のトラン解放戦争。その活動の中心にラスティスはいた。今のセレンとよく似た状況下で、祭り上げられたに等しい形ばかりのリーダーとして。
 いや、ラスティスは本当にリーダーの責務を全うしていた。決して諦めず、実の父親を敵に回しても戦いを放棄せず。母親代わりだった人を殺した相手にさえ、操られていた だけで本人に罪はないと逆に仲間として求めた。
 正直、まったく恨みが無かったとはいえない。だけれど、恨めば恨むほどグレミオは遠くに行ってしまったような気になったから。結局、恨みきれなかった。グレミオは「殺された」のではなく、ラスティスを「守って」くれたのだと、そう思うことにした。
 逃げ出したかった事もある。テオをこの手にかけた瞬間、どこまでも暗く冷たい世界を感じた。けれどそこへ行かずにすんだのは他でもないテオ自身の言葉のおかげだった。
 自分は間違っていないと思いこむことで、自分を正当化して、自分を守った。そうしなければ周りからの期待に押しつぶされてしまいそうだったから。
 死んでいった者はもう戻らない。二度と会えない。けれど、その人が確かにそこにいた事は忘れないでいられる。この胸の中にいつまでも生き続けてくれる。それが、ラスティスのお守りだった。
 けれどセレンはそこまで気持ちの整理をつけられないでいる。
 彼にとって戦うことは仲間を、家族を守ることだった。だから、ナナミが全てにおいて優先すべき存在だったのだろう。だけれど、彼女を守ろうとして結果、大切な仲間であるリドリーを失う事になった。
 その現実が彼を苦しめている。
「不器用なんだよ」
 クロムの村に戻り、ひとりで落ち込んでいるセレンをルックはそう言い表した。
「ひとつを選び取れない。自分の周りにいる人すべてを守ろうとする。それが出来ないとまた自分の所為にして全部抱え込もうとする。不器用すぎて、情けないね」
 ルックに悪気があったわけではない。彼も彼なりにセレンのことを心配している。同じ真の紋章を持つ者として、その力の大きさと代償として失うものの大きさを知っているから、ルックはずっとセレンを危惧していたのだろう。いつか、こういうことになりかねないと。
 ひとつのものを選び取れない。全てを守り包もうとする。それはとてもすばらしい事かもしれない。しかし人間ひとりが出来ることは限られているし、いくら真の紋章使いだとしても、限界は当然ある。出来ることと出来ないことの見定め方を知らないわけではないはずなのに、それでもセレンはその優しさを捨てきれずにいる。
 薄暗い廊下で、ラスティスはどこに行くともなく佇んでいる。本当はセレンを訪ねるつもりで部屋を出たのだが、いざ彼のいる部屋の扉をノックしようとしたらどうしても手が動かなかった。
 自分に、彼を慰めるだけの権利があるのかどうか、それが気になってしまったから。
「僕にはその権利はないのかもしれない」
 解放戦争のリーダーだったから、その理由でラスティスはセレンと出会った。偶然すぎた出会いは、もしかしたら救いを求める紋章同士が引き合わせた結果かもしれない。けれど、ラスティスはあの偶然が無ければ自分からセレンを尋ねるような真似をしなかっただろう。
 出会うべきでは、なかったのかもしれない。
「今更だ……」
 悔やんでも遅い。過ぎてしまった現実は受け入れるしかないのだ。そう、リドリーの死も、また同じ。
「そこで何をやっておる」
 壁にもたれかかり後ろの窓から肩越しに外を眺めていたラスティスは、少女独特の高い声ながら、古めかしい言い回しというアンバランスさの人物に声をかけられた。
 白銀の髪、透けるように白い肌。生きている人間というよりは精巧に作られた人形のような少女が、いくらか憮然とした表情で立っている。
「え……と。シエラ……さん、でしたか」
「そういうお主はラスティスとかいったな。先のトラン解放戦争の指導者と聞いた」
「……指導者……そうですね、そういう言い方もあるかもしれません」
 確かに解放軍のリーダーを勤め上げたわけだし、その表現も正しいかもしれない。けれど実際にそう言われてみると何か違う感じがして変な気分だった。
 ラスティスよりも少し背が低い。見た目は彼と同じくらいか、少し年上のようにも見えるが、本当の所はそうではない。ラスティスが年をとらずに成長をしなくなったのと同じように、彼女もまたずっと昔に成長することを止めてしまっている。
 シエラは吸血鬼だった。27の真の紋章がひとつ、月の紋章に命を縛られた人。ラスティスより、テッドよりも永くこの世界を生きてきた女性。
「不満か?」
「いえ。ただ、自分の知らないところでいろいろ言われているのだなと、改めて実感しただけです。気に障ったのなら、謝ります」
 苦笑を浮かべると彼女は「必要ない」と小声で呟き、ラスティスの背中の向こうにある夜空を見上げた。
「それで、お主はセレンとかいったか、あの小僧をどう慰めてやるべきかで悩んでおったわけか」
「…………」
 図星を指され、ラスティスは口元を手で隠した。そんなに分かってしまうものだったろうか。自分が、ここで手持ちぶさたにしている理由が。
「少し考えれば分かる事じゃ」
 そう言って彼女は窓とは反対側の扉を指さす。普段客間として使われているこの部屋にいる人は現在一人きり。ナナミでさえ遠慮して近づこうとしていない部屋の主を思い浮かべれば、その前でうろうろしているラスティスが何をしにここに来たのかぐらい、誰にだって分かる。
「それも……そうか」
 ふう、とまたため息をついて彼はまた壁に背中を預けた。シエラはおかしそうに笑っている。
「……辛くは、ないのですか」
 ぽつりと呟けば、彼女はすぐに笑うのを止めてラスティスを見上げてきた。
「何がじゃ」
「生きることが」
 奪われた月の紋章。それによって彼女の村は全滅し、始祖であったシエラだけがかろうじて生き残った。己が欲望に従い、同族を死に至らしめたネクロードを追うことが、せめてもの彼女なりの、死んでいった村人に対する手向けだったのかもしれない。いわば、それがシエラがここにいる理由だろう。
 だとしたら、それを果たした後は?
 ネクロードを倒し、月の紋章を取り戻して、はたしてそれで終わりなのか?
 違う。終わりなどではない。紋章を持つ者は不老であり、不死だ。簡単に死ぬことはかなわず、ただ無限の時を流れて行くしかない。
「辛くないと言えば嘘になろう。お主だって、そうではないのか?」
 ラスティスがソウルイーターを右手に宿していることは誰もが知っていること。老いることなく、時に置き去りにされた存在であることはシエラとなんら変わらない。違うのはラスティスがまだ紋章の後継者になってから日が浅いということぐらいだろう。そして、セレンはもっと短い。
「死にたいと思ったことはないのですか」
「お主と同じだと先に言ったであろう」
 夜の風が吹き込んでくる。
「……そう、ですね。その通りです」
 ラスティスにはそうとしか言えなかった。
 シエラをまっすぐに見返せない。まるで自分を見ているようだった。
「この世界は暗く澱んでおる」
 ふと、突然シエラが言った。
「人の欲望が渦巻いて止まない。昔とちいっとも変わっておらん。人間とは何と愚かで、浅ましい生き物なのか……」
 戦争は終わっても消えたわけではない。ひとつになったはずの想いも、いつか離れて砕けてしまう。脆く、儚い存在でしかない。今は良くても、いつまでもこの状態が続く保障は何もないのだ。
「…………」
「わらわは様々な国を見てきた。その中にはもう存在していない国もある。支配者がかわっただけで実体はなんら変わっていない国も多かった。常に苦しむのは民衆であり、栄えるのはほんの一部の人間達でしかない」
 赤月帝国の最期は、民衆の反乱から始まった。軍部による独裁的な支配体制に反感を持つ者達が集った事で活動は本格的になり、国の体制に異議を唱える一部の軍人の協力を得て、解放軍は勝利を手に入れた。
 そして生まれたのがトラン共和国。
 だが、シエラの言うとおり共和国となりはしたものの、各地にはまだ根強く旧支配体制が残っている。かつて赤月帝国が反乱を恐れて公然と行われていた軍力にものを言わせた軍人による地方政治が、地方にまで文政官を派遣するだけの余力がない現在、未だに続いていることは疑いようのない事実だった。
「真の紋章に力があるのは確かじゃ。しかし、それを万能の力と思うのは間違い。真の紋章がもたらすものは平穏な生活などではない」
「……はい」
 頷くことしかできない。
 ソウルイーターによってラスティスはそれまでの暖かで優しい世界を失った。彼を待っていたのは、血生臭くもの悲しい、暗く重い日々だけだった。
「けれど、僕は皆を救いたかった。僕にその力があるのなら、使わずにいられなかった。たとえそれが呪いの紋章の力だとしても。大切な人を奪っていく忌まわしい存在だったとしても」
 必要とされたから、必要とされたかったから。
 紋章は自分がそこにいる資格だと思った。自分の存在を確かめたかった。ここにいてもいいのだと、一緒にいる理由にしていたのかもしれない。
「僕は弱かった。知っている人達が次々と死んでいくのを見たくなかった。逃げ出したんですよ、僕も。……そう、逃げたかった。置いて行かれるのが嫌で、見なくてもいいように全てから目をそらしていたのかもしれない」
 自分の所為で人が死ぬのが嫌だった。それ以上に、自分だけが置き去りにされる世界にいたくなかった。
 変わらない自分、変わっていく世界。
「後悔しておるのか?」
「今更ですよ」
 悔やんだ所で、出てしまった答えを覆すことなどできっこない。だったら、せめて後悔しないように生きて行くしかない。
「僕がソウルイーターを受け継いだ理由。こうしてセレンと出会った理由。それがあるのだとしたら、僕は見つけるしかない」
 過ぎてしまった時間を巻き戻せないのなら、よりよい未来を模索して行くだけだ。
「人生は道に似ておる。そうは思わんか?」
 シエラが窓に手を置き、夜空に輝く月を見上げて言った。
 人がたどる道は、無限に広がる可能性。人はその無数にある未来のひとつを選び取って進んでいく。他人との出会いは交差点であり、多くの人が進む道が重なり合って歴史が生まれていく。時代が流れていく。
 決して後戻りのできない一本道。しかし、それこそが自分自身が確かにそこにいたという証でもある。
「生きている者はいつか死を迎える。それは、わらわ達も例外ではない。殺されれば、死ぬのだからな」
 不老不死とはいえ、不死身ではない。傷つけられれば痛いし、血だって流れる。泣くことも知っているし、喜びを共有することだって出来る。紋章を持っているからといって、それが特別な存在であるとは言えない。
「人の死を悼む想いがあれば、二度と失いたくないと思うことが出来る。それは強さだ」
 少しでもたくさんの人を守りたい。自分と同じ悲しみを味わう人が出ないように、自分が出来ることをやりたい。
「無理をすることはない。ひとりで出来なければまわりを頼ればいい。互いを補うことが出来るのが、人間の良い所ではないのか? のう、セレン?」
「…………」
 キィ……と低い軋み音を立て、ずっと閉じられていた扉が押し開かれる。
 ラスティスが目を丸くしている前で、闇を背負ったセレンが現れた。明かりのひとつもつけないで、ずっと泣いていたのだろうか。目が充血している。
「ずっと……?」
 聞いていたのか、と問えばシエラがクスクス笑い出す。
「えと……あの。すいませんでした」
 ぺこりと頭を下げてセレンは謝ったが、はたして何について謝ったのか、ラスティスは分からなくなった。
「なんだか、ボク、すっごく駄目ですね。ひとりになって考えてみて、それが凄くよく分かりました」
「…………」
「リドリーさんが死んでしまったと聞いて、ボクは分からなくなりました。何をしたかったのか、ボク自身が何を望んでいたのか、見えなくなっていたんです」
 逃げ出して、そして得られたものがなんであったのか。失ったものの方がはるかに大きかったけれど、その中でしか見つけだせなかった答えだってあってもいい。失ったものは還ってこないけれど、それならば失った以上のものを探して行けばいい。
「だが、失ったものを忘れてはならんぞ」
「はい」
 リドリーはもういない。けれど、彼の思いはセレンの中に確実に残っている。彼が守ろうとしてくれたものを守っていく。彼が創り出そうとしていた未来を現実のものに変えて行く。それが、セレンのやるべき事なのだ。
「もう後悔したくないから……これからは、ボクの意志で闘って行けるような気がします」
 力強く、はっきりと宣言したセレンを、ラスティスはまぶしい想いで見つめていた。
 セレンはきっと間違えないだろう。彼には強さがある。流されるだけでない、自分というものをしっかりと持って行ける強さがある。
 見上げた空の果ては高すぎて見えないけれど、まっすぐに歩いていけばいつかたどり着ける。自分を間違えない限り、自分を偽らない限り、空はいつでもそこにある。見守っていてくれる。
 ラスティスが手を伸ばし、くしゃくしゃとセレンの頭を掻き回してやると、彼は「ふみゅ~」と鳴いてラスティスに抱きついてきた。
「もう大丈夫みたいだね」
「はい!」
 紋章は彼らを苦しめるだけの存在かもしれない。しかし彼らは紋章があって良かったと思う事が出来る。
 苦しいし、哀しいけれどそれだけじゃない。失う以上に大切なものを手に入れたから。大好きだと言える人達に出会えたから。失くしたくない気持ちに気付けたから。
「いい加減気が済んだのなら、眠ったらどうじゃ。ネクロードを倒す前にへばっても、わらわは知らんぞ」
「は~い」
 ふたりの声がハモりあい、シエラがぎょっとなって半歩後ろに下がった。
「…………わらわも休ませてもらう。おんしらと一緒におるのは、疲れるだけじゃ」
 くらくらする頭を押さえ、シエラは廊下を歩き出した。
「お休みなさい」
 セレンがさっきまでの悲壮感何処ヘやら、な明るい声で手を振る。
「シエラさん」
 自分に割り当てられた部屋に戻ろうとする彼女を、ふと思い立ったラスティスが名を呼んで止めた。
「なんじゃ」
 不機嫌そうに振り返ったシエラに、彼はわずかに表情をほころばせながら、
「また、話をしに行ってもいいですか?」
 きょとんとしたシエラの顔が珍しくて、ラスティスはそれだけで得した気分になった。
「お断りじゃ」
 ひらひらと手を振って彼女は無駄な時間を使ってしまったとぼやく。
「わらわの道標なんぞ、おんしらには必要無かろう。おんしらの事まで面倒見ておれんわ。勝手にせい」
「そうします」
 笑みがこぼれる。シエラも、ラスティスも、セレンも。
 未来は闇の中だけれど、勝ち得た明日は光に満ちているはず。だから、もう迷わない。
「いつか、僕達が選んだ道が交わったとき。また、会いましょう」
 別れは「さよなら」じゃない。「またね」と言うための、ひとつのステップ。
「お休みなさい」
 もう一度言い、セレンが部屋のドアノブに手を伸ばす。
「お休み。また明日」
 泣いてもわめいても太陽は沈み、昇って明日はやってくる。苦しかった今日は楽しい明日を過ごすための試練だと思えばいい。きっと、いいことがあるから。
 泣かないで笑っていよう。ボクが笑っていることで君が幸せでいられるのなら。
 またあの青空を君と見たい。迷わずに進んでいこう。自分で決めた道を、選んでいこう。
 そこに、未来が見えるから。