水音で、目が覚めた。
遠くで響いている、反響の具合から相当遠そうだけれどはっきりと聞こえてきて正直言って目障りだった。
水道の蛇口を誰かが閉め忘れたのだろうか、だとしたらずっと水が漏れていたことになる。何故今まで気づかなかっただろうと不思議に思いながら彼は、ベッドのクッションに沈み込んでいる自分の身体を起こしに掛かった。
けれど、上手くいかない。
全身が凍り付いていたかのように上手く動いてくれなかった。指先に力を込めてみるけれど、ピクピクと先端が痙攣を起こしたように揺れるばかり。寝返りをするのも億劫で、顔が半分枕に沈んだままの視界が半分でしかも横倒し、という状態ではあるがなんとか回りを確認しようと右目を開いた。
飛び込んでくる、朽ちた茶色と灰色の光景。その中でひとつだけ異質な、黒。
その瞬間ハッとなり、彼はそれまでまったく動かすことが出来なかったはずの身体を勢い良く持ち上げた。直後激痛が全身を駆けめぐることとなり、再びベッドに沈没してしまったのは仕方のないことであるが。
「っ~~~!」
苦悶の表情を浮かべたまま必死に歯を食いしばって悲鳴を耐えながら、彼は目に入った黒い物体を睨み付けた。特に痛む右肩を下にして、赤と金という誰かを思い出させる配色の瞳をした猫を凝視する。
だが猫は涼しい顔をして受け流し、微動だにしない。
どれくらいの時間が経過したのだろう。彼の全身の痛みが退き、体の自由が少しずつであるが戻って来る頃まで猫は辛抱強く、まるで置物のように其処に座って彼を見つめていた。その表情は読みづらく真意は分からない、だが待っている、その猫は彼が立ち上がるのを。
そして待ち望んだときが訪れると、足場を飛び降りて猫はゆっくりと、先導するようにして歩き出した。
床の上に置かれている鉢植えはどれも土が露出し、朽ち果てたらしい植物の成れの果てが横たわっていた。薄汚れた天井は暗く、光を差し込むはずの窓の向こうも夜なのか曇っているからなのか、ともかく明るさとは程遠い世界だった。
扉を潜り抜ける。ノブを回す必要はなかった、蝶番が片方はずれてしまっていた扉は大きく斜めに傾ぎ、人ひとりならば楽に通れるだけのスペースを作り出していたから。そして蝶番を押し外していたのは、廊下側から伸びてきている植物の蔓だった。
既に朽ちて久しいらしい木々が枝を散らし、踏みしめると呆気なく砕け散っていった。素足で進む彼はなるべく踏まないように注意しているのだけれど、踏んだとしてもそれは大した痛みを伴わなかった。
色の欠けた、単調な世界。そこに花はなく、葉も生い茂ることはない。どれもが薄汚れた茶色か灰色をしていて、見ていると気分は憂鬱になってくる。
しかし黒猫は後ろを振り返ることなく前へ進み続け、彼も無言のまま追いかけ続ける。かつては階段だったのだろうけれど、床板は抜け落ちて外観だけを曝しているそこを植物の蔓にしがみつきながら降りる。荒れ果てたホールは見る影もなく、天井を飾っていたシャンデリアも総て砕かれ鉄骨だけが残っていた。
壁は崩れ落ち、天井は今にも落ちてきそうだ。
まるで記憶の中とは別世界に居るようだ、と一通り眺め尽くして彼は、いつの間にか黒猫が姿を消してしまっていることに今更気づく。何処へ、と呟きかけて彼は視線の先に、ぽっかりと開いている扉を見つけた。
吸い込まれるようにして、彼はそこへ歩み寄る。
色が、あった。
「ぁ…………」
ぽたり、と頬を伝い落ちるひとしずく。床に跳ねて、細くて甲高い水音が響き渡った。
よろよろと、彼は前へ進む。そして既に枯れてしまっている巨木の根本に、力無く膝をついた。
顔を両手で覆う、その上から涙が溢れ出して声もなく、彼はその場に凍り付いたように動けなかった。
花を、咲かそう
次に君が目覚めたときに
ひとりぼっちでも寂しくないように
君の、ためだけに
花を――――
「夢の中は楽しかったかい?」
赤と金の瞳を持った黒猫が問いかける。
答えることなど出来るはずがなかった。
色の消えてしまった世界で
たった一輪だけ忘れ去られたように咲いていた
蒼い、碧い薔薇の花
名前を呼んでやることすら、できなかった
…………ぴちゃーん…………
微かな耳の奧に残る反響音で目が覚めた。
「……ぅ……」
体を動かそうとして、それが出来ない今の自分を思いだした。既に身体の大半を失っている現在の自分を、もうとっくに霞んでしまっている視界の片隅で思い浮かべる。自嘲気味に心は笑ったけれど、トレードマークだったはずの笑顔は作ることが出来ずに、ただ悔しかった。
「っ……」
それでもなお、苦しげに息を吐き出すと視界が突然薄暗さを増した。なんだろう、と輪郭さえ捕らえるのに苦労する瞳を瞬かせると、何か魔法でも使われたのか目の前にはっきりと存在が分かる姿が現れた。
「……ぁ、ぁ……」
長い吐息と、それにも増した嘲りにも似た感情の入り乱れた笑み。今の自分を笑いに来たの? そう言いたげな自分の目線に気づいてか、それは不機嫌そうな表情で自分を見下ろした。
『随分と、辛そうだな』
艶やかな黒い毛並みを誇る黒猫が、その色を異にする双眸を細めて呟く。
「まー……ね」
くすっ、と口端で笑む。けれど苦しい呼吸は余計に苦しさを増しただけで、咳き込もうとしたらしいのだけれどその咳き込むはずの、自分の肺が何処にあるのかさえもう分からない。
ちろり、と黒猫は視線を外した。おそらく自分のもう大部分が見えなくなってしまった身体の各所を見つめているのだろう。しばらく虚空を彷徨って視線は、再びぼくを見つめる。
『願いを』
淡々とその唇は言葉を刻む。優しい声はあのころと何も変わっていない、変わろうとしない。なにものにも左右されず、己を誇示し続ける事が出来るその姿がずっと、羨ましかったのに。
結局その背中に追いつくことは出来なかった。
『聞いてやろう』
あの時と同じように、ふたつの瞳はまっすぐに僕を見つめている。視線を外すことはない、その色に迷いも戸惑いも、あるいは疑念さえなく。
ただ目の前にある現実を淡々と見据える事が出来るその強さに、憧れた時期もあった。
結局、なにかに自分の存在を定義付けてもらえない限り存在出来ない自分では、彼女に勝るものになるなんて無理な話だったのか。
生かされていたと言えばそれまでになる。最後まで彼女の魔法に、縋らなければならない自分自身が不甲斐ない。とは言え、今のこの状況では彼女に縋るしかもう、手だては残っていないから。
『答えてみよ』
淀みのない澄んだ声が響き渡る、既に枯れてしまって久しい巨木の根本で動くことが出来ずにいるぼくを前にして、貴方は何処までも優しく、冷たい。
『爾の望みは』
「…………なら」
一息深く吸い込んで、吐き出す。視線を外せば天井が見えた、今にも崩れ落ちそうなほどに傷ついている。
「伝えて」
あの頃を思い出す。
多分、きっと、あの頃が一番自分にとって満ち足りた時間であり忘れがたくなにものにも代え難かった大切なぬくもりだった事を。あの日々を思い返すだけで自分の存在は無駄ではなかったことが分かる、思い出せる掛け替えのない時間であった事を。
どうか、彼に伝えて。
きっとこの声は彼には届かない、この言葉を伝えるためにはもう自分に残された時間はとても短すぎるから。
必ず、彼に伝えて。
出逢えて幸せだったこと、あの出会いが無駄ではなかったと、君と知り合えてその時間を共有できた事はなによりも大事で忘れることの出来ない、生きていて良かったと心の底から思えた時間であったことを。
『……承知した』
淡々と感情の変化がない顔で黒猫は告げた。ぼくは嬉しくなって笑おうとした、けれど出来なかった。
笑うことが出来ない自分はもう、名前に相応しくない。もうそれは、多分ぼくの名前じゃなくなってしまった。
「あと、……我が侭言っても良いかな?」
少しだけ咳をして、目を閉じる。暗闇は濃い、もう光に戻れなくなるかもしれないと感じてしまうほどに。
『なんだ?』
「……付き合わせちゃってゴメンねぇ……」
もうかなり長い間、一緒に過ごしてきたはずだ。最初は気紛れから始まったはずの事がこんな風に後に糸を引いてくるなんて、きっと彼女も思っていなかっただろう。思い違いはお互い様で、それが皮肉だった。
けれど感謝している、彼女と知り合えてこうしてつきあえたことが。
『唐突だな、気味が悪い』
目を見開いた彼女が怪訝な表情をする。聞いていてぼくは「へへっ」と笑い、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
「寂しく、……ないように」
花を咲かせたかった、独りぼっちになったときに寂しくないように。
彼を和ませて忘れさせてあげられるくらいに、優しく咲き続ける花を。
ひとりぼっちなのは本当に寂しいことで、哀しいことで、そんな気持ちを彼にだけはあげたくなかったから。
我が侭だと、分かっているけれど。
それでも、そうだとしても。
「……枯れない、花を」
世界でたった一輪だけでいい、どんなに時間が経っても決して枯れることがなく咲き続ける花に。
彼の寂しさを忘れさせる事が出来るほどに。
ずっと、一緒にいてあげられる花に。
どうか。
『それが願いか?』
彼女が問う。自分とは逆配置の色をしている瞳が互いに細められ、ぼくは少しだけ首を振った。
「ゴメンねぇ……」
『なにを、謝る』
「だって、ねぇ」
『……退屈しのぎにはなったさ』
会話を切り替えたぼくに、すぐに彼女は反応してくれた。目は細められたまま、柔らかな笑みを口元に浮かべて呟く。
『それに、なかなか面白い見せ物だったしな』
「ひどぉ……」
『事実だろう?』
こっちは真剣だったのだと拗ねた調子で言うと、向こうは分かっている、と小さくひとつ頷いた。そして脚を動かして歩を進め、もう見ることも触れることも出来ず失われてしまったぼくの身体があった場所へ、やってくる。
ふわり、と風が膨らんで艶やかな黒髪が広がった。
「それで? 貴様は私に何を願う」
尊大な態度はどこかあの人に似ている。だからかな、だから……近いと、感じたから。安心できたのかもしれない。
「叶えてやろう、そしてこれが最後だ」
鋭く切れ長の瞳は時としてとても厳しい。けれど優しい。願えば、きっと彼女は叶えてくれるだろう、言葉通りに。それが出来る女性である事を知っている、けれど、もうぼくは。
疲れちゃったんだ。待ち続けるだけの、時間に。
「ゴメンね、って……伝えておいて」
それから、と言葉を切って。
深く長く、息を吸い込む。
目の前に、いる人に微笑んで。
「殺してあげられなくって、ゴメン、とも」
連れて行く勇気を持てなかったのは、自分。置いていく事しか選べなかったのも、自分。この想いのエゴを押しつけて勝手に去っていくのも、自分。苦しめる事しか出来なかったのも、自分。
全部含めて、謝って置いてくれるかな?
伝えてくれるかなぁ、ぼくが謝っていたって。
ごめんね、って言っていたって。
そして、願わくば
世界中で君だけのために咲く
ただ一輪の枯れることを知らない花に――――
そうしてぼくは目を閉じて
世界は暗闇に包まれた
風がどこからか流れてきて
ぼくの意識を吹き飛ばした
そうしてそうしてほんとうに
ぼくの意識はかき消えて
世界の中に溶けていった
なにもかもが消え失せて
ぽとり、と作り物の金目が落ちた
彼女は少しだけ寂しそうに微笑んで
それから金目を大事そうに抱き上げた
金目は彼女の祈りで姿を変えて
願い通りに花になった
決して枯れることのない
世界中でただ一輪の花になった
「…………っ!」
薄闇の中、嗚咽だけが響き渡る。
彼女が、問うた。
「夢の中は楽しかったかい?」
答えは、なくて
「Flower」
The End